「やってもやっても不十分」「早く大人にならなければ」の焦燥感
ワーカホリック(仕事中毒)や、何事も根を詰めすぎ、肩や背中の凝りが慢性化している場合、もしかするとそれは焦燥感が原因かもしれません。心因的な症状は、心の奥底の原因を取り除かなければ根本解決にはやはりなりません。
焦燥感とは、心の恐れが原因によるものです。ですので「さあ、リラックスしましょう。深く呼吸をしましょう」と言われて、体だけをほぐそうとしても中々できないものでしょう。
体の凝りがあってもなくても、「やってもやっても不十分」という焦燥感に苛まれていないでしょうか・・?或いは子供の頃「早く大人にならなければ」と焦っていなかったでしょうか・・?
それは貴方が子供の時に、「子供らしくいられる」ことを許されていなかったからかもしれません。
「子供らしくいられる」二つの条件
では改めて、「子供らしくいられる」とはどういうことでしょうか・・?無邪氣で天真爛漫で、大人ならもう楽しめない遊びに夢中になれ、屈託なく笑い転げたり、子供同士のけんかをして泣いたり。それが子供時代の特権だと思います。
また子供は生まれた時は何もできず、全ての世話を養育者にしてもらわなくてはなりません。成長に伴い、少しずつ「自分のことは自分で」やれるようにしつけられていきます。そしてまた、その子の発育段階に応じて家のお手伝いをさせ、家族の一員であることの参画意識を養うこともできます。この参画意識は自尊心の支えの一つになります。
甘やかされて「いつまでたってもお客さん」では、依存心が強くなり、子供をその裏返しの「家庭の王様・専制君主」にしてしまかねません。子供は好き勝手出来るようで、肝心の「成長したい欲求」を打ち砕かれ、挑戦を恐れるようになることも、残念ながら起きてしまいます。
まとめると
- 「子供らしい感情の発露」を受け入れられる。
- 少しずつ責任を果たすことを通じ、自由と自立は不可分であると学び、自立することを誇れる。成長したい欲求を伸び伸びと満たされ、挑戦する喜びを感じられる。
「子供らしくいられる」とは①と②のバランスが取れた状態、私はこう仮説を立てています。
親子の役割の逆転・子供が「親の親」になる
ですので、①の感情の発露が許されず、そして②の責任が子供にとって過剰だと、悲しいことに、いつの間にか子供は子供らしくいられなくなってしまいます。
スーザン・フォワード「毒になる親 一生苦しむ子供」に、8歳の頃から「親の親」をさせられた男性クライアントの話があります。彼はワーカホリックのために結婚生活が破綻し、今の恋人とも同じ結果になりそうだ、自分は仕事以外に能がないのではと悩み、相談に来たのです。
彼の母親は神経症を患い、家族に口をきくこともなく、終日寝室にこもりきりでした。
子供だった彼は、毎朝、朝食と弁当作りをして二人の弟に食事をさせ、二日に一度は夕食の支度をしました。彼の父親は出張が多く留守がちで、母親を医者に診せたものの症状は好転せず、お手上げ状態でした。父親は彼に弟たちの面倒だけでなく、「お母さんがちゃんと食事をしているか見るんだぞ。氣分を落ち込ませないように氣を配るんだ」と命じていました。彼曰く「自分を哀れんでいる暇などなかったですよ」。彼は過剰な責任を負わされたのみならず、①の感情の発露も許されていなかったのです。まるで小さな大人さながらでした。
フォワードはこのケースについて、以下のように解説しています。
(彼が家事・弟たちの世話・うつ病の母親の相手をさせられていた)このことが、その後大人になってから彼がなにをしても満足いくまでやり遂げることができない人間になる原因となったのである。これは、子供時代に親子の役割が逆転していた人間には非常によく見られる現象である。小さな子供は、大人の役を押しつけれらてもうまくやりおおせるわけがない。なぜなら、子供はあくまで子供であって、大人ではないからだ。だが子供はなぜ自分がうまくやれないか理解できない。そして、フラストレーションがたまり、「不完全にしかできない自分」という自己イメージが生まれる。
(略)
彼が無意識のうちに抱くようになったのは、「長い時間頑張れば仕事を完全にやりおおせることができ、自分は能力のある人間だと証明できるのではないか」という幻想だったのだ。彼はいまでもまだ親を喜ばせようとしていたともいえる。
スーザン・フォワード「毒になる親 一生苦しむ子供」太字、下線は足立による
まるでピアノの音階や、バイエルが弾けるようになる前に、いきなりリストやショパンを弾くように命じられ「ああ、僕はやってもやってもダメだ」と思い込まされたようなものでしょう。そして「長時間ピアノに向かって、リストやショパンの練習を続ければ、いつか弾けるようになる筈だ」と。整数の四則計算ができるようになる前に、微分積分ができるよう求められたと例えを替えてもいいでしょう。
「早く大人にならなければ」は「早くリストやショパンを弾けるようにならなくては」「早く微分積分ができるようにならなくては」だったかもしれません。「親の親」をさせられるとは、こうした親も子も自覚しにくい無茶を、子供に強いることなのです。
「親を喜ばせたい」子供の心を利用し操作する親
引用の最後の「彼はいまでもまだ親を喜ばせようとしていたともいえる。」は大変重要です。
どんな子供も、基本的に親を好きで、親を喜ばせたいと思うものなのでしょう。親に幸せでいて欲しい、元氣でいて欲しい、そうした無垢で一途な愛情を子供は親に注ぎます。心が健全な親は、子供の打算のない愛情に感激し、「子供に親にしてもらった」と自然に思えます。子供が心配そうに自分の顔をうかがっていると、子供が小さな胸を痛めているのを申し訳なく思うでしょう。そして「あなたがそんな心配しなくていいのよ」と安心させようとするでしょう。それがまた、親として大人としての矜持でもあります。
子供の方も「親を喜ばせること」が自分の喜びになっている、これが健全なあり方です。「喜ばせなかったら自分が悪いような氣がする」とは異なります。これは罪悪感で操作されている状態です。
「親になり切っていない親」は、「喜ばせなかったら自分が悪いような氣がする」の罪悪感を刺激して、子供を操作するのが典型です。
先のクライアントは、成人後も両親から「親の親」をすることを求められました。父親は週二回は彼に電話を掛けてきて「お母さんはうつがひどくてね。お前の顔を見たらお母さんがどんなに喜ぶかわかるだろう」そして電話を代わった母親は「お前が人生の全てだ。私はもうどれだけ生きているかわからない」などと言うのです。彼はその度に罪悪感を刺激され、ロサンゼルスから飛行機に乗って帰省していました。しかし案の定、両親は彼がどんなにやっても決して満足することはありませんでした。
罪悪感で操作しようとする人には、「ここまでやれば満足する」は決してありません。「これで最後か。もっと寄越せ」と暗に言い続けます。自分にしてくれた尽力の背景に思いを馳せ、感謝することもありません。それが支配欲に取りつかれた人の心象風景なのかもしれません。
また他にも、辛そうな人を見ると、すぐさまいつでも反応的に「私が何とかしてあげなくっちゃ」になっていないでしょうか・・?真面目で責任感の強い人ほど、この「私が何とかしなきゃ!」の過剰責任感に駆り立てられてしまい、それを自分も周囲も「正しい、良いことをしている」と思い込む、そして当てにされ、評価もされる。しかし実際には依存と搾取が続き、虚しさと疲弊が溜まっていく・・多くの方に思い当たる節があるかもしれません。
操作する方は、親であれ、他人であれ、貴方に「私が何とかしてあげなくちゃ」を永遠にさせ続けたいのです。義侠心を巧妙に利用されて、傷ついた経験がある人も少なくないでしょう。
他人には操作されないけれど、親には操作されるということはやはりないのでは、と思います。仮に既に親が亡くなっていたり、関わりを断っていたとしても、親への恐れを克服し、心を支配されない自分になる意義はこういうところにもあります。
「人に利用されやすい」「相手に尽くせば尽くすほど、相手はもっと動かなくなり、相手の責任を自分が負ってしまって疲弊する」こうした「親との間で繰り広げられていたドラマ」を、他人に対しても氣づかぬうちに繰り返していることは、往々にして起こりえます。
過剰責任感からの解放が、一生の課題になっていて、それに氣づかないままの人も、責任観の強さが評価される日本においては、大変多いように思います。まず、これに氣づけることが、最初の大きな一歩となるのではと思います。
親が「常に」辛そうだと子供は「生まれてすみません」に
一見普通に見える家庭でも、親が子供に「自分の顔色をうかがわせる」ことは、決して少なくありません。
或る家庭の母親は、子供の友達に「あなたのお母さん、いつも暗いよね」と言われるほどでした。当の子供は他の家庭を知らないので「そんなものか」と思い込んでいました。母親は笑顔を子供たちに見せたためしがなく、いつもしんどそうでした。彼女は小学校高学年にもなると、「お母さんは私たちを育てるためにしんどい思いをしている」と感じるようになりました。これが「親の親」をさせる原因です。しかし彼女が大人になって振り返ると、母親は当時からスポーツジムには通っていました。ですので「しんどそうなのはポーズだったんじゃないか」と思い当たったそうです。
彼女が十代の頃、母親がクリスマスケーキをパートの帰りに買って帰ってきましたが、「まるで鉛でも運んでいるかのよう」だったそうです。いくら寒い時期とは言え、20年以上たった今でも記憶に残る異様な光景でした。そして母親はにこりともせず、そのクリスマスケーキをテーブルに載せました。
これで「お母さんは私たち子供を喜ばせようとして、寒い中ケーキを買って来てくれた。ありがたいな、嬉しいな」と思えるでしょうか・・・?
子供の心にメッセージされるのは
「あんたたちのために、寒い中買って来てやった」
「あんたたちがいるから、お母さんはこんな思いをしなくてはならない」
「あんたたちの存在はお荷物だ」
・・・であっても全くおかしくありません。
いっそケーキなどない方が、子供の心に不要な罪悪感を引き起こさなくて済んだかもしれません。このダブルバインド、二重拘束と呼ばれるものは、子供の心を混乱させ、安心感を損ないます。もし友人から、にこりともせずに真顔で「お誕生日おめでとう。これお祝いね」と言われたらどうでしょうか?心の底が凍りつくような氣持ちになるでしょう。いっそ誕生日のお祝いなどしてもらわない方がすっきりします。
親も生身の人間なので、家の中では氣が緩んで、疲れた顔をすることも当然あるでしょう。しかしここぞという時に子供に笑顔を見せず、「常に」家の中で辛そうな顔をしていると、子供は太宰治の「生まれてすみません」になってしまいかねません。この彼女の例のように「自分の存在はお母さんにとっては重荷だ」と感じてしまうからです。
「虐待されたわけではないのに愛された実感がない」「親から虐待されたわけでもない、ちゃんと学校には行かせてくれたし、お小遣いももらったのに愛された実感がない」こうした悩みは意外と多いようです。あからさまな暴力・暴言があったわけではな[…]
親が「何かをしなかった」による傷はわかりにくい
親が暴力や暴言など「やってはならないこと」で子供を傷つけたことはわかりやすいです。しかし「何をしなかったか」によって負った傷はわかりにくいです。
「まず音階やバイエルの練習から始めなかったこと」も、その大事さを知らなければ氣づけないでしょう。
「笑顔でクリスマスケーキをテーブルに載せなかった」ことも、上述した負のメッセージの重大さと比べ、「大したことない」ように取られがちです。
当時はそれを家族の誰かが指摘することなどなく、やり過ごしてしまうのかもしれません。
「あからさまな支配は相手にすぐ逃げられる」と身に染みている「支配する親」は、寧ろ「何かをしない」ことによって支配する、そうしたことも起きがちです。家の中で挨拶がないなどもその一つです。挨拶はその人の存在を認め、尊重する心の現れで、家庭の中でこそ挨拶は大変重要です。挨拶がないのに、心が通い合うコミュニケーションなど尚更実現しないと言って良いと思います。
この巧妙な支配のからくりに、まず氣づけると、互いの関係の中で起きていた無意識のパターンを、意識化できます。ケーキの例のように「子供に愛情を注いでいたら『それをしない』ことはあり得るだろうか」と振り返るとわかりやすいでしょう。
私たちはタイムマシンに乗って、過去の子供時代にさかのぼってやり直すことは残念ながらできません。しかし、①「子供らしい感情の発露」を、今の状況で練習することはできます。これは全ての感情を大切に扱い、適切に表現する基礎的な練習になります。
自尊感情は無条件のもの自尊感情(self-esteem)とは、「どんな自分でもOKだ」という充足感の伴った自己肯定感のことです。お金や能力や美貌や、学歴や社会的地位など目に見えやすい条件で自分を肯定していることも、世の中に[…]
「親の親」を引き受けない意義
そして「親の親」を引き受けない意義を今一度熟慮してみます。
先の男性クライアントの例で言えば、本来なら父親がヘルパーを雇ったり、母親の話し相手になる人を依頼したりの手立てを取るべきではなかったでしょうか・・?クリスマスケーキも「誰の何のために買ってくるのか」を考えるのは、親の役目であり、子供に余計な氣遣いをさせて負担をかけるべきではなかったと思います。
「楽しい子供時代」が奪われたのは、何が原因だったでしょうか・・?クリスマスケーキのような、些細に見えることの積み重ねだったかもしれません。そして些細に見えることこそ、子供は反射的・無意識的に「見て見ぬふり」をしてしまいがちです。
子供は親のために、過剰な精神的感情的エネルギーを費やすべきでは決してない、と思います。それは親に「絡めとられている」状態で、その分自分の人生を生きられなくなってしまうからです。心が健全な親なら、「子供にわざわざ心配させてかまってもらうことや、子供が『生まれてごめんなさい』と思うこと」を決して望まないでしょう。そこに答えは出ています。
フォワードが強調する「親が抱えている問題の責任は、彼ら自身にある」・・仮に親に理解や同情はしたとしても、「私がどうにかしてあげなくっちゃ」はやらない。それをやってしまうと自分から「親の親」になってしまいます。この親子の役割逆転を元に戻すには、自分の悲しかった子供時代を追体験せざるを得なくなります。内的エネルギーと紆余曲折の時間が少なからずかかる、その苦しさを避けようとして、人は無意識のうちに外的な何かで埋め合わせようとしてしまう、様々な臨床経験を通じ、日々実感しています。
ただこれは、その途上で「まるで宇宙の孤児になったかのような」喪失感を通り抜けざるを得ない、それが最大の試練なのかもしれません。人との関りを大事にしたい、心優しい人ほど難しく感じても、それは自然だと思います。
「私は『親の親』はもうやらない」「親に背負わされた責任や、親自身の未熟さを親の肩に返す」親との葛藤の根本解決は、子供自身がこのことに氣づけるか、ということに尽きるように思います。

