利他を装った過剰適応のFalse Self(偽の自己)
自分の不安や怒りに自分から振り回され、自分自身即ちTrue Selfを見失ってしまう、そして時間だけがどんどん過ぎ去ってしまうのは何故でしょうか・・・?
こうした焦燥感や虚しさを感じられるのは、False SelfがTrue Selfを完全には飲み込んでしまわず、False SelfとTrue Selfのずれがノイズとして、自分の心に聞き届けられている状態でもあります。
「だって仕方がない」「どうせ自分が何かしたって」で処理してしまえば、そのノイズさえ聞こえなくなってしまいます。この「ノイズさえ聞こえない」状態では、本人に葛藤が生じず、問題を問題視しません。ですから他人の介入が効かない上に、当の本人はどんどん自我が退行してしまいかねません。
False Selfとは、True Selfを守るための盾になり得るものです。礼儀正しく接する、その場では感情を抑える、相手を傷つけないための「嘘も方便」(「あいにくその日は先約があって」の口実など)を時には使うなどです。これらは自分でも「その場の仮の自己」という自覚がありますし、相互尊重になっているので、自分が消耗することにはなりません。
ですが、所謂「いい子」で育ってきた人に多く見られる、利他を装った過剰適応のFalse Selfが常態化すると、自分の尊厳をじわじわと蝕んでしまいます。
その中でも「私が我慢すれば丸く収まる」の自己犠牲、「私が何とかしなくっちゃ!」の過剰責任感について、今回は深掘りします。この二つは利他の装いがあるがゆえに、他人からは当てにされ、また自分でも「善いことをやっているつもり=安心=やめられない」になりやすいのです。
自己犠牲「私が我慢すれば丸く収まる」
生まれ育った家庭で、親や他の大人達が高圧的だったりして、子供自身の意向を尊重されないと、子供は「私が譲れば、波風立てずに周囲が満足し、私も安全でいられる」の生存戦略を学習してしまうことがあります。
これは愛他的譲歩という心理的防衛の一種でもあります。自分がどうしたいか、何が嫌かを直接表現できなかった、感じることさえ禁じられた人が、その欲求を放棄する代わりに、他者がその欲求を満たすのを助けます。本当はお菓子を食べたいのに、「私はいい」と自分から他人に譲り、その他人がお菓子を食べるのを見る。そして「自分の欲求を、他者を経由して間接的に生きる」という迂回路を経ます。
表面上は「他人に譲れるお利口さん」の献身・利他性として承認されやすく、またその自己像を自分でも強化できます。
「私が我慢すれば丸く収まる」が、その時はどうしても他の選択肢が考えられない、一時的なものであり、またその不満や後悔を後ほど正直に吐露できたり、自分の中で受け止められれば、「False Selfを今は演じている」になります。True Selfを覆い隠してしまうことにはなりにくいです。
ですがこの自己犠牲は、実はナルシスティック・サプライ(「ほれぼれとした自分」の自己演出を満たす状況を、自分から得ようとすること。「悲劇のヒロインになりたがる」が典型です)に横滑りしやすいのです。自分を犠牲にしてみせる「犠牲的聖人」のナルシスティックな自己像を満たせます。
「私のおかげで丸く収まった」という自己有用感を本人は得ますが、余りに繰り返されると周囲は偽善の匂いを感じつつ、口に出しづらいモヤモヤ(「素直にそのお菓子食べたらいいでしょ?なんか恩着せがましいよね」)が残ってしまいかねません。
「自己決定の重みから逃れる」積み重ね
子供の時には、親が威圧的だったり、或いは脆弱で不安定だったために、「私が我慢すれば丸く収まる」が、家庭という子供にとっての全宇宙を維持するための、最も手っ取り早い最適解と思ったとしても、仕方がなかったかもしれません。
ですが、成人後もこれを繰り返していたら要注意です。
というのは「そうするしかなかった」が、選択責任の免除になりうるからです。大人の場合は、後からでも「本当にそれしかなかったのか?」「また同じことが起きた時に、私はどうするのか?」を自問しなければ、自己決定の重み、即ち自由と責任はセットであることを実感できません。
深夜のダラダラした長電話やLINEに、うっかり付き合ってしまった。たまのことで、翌日は昼まで寝ていても良いのなら許容できても、自分にも仕事や家事・育児がある。その時「私が我慢すれば丸く収まる」を繰り返すなら、結局は自分で自分を不自由にする、自分から牢屋に入る安心を選んでいます。
過剰責任感「私が何とかしなくちゃ!」
「私が何とかしなくちゃ!」は、これも利他的な行為のようで、実は自分の不安を鎮めるための先回りになっていることが多いです。
「私が我慢すれば丸く収まる」が「相手に合わせる」受動性であるとするなら、「私が何とかしなくっちゃ!」は相手の不安を先回りして統制し、制御しようとする能動性です。いずれも強迫的衝動なのですが、本人も周囲も「責任感の強い頑張り屋」と承認しがちです。
特に「親子の役割逆転」が起きている場合は、「私がしっかりしなきゃ!」と、実年齢以上の高負荷に自分から耐え、そして「こうやればこの(壊れそうな)家庭という宇宙が保たれる」を繰り返し学習していきます。
「やってもやっても不十分」「早く大人にならなければ」の焦燥感ワーカホリック(仕事中毒)や、何事も根を詰めすぎ、肩や背中の凝りが慢性化している場合、もしかするとそれは焦燥感が原因かもしれません。心因的な症状は、心の奥底の原因を取り除[…]
そして「世界を制御下に置くことでしか、自分の不安を鎮められない」⇒「この世界が安全でなければ、私も安全にならない」という、慢性的な不安感と、過剰な責任感を自分から刷り込んでいきます。
この世に起きることに他人事はありません。ですから、社会全体で考えるべきことに少しずつでも関心を持ち、勉強し、私たちにやれる小さなことを積み重ねる。それがやがて社会を変えて行きます。
そのことと、「この世界が安全でなければ、私も安全ではない」強迫からの統制行動は、実は似て非なることです。ですが、過剰責任感に囚われたり、また社会全体の危機が生じると「あんた達のおかげでこっちまで巻き添え食うんだよ!」の不安が爆発し、その違いがわからなくなります。そしてこれもまた、犠牲者精神で頑張ってしまいやすいのです。
「世界が安全⇒私が安全」から「まず、自分の神経系が安全であること」へ
この「True Selfを生きる」のカテゴリーで、腹側迷走の活性化による、身体の神経系が「安全である」と感じることの重要性を書いてきました。
漠然とした不安に苛まれやすい人ほど、「自分の外側の不安材料を『取り除きたい』」が常態化しているかもしれません。私たちの神経系は「刺激⇒反応」という順序になっているので、それも無理もないことですが、外側の不安は実際には永遠になくなりません。
ですから、「まず、自分の神経系が『安全だ』と感じること」「自分の神経系が消耗しないこと」を優先して良いと、念頭に置くことをお勧めします。これは勿論、事なかれ主義の無思考・無関心・偽の安心になることでは決してありません。「外側⇒自分」から、「まず自分の身体⇒外側」に意識の向け方をシフトする、ということです。
いずれも存在抹消の恐怖⇒核心的羞恥が原因
こうした利他の仮面をかぶった過剰適応は、何故起こり、そして成人後も繰り返されてしまうのでしょうか・・・?これらが「当てにされ、承認される」ため、「誰も諫めたり叱ったりしない、外側からの歯止めがない」という要因もあります。ですがそれは、結果として生じることです。
幼少期、生育環境で暴言や暴力がなかったとしても、「自分の存在を認められない」「私の存在が歓迎され、関心を向けてもらえていない」と感受した子供は、「私はここにいて良いのだろうか?」「私は何かしなければ、存在を消されてしまうかもしれない」存在抹消の恐怖を、無意識の奥深くに刻み付けてしまいます。
そしてそれは、通常成人後もかなり後まで、ともすれば一生氣づけないままなのです。
存在を認められるとは、評価抜きに、その子供の内的経験に関心を向けられ、認めてもらうことです。「今日の遠足どうだった?楽しかった?」「今年の担任の先生、どんな先生?新しいお友達はできた?」親からのこうした言葉がけだけでなく、他にも図画工作や作文に関心を持ってもらえたかどうか。テストの成績には一喜一憂しても、その子供ならではの表現には、全く関心を向けない親も珍しくありません。
そして存在抹消の恐怖が、核心的羞恥(core shame)に転じやすいのです。「私は存在を認めてもらえない。何故なら、私は欠陥品だからだ。欠けた丸だからだ」これが核心的羞恥が生まれてしまうロジックです。
この核心的羞恥を、評価で認められることで克服しようとする、生涯にわたって「駆り立てられるように」生きてしまう強迫になりやすいのです。
その出方として
「私が我慢すれば丸く収まる」「私が何とかしなくっちゃ!」と評価で認められようとする
⇒評価はその時限りのものなので、永遠に「人参をぶら下げられた馬」のように走り続ける
⇒消耗し、心の奥底で恨みや怒りが溜まる
⇒心の奥底の恨みや怒りがまた強迫の燃料となる
このような自尊感情を下げっぱなしの、消耗が激しいループから抜けられなくなってしまいかねません。
「私の存在は認められる」True Selfの基盤
私たち人間の承認には、二つの領域があります。一つはより根源的な「存在そのものを認められる」です。生まれたての赤ちゃんが、何もできなくても、存在自体が尊く、愛おしいと感じ、無条件に受け入れられるようなことです。
そしてもう一つは、より表層的な「どうあるか、何をし、何をしないか」です。これは評価を伴う承認です。私たち人間は社会的動物である以上、何をしても良いわけでは決してありません。
そしてまた、最低限の規範を守るだけでは、囚人の生活と変わりません。「自分としてどうありたいか」利害打算を超えた態度価値を追求するのが、真の人間の人間らしさではないかと私は思います。この「自分としてどうありたいか」は外部からの承認を待たない、自分だけの目標であり、自己評価・自己承認する類のものです。
評価を伴う承認は、目に見えやすく、意識化しやすいものです。
ですがその根底にある「存在を認められる」が脆弱だと、評価で承認されることが「駆り立てられる」強迫になる、これまで見てきたとおりです。
ですので、以前の記事の自己受容、自己慈悲に併せて、「私の存在は認められる。評価とは無関係に存在を受け入れられる(その対象は、神や仏などの超越的存在や、世界そのものでも構いません)」とアファメーションを加えるのも効果的でしょう。
抑圧でもなく外投げでもない・感情を「抱えられる」ために前回は「【腹側迷走神経の活性化】身体・神経系が安全を感じる重要性」について詳述しました。True Selfを生きるためには、まず身体の神経系が「安全だ」と感じることが基礎になり[…]
「私の存在は認められる」を自分自身に繰り返す、これが大人のTrue Selfを生きる基盤になる、そのように私は考えています。
