│大阪神戸の心理セラピー・カウンセリング Prado https://prado-therapy.com Tue, 19 Mar 2024 02:34:09 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.4.3 https://prado-therapy.com/wp-content/uploads/2018/03/cropped-157b52041d80adfe93b86d80016be587-32x32.jpeg │大阪神戸の心理セラピー・カウンセリング Prado https://prado-therapy.com 32 32 「親の親」になる子供・「やってもやっても不十分」焦燥感の背景 https://prado-therapy.com/parentsparent/ Mon, 18 Mar 2024 01:01:01 +0000 https://prado-therapy.com/?p=7912 「やってもやっても不十分」「早く大人にならなければ」の焦燥感

ワーカホリック(仕事中毒)や、何事も根を詰めすぎ、肩や背中の凝りが慢性化している場合、もしかするとそれは焦燥感が原因かもしれません。心因的な症状は、心の奥底の原因を取り除かなければ根本解決にはなりません。

焦燥感とは恐れが原因によるものです。ですので「さあ、リラックスしましょう。深く呼吸をしましょう」と言われて、体だけをほぐそうとしても中々できないものです。

体の凝りがあってもなくても、「やってもやっても不十分」という焦燥感に苛まれていないでしょうか?或いは子供の頃「早く大人にならなければ」と焦っていなかったでしょうか?

それは貴方が子供の時に、「子供らしくいられる」ことを許されていなかったからかもしれません。

「子供らしくいられる」二つの条件

では「子供らしくいられる」とはどういうことでしょうか?無邪氣で天真爛漫で、大人ならもう楽しめない遊びに夢中になれ、屈託なく笑い転げたり、子供同士のけんかをして泣いたり。それが子供時代の特権です。

また子供は生まれた時は何もできず、全ての世話を養育者にしてもらわなくてはなりません。成長に伴い、少しずつ「自分のことは自分で」やれるようにしつけられます。そしてまた、その子の発育段階に応じて家のお手伝いをさせ、家族の一員であることの参画意識を養っていきます。この参画意識が自尊心の支えになります。甘やかされて「いつまでたってもお客さん」では、依存心が強くなり、子供をその裏返しの「家庭の王様・専制君主」にしてしまいます。子供は好き勝手出来るようで、肝心の「成長したい欲求」を打ち砕かれ、挑戦を恐れるようになります。

まとめると

  1. 「子供らしい感情の発露」を受け入れられる。
  2. 少しずつ責任を果たすことを通じ、自由と自立は不可分であると学び、自立することを誇れる。成長したい欲求を伸び伸びと満たされ、挑戦する喜びを感じられる。

「子供らしくいられる」とは①と②のバランスが取れた状態と言えるでしょう。

親子の役割の逆転・子供が「親の親」になる

ですので、①の感情の発露が許されず、そして②の責任が子供にとって過剰だと、子供は子供らしくいられなくなります。

スーザン・フォワード「毒になる親 一生苦しむ子供」に、8歳の頃から「親の親」をさせられた男性クライアントの話があります。彼の母親は神経症を患い、家族に口をきくこともなく、終日寝室にこもりきりでした。

子供だった彼は、毎朝、朝食と弁当作りをして二人の弟に食事をさせ、二日に一度は夕食の支度をしました。彼の父親は出張が多く留守がちで、母親を医者に診せたものの症状は好転せず、お手上げ状態でした。父親は彼に弟たちの面倒だけでなく、「お母さんがちゃんと食事をしているか見るんだぞ。氣分を落ち込ませないように氣を配るんだ」と命じていました。彼曰く「自分を哀れんでいる暇などなかったですよ」。彼は過剰な責任を負わされたのみならず、①の感情の発露も許されていなかったのです。まるで小さな大人さながらでした。

フォワードはこのケースについて、以下のように解説しています。

(彼が家事・弟たちの世話・うつ病の母親の相手をさせられていた)このことが、その後大人になってから彼がなにをしても満足いくまでやり遂げることができない人間になる原因となったのである。これは、子供時代に親子の役割が逆転していた人間には非常によく見られる現象である。小さな子供は、大人の役を押しつけれらてもうまくやりおおせるわけがない。なぜなら、子供はあくまで子供であって、大人ではないからだ。だが子供はなぜ自分がうまくやれないか理解できない。そして、フラストレーションがたまり、「不完全にしかできない自分」という自己イメージが生まれる。

(略)

彼が無意識のうちに抱くようになったのは、「長い時間頑張れば仕事を完全にやりおおせることができ、自分は能力のある人間だと証明できるのではないか」という幻想だったのだ。彼はいまでもまだ親を喜ばせようとしていたともいえる。

スーザン・フォワード「毒になる親 一生苦しむ子供」太字、下線は足立による

まるでピアノの音階や、バイエルが弾けるようになる前に、いきなりリストやショパンを弾くように命じられ「ああ、僕はやってもやってもダメだ」と思い込まされたようなものです。そして「長時間ピアノに向かって、リストやショパンの練習を続ければ、いつか弾けるようになる筈だ」と。整数の四則計算ができるようになる前に、微分積分ができるよう求められたと例えを替えてもいいでしょう。

「早く大人にならなければ」は「早くリストやショパンを弾けるようにならなくては」「早く微分積分ができるようにならなくては」だったかもしれません。「親の親」をさせられるとは、こうした親も子も自覚しにくい無茶を、子供に強いることなのです。

「親を喜ばせたい」子供の心を利用し操作する親

引用の最後の「彼はいまでもまだ親を喜ばせようとしていたともいえる。」は大変重要です。

どんな子供も、基本的に親を好きで、親を喜ばせたいと思うものです。親に幸せでいて欲しい、元氣でいて欲しい、そうした無垢で一途な愛情を子供は親に注ぎます。心が健全な親は、子供の打算のない愛情に感激し、「子供に親にしてもらった」と自然に思えます。子供が心配そうに自分の顔をうかがっていると、子供が小さな胸を痛めているのを申し訳なく思うでしょう。そして「あなたがそんな心配しなくていいのよ」と安心させようとするでしょう。それがまた、親として大人としての矜持でもあります。

子供の方も「親を喜ばせること」が自分の喜びになっている、これが健全なあり方です。「喜ばせなかったら自分が悪いような氣がする」とは異なります。これは罪悪感で操作されている状態です。

「親になり切っていない親」は、「喜ばせなかったら自分が悪いような氣がする」で子供を操作します。

先のクライアントは、成人後も両親から「親の親」をすることを求められました。父親は週二回は彼に電話を掛けてきて「お母さんはうつがひどくてね。お前の顔を見たらお母さんがどんなに喜ぶかわかるだろう」そして電話を代わった母親は「お前が人生の全てだ。私はもうどれだけ生きているかわからない」などと言うのです。彼はその度に罪悪感を刺激され、ロサンゼルスから飛行機に乗って帰省していました。しかし案の定、両親は彼がどんなにやっても決して満足することはありませんでした。

罪悪感で操作しようとする人には、「ここまでやれば満足する」は決してありません。「これで最後か。もっと寄越せ」と暗に言い続けます。自分にしてくれた尽力の背景に思いを馳せ、感謝することもありません。それが支配欲に取りつかれた人の心象風景です。

また他にも、辛そうな人を見ると、すぐさまいつでも反応的に「私が何とかしてあげなくっちゃ」になっていないでしょうか・・?操作する方は、貴方に「私が何とかしてあげなくちゃ」を永遠にさせ続けたいのです。義侠心を巧妙に利用されて、傷ついた経験がある人も少なくないでしょう。

他人には操作されないけれど、親には操作されるということはありません。仮に既に親が亡くなっていたり、関わりを断っていたとしても、親への恐れを克服し、心を支配されない自分になる意義はこういうところにもあります。「これが最後か。もっと寄越せ」は、他人にも親にも、毅然として退ける必要があります。氣の毒な状況に同情したり、「何かできることはないですか?」とお手伝いはしても、「私が貴方の代わりに何とかしてあげます」は違う、ということです。

親が「常に」辛そうだと子供は「生まれてすみません」に

一見普通に見える家庭でも、親が子供に「自分の顔色をうかがわせる」ことは少なくありません。

或る家庭の母親は、子供の友達に「あなたのお母さん、いつも暗いよね」と言われるほどでした。当の子供は他の家庭を知らないので「そんなものか」と思い込んでいました。母親は笑顔を子供たちに見せたためしがなく、いつもしんどそうでした。彼女は小学校高学年にもなると、「お母さんは私たちを育てるためにしんどい思いをしている」と感じるようになりました。これが「親の親」をさせる原因です。しかし彼女が大人になって振り返ると、母親は当時からスポーツジムには通っていました。ですので「しんどそうなのはポーズだったんじゃないか」と思い当たったそうです。

十代の頃、母親がクリスマスケーキをパートの帰りに買って帰ってきましたが、「まるで鉛でも運んでいるかのよう」だったそうです。いくら寒い時期とは言え、20年以上たった今でも記憶に残る異様な光景でした。そして母親はにこりともせず、そのクリスマスケーキをテーブルに載せました。

これで「お母さんは私たち子供を喜ばせようとして、寒い中ケーキを買って来てくれた。ありがたいな、嬉しいな」と思えるでしょうか・・・?

子供の心にメッセージされるのは

「あんたたちのために、寒い中買って来てやった」
「あんたたちがいるから、お母さんはこんな思いをしなくてはならない」
「あんたたちの存在はお荷物だ」

・・・であっても全くおかしくありません。

いっそケーキなどない方が、子供の心に不要な罪悪感を引き起こさなくて済んだかもしれません。このダブルバインド、二重拘束と呼ばれるものは、子供の心を混乱させ、安心感を損ないます。もし友人から、にこりともせずに真顔で「お誕生日おめでとう。これお祝いね」と言われたらどうでしょうか?心の底が凍りつくような氣持ちになるでしょう。いっそ誕生日のお祝いなどしてもらわない方がすっきりします。

親も生身の人間なので、家の中では氣が緩んで、疲れた顔をすることも当然あります。しかしここぞという時に子供に笑顔を見せず、「常に」家の中で辛そうな顔をしていると、子供は太宰治の「生まれてすみません」になってしまいかねません。この彼女の例のように「自分の存在はお母さんにとっては重荷だ」と感じてしまうからです。

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親が「何かをしなかった」による傷はわかりにくい

親が暴力や暴言など「やってはならないこと」で子供を傷つけたことはわかりやすいです。しかし「何をしなかったか」によって負った傷はわかりにくいです。「まず音階やバイエルの練習から始めなかったこと」も、その大事さを知らなければ氣づけないでしょう。「笑顔でクリスマスケーキをテーブルに載せなかった」ことも、上述した負のメッセージの重大さと比べ、「大したことない」ように取られがちです。当時はそれを家族の誰かが指摘することなどなく、やり過ごしてしまうでしょう。

「あからさまな支配は相手にすぐ逃げられる」と身に染みている「支配する親」は、寧ろ「何かをしない」ことによって支配します。家の中で挨拶がないなどもその一つです。挨拶はその人の存在を認め、尊重する心の現れで、家庭の中でこそ挨拶は重要です。挨拶がないのに、心が通い合うコミュニケーションなど尚更実現しません。

この巧妙な支配のからくりに、まず氣づけることが大切です。ケーキの例のように「子供に愛情を注いでいたら『それをしない』ことはあり得るだろうか」と振り返るとわかりやすいでしょう。

私たちはタイムマシンに乗って、過去の子供時代にさかのぼってやり直すことはできません。しかし、①「子供らしい感情の発露」を、今の状況で練習することはできます。全ての感情を大切に扱い、適切に表現する練習です。

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「親の親」を引き受けない意義

そして「親の親」を引き受けない意義を今一度熟慮します。先の男性クライアントの例で言えば、本来なら父親がヘルパーを雇ったり、母親の話し相手になる人を依頼したりの手立てを取るべきでした。クリスマスケーキも「誰の何のために買ってくるのか」を考えるのは、親の役目であり、子供に余計な氣遣いをさせる方が悪いのです。

「楽しい子供時代」が奪われたのは、何が原因だったでしょうか。クリスマスケーキのような、些細に見えることの積み重ねだったかもしれません。そして些細に見えることこそ、子供は「見て見ぬふり」をしてしまいます。

子供は親のために、過剰な精神的感情的エネルギーを費やすべきではありません。それは親に「絡めとられている」状態で、その分自分の人生を生きられなくなります。心が健全な親なら、「子供にわざわざ心配させてかまってもらうことや、子供が『生まれてごめんなさい』と思うこと」を決して望みません。そこに答えは出ています。

フォワードが強調する「親が抱えている問題の責任は、彼ら自身にある」「子供の頃、親に負わされた不当な責任は親に返す」・・仮に親に理解や同情はしたとしても、「私がどうにかしてあげなくっちゃ」はやらない。それをやってしまうと自分から「親の親」になります。親に責任を返すことに後ろめたさを感じず、「それで良い」と自信を持てることこそが、心を支配されない、操作されないための、分離自立の基礎になります。

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「No」を言わなければ「Yes」も言えない・「No」を言うために必要なこと https://prado-therapy.com/say-no/ Tue, 12 Mar 2024 00:39:02 +0000 https://prado-therapy.com/?p=7794 「No」を言わない・言えない人生

「No」と言いなさい。貴方が「No」と言わないなら、「Yes」と言っても信じてもらえません。

アラン・コーエン「今日から人生が変わるスピリチュアル・レッスン」

心の中に大きな「Yes」があれば、「No」と言うのは簡単だ。

スティーブン・R・コヴィー「7つの習慣 最優先事項 『人生の選択』と時間の原則」

「No」を言うのが何故難しく感じるのでしょうか?あらかじめ「No」を言われることを望む人はいません。しかし出来ないなら出来ない、不参加なら不参加と早めにはっきり言ってくれた方が助かるものです。

何かをお断りする際は

お断りすることを残念に思う氣持ち「ご期待に沿えず申し訳ございません」「ごめんなさいね」

+お断りの根拠、理由「〇時締切の提出書類があるので、今すぐはお受けかねます」「明日が早いから、もうLINEは切り上げないと」

+場合によっては代替え案「〇時からなら手が空きますが、それ以降でも間に合いますか?」「また今度ね」

の3つを添えれば、まず失礼にはなりません。

このように丁寧に断られれば、ごく普通の心ある人なら「この人、しっかりしてるな」と却って信頼するでしょう。安易な安請け合いよりずっと誠実です。理由を添えて断っているのに、相手が不満を漏らしたら「話が伝わっていない」か、相手の自己中心性のためかです。

「No」を言うために大切なことは何か、そして何故「No」を言うのが難しく感じるのかを深掘りしていきます。

「No」は境界線・「Yes」は価値判断基準

「No」を言うこととは、境界線を引くことです。「良いものは内へ、悪いものは外へ」が境界線の役割です。悪いものに「No」を言わなければ、自分の領域の中にそれを受け入れてしまいます。

「Yes」は価値判断基準です。自分軸とも言われます。自分が何を良しと思い、何が価値あるものかを見極め、判断選択する基準です。

境界線と価値判断基準は車の両輪であり、コインの裏表の関係でもあります。

日常生活において「No」を言う場面に出くわす前に、何が「Yes」かを自分が決めなければ、当たり前ですが「No」は言えません。そのためにこそ、「私は大事にするべきことを大事にしているか」の不断の問いかけが、価値判断基準を磨きます。この問いは、他人が自分にしてくれません。

「何を大事にするのか」の問いは、言い換えれば「誰の何のためにそれをするのか(目的)」「今この瞬間、何を優先するのか(優先順位)」です。

私の百貨店勤務時代、バイヤーをしていた時のことです。しばしば売り場の販売員から「お客様が立て込んでいるので売り場のカウンター業務をして下さい」と事務所で仕事をしている私の社内PHSに電話が入りました。この時も、「自分の本来の目的は何か」「何を優先するべきか」を、電話がかかる前から、常に念頭に置いていないと反応的に売り場へ行ってしまいます。それらを明確にしておけばこそ「ごめん、もうちょっと耐えて。今の仕事が終わったら行くわ」などと「No」が言えます。

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子供の頃「No」を親に尊重されていたか

「No」を言いやすいか、中々言えないかは、子供の頃に親から「No」を尊重されていたかにも大きく左右されます。子供の頃は価値判断基準など考えられません。ただ「いや」を言うだけです。大事なのは以前の記事に書いた通り「同調しないからといって、捨てられることを恐れない」と幼い頃から感じ取れていたかです。

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危険だとか本当にやってはいけないとかではない範疇で、「No」を尊重される経験を子供の頃にどれだけ積んだかです。この経験の積み重ねが、「No」を言うことを恐れない人格を育てます。

もし大人の貴方が「親と違う意見を言うと、親は全力で否定する、或いは無視する」のなら、子供の頃は尚更そうだったでしょう。「同調しないと見捨てられる」と親から洗脳されたのなら、イエスマンになるよう調教されたのも同然です。それが引いては「だって誰それがそう言った」の責任転嫁になります。そしてこの「だって」をやっている間は自尊感情は高まりません。

子供の頃にされてしまった洗脳は、自分の責任ではありません。ただ「同調しなければ見捨てられる」という全く不要な恐れを克服するのは、どんなに理不尽でも大人の自分がやるしかありません。

「ルールだから正しい」「言われたから従う」の思考停止

また人は「『No』と言いたいのに言えない」ばかりではありません。自己決定は責任が伴います。責任という負荷を避けるがために「ルールだから正しい」「皆がそうしている」「言われたから従う」の思考停止をします。これらの中身を全く検証していません。それは自分の脳を、他の誰かや何かに自分から差し出し、乗っ取らせること以外の何物でもありません。

2020年から3年以上にわたって、日本人は真夏の炎天下でも、マスクをして出歩くという非科学極まりない不衛生なことをやってのけました。一億総自己虐待の極みです。2023年3月には、政府から改めて「個人の判断で」というアナウンスがあったにもかかわらずです。最初から「こんなものはおかしい」と抗った少数の人以外は、「自分が選んでマスクをしている」自覚などなかったでしょう。だからマスクを自分の手で外せないのです。「皆がしなくなったら」外すという人任せでは、独立自尊など夢のまた夢です。

これをやっていては、価値判断基準は決して育たず、裏返しの境界線も引けません。2020年の夏には「コロナは大したことはない」と大多数の日本人はわかっていた筈です。そうでなければ、観光地が満員御礼になることはありません。それなのに治験中のワクチンを全国民に莫大な税金で何度も打つという矛盾に、それこそ思考停止しました。結果8割の国民がワクチンを打ってしまいました。日本人の無思考が、2022年、2023年と超過死亡が20万人を超える国家の危機を引き起こしたと言っても過言ではありません。

判断選択は、脳の前の方、前頭連合野が担います。前頭連合野の完成は脳の中でも最も遅く、25歳頃と言われています。そして衰えるのは前頭連合野からです。即ち「使わなければ真っ先に衰える」箇所です。譬えやむを得ずであっても、大人は「何かと何かを天秤にかけて、自分がそれを選んでいる」。その自覚がなければ、永遠に「Yes」も「No」も言えません。

「『皆と同じ』にしておけば傷つかない」では「No」は言えない

ところで同調と協調は異なります。協調は文字通り、「一つの目的に向かって、皆が心と力を合わせること」です。協調は難しいですが、しかしまた「力を合わせる」ことは人間らしさの発露、喜びでもあります。

同調にはこうした難しさや、達成した喜びはありません。上記の項目と関連しますが、自己決定と自己責任からの逃避(「だってみんなが」)でもあります。同調とは群れることです。鰯や羊などの弱い個体は群れるように、人間も自我が弱いと群れたくなります。手っ取り早く、安心できた氣分になれるからでしょう。しかしそれをすると、また自我が弱くなる悪循環になります。「No」を言えるには自我が強くしなやかであることが求められます。

「皆と同じ」にしておきたい場合、「皆と違う」ことをすれば、何が起きるのを恐れているでしょうか・・・?

  • 変に思われる。
  • 悪口を言われる。
  • 嫌われるのが怖い。

・・・そういったところではないでしょうか?

自分の「Yes」「No」をはっきり言うとは、万人からは好かれないということです。先の例で、私がバイヤーだった時に「ごめん」と断っても、皆が皆理解を示すとは限りません。不満を漏らす販売員がいても不思議ではありません。嫌われるのを覚悟しなければ、「No」は決して言えないのです。

では私たちは何によって嫌われるのでしょう?自分の人間性の未熟さゆえに、相手を怒らせてしまったなら「申し訳ありません。今後精進しますので、どうか長い目で見てやってください」とうなだれるしかありません。

しかし、自分の信念を相手が受け入れなかった時は「わかりました。あなたの言う通りにします」とは言えません。「あなたの望み通り、自分の仕事を後回しにして売り場に出ます」は、自分を失う迎合だからです。前者であれば反省し、後者であれば諦めるしかありません。こんなシンプルなことも、「傷つきたくない」が動機になると途端にできなくなります。

目先の「傷つかない」ことと引き換えに、「Yes」も「No」も言えなくなる。しかし少し長い目で見れば、最終的に自分が泣く思いをします。私の例で言えば、売り場の販売員に毎度毎度「いい顔」をしていれば、結局は私にしかできない仕事がなおざりになるのです。

仕事なら良くも悪くも「それなりに」回っていきます。しかし「だって同調圧力が」の言い訳をしてコロナワクチンに腕を差し出せば、それは取り返しのつかない結果になります。日本人は今度こそ、この教訓を肝に銘じるべきと私は強く思います。

自分を裏切ることに耐えられない高潔さと勇氣

吉野源三郎「君たちはどう生きるか」の初めの方で、主人公コぺル君が、北見君の態度に感銘を受けるシーンがあります。いじめられっ子の浦川君を、クラスのいじめっ子山口君が陥れてクラス中の笑い者にしました。

「山口!卑怯だぞ。」

北見君は憤慨に堪えない様子で叫びました。

「弱い者いじめはよせ!」

吉野源三郎「君たちはどう生きるか」

そして北見君と山口君は、取っ組み合いのけんかになります。

机の間の狭いところに、山口は前のとおり仰向きに組み敷かれて、それでも憎々しそうに北見君をにらんでいました。北見君が上からおさえつけていることも、前のままでした。しかし、北見君の背中には、浦川君がだきついていました。

「北見君、いいんだよ。そんなにしないんでも、いいんだよ。」

浦川君は、そういいながら、まだなぐろうとする北見君を一生懸命とめているのでした。浦川君の声は、泣きださんばかりでした。

「ね、後生だ。もう、ゆるしてやっておくれよ。」

北見君は、山口君の卑怯ないじめに敢然と「No」を言っただけではありません。何よりも、傍観者のまま保身に走る自分を潔しとしなかったのです。

そして浦川君は、北見君が山口君をやっつけているのを見て「ざまあみろ、僕の代わりにもっとやってくれ」とは思いませんでした。やられっぱなしになっている山口君の姿が見るに堪えず、その心の痛みを裏切れずに「No」を言ったのです。

この二人の「No」に、それぞれ何を大事に生きているかが如実に現れています。その自分を裏切ることが何よりも耐えられない、彼らはそうした高潔な人格の持ち主でした。

勇氣は「少し怖い、面倒」と思うことに一歩を踏み出すことでも養えます。私たちにはその地道な努力が必要です。それ以上に北見君の口癖の「誰が何と言おうと」、その首尾一貫性、integrity、高潔さがあればこそなのです。

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子供は何故親をかばうのか・自己否定と自己虐待の悪循環を断つ https://prado-therapy.com/denial-of-facts/ Fri, 08 Mar 2024 00:24:41 +0000 https://prado-therapy.com/?p=7721 自己否定と自己虐待の悪循環

以下の二つの記事は、弊社のサイトの中でも継続的にアクセスがあります。即ちどれだけ多くの人が「自分にダメ出し」をし、「優しくされると辛くなる」かの証でしょう。わざわざ検索するのは「こんなことが自分の人生にずっと続いて良いのか」と人知れず悩めばこそなのだと思います。

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これらはいずれも、自己否定感が原因となった自己虐待です。ですので、環境を変えたとしても、自分の無意識レベルが変わらなければ続いてしまいます。そしてまた、生まれながらにして自己否定や自己虐待をする子供はいません。生育過程において、主に親からの洗脳と自己防衛の結果として、無意識に埋め込まれてしまうのです。

「自分は○○しなければ価値がない、認めてもらえない」

「自分の自由意志を否定される。常に自分の外側に『正解』を求め、その通りにし、非難されないように『しなければならない』」

「親の意見と違うことを言うと、頭ごなしに『口答えするな』と言われる位なら、思考停止して言いなりになっておいた方が傷つかずにすむ」等、

子供は自己防衛を学習していきます。その結果として自己否定感が強くなってしまいます。

特に子供が繊細で敏感だったり、「自分の意志よりも周囲の意向を叶えること」に重きを置きがちだったり、しかもそれを「○○ちゃんは優しいのね」と承認されると「自分の意志を押し殺すことが正しい」と学習してしまいます。大人は「それも場合によりけり」とわかりますが、子供はそのような複雑な思考はできません。「自分の意志を押し殺す。見て見ぬふりをする」=「正しい」と単純化して脳の中に刷り込まれてしまいます。自由意志を押し殺すことそのものが、自己否定ですが、本人はそうと氣づきません。

「いやうちの子は宿題をやりたがらないし、ゲームばかりして自分のやりたい放題している」と思われる親御さんもいらっしゃるでしょう。それはもしかすると、「どうせ頑張ったところで」の自己否定感が現実逃避に走らせているのかもしれないのです。或いは「満足の遅延」が躾けられていないため、自律心が育たず、「欲望に屈服してしまう自分」になっているためかもしれません。これもまた、「自分を応援しない」「良くないものに自分を晒し続ける」自己虐待なのです。

そして自己虐待を続ければ、当然のことながら自己否定感は強まります。そしてまた「自分はこの程度の扱いをされて当然だ」と自分が否定した自分に自己虐待をするという悪循環になります。これは世間的な評価評判では止められません。一時しのぎを繰り返してるだけです。「頑張って成果を出しているのに自信が持てない」のはこうしたことです。社会的地位が高い人の中にも、自己否定と自己虐待を止められない人はたくさんいます。

親に植え付けられた自己否定感とは

その子供の元々の特性として、不安を感じやすかったり、氣が弱かったりはあるにせよ、それが即自己否定感になるわけではありません。不安を感じやすくても、自尊感情豊かに生きることは充分可能です。不安を感じやすいからこそ、それを慎重さに昇華し、念入りに調べたり、また誰もがわかっていて中々やらない準備・予防に生かせば、長所になります。氣の弱さも、後天的に育む勇氣によって、かなり補うことができます。

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またどんな子供も、恐れと同時に「外の世界へ出て行きたい。自分の力を試したい」欲求を必ず持っています。子供は木があったら登りたくなるものですし、最近は見かけなくなりましたが、私が子供の頃はブロック塀の上を渡り歩くなども「やってみたくなる」ものでした。そしてこうしたことは、大人になればもう楽しいとは感じられません。二度と戻らない子供時代の特権です。そしてこれらのチャレンジは、「自分がやりたいからやる」ものです。「自分がやりたいからやる」これが評価評判に振り回されない自発性の基礎になります。

こうしたチャンレンジを、周りの大人から特別に承認されないまでも、少なくとも打ち砕かれてしまわないことが大変重要です。ある女性は幼稚園の頃、冬休みに木と縄紐で高さ15㎝くらいのブランコを工作するという宿題を出されました。ただそのブランコを、頼んだわけでもないのに父親が代わりに作ってしまい「これを持って行きなさい」と言われたことが、今でも悲しい記憶として残っていると話して下さいました。まだ幼く、そして父親を信じ愛していればこそ、「それ、私のブランコよ!」と主張することなど考えもつかなかったそうです。

自分が作った物ではないのに、先生に嘘をついた罪悪感(多分先生は「ありがちなこと」と察しただろうと思いますが)。自分のチャレンジを誰でもない親に横取りされた悔しさ、悲しさ。大人なら「お節介をやらかした」程度に受け止められても、小さな子供には「どうせお前は下手だ。お前のブランコには価値がない」とメッセージされてしまいます。それは子供の「どんなに下手でも、これが私のブランコだ」引いては「自分は自分で良い」を打ち砕いてしまったのです。親にとっては記憶にすら残らない「小さなこと」かもしれません。しかしこうしたことの積み重ねが、自己否定感の温床になり得るのです。

ここでスーザン・フォワードの「毒になる親 一生苦しむ子供」より引用します。

子供の時に体罰を加えられていたにせよ、いつも氣持ちを踏みにじられ、干渉され、コントロールされてばかりいたにせよ、粗末に扱われていつもひとりぼっちにされていたにせよ、性的な行為をされていたにせよ、残酷な言葉で傷つけられていたにせよ、過保護にされていたにせよ、後ろめたい氣持ちにさせられてばかりいたにせよ、いずれもほとんどの場合、その子供は成長してから驚くほど似たような症状を示す。どういう症状かといえば、「一人の人間として存在していることへの自信が傷つけられており、自己破壊的な傾向を示す」ということである。そして、彼らはほとんど全員といっていいくらい、いずれも自分に価値を見いだすことが困難で、人から本当に愛されている自信がなく、そして何をしても自分は不十分であると感じているのである。

「毒になる親」の子供がこのように感じるのは、意識的であれ無意識的であれ、親から迫害を受けた時に、「自分がいけなかったからなのだろう」と感じるためであることが多い。

スーザン・フォワード「毒になる親 一生苦しむ子供」 (太字、下線は足立による)

人の脳は理由を欲しがります。何か理不尽な、理由のわからないことを他人からされた時、一瞬「え!?私が悪かったのかな!?」と自分を責めてしまうことも起きます。実際に何が起きたか検証するという「遅い思考」をする前に、「私が悪かったのかな!?」の反応的な「速い思考」をしてしまいます。それはその相手を自分が信頼していればいるほど、その人との関係性を失うまいとするからです。人間のこの心理をよくよくわかっているのが詐欺師であり、「天使の仮面をかぶった悪魔」の偽善者です。それが「毒になる親」であることも、往々にして起こります。

大人であれば、他の信頼できる人に「これってどう思う?」と相談したり、後から振り返って「やっぱりあれはおかしい」と自分で氣づけます。しかし、まだ未成熟な、そして親を全面的に信頼し、依存しないと生きていけない子供に、そのようなコミュ二ケーションや客観視ができる筈もありません。

「私の家庭はおかしかった」と認められない・「事実の否定」の強大な力

子供にとって家庭は全宇宙です。そして人間の子供は他の動物と比べかなり長い間、親の庇護を必要とします。そしてどの子供も、「自分は親に全面的に愛され、承認されている」と信じたいのです。「自分の家庭はおかしかった」と子供自ら認めざるを得ないことほど、惨めなことはないでしょう。その子供が成人した後もです。これが、他人との軋轢とは全く違う、親との葛藤の根深さの原因になります。

「毒になる親」の冒頭に、父親を聖人のように尊敬している男性のクライアントの例があります。著者が面談を進める中で、次第に父親が、そのクライアントが子供の頃にしてきた様々な虐待が明らかになります。学校で悪い成績を取ったり、ちょっとした口答えをしたり、忘れ物をしただけで、父親は大声で喚き怒鳴り、息子を週に2、3回は革ベルトで叩いていました。叩かれる場所は背中、脚、腕、手、おしりなど、その時によってまちまちでした。しかしそのクライアントは「そんなことはどこの家でもあることだ。父親が自分を叩いたのは自分のためを思ってのことだった」と言い張りました。

この手の「事実の否定」は、本当によくあります。「事実の否定」について、「毒になる親」では以下のように説明しています。

心理学でいう「事実の否定」とは、自分にとって不都合なことや苦痛となる事実を、それほどのことでもないかのように、あるいはそもそも存在していないかのように振舞ったり、または自分をもそのように信じ込ませてしまうことをいう。これは、人間が自己を防衛するためのもっとも原始的で、しかしもっとも強力な方法である。

引用の通り、誰にでも「事実の否定」は起こります。「TVや新聞や行政が嘘をつく筈がない」もその一つです。「私はそんなことはしません!」と思わないことが最初の一歩です。裏を返せば人間の「信じておきたい」力が如何に強大で抗いがたいかです。

そしてまた、人は自分の親や、自分が育った家庭と、自分自身を重ね合わせ、同一視する傾向があります。客観的に見て「ひどい親だな」と他人が思っても、「あなたの親ってひどいね、毒親じゃないの?」と言ってしまうと相手を傷つけてしまいます。それは子供が親に自分を重ね合わせ、自分を否定されたかのように取ってしまうからです。これが「あなたの上司、結構ひどいよ。それってモラハラじゃん」であれば、「やっぱりそうかな・・」になり得ることとの違いです。

「傷ついている自分」いないことにする「事実の否定」

上述した父親に虐待されていた男性の話を更に引用します。

父親が恐ろしくなかったかとたずねると、怖かったことは認めたものの、なおも父親は息子を矯正しようとしていたのだと言い張った。だが彼はその時、私と目を合わせなかった。そして私がさらに質問を続けていると言葉につまりはじめ、とうとう目に涙が浮かんだのが見えた。

私は胃の中に何かが突き上げてくるのを感じた。

彼の抵抗はそれまでだった。(略)

もう彼のすべきことはひとつしかない。この事実を正直に認め、心の中にいまでも住んでいる「傷ついた少年」を癒すことである。

即ち「事実の否定」は一時しのぎにはなっても、「傷ついた自分」をいないことにしてしまうのです。これはセルフネグレクトであり、自己虐待の根本原因です。そして自己虐待は言うまでもなく、周囲の身近な人にも必ず害を及ぼしてしまいます。この男性クライアントは、自分の怒りを父親ではなく、より弱い立場の妻に向けていました。これが子供に向けられると、虐待の連鎖を生むことになります。

暴力・暴言というわかりやすい形だけではなく、「かまい過ぎて子供を窒息させる」「子供に無関心になり、子供のニーズに応えない」「子供を親の世間体の道具にする」なども同じです。

実は子供の頃の方が本能でわかっている

このように「事実の否定」を子供は、そして自我が未成熟で弱いと大人もやってしまいます。「事実の否定」そのものを中々氣づけないものですが、一方で、子供は大人よりも思考が発達していない分、本能でわかっていることが多いです。子供の方が、コロナのインチキに、「TVに出てる人は何でマスクをしなくていいの?」と大人の欺瞞に氣づけるのと同じです。「王様は裸だ!」と叫べるのは子供、そして子供のようにあるがままに物事を見る目を失わなかった大人です。

「自分の生きづらさは親から蔑ろにされたためかもしれない」ともし迷う場合、それを他人が外側から「あなたそれって虐待ですよ。いい加減認めましょうよ」と指摘するよりも、「子供の頃の自分は、実は親から逃れようとしていた」と振り返った方がより納得しやすいでしょう。事実の否定を乗り越える一つの方法です。

以下のようなことを子供の頃やっていたとすれば、「自分は親に全面的に愛されていない。存在を歓迎されていない」と感じ取り、「逃げる」という防衛をしていた証かもしれません。人間の防衛本能の基本は「戦うか/逃げるか」です。幼かった頃に親と戦うのは無理だったとしても、逃げることは知らず知らずの内にやっていたかもしれないのです。

  • 自分からスキンシップ(抱きついたり、手を繋ごうとしたりなど)を求めなかった。
  • 親と同じ空間にいたがらなかった。親が帰宅するとすぐに自室に引き上げたり、家の中にいても良い状況であっても、外に出て遊んでいた。
  • 親に相談しなかった。決めたこと(進学先や就職先など)を事後報告するだけになった。
  • 家の外で経験したことを話さなかった。
  • 親の前で喜怒哀楽の感情を素直に表現しなくなった。悲しみや怒りだけでなく、「嬉しかった」「〇〇が好きで楽しい」なども言わなかった。
  • 「○○を買って」「☆☆ちゃんちはどこそこへ行ったんだって。羨ましいな」などと子供らしく親にねだらなかった。「そんなことを言える雰囲氣ではない」と薄々感じていた。

これらはほんの一例です。子供の頃だけでなく、成人後の出来事であっても構いません。人間の本音は行動に現れます。それは自分も同じことです。「もし、親を心から信頼していたら、あのようなことをするだろうか?」とご自身の体験について質問してみると、自ずと自分の本音がわかるでしょう。
「本能ではずっと前からわかっていたのに、頭では認めまいとしていた。認めるのが怖かった」・・これが腑落ちすると、蜃氣楼のような幻想に縋るのが、もう虚しくなるでしょう。

「事実と照らし合わせる」PDCAサイクルの習慣から

上述の引用通り、「事実の否定」は原始的かつ簡単な自己防衛であり、その力は強大です。ですので、これを乗り越えるためには、常日頃から「事実をあるがままに見る」習慣を身に着けることが必須です。「事実の否定」とは要はごまかしだからです。誰も皆、「体重計に乗るのが怖い」程度に、見たくない事実と向き合うのは苦痛が伴います。都合の良い解釈や言い訳をいくらでもします。しかしそれは、責任ある大人の態度ではなく、問題を先送りにするだけです。結局は回り回って自分に跳ね返ってきます。

もしコロナ騒ぎがインチキと知っていて、そして家の中ではマスクをしないのに、花粉症等の理由以外で、未だに体裁のためにマスクをして出歩いているのなら、まずそれからやめることです。マスクでは自分をごまかしていて、より強大な親との関係の「事実の否定」を乗り越えることなど不可能です。それは駅の階段を昇るのに息切れする人が、いきなりマラソン大会に出場しようとするようなものです。

生き方はスキルです。ごく普通の良心とそれに基づく良識がある人なら、自尊感情豊かに生きることは誰にでもできます。それは恰も「ごく普通の健康体の人なら、息を切らさずに駅の階段を昇れたり、5㎞や10㎞のマラソンを完走することができる」ようなものです。但し、それにはその人に合った日々の練習が要ります。人によってはまずストレッチを始めることだったり、一駅歩くことだったりします。

目に見える体を使った技術なら「それはそうだ」と納得できても、目に見えない心のことになると、「今の自分にやれる小さな一歩を踏み出す」ことを人は途端にしなくなります。そしてダメだダメだを自分や他人に言い続けて一生が終わってしまいます。

「私は『ちゃんとしてマスク』はやってません」であれば、それ以外の事柄、仕事や、家族との関係性、或いは自分自身のことで、PDCAサイクル(Plan-Do-Check-Action)を回すことをこれまで以上に意識して取り組んでみましょう。PDCAサイクルほど、大昔からその大切さが言われているにもかかわらず、やれていないものはありません。PDCAサイクルを回すとは「これが良いと自分で思ったことをやってみて、結果どうだったかを検証し、次につなげる」ことの繰り返しです。

例えば家族とのコミュニケーションが課題であれば、一つで良いのでテーマを決めます。「相手の表情などの反応に敏感になる。相手が何を感じているのか、心の中で何が起きているのかをキャッチするアンテナを磨く」などです。会話以外の場面でも、足音やドアの締め方がいつもと違っていないか、そしてそれを自分がキャッチできたか、自分のことで頭が一杯になって、キャッチすることを忘れていなかったか、それが「事実と向き合う」練習です。

その時その時、上手くできたかどうかよりもずっと大切なことは、事実と向き合い、自分と向き合い、ごまかさない自分になることです。そしてPDCAサイクルを回さなくて良い日は来ないのと同じように、ごまかさない自分になるのにも終わりはありません。「事実の否定」の力は私たちの心の隙を突いて、すぐに屈服させようとするからです。

最後にまた「毒になる親」から引用します。

神様のような顔をしている「毒になる親」を天上から地上に引きずりおろし、彼らを自分と同じただの人間として現実的に見る勇氣を持つことができた時、子供はひとりの人間として、はじめて親と対等な関係を持つための力を持つことができるのである。

上述の例のように、どんなひどい親でも「神様のように崇め奉っている」方が楽です。或いはどんなに不平不満を言い募っていたとしても、結局は親を一方的な「強者」とし、「対等な関係を持つ力」を養う努力をしない方が。しかしそれがどのような結果をもたらすかはもう繰り返しません。そしてそれは誰よりも、自分をごまかし、嘘の人生を生きること、それで良いのかを決めるのは、その人本人しかいません。

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他人の失敗を許せないのは自分の失敗を受け入れられないから https://prado-therapy.com/failure-2/ Wed, 28 Feb 2024 23:30:09 +0000 https://prado-therapy.com/?p=7697 失敗した後、反省を促すのではなく責める人

私たち人間には、必ず大なり小なり失敗はあります。

失敗をした後、例えば上司が「次からはどうするの?」と再発防止のための反省を促すのは、上司として当然の仕事です。仮に厳しい言い方をしても、愛情があればこそ成長を促そうとします。まあまあ、なあなあで甘やかす方が、その時は楽で自分は憎まれないかもしれませんが、仕事にも部下にも自分自身にも不誠実です。

しかし、もし上司が反省を促すのではなく、ねちねちと責める場合、それは上司自身が自分に失敗をすることを許せていません。後述しますが、失敗=悪、くらいに考えています。それは「失敗なんかしない、ほれぼれとする自分しか愛せない」ナルシシズムが打ち砕かれていないためです。「自分にダメ出し」と実は根は同じです。

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もしかすると自分の失敗は見て見ぬふりをしたり、ごまかしたり、誰かに尻拭いを押しつけて、自分は知らん顔をするかもしれません。これは一見自分に甘く、自分の失敗を許しているようですが、真実は異なります。失敗した自分に耐えられないから、その自分を直視できないから、失敗という事実から逃げ出しているのです。

自分に対しても、他人に対しても、「失敗は成功の元」とは考えられず、失敗を許せず、責める人、そしてまた失敗を恐れない人の心理とはどのようなものでしょうか・・・?

「失敗=悪」は「成功か/失敗か」の二択になっている

どんなことでも最初から上手くいきません。練習はそのためにあります。全ての新商品がヒットするわけがなく、「3割バッターなら首位打者」です。裏から言えば「7割お蔵入りなら上出来」です。

上述した「失敗=悪」は、「成功か/失敗か」の二択になっています。これは「0か100か」思考、もしくは「0か1か」のデジタル思考と同根です。

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ですので、成功/失敗に関して、以下の図のような世界観になっているでしょう。

ですから、失敗⇒自分がもう終わり、といった過度に単純化された思考になっています。本来、全ての物事はプロセスの上に成り立っています。それも一本の線ではなく、複数の線が交錯して走っています。恰も種子が芽吹いて草木になるのも、複数の要素(水、土壌、日光、温度、虫や鳥や微生物などの存在等)が絡み合って成長しているようなものです。その複数の交錯したプロセスに思いを巡らせず、表面に現れた事象だけで、損か得か、快か不快かで反応しています。

余談めきますが、私はスマホが「大人のおしゃぶり」と化しているのは良くないと考えています。浅い情報で頭が一杯になり、自分の頭で「思いを巡らせる」ことをせず、「0か100か」「0か1か」の単純化された思考になりやすいからです。「スマホをポチれば翌日には欲しい物が自宅に届く」のが当たり前になってしまいました。物にせよ事にせよ、その背景にある多くのプロセスに思いを馳せることを、21世紀の日本人はすっかり忘れているようです。「頂きます」「ご馳走様でした」「お陰様で」「ありがとうございます」「お疲れ様でした」これらは全て、物事の背後にある無数の尽力、プロセスに思いを馳せる姿勢です。

「成功とは失敗込みのもの」試行錯誤というプロセス

失敗を恐れない人は、「自分は失敗しない」と思っているわけではありません。上述した「成功か/失敗か」の二択になっていないのです。「失敗込みでの成功」「成功するまで失敗する、それが試行錯誤」と思っています。そしてただ闇雲にやり続けるのではなく、その中でPDCA(Plan-Do-Check-Action)サイクルを回しています。

例えば野球のピッチングの練習は、ただ漫然と投球数を稼げば上達するわけではありません。一回一回「今の投球はどうだったか」を振り返りながら、「次はどうする」の改善を積み重ねてこそ上達します。売れるセールスマンも、ただ「売れた/売れなかった」だけで終わらせません。「何が良かったか。何が良くなかったか」の振り返りを積み重ねているのも同様です。

また仕事のミスは基本が徹底されていないことから生じます。そして基本をメンバー全員に徹底することほど、エネルギーが要り、難しいものはありません。真剣に仕事をすればこそ、当たり前のことを当たり前にやる難しさがわかります。それは難しいのだとわかっている人ほど、「基本が常に徹底されるのは、人間がやることである以上、絵空事。ねちねち責めても仕方がない」とある種の諦観があります。ミスをしたその時に反省を促し、仕組みの改善はしてもです。

「成功とは失敗込みのもの」と捉えている人は、成功/失敗を以下の図のようにイメージしているでしょう。

「失敗はするもの」という前提に立たなければ、最初からPDCAサイクルを回そうとしません。「自分は完璧ではない」と思えているから、小さなほころびの内に修正しようとします。達人とは凡人の目には留まらない極々小さなほころびを見逃さず、すぐに修正してしまえる人のことです。それが凡人の目には恰も「失敗していないかのように見える」だけなのです。そして達人が恐れていることは「失敗すること」ではなく、「小さなほころびを自分が見逃してしまうこと」でしょう。

もしくは、「『会心の出来』はあっても、物事に『完璧』という究極的な成功はない」と考えている人は、以下の図のようにイメージしているかもしれません。

人は誰も皆、道半ばで倒れて死んでいきます。そのこと自体が素晴らしいこと、神ならざる人間の生きる姿です。もしそう思えていないのなら、それは「自分は神と同等だ」と思っておきたい幼児的万能感が抜けきっていないためかもしれません。

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「俺に迷惑をかけるな」OR「自分も迷惑をかけてきた」

また失敗を責める人は「俺に迷惑をかけるな」になっているかもしれません。子供の頃、他人様にご迷惑を掛けて、親が代わりに頭を下げた時、或いは家の中で何か粗相をした時、「やってはならないこと、他人様に迷惑を掛けてしまったこと」を叱られたのではなかった。「俺に迷惑をかけるな。俺に恥をかかせやがって」と親に怒られていたのなら、それは子供の成長を願った叱責ではありません。自分に迷惑がかかったことを不快に感じている、ただの自分の都合です。

そのように「失敗⇒俺に迷惑をかけるな」のパターンを、自分が大人になってからも、何の疑問も持たずに繰り返しているのかもしれません。

私たちはしばしば、子供の頃に誤った洗脳をされてしまい、そして無意識の内に繰り返してしまいます。その洗脳の中身が良くても悪くても、洗脳されてしまうことそのものは誰にも避けられません。しかしそれでもなお、私たちはいつまでも親や教師の影響下のみで生きているわけではありません。様々な人に出会う中で、失敗したからと言って「俺に迷惑をかけるな」という態度を取る人ばかりではないことを、自ずと経験していきます。これが経験から学ぶことです。つまり「俺に迷惑をかけるな」の人は、この意味における学習をしていません。

若い頃、或いは経験が浅い頃は、自分の失敗の尻拭いを上司や先輩にしてもらい、「穴があったら入りたい」恥ずかしさ、自分への悔しさを何度も経験します。これも若さの特権であり、若い頃の失敗は本人が思うほど恥ではありません。そして迷惑をかけ続け、だからと言って簡単に見放されなかったからこそ、今の自分があります。

「自分も迷惑をかけてきた。だから今度は自分の番。順繰りだ」と思えていれば、失敗をして反省の弁を述べている部下や後輩には「次からは氣をつけてね。そしてあなたが私の立場に立った時は、部下や後輩に同じように接してね」と言えます。余りに同じミスを再々繰り返されれば、そのことには「もう!なんぼほど同じ間違いをすればわかるの!」と業を煮やして叫ぶことはあっても。

失敗をねちねちと責める人は、「自分も迷惑をかけてきた」ことはどこかに吹っ飛び、今の自分の面子だけで腹を立てているのかもしれません。本来ならそうした人は、人の上に立つ器ではありません。ですが「仕事ができて人望がある人」が出世するわけではないのは、この記事を読まれている方には百も承知でしょう。

人の真価が問われる時

人の真価が問われるのは、平時ではなく危機の時です。順境ではなく逆境に置かれた時です。成功した時ではなく、失敗した時です。

ナポレオンがウォーターローで敗れ、イギリスの海軍に捕虜として捕らえられた時、数万のイギリス人が一目ナポレオンの姿を見ようと波止場に連日詰めかけました。
ナポレオンにより20年間も辛酸をなめ続けたイギリス人にとって、彼は不倶戴天の敵でした。
その憎い敵がついに捕らえられたのですから、イギリス人がどんなに驚喜したか想像に難くありません。

あの有名なナポレオン帽を被った彼がついに船の甲板に姿を現した時、それまで騒ぎ立っていた数万のイギリス人達は、一斉に沈黙し、波止場は水を打ったように静まり返りました。
そして、誰からともなく、一斉に帽子を取り、無言で彼に敬意を表しました。

囚われの身になったナポレオンは、意気阻喪した惨めな姿を晒してはいませんでした。
敗れてもなお、王者の誇りを失わず、敢然として自分が招いた運命を引き受けていました。
その氣迫が、数万の敵方の人々の心を打って、自然に頭を下げさせたのです。

吉野源三郎「君たちはどう生きるか」より要約

真の反省や謝罪は、実は難しく、誰もが当たり前にやれることではありません。「謝っておかなければ後が面倒だから」「自分が悪く思われたくないから」は本当の謝罪ではなく、打算です。こうした態度を全く取ったことがない人もまたいないでしょう。謝罪の前に言い訳が出たこともあるでしょう。人は皆弱く、ナポレオンのような強い人格にはそう簡単にはなれません。「あるがままの自分」とは、弱い自分を「なかったこと」にしないことです。

「敢然として自分が招いた運命を引き受ける」これは言い訳や責任転嫁や自己保身が微塵もない態度です。これらを潔しとしない高潔さを平時の内から養うのは、「日々、自分にどんな質問をしているか」に尽きます。そしてそれは「本当に大事にするべきことを、私は大事にしているか」に支えられてこそ、質の高い質問になります。そしてこの質問は、ナポレオンではなくても、誰でもやれます。ただ自分がやるかやらないかだけです。

裏から言えば、責任転嫁が如何に誰でもない自分を腐らせてしまうか。失敗に真摯に向き合う、或いは向き合わせるのではなく、ただねちねちと自分や他人を責めるのなら、滅ぶのはその人なのです。

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愛情不足の親に育てられても・「学ぶ喜び」が支える力に https://prado-therapy.com/self-education/ Sun, 25 Feb 2024 23:29:51 +0000 https://prado-therapy.com/?p=7665 愛情たっぷりに育てられた人は、概ね健全、しかし逆は常に真ではなく

弊社のクライアント様から時々受ける質問に

「親にしっかり愛されて育った人は、健全に育ち、人にも優しくできるそうですが、親から(身体的・精神的)虐待を受けて育った私は、大丈夫なのでしょうか・・・?」

があります。

世間には、「あの人は親に愛されなかったから、ひがみ根性が抜けないんだ」などと思ったり、言ったりする人もいます。

確かに、親に健全な愛情と信頼、そして承認を浴びるようにもらって育った人は、「世界は無条件に良いもの、世界が自分を歓迎してくれている」と無意識に感じ取っているでしょう。ですので、概ね健全で、人をひがんだり、意地悪をしたりすることはめったにないようです。

人間の脳は一般化をしたがりますので、「親から愛された=健全で優しい」「親から愛されなかった=不健全で意地悪」などとラベルを付けて脳の中に保存したがります。しかし現実は決して、そう単純ではありません。いわゆる火宅の家に育った人であっても、信頼関係が築け、社会に適応している人もたくさんいます。

また同じ親にそう分け隔てなく育てられたきょうだいでも、異なる生き方、異なる人格になっていく例はたくさんあります。片方は人のために無償の努力をしても、もう片方は「貰えるものは貰っておけ」の浅ましい人格になるなどです。

このような人たちは、一体どのようにして、劣悪な環境に負けることなく自分を育てることに成功したのでしょうか・・・?

客観性と主体的な努力「私は頑張ったらできる」

結論から先に言ってしまうと、弊社のクライアント様で、辛い家庭環境に育ったにも関わらず、自己教育に成功されたクライアント様に共通する特徴があります(あくまで私の経験上のことで、これが絶対条件ではありません)。

  • 読書の習慣がある
  • 日記やブログなど、自分の考えを言語化しまとめる習慣がある
  • 「頑張ればできる」という経験がある
  • 責任のある仕事を持っている、あるいは持っていた(仕事を「こなす」のではなく、主体的に取り組む)
  • 友人、配偶者、恋人など、「心から信頼できる人」が少なくとも一人はいる

読書は脳の前頭連合野を鍛え、客観性や想像力、思考の柔軟性が増します。また日記やブログなどの言語化も、「自分が何を感じ考えているのか」の客観視に役立ちます。

勉強にしろスポーツにしろ「頑張ったらできた、結果を出せた」のは、それを親が否定しようとしまいと、厳然たる事実です。ご両親に精神的な圧迫を受け続けていたクライアント様で、「幼い頃、ある日突然、縄跳びの二重跳びができるようになった。前日まで縄に足が引っかかってできなかったのに」という体験を話して下さった方がおられます。大人の目から見れば、そのような小さなことで充分なのです。

仕事に主体的に取り組むのは、責任が生じますが、この責任は心の筋肉を鍛え、心の器を強くする役割があります(「言われたことをこなしているだけ」ではいつまでたっても心は鍛えられません)。

また「心から信頼できる人」の存在は、「人間はそう捨てたものではない」という暗示になり、同じく自分自身にとっても「自分はそう捨てたものではない」という暗示になります。依存ではない相互に助け合う信頼関係を築けた実感も、上記の「頑張ればできる」と同じく、誰にも否定できない自信になります。

勤勉性の獲得・「どうせ私は」OR「私は頑張ったらできる」

「私は頑張ったらできる」実感は、主に小学生の頃に体得する勤勉性が支えています。

勤勉性とは、身体的、社会的、知的技能における能力を培い、学ぶ喜びをもって困難な仕事に取組み問題を解決していくこと。一方能力において自分に失望すると劣等感を感じる。

エリク・ホーンブルーガー・エリクソンの発達理論

学校の勉強だけでなく、スポーツ、遊び、家の手伝い、子供同士の時には喧嘩も含めた関わりの中で問題解決能力を身に着けること、こうした「学ぶ喜び」「成長したい欲求」を子供の頃に経験し、大人になっても学び成長し続けるか、自分に失望し「どうせ」になってしまうかの大きな分かれ目になります。

但し、表面的な能力の有無で勤勉性を推し量ると誤ります。学校の成績が良かったとしても、「学ぶ喜び」「成長したい欲求」が培われていなければ、それは勤勉性を獲得したとは言い難いです。自分に失望するとは「どうせ私は」であり、これが依存や、責任を嫌って逃げる原因になります。親に愛されず孤独だったとしても、勤勉性を獲得していれば「学ぶ喜び」「成長したい欲求」の方が勝り、困難に際して怯まない人格になっていきます。

怒りや恨みは「その対象」に向ける・無関係な人を巻き込まない

そしてまた、これらが「良心に基づく品位」に支えられていることも、合わせて大切です。能力がなまじ高く「私はやればできる」と思っていて、パワハラ、モラハラをやりまくっている人は枚挙に暇がありません。「人の痛みを自分のように感じる」共感性と、「人としてみっともないことはしたくない」品位に支えられていなければ、結局は長い目で見れば、肝心の信頼関係を失ってしまいます。

冒頭の「あの人は親に愛されなかったから、ひがみ根性が抜けないんだ」も、現実にそういうことは起きます。これは親への怒りや恨みを、親に向けられないがために、他のやりやすい人へ転化しています。親に向けられないのは、親への恐れや、なんだかんだ言って依存しておきたいある種の打算や、「関係そのものを失うのが怖い」などがあるでしょう。

また他人への転化は、嫌がらせなどのわかりやすい例だけでなく、「世間を見返してやりたい」⇒「そのためには真っ当な努力以外のことをしてでも、『凄いですね。流石ですね』と言われたい」があります。SNSでの自慢が止められないのもその一環かもしれません。

スーザン・フォワードの「毒になる親」の中で、「親との対決」についてその必要性を述べた箇所があります。

あなたに負わされたものは、その原因となった人間に返さないかぎり、あなたはそれをつぎの人に渡してしまう、ということなのだ。

もし親に対する恐れや罪悪感や怒りをそのままにしておけば、あなたはそれを人生のパートナー(妻や夫)や自分の子供のうえに吐き出してしまうことになる可能性が非常に高いのである。

「毒になる親 一生苦しむ子供」スーザン・フォワード

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実は親への恐れ、怒り、悔しさを「自覚するまで」が大変です。自尊感情が低いと自分を蔑ろにされてもそのまま受け入れてしまい、そしてまた子供は親を庇うからです。「いい子」で育ってしまった人ほどそうなります。

自分の心に正直に向き合う、その覚悟がないと、心理セラピーを受けても、親への復讐の代わりに私に復讐することも起きます。あからさまな嫌がらせというより、何をどんなに提案しても、同じことを延々と繰り返し堂々巡りになります。この場合はいずれ中断することになります。その分クライアント様の品位は下がってしまうわけですから、心理セラピーはいつでも誰にでもやってよいわけではないのです。

心理セラピーを受けない場合でも、怒りや恨みを感じる自分をまずなかったことにせず、直接相手に言わなくても構わないので、紙に書きだすなどして「その対象」に向けること、そして無関係な人を巻き込まないことを心に留めて頂ければと思います。

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「欲しいもの」と「必要なもの」は異なることも

親からの無償の愛を欲しがらない子供はいません。そしてそれは、他のものでは代替えにならないでしょう。親戚に養育された人が、その親代わりになってくれた人が他の子供たちと分け隔てなく愛情を注いでくれ、そして「幸せだった。感謝している」とそれも勿論本当のことですが、やはり「親に捨てられた」寂しさは消えないと仰るのも尤もなことです。

一方で、私たちが責任ある大人として生きて行くために、必要なものは何か、セルフブレーンストーミングしてみるのも良いでしょう。

下記はほんの一例です。ご自分の場合は何だったか、少し時間を取って考えてみましょう。それがご自身の価値観です。

  • 自発性・自主性
  • 自ら勉強すること
  • 約束を守ること
  • 挑戦すること/失敗から学べること
  • 自分と他人への思いやり
  • 粘り強さ・忍耐力
  • 現実を見据えつつ希望を失わないこと

そしてこれらは、誰かが与えてくれるものではありません。自分が獲得していくものです。親の無償の愛は、その環境づくりをし、時に励まし、共に喜び、上手くいかなかった時は「残念だったね。でも頑張ったよ」と慰め、そして道を逸れかかった時は、叱責をしてでもフィードバックをする、そうやってプロセスを支えるものです。

その支えがあった方が、子供は安心して成長できます。子供は屈託がなく元氣一杯に見えても、実は不安の中で日々成長しています。しかし身も蓋もない言い方かもしれませんが、こうした支えがなければないで成長するのも、人間の実に複雑な側面です。「こうでなければ健全に育たない」とは言いきれないのが人間の奥深さです。

私たち大人は、「欲しいもの」と「必要なもの」はしばしば異なることを経験しています。ですから折に触れて「自分は『必要なもの』を欲しがっているか」を自分に質問する、その客観性が求められます。

親に愛されなかった寂しさは消えなくても

上述したように親に愛されなかった寂しさは、他のもので埋め合わせきれません。その寂しさ、悲しみを抱えて生き、関係のない他人に撒き散らさず、また自分を攻撃して憂さ晴らししないのも、外側からは決してわからない力が要ります。その力こそが品位です。

劣悪な環境に負けてしまわず、自分を育てることに成功するとは、とどのつまりこの寂しさや悲しみ、失望を抱えて生きる力を自分が養い育てたかに行きつくのでしょう。

誰からも称賛されることはない、ただ自分の人生のためにやり抜く、その力を養い育てた人は、人目にはつかなくてもそこここに存在しているのです。

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付き合う人と付き合い方を選ぶ・自分を粗末に扱われないために https://prado-therapy.com/choice-relationship/ Sat, 24 Feb 2024 00:28:31 +0000 https://prado-therapy.com/?p=7653 人を疑わないお人好しほど搾取されっぱなしに

人間の悩みは究極的には人間関係に行きつきます。

いわゆるいい人、人を疑わないお人好しほど割を食う、馬鹿を見ることが往々にしてあります。傷つけられた方はその痛みは長く疼き、癒し解消するのに時間とエネルギーを費やしますが、傷つけた方は氣にも止めません。そして何度でも同じことを、やりやすい人に繰り返します。

何事も準備・予防が肝心なのと同じように、人間関係も「入るを制する」が大切です。これは出会った人に心を開かないという意味では決してありません。出会う以前から「よく考える」ということです。

ところで、支配/依存できるか、利用価値があるか、エネルギーを奪えるか、自分をチヤホヤしてくれるか、そのような尺度でしか人を推し量れない人は少なくありません。そうした人は、悲しいことですがターゲット探しで一生が終わると言っても過言ではありません。そして心ある人ほど想像もできないかもしれませんが、彼らにとっては我が子ほど恰好のターゲットはないのです。

最初からターゲットにされない、もしターゲットにされかかっても、相手が「あ、違うな」と向こうから去って行く、そうした自分になる心構えを養う必要があります。そしてそれをするのは大人の私たちは自分しかいません。

尊重されないことに怒りを感じる大切さ

ターゲットにされるということは、自分の尊厳を踏みにじられる、尊重されないということです。意見の違い、もしくは本当に自分が反省するべき点があるのに「面白くない」⇒「自分を否定された」と取らないこともその前提として重要です。これは当たり前のようで当たり前になっていません。このことと、尊厳を踏みにじられる痛みの違いを区別します。

尊重されないとは、具体的には以下のような相手の言動になるでしょう。勿論これはほんの一部に過ぎません。

  • 挨拶をしない、約束や礼儀を守らない
  • こちらが何かを言うと「それ、違うやん!」とまず否定し、揚げ足取りをする
  • 自分が決めて良いことなのに、根負けするまでしつこく干渉する
  • 相手のことを考えた意見具申をしても、無視したりして最初から取り合おうとしない
  • 言っていることとやっていることがバラバラ、もしくは言うことがコロコロ変わる
  • 相手を陥れるため、自分の損得のための嘘をつく

以前の記事で取り上げた「心理ゲーム」も同様です。

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また以下のような反応が自分に起きたら、自分を尊重されていないというサインかもしれません。

  • 一緒にいると疲れる
  • その人のことを思うと嫌な氣持ちになる、悪口を言いたくなる
  • その人に変わってほしいと願う

これらは、要は「その人とは一緒にいたくない」と自分の心が訴えています。但し後述するように「相手ではなく、状況が合わない」ケースもあるので、自分の反応に正直になりながら、理性を使って一つ一つ精査していきます。

自尊感情が低いと、自分を蔑ろにされても怒れなくなります。例えば、社会的地位が高い人が、SMの女王にわざわざ高いお金を払って自分を痛めつけてもらうことがあります。「本当の自分はその程度に価値のない人間で、それにふさわしい扱いをしてもらうと自分を確認し、安心できる」

私がコロナ騒動における子供たちのマスク着用に猛反対していたのも、この理由です。何の症状もない健康体なのに、「移すかも、移されるかも」と疑心暗鬼になって自分も他人も病原菌扱いしていては、自尊感情は下がる一方です。少々斜に構えた、ませた子供なら「はん、大人ってばっかみてえ。しょうがない、アホアホ大人のクソ茶番に付き合って顔立ててやるか」位に思えるかもしれません。しかしそのような子供ばかりではありません。聞き分けの良い素直なお利口さんほど、そのまま真に受けて「私は汚い。素顔の私は人に迷惑をかける」と刷り込まれてしまいます。3年以上にわたって、どれほど罪深いことに、ほぼ100%の日本の大人達が加担し続けたことでしょう。そして未だにその罪深さに氣づこうとすらしていません。

「どうせ自分はこの程度にしか価値がない」と思ってしまえば、上記のSMの女王の例のように、人はどんなに痛めつけられても、踏みにじられても、そのまま受け入れてしまいます。そして子供たちを「何をされても歯向かわない羊」にするための、コロナ騒動であることを大人こそが氣づかなければ、誰がそれを止めるのでしょう・・・?

「No」を言えなくなる自分の思い込みとは

ところでまた、付き合う人を選べなくなる、迎合したり、「No」を言えずに言いなりになってしまう場合、以下のような思い込みがあるかもしれません。

  • 相手を悪く思ってはいけない
  • 相手を怒らせたり、自分が怒ってはいけない
  • 自分が犠牲を払ってでも相手を助けるべきだ
  • とにかく波風を立てずにやり過ごすのが処世術であり、自分が非難されずにすむ最善の方法である

他にもまだあるでしょうが、代表的なものを挙げてみました。

もしこれらに思い当たる節があるなら、

  • その結果、どのような事態が引き起こされたか
  • その時自分が疲弊したり、相手を恨んだり、不平不満を抱かなかったか
  • それをやって自分は健全で幸福になったか

などを自分に質問してみましょう。

「困った時はお互い様」の持ちつ持たれつは自尊感情を下げません。健全な関係性はwin-winです。片方だけが不満を抱えるwin-loseは、少し長い目で見れば必ずlose-loseになります。

ですから、自分を幸せにしない思い込みは解除しなければ、結果的に誰のことも幸せにしません。

刺激が少しで良いタイプかたくさん要るタイプか

ところで人付き合いに関して、社交的でたくさんの人と関わるのが好きな人もいれば、狭く深くが好みだったり、一人で過ごすのが好きな人と様々です。これには良い悪いはなく、ただ違うというだけです。

昔行われた心理実験で、窓も時計もない、なので今が昼か夜かもわからない、そしてTVも雑誌もラジオも、何かの暇つぶしをする物が一切ない部屋に人間を閉じ込めておくというものがありました。これをすると人はすぐにおかしくなってしまいます。空調は完備され、食事もきちんと出され、部屋の中では何をしていても構わないという条件であってもです。想像するだけで耐え難く感じるでしょう。

つまり人間には刺激が必要なのですが、その刺激が少しで良いタイプとたくさん要るタイプがいます。そしてこの両者の間にはグラデーションがあります。

刺激が少しで良いタイプは、体力とは無関係に精神的に疲れやすく、休日は一人でゆっくり過ごしたい方でしょう。SNSもどちらかと言えば苦手で、お義理でアカウントは持っていても休眠状態か、情報収集専用に使っていて、見ず知らずの人と積極的に関わろうとはしないかもしれません。発信はしても、いわゆる「バズる」ことには重きを置かず「わかる人にわかってもらえればよい」と、ここでも「狭く深く」の付き合いをします。また誰も見ていないTVがついていると、すぐ消したくなるのもこのタイプです。

刺激がたくさん要るタイプはこの反対です。SNSのインフルエンサーや、ライバー(ライブ配信をする人)はこのタイプです。余程疲労困憊しているのでなければ、「休みの日にじっとしている方が辛い」のです。お祭りやパーティが大好き、スポーツ観戦も一人でTVを見るのではなく、大勢で声援を送りたい、皆で盛り上がると疲れるどころか元氣になります。政治家や芸能人など、人から注目され、また非常に多くの人に関わる仕事は、このタイプでないと長続きしないでしょう。

無理のない人付き合いのために、まず自分がどちら寄りかを振り返ります。そしてこのことは、コミュニケーション能力や、対人関係能力とは無関係です。「ボッチが好き」だからいわゆるコミュ障というわけでは決してありません。パーティピーポーが人の話を真剣に聴いているかどうかは別問題なのと同じです。

また人間は順応性があるので、グラデーションの間を多少は行ったり来たりします。ですから食わず嫌いをせずに、たまにはいつもと違う世界を知って視野を広げるのも良いでしょう。しかし根本は変わりません。一人で過ごすのが好きな子供は、歳を取っても一人で過ごしたがります。なので無理をして「違うタイプになろう」とはせずに、自分のタイプを知った上で一つ一つ対処していきます。

「疲れやすい」刺激が少しで良いタイプの人は、「疲れを知らない」刺激がたくさん要るタイプの友達には、「大人数のパーティはどうしても苦手なんだけど、もしよかったら今度2、3人で食事会しない?」などと上手に代替え案を提案しながら自分のペースを守ることが必要になるかもしれません。「あなたと付き合いたくないのではなく、状況が自分に合わない」の思いを伝えるのがコツです。その上で、相手が理解し歩み寄ろうとするか、「パーティピーポーじゃないと付き合いたくない」かは、相手が決める範疇になります。ここでも「友達であるその人」を大事にしたいのか、自分の都合に付き合わせたいだけかが浮き彫りになります。

時代によって移り変わる家族のあり方

冒頭に書いた通り、人間の悩みは人間関係に行きつき、その中でも家族との関わりで人は苦悩します。「切っても切れない」関係性は支えになることも、桎梏になることもあります。

ところで現代のような夫婦二人が核となり、子供は少なくとも高校卒業までは親元にいるという家族の形態は、長い人類の歴史から見ればつい最近のことです。

万葉の時代には妻訪い婚と言って、一夫多妻制の社会では夫婦は別居が当たり前でした。夫がどの妻の元へ今夜行くかは夫が勝手に決め、妻はひたすら待つのみでした。子供が生まれても、必ずしも夫とは同居せず、親と言えば母親のことだったそうです。

夫婦が同居して子供を養い育てるようになったのは、子供が労働力とされたからでしょう。かつては家庭は家事育児の場だけではなく、経済的な生産の場でもあったからです。高度成長期以前は、農家の子供は中学生にもなれば立派な戦力で、田植え稲刈りの農繁期には学校を休ませて手伝わせていました。担任の先生が学業の遅れを心配して、何とか子供を学校に行かせてもらうよう懇願しに家庭訪問していました。お商売をしている家庭では、男の子は高校生になれば単車で配達に廻っていたのも、ほんの半世紀前までは当たり前の光景でした。

子供を労働力と見るか、庇護して養うべき消費者と見るかで、家族の関係性は変わって当然です。

自分の親が共感性が低く、思いやりがないことに悩んでいる人は大変多いのですが、これも「共感性が低い親の方が、子孫を多く残す戦略に有利だった」仮説が成り立ちます。七五三のお祝いは「その年齢まで子供が生き延びること自体が祝うべきこと」、即ち子供の死亡率が高かったためです。また江戸時代では10歳頃、戦前までは12~14歳にもなれば、長男以外の子供は口減らしのために奉公に出され、逃げ帰ると親に折檻されるので耐えるしかありませんでした。奉公に出された時に、親に奉公先から前払いとして給与が渡っていた、事実上の人身売買が行われていました。

子供が亡くなったり、奉公に出すたびに、親が心が引き裂かれるほど嘆き悲しんでいては、その親自身が生き延びて行けません。それよりも子孫を増やすことが社会にとっての優先課題であれば、共感性が低い遺伝子が生存戦略のために受け継がれてきたのかもしれません。

また離婚がタブーでなくなったのも、大きな変化です。男性であっても独身を通すことが珍しくなくなり、大っぴらに陰口を叩かれたり、出世に影響することもなくなりました。冠婚葬祭が簡略化され、家族葬が一般化し、挙式も披露宴も行わない「ナシ婚」が増えています。この30~40年ほどで家族のあり方は急激に変わりました。

親の介護・葬式を言葉は悪いですが業者に丸投げするのも、家族あり方の変化に伴い増えるのが当然ですし、私はそれで構わないと思っています。積年の恨みがどうしても消えない子供よりも、事情を知らない他人の方が、老親に優しくできます。誰も見ていないところで子供が親に暴力を振るったり暴言を吐いたりするよりも、信頼できる業者に任せた方が、お互いの幸福のためでしょう。「自分は親にそうした仕返しをしたくなるかもしれない」その自分をごまかさず、その上で双方の安全と幸福のための最善策を取るのが、「あるがままの自分を大切にして生きる」、別の言い方をすれば自分の限界を認め受け入れながら生きることです。

週刊女性PRIME

「親との縁を断ちたい」「お金を払うから親の後始末をしてほしい」そう言って、約100万円費用がかかるという終活代行サービ…

スーザン・フォワードの「毒になる親」が日本で翻訳出版されたのは1999年です。それから四半世紀たち、毒親という言葉が市民権を得ました。これも社会が成熟して、子供が奉公に出される必要がなくなったからでしょう。時代の要請というべきものです。

「自分の親は実は結構な毒親だったかもしれない」と正直に向き合い、きれいごとでごまかさないことも、「自分を粗末に扱われない」基礎になります。問題解決は常に、「現実と率直に向き合う」ことから始まるからです。

自由な社会ほど迷いも・人間関係選びこそ価値判断基準と限界設定を

社会が成熟するとは、自由な選択肢が増えることでもあります。ですからその分迷いも増えます。「こうするものだ」「こうしておけば安心」がなくなり、全て自己責任で選び取らなくてはなりません。

大人は付き合う人、また職場の人や家族親戚など選べない相手は、付き合い方を選ぶのも責任の内です。自分で決めたことに、他人は無責任な干渉をしてくるかもしれません(「あの人、付き合い悪いわね」)。「人から悪く思われたくない」と、自分で決めたことを蔑ろにして、相手に迎合してしまいます。相手はその心の隙を狙っているのかもしれないのです。

自分が粗末に扱われないためには、自分の決定に責任を持ち、堂々としておくのが基礎の基礎になります。そのことと、相手が残念に感じた、その感情に配慮をするのは別物です。「がっかりさせてごめんなさいね。また今度ね」

「エレガンスとは拒絶すること」ココ・シャネル

エレガンスの語源は「選び取る」というラテン語から来ています。お上品ぶることがエレガンスではありません。「選び取る」ためにはよく勉強し、等身大の自分から眼をそらさず正直に向き合い、刻々と変わる外側の状況をよく見据え擦り合わせる、その繰り返しであり、それは成熟した大人だけが取れる態度です。言い換えれば「何が大事か」の価値判断基準を磨き、限界設定をすることでもあります。限界設定は自分の限界と、相手の限界の両方を見極めることです。

価値判断基準とはのことです。武道の達人は軸がぶれません。敵がどこからかかってきても、相手が「勝手に倒れる」合氣道のようなものです。力でねじ伏せるのではありません。その境地を体得している人に対しては、向こうの方から「あ、これは違うな」になります。そして自分も相手も、被害者にも加害者にもならない、させない、それが双方を守ること、これが武道でも生き方においても、達人の境地だと思います。

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親の世間体大事に苦しむ子供・世間体とは虚栄心であり偽善 https://prado-therapy.com/sekentei-2/ Sun, 18 Feb 2024 23:15:17 +0000 https://prado-therapy.com/?p=7639 「子供である自分を親の世間体の道具にされた」癒されがたい傷

自分の進学や就職、果ては結婚相手まで「親の世間体大事」で決められてしまった人は、「自分の人生を生きられなかった」悔しさが長い歳月を経ても残ることがあります。進学先の学校や、配偶者が仮に良かったとしても「それとこれとは別」の痛みです。自分の自由意志を尊重されず、自分の人生を親のアクセサリーにされてしまった、そこに「親は自分に無償の愛を注いでくれてはいない」癒されがたい悲しみが伴うからです。殊に学校が自分に合わなかった場合は、二度と来ない大事な青春を「親に台無しにされた」恨みが深くなって当然です。

子供の方も「自分の希望が通らなかったこと」そのものに怒りを感じているわけではありません。例えば経済的な理由で望む進路に進めなかった場合は、それを子供が悲しく残念に思いはしても、最終的には寛容に受け入れることが多いです。それも親と子の心の結びつきがあればこそでしょう。

それにしても、「子供である自分を親の世間体の道具にされた」傷は生涯残るものなのかもしれません。仕事のやりがいや、配偶者や子供との団欒、共感できる友人などの他の幸福ではーその痛みが軽くなることはあってもー埋め合わせきれないもののようです。

世間体とは虚栄心と責任転嫁と偽善

「世間体が悪い」という言葉は、恰も「世間」という、本来は実体のないものの被害者であるかのように自分を捉えています。そして「世間体が悪い、だから○○しろ、或いはするな」と子供に脅迫します。このように子供は罪悪感で操作されると、肝心の自尊心を打ち砕かれてしまいます。「そのままの自分で良い」と思えなくなります。

世間体とは実際には、自分の虚栄心、見栄でしかありません。またそれを如何にも実体あるものの被害者であるかのような責任転嫁と、「自分は体裁を整え、ちゃんとしている」と思っておきたい偽善があります。実際には自分の見栄ですから、世の中の人のことなど見ていないし、まして思いやってもいません。

心理セラピーにおいても、クライアント様が延々と「だって世間では」を言っている間は何も変わりません。クライアント様が本氣で「これは大変だ!自分が何とかしないと!」と思っている段階ではありません。誰かや何かのせいにして、結果何もしないということは、本音の本音は「今の状況が続いても構わない」まだまだ余裕がある状態です。人間の本音は行動に現れます。この場合「もっと困ってから来てください」と一旦打ち切りにする判断を下すのが私の責任になります。

「自分は『世間』の被害者」にしておきたい卑怯さと、それが親自身のことに留まらず、選択権がなかった子供の頃に、自分の人生を左右されてしまった悔しさ、そして親の方には良心の痛みなどなく「して当然」位に思っている共感性のなさ等で、二重三重に苦悩が深くなります。

子供の時はよくわからなかったけれど、自分が大人になってから「自分が親の立場であのようなことをするだろうか」と視野が広がればこそ、改めて親への怒りが湧き上がることも往々にしてあります。ただそれは苦しい感情ではあっても、「親にとっての都合の良い子」「言われるがままのお人形さん」のまま、一生を終えるよりもずっと良いのです。その時点からでも自分の人生を取り戻すきっかけにできるからです。

「世間体大事」の弊害は社会全体に及ぶ

このように「世間体大事」は、結局のところ自分の都合であり、「自分が世の中の人から悪く思われたくない」ナルシシズムです。「自分が悪く思われたくないから○○する」は打算です。本来は「他人が氣づこうと氣づくまいと、譬え理解されず非難されても、自分の良心に基づいた信念に沿って○○する、或いはしない」でなくてはなりません。それが自分の人生を生きること、自分の顔を失わないということです。

ダン・ニューハースの「不幸にする親 人生を奪われる子供」で述べられている「常に自分の都合が優先する親」は世間体大事の親と言えるでしょう。このタイプの親は、ナルシシスト的であるとしています。本書で挙げられているナルシシストの特徴の幾つかを以下に引用します。

・自己重要感が異常に大きい。

・自分は特別で人とは違うと思っている。

・人からの称賛を過剰に必要としている。

・人は自分に従うべきだと思ってる。

・人を基本的に「自分にとって有用か、それとも脅威になるか」という見方で見ている。

・自分の責任を受け入れず、人を非難する。

・人から批判されたり拒否されることに過剰に敏感である。

・他人の氣持ちを思いやることができない。

「不幸にする親 人生を奪われる子供」ダン・ニューハース

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親が「世間では」を言わない場面であっても、疑問や反論を許さなかったり、家族以外の人にもマウントを取りたがったり、譬え我が子であっても「利用価値がない、或いは脅威」と捉えると非常に冷淡になったり、他人の尽力の背景を思いやれなかったり、子供が悲しみや不安を訴えても共感してもらえなかったり、幾つか思い当たる節があるかもしれません。

特に「人、即ち子供は自分に従うべきだ」になっていると、子供は反抗期らしい反抗期を送れなくなります。そうすると自我の発達が不十分なまま、大人になっても「No」と言えない、「これはおかしい、間違っている」と表明できない、思考停止して言いなりになるといった弊害を生んでしまいます。

2024年2月現在、もう諸外国ではコロナはとうの昔に過去の出来事になっているのに、私が免許更新に行ったところ、更新センターで働いている人はまだ全員マスク、講習会会場ではアクリル板、「一席空けて座って下さい」のソーシャルディスタンス、4年前から時間が止まったままでした。如何に日本人が思考停止した従順な羊になっているかが、このようなところにも現れています。

親のというよりも日本人の「世間体大事」は、このように社会全体の思考停止、事なかれ主義を生み、根深い禍根を残すのです。

心の底で見抜かれている「私ちゃんとしてマスク」の偽善

ところで「世間体大事」には大きく二つがあります。一つは「本当はそうしたくないと思っていても、他人と違うことをする勇氣がない」同調圧力に屈してしまう場合と、もう一つは世間に向けて「ちゃんとしてますアピール」がしたい虚栄心の場合です。

同調圧力に屈してしまうのは、責任ある大人の態度とは言い難いのですが、それでも「自分の本心はこれだ」という自覚が薄々でもあります。ですのでこの場合は「自分の本心に従うことを、小さなやれそうなところから一歩を踏み出す」成功体験を少しずつ積み、勇氣を養うことが出来ます。自分の心に忠実に生きるには、こうした勇氣を養う地道な習慣がとても大事です。勇氣は持って生まれた性格ではなく、思いやりや客観性同様、後天的にそして生涯育み続けるものです。

「同調圧力に屈してしまう私ってまじヘタレ」と自分をごまかさず、そして「だって」と言い訳せずに今の自分にできるところからやってみる、それが自尊感情を高める道筋です。

一方で「ちゃんとしてますアピール」は、「私ちゃんとしてマスク」の偽善です。マスクに感染予防効果はなく、寧ろ有害無益であり、また子供たちの心身の発育にも有害であることを「知っていても」、「私ちゃんとしてマスク」はやめられません。そうやって歪んだ承認欲求を満たすのは、ホストに狂ってしまった女の子が中々抜け出せなくなるのと根は同じです。

そしてまた人は「私ちゃんとしてマスク」の偽善を、口には出さなくても心の奥底で見抜きます。いつかマスクをしなくなったとしても、別の何かに置き換わるだけということも。

「ちゃんとしてますアピール」は、「一体それは誰のためにやっているのか?」という疑念を、周囲の人の心に引き起こさせるのです。

虚栄心の浅ましさに自分が耐えられない境地

SNSでの自慢も同じことです。以下の記事は2017年8月に投稿したものですが、未だに毎日アクセスがあります。ということは、時間が経ってもSNSでの自慢に辟易する人がいなくならないという証でしょう。

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自尊と虚栄は反比例の関係です。自尊とは、人の評価評判に振り回されない境地です。謙虚に励みにしたり、反省のきっかけにはしても、評価評判自体を目的にはしません。何があっても無くても「自分は自分」に誇りを持っている状態です。

ですから「世間体大事」だけをやめようとしてもやめられません。まして他人が説得しても変わりません。自尊感情を高める終わりのない習慣を身に着けて行く過程で、如何に「世間体大事」が馬鹿らしく虚しいことかを、誰に言われなくても自分が悟り、自ずとやらなくなる、「私ちゃんとしてマスク」の浅ましさに自分が耐えられない、SNSでの自慢は尚更、その境地に達する他ありません。

SNSでの自慢や「私ちゃんとしてマスク」は、些細なことと思われるかもしれません。しかしこうした些細なことから自然とやらないようになっておかないと、今度は自分が親の立場で、子供を世間体大事の道具にしてしまいかねません。子供に「世間の目が氣になるから」とマスクをさせておいて、更に大事な事柄、例えば子供の進路に親の世間体大事のために干渉しない、などはできないのです。

虚栄から自尊へ・自分が「同調圧力が」「人の目が」を言い訳にしない

「だって同調圧力が」を言い訳にしている内は、自分も自分の大事な人も決して守れない、それがはっきりしたのがコロナワクチンの薬害です。「だって同調圧力が」の言い訳は楽です。しかしそれは、自分にも他人にも愛のない行為であり、個々人の苦しみのみならず、国家の危機をも引き起こしてしまいます。同調圧力に屈さない胆力、勇氣を養わなければ、私たちはそのつもりがなくても愛のない人間に成ってしまい、そしてまたそれに心の痛みすら感じません。

虚栄心は良心の呵責を伴いません。「同調圧力が」「人の目が」を言い訳にするのも、尤もらしく聞こえます。しかしそのことが、人の一生に癒えがたい傷を残してしまいます。そのご相談は絶えてなくなりません。だからこそ、その反対の自尊感情豊かに生きることを、それこそ誰に知られなくてもやり抜かなくてはならない、それが品位と良識のある大人の責務だと私は考えています。

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【境界線と自分】自分に「ごめんなさい」こそ「No」を言う力に https://prado-therapy.com/sorry-for-myself/ Thu, 15 Feb 2024 22:35:38 +0000 https://prado-therapy.com/?p=7615 自分を「悪いもの」に晒し続ける私たち

自分を真の意味で大切にするには、終わりのない勉強と、自分の頭で考え取捨選択し続けること、そして選択したことに対して自負と責任を持つ態度が不可欠です。この自負と責任があればこそ、私たちは失敗から学ぼうとし、自分だけの氣づき、そして生きた知恵を得られます。

「自分で考えて決めるのは面倒。誰か私に『正解』を教えて下さい。それに従っておけば私は非難されないんです!」・・こうした態度を責任逃れの怠惰と言います。

本来は退けるべきもの(感染対策にはならず、寿命を縮めるだけのマスクをし続けるなど)であっても、同調圧力に負け、大多数の人に合わせるのは自分を見失っているからです。それにもまして、「私ちゃんとしています!」アピールの世間体大事は、「誰のためにそれをやっているのか?」の偽善と欺瞞を人は心の底で感じ取ります。同じ世間体大事であっても、その動機は微妙に異なっています。そしてその動機の積み重ねが、その人の人格を形成します。

民衆というものは、しばしば表面上の利益に幻惑されて、自分たちの破滅に繋がることさえ、望むものだ。

マキャベリ「政略論」

これは16世紀のイタリア人だけではなく、21世紀の日本人にもそのまま当てはまります。私たちは様々な言い訳や時には思考停止をしながら、「自分たちの破滅に繋がること」を自ら望みます。言葉を変えれば「悪いものに自分を晒し続ける」のです。大人の場合、これに「No」を言ってその場から立ち去るのは自分にしかできません。

そしてまた、「悪いものに自分を晒し続けた」その自分への悔悟がなければ、形を変えて人は同じことを繰り返してしまいます。

オーストリア在住の著述家・陶芸家の佐藤シューちひろさんが、Facebookに大変示唆深い投稿をされてたので引用します。佐藤さんはかつて、ハワイのホ・オポノポノを実践していました。ホ・オポノポノとは「ありがとう」「ごめんなさい」「愛してます」「許してください」の4つの言葉を自分に語り掛けて浄化する、というものです。

10年くらい前のことだけれど、「ありがとう」が害になって、「ごめんなさい」が決定的に効いた経験をしたことがある。あのとき私は、熊野の縄文の森で陶芸製作の仕事をしていて、近くに国道沿いのコンビニしかなかったので、そこでお弁当を買って食べていた。そんなものは食べたくはなかったけれど、他になかったからしようがないし、それだって「ありがとう」と言って食べれば、浄化されるはずだと思っていた。そうやって、いつも「ありがとう」と言って食べていたのだけれど、やはり少しもおいしくないことには変わりがなかったし、気分もよくはなかった。

それであるとき、いつものように「ありがとう」と言って食べようとしたとき、「ありがとう」という言葉が出る代わりに、涙が出た。そして、ありがとうの代わりに、「ごめんなさい」と言って泣いていた。野菜も魚も動物も、人間がこんなに薬まみれにして、毒のような食べ物を作り出してしまったのだ。植物にも動物にも申し訳がないという思いがこみ上げた。そして、そんなものを無理に食べている自分もかわいそうになった。本来ならば、受け入れるべきではないことを、無理に受け入れようとしていたのだということに気がついた。こんなことは、自然に対しても、自分に対しても、ゆるすべきではなかったのだということに。

【ごめんなさいは解放になるのか?】...…

本当は「ありがたい」と思っていないのに、「こんなものは嫌だ。受け入れるべきではない」と本音では思っているのに、無理に「ありがとう」と言い聞かせて「悪いものに自分を晒す」のは自己虐待です。

そしてこれも、他人が外側から「こんな添加物まみれのコンビニ弁当なんて、毒を食べてるのと一緒だ。自分にすまないと思わないの?」とお説教しても効きません。お弁当以外の事柄においても「自分を悪いものに晒すのはもうごめんだ。そんなことはしてはならない」と思えて初めて、そのお弁当を前にして「涙が出た」のです。

例えば人間関係において、恐怖や「関係性を失ったら辛い」孤独感から、自分を蔑ろにする相手に自分を晒し続け、そこから出ようとする決意をせずに、コンビニ弁当を食べる自分にだけ「ごめんなさい」と言うことはできないのです。

自分に「良いもの」を許可しないとやって来ない

佐藤さんは続けてこう述べています。

ところで、そのときから、確かに何かが変わったのだ。いつもコンビニのパンとかおにぎりとかを差し入れてくれる和尚さんに、「コンビニのものは、健康にあまりよくないそうですよ」とそれとなく言うことができた。すると和尚は、おにぎり屋さんのおにぎりとかを差し入れてくれるようになった。それと同時に、地元の人が、庭で採れた無農薬の野菜とかお米とかをくれるようになった。嫌なのに受け入れていたのを、やはり受け入れるべきではない、と潜在意識と顕在意識とが同時に思えたときに、別な現実を作り出し始めたのだ。

これも頭の理屈だけで「コンビニのものは、健康にあまりよくないそうですよ」と和尚さんに言っても変わらなかったでしょう。自分の心が「悪いもの」を許可していれば、その「悪いもの」からすれば「だってあんたが来ていいよって言ってるじゃん」になります。

境界線は「良いものは内へ、悪いものは外へ」のためにあります。そんなことは当たり前と思っていても、私たちは本当にしばしば「悪いもの」を入れるのを自ら許可し、「良いもの」を拒みます。上記の裏返しで「良いもの」の立場からすれば、「私を受け入れてないから行くに行けない」になって当然です。

佐藤さんは「良いものは内へ、悪いものは外へ」の境界線を明瞭にすればこそ、和尚さんや地元の人がおにぎりや野菜を差し入れてくれるようになったのです。

自分にダメ出しは自分を蹴り飛ばし「悪いもの」に晒し続けること

佐藤さんが自分に「ごめんなさい」と言って泣いていたのと、自分にダメ出しは全く似て非なることです。自分にダメ出しを、恰も自分に厳しい態度と取り違えていることが往々にしてありますが、それは全くの間違いで、「自分で自分を悪いものに晒す。晒すどころか蹴り飛ばして悪いものの中に突っ込む」自己虐待の極みです。「お前こんなヘマしやがって。俺の顔をよくも潰しやがったな」のヤクザの言いがかりを自分にやってしまっています。

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人からほめられると「そんなことはありません!!」と否定する「自分へのダメ出し」 人から何かをほめられると 「ありがとうございます、光栄です。励みになります」ではなく、また照れ隠しで「いやそんな・・」と口では言っても、表情では嬉しがっ[…]

個別の判断選択や、態度、スキルに対して、「あんなこと言ったりしたりするんじゃなかった」と良心による心の痛みを経験し、或いは「あれで良かったかな。もっとこうした方が良かったかな」と検証し、「次はこうしてみよう」と自分を励ますのと、「俺の顔を潰しやがって」のヤクザの言いがかりは別物です。

子供の頃の虐待は自己否定感の要因に

ところで子供の頃、身体的、心理的虐待を受けて育った人の中には、虐待者(主に親)からの「俺の顔を潰しやがって」を自分自身の声と取り違えてしまっていることがよくあります。自我の発達段階、自分と他人の区別が未だ不明瞭な時期、「自分を大切に扱われない⇒自分は価値がない」と刷り込まれてしまうのも無理はありません。

大人であってもそうした環境に事実上監禁されて、虐待的な扱いをされると同じことは起きてしまいます。だからこそ大人は、まずは「君子危うきに近寄らず」、そして早い段階でその場から去る、すぐにどうにもできない場合は「それ、危ないよ」と言ってくれる友人に協力を仰ぐ等の手立てが大変重要です。どんな人でも、長期間精神的に圧迫され、かつ孤立していると、正常な判断力を失ってしまうからです。

虐待におけるもう一つの傷は、自分は何もかも悪い、間違っている、汚い、恥ずかしいという意識が深く浸透していることです。(略)彼らは自分のものではない悪を受け入れます。自分たちが扱われたやり方こそ自分にふさわしい扱われ方だったのだと信じ始めます。悪いとか邪悪だとか何度となく言われてきたために、それは真実に違いないと思っている被害者が大勢いるのです。

言葉で直接言われなくても、無視されたり、悲しみや不安を訴えた時に、大した理由もなく邪険にされたりすれば同じことです。明確な暴言でなくても、声のトーンや表情で圧迫する、下着や靴下が破れていても素知らぬ顔をして取り換えないなど、常態化していて虐待者本人は全く自覚がないことも多く、また子供は他の家庭を知らないので「それが当たり前」と思い込んでしまいます。

子供の頃にされたことに対して、道義的責任は自分にはありません。しかし虐待者が自分にしてきたことを、誰でもなく自分自身が自分に、もしかすると他人に繰り返していたり、或いは例えば配偶者に虐待される環境に自分が身を置いていないかと氣づき立ち止まり、そして自分を悪に晒すのを止められるのはー他者からの支援は必須で、一人で抱え込んではいけませんがー自分だけなのです。本人の氣づきがなければ洗脳は解けません。

「愛のない悪いもの」に自分を晒して「だって」と言い訳する方が楽

虐待的な行為に怒り、それを言葉にして表明するのは、境界線を育てる第一歩です。全ての感情を大事にする意義もここにあります。上記の通り「それが自分にとってふさわしい扱われ方だ」と受け入れてしまえば、永久的に続いてしまうからです。

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しかしそれはあくまでも第一歩であり、必要条件であっても十分条件ではありません。

心理セラピーにおいても、怒りや不満を吐き出しながら、境界線を育てて強くなっていくクライアント様と、「自分の何かを変える氣はない。だから同じことが一生でも続く」クライアント様に大別できます。後者は、いずれかのタイミングで打ち切りにならざるを得ません。

見出しの通り、自分の何かを変える面倒な努力をするくらいなら、「『愛のない悪いもの』に自分を晒して『だって』と言い訳する方が人は楽」なのです。しかしそれは、本氣で自分に「ごめんなさい」と泣いて謝ってはいません。結局は自分も虐待の共犯者になっています。そうした安易な、卑怯な態度を情けないと思い、「そんな自分に耐えられない。そんなことで一生が終わるのが虚しい」と思えるかどうかも、その人自身にかかっています。

受け入れてしまった自分への悔悟が、やがて他人の境界線を尊重する土台に

話を佐藤さんの体験に戻しますが、コンビニ弁当は一つのシンボルに過ぎません。

日本は諸外国と比較して二けたも多い食品添加物が使われていますが、こうしたことも私たちが「No」を言わず、受け入れてしまえば「だってあんたがそれ食べてるじゃん」になってしまいます。買い物は投票と言われます。デモをしたり、抗議の電話を掛けたりしなくても、私たち消費者が勉強して賢くなり、他を少々節約したり、コンビニができる以前の生活のように「自分でおにぎりを作る」手間をかけるなどして、「本当に体に良いもの」だけを受け入れて行けば、自ずと淘汰される筈なのです。

自分を損なうもの、蔑ろにする行為を受け入れてはいけませんが、その時の立場や状況によっては、「何も言わずに受け流す」がベストの選択になることもあります。いつもいつも「やめて下さい」と言えるばかりではありません。ただそう言えない時であっても、「自分が受け入れない」と心に決めることはできます。

「本来受け入れてはいけないことを、受け入れてしまった」その経験がない人はいないでしょう。「それは自分がやってはいけないことだったのだ」「そんなことを許してしまって、自分に『ごめんなさい』」・・「良いものは内へ、悪いものは外へ」の深い意義が腑落ちすると、「No」を言うことに罪悪感や恐れを持たず、また他人が「No」と言っても、それを残念には思っても自分を否定されたようには取らず、まして拗ねたり逆切れしたりせず、その人が「悪いものに自分を晒さない」態度に共感し、励ますようになるでしょう。

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【親を許せない貴方へ】自分の心が壊れないための7ステップ https://prado-therapy.com/keep-heart-from-breaking/ Mon, 12 Feb 2024 03:09:20 +0000 https://prado-therapy.com/?p=7593 「親を許す」よりも大事な「自分の心が壊れない」こと

ごく普通の良識ある人なら、好き好んで人を許したくないわけではありません。まして自分の親なら尚更です。許さない方がストレスがかかるからです。しかしそれでもなお、「許せない」もしくは「安易に許すべきではない。『許したつもり』になっている方が危ない」こともやはりあります。

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長い長い間の見て見ぬふり、我慢、時には「私の方が悪いのかな?」と自分を責めてみたりしたでしょう。「もしかしたらわかってくれたかも。反省して私を思いやろうとしてくれるかも」という儚い望みを何度も打ち砕かれて、今に至っていることでしょう。

許しがたい親を許す/許せないよりもずっと大事なことは、自分の心が壊れないことです。自分の心が壊れてしまって、何も良いことは起こりません。結果的に体の健康を害することさえ起きかねません。そしてまた、心も体も、自分しかそれを守り、傷ついた時に修復できる人はいません。他人は傷ついた人を孤独にせず、優しく見守る環境づくりができるだけなのです。

私たちの置かれている状況は千差万別であり、また流動的です。ですので予め決まった個別具体的な正解はありません。しかし「自分の心が壊れない」ことを最優先すると、その時その時に何を判断選択するかの指針になるでしょう。

以下は「親を許せない」人が、如何に「自分の心が壊れない」ことを最優先して生活を立て直すための指針を、7つのステップとして整理したものです。

①「二度と心を抉られない」環境をまず確保

相手が肉親であっても無くてもですが、まず「二度と心を抉られない」環境を確保します。同居していたり、或いは同族会社などで否が応でも顔を合わせざるを得ないこともあるでしょう。その場合も「心を抉られることを自分に許さない。(仮に自分に反省するべき点があったとしても、それは心を抉ってよい理由にはなりません。そのことと「聴くべき耳の痛いことに耳を塞ぐ」とは区別をつけます)」決意が第一歩となります。

但し自尊感情が低いと、意外とこれが難しいのです。「自分は蔑ろにされても当たり前。自分はその程度にしか価値がない」と無意識に刷り込まれ、無意識はそれを実現しようとするからです。特に親に抗うことに罪悪感を持ってしまう、いい子で育ってきた人ほど要注意です。

その場合は「これが今後も続いたらどうなるか」の結果予測をします。1年後、3年後、5年後、10年後、20年後と具体的に時間を延ばしてシュミレーションした時に、何を感じ思うかです。また家庭を持っている人は「自分の親の問題が、配偶者や子供にどんな影響を与えるか」を考えてみます。

「今だけのことじゃない」「自分のことだけで済まない」と視野を広げられると「問題視するべきことを問題視する」スタートラインに立てるでしょう。どんなことでも、自分がそれを問題だと心から思わなければ、人は自ら変化を起こそうとしません。

そしてできるだけ「心を抉られない」具体的な手段を取っていきます。親と別居していれば連絡をしない、電話に出ない、電話に出ざるを得ない時は事務的な用件だけ、嘘も方便で「電話を切り上げるための幾つかの口実(仕事を持ち帰っている。食事や入浴や家事がまだ済んでいない。明日は早出でもう寝ないといけない。等々)」を予め用意する、などです。

そのことで親は貴方の悪口を言うでしょう。「自分の思い通りにならないこと」に反応的にストレスを感じる、その幼児性のためです。「言いたい人には言わせておく」心づもりがないと、自分の心を守ることは難しくなります。

②怒りや憎しみは「自分を守るレーダー」

「許せない」思いは怒りや憎しみ、時に恨みや呪いとして感じられ、表現されます。この感情をまず否定しないことが大変重要です。何故なら、こうした不快な感情は、私たちを守るレーダーの役割を担うからです。周囲に迎合し、ひたすら「合わせ、従う」ことが習慣に成ってしまうと、悪いことをされても氣づくことすらできず、されるがままになりかねません。

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嫌悪や怒りを感じず、表現しない野生動物は死にます。嫌悪や怒りを表現しない動物は、調教された家畜です。私たちも教育や躾と称されて、本能を封じ込めるための調教を受けてきたのかもしれないのです。その調教に「No」を言うことこそが、「自分の心が壊れない」ための大原則になります。

理不尽なことを言われたりされたりしても、怒りを感じる前に、自分の本音を「黙って飲み込んでしまう」癖がついていないでしょうか。赤ちゃんの時からそんなことをする子供はいません。生育段階のどこかで、そうする癖がついてしまったからこそ、大人になった今、見て見ぬふりをして溜め込んできた怒りが爆発しようとしているのかもしれません。そしてそれは、生き延びるための本能が死んではいなかった証です。

大人である私たちは、自分の怒りや嫌悪が、自己中心性のためだったり、「自分はちゃんとやれてるつもり」のナルシシズムを打ち砕かれて拗ねていないかの客観視は必要です。「自分の思い通りにならないと、面白くないから怒り出す」親と同じことを自分もしていては意味がありません。

様々な感情は私たちに自分が何を良しとし、何を悪いとしているかを教えてくれます。全てにおいて「怒るのは悪い、ダメ」なのではなく、「私は何に対して嫌悪し、怒っているのか」とその都度自分に質問します。そしてそれが良心や品位からくるものだと確認できると、自分を守るレーダーがより研ぎ澄まされていきます。

自分ではよくわからない場合は、「(実際に子供がいてもいなくても)我が子に同じ相談を受けたら、どう答えるか」をシュミレーションするとわかりやすいでしょう。つまり、自分の心を守るとは、自分の脳の中に「良識と思いやりのある『お母さん』的な存在」を育てることでもあるのです。

③「改心と謝罪」が上限の望みとするなら下限の望みとは

自分を傷つけた相手に、改心と謝罪を求めたくなるのはごく普通の人情です。もし、そうしてもらえれば、自分のトラウマが癒され、心の重荷が軽くなるからです。しかし親が後悔や反省めいたことを口にしてもその時限りで、真剣に自分の心のあり方を変えようとはしなかったでしょう。寧ろ歳を取れば取るほど、脳の前頭連合野が担う自制心が効かなくなり、「より巧妙な心の抉り方」の方を学習してしまったケースの方が多いでしょう。

巧妙に心を抉り、支配欲が満たされると、脳に快感物質が分泌され依存症と同じになります。更にその快感が「欲しくなる」のです。その歯止めになるのは「人の痛みを自分の痛みのように感じる」共感性です。しかしそもそも共感性が乏しい親ほど自ら「支配欲を満たして快感を得る」ループに嵌り込みます。

改心と謝罪を求めたくなる氣持ち自体を否定しようとすると無理が生じます。ですので、それが上限の望みとするなら、現実的な下限の望みを考えてみます。

「自分の心が抉られず、心身の健康が維持できること」を下限のラインとします。そして抽象的な「悩まされたくない」だけではなく、それは今の自分の日常生活において、どのような事が実現されれば良いのか具体的に落とし込んでいきます。

④親が自分にしたことは他の人にもしている・観察という客観視

他人を許せないことがあったとしても、余程のことでない限り、その人と関わらなくなれば時間の経過とともに忘れることが大半でしょう。それはその人の人格と、自分自身との間に距離があるからです。平たく言えば「あの人、そういう人」「残念な人ね」と思えれば、それは分離が進んでいる状態です。その人の態度や振る舞いを良しとは思わず、その時は不愉快になったとしても、いつまでも影響を受けて振り回されてはいません。

親に対しても「あの人、そういう人」「我が親ながら情けないけれど、もう残念過ぎる。ただ私の問題ではない」と切り離して考えられるために、視野を広げて観察してみます。本来は不要だった「私が悪かったのかな」の自己否定感を和らげるためです。

よくよく考えれば当然ですが、我が子に理不尽な、思いやりのない態度を取る親は、大なり小なり他人にも同じことをしています。打算的な外面の良さはあるかもしれません。しかし、いざトラブルが発生したら逃げ出す、面白くないことは人のせいにして問題解決をしようとしない、「自分の支配下にある」相手にはやはり巧妙に心を抉ってくることを、他人や他の家族にも必ずやっています。自分の子供を支配する親が、別の誰かには慈悲深く高潔だということはありません。

⑤「本当はずっと前からわかっていた」本能が教えてくれていたこと

ある女性がこんな話をしてくれました。「私は本当は高校生の頃には、親を信頼しなくなっていた。特段暴言や暴力もなく、父がお金を使いこんだり仕事をすぐに辞めてしまったりもなく、塾に通わせ、大学にも行かせてくれた。しかし、私が不安や悲しみを訴えると、決まって『甘えてる』『被害者意識が強すぎる』『後ろ向きだ』と裁かれ、『一体どうしたの?』と話を聴こうとはしなかった。

高校生になって、幼い頃から積もり積もった悲しみが頂点に達し、私は親に一切相談をしなくなった。進学も就職も、決めたことを報告するだけだった。親は私が心配かけまいとして何も言わないと思い込んでいたようだったが、本当は信頼していなかったからだ。だが『本当は信頼していない』を長い間認めるのが怖かった。親と自分の関係が、そこで終わってしまうからだ

彼女は本能では、ずっと前からわかっていたのです。

実は本能は、ずっと前から氣づき、教えてくれていた。そのことに正直になるにも勇氣が要り、いつでも誰でもやれることではありません。

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その後その女性は「親を『自分を愛してくれる筈の存在』ではなく、『困ったクレーマー』のように思えるようになった」と話してくれました。「愛してくれる筈」なのに、本音では「信頼していない」。だからこそ自分の中に一貫性がなくなり、潜在意識が混乱していました。「困ったクレーマー」であれば信頼しないのは当たり前です。このように、自分の心に一貫性を持たせることが、「心が壊れない」ための原則になります。

⑥「見切りをつけるのは悪いことではない」「魂は穢さなかった」

他人に対してよりも、親に対して「わかってほしい」氣持ちが強いからこそ、葛藤懊悩が深くなります。「わかってほしい」は「わかってもらえるんじゃないか」という期待があればこそです。

誰に対しても「この人、言っても無駄」と見切りをつければ、人はそれ以上腹を立てません。

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幼い頃の子供は、親を理想化し、絶対化して考えがちです。素直で人を疑わない子供ほどそうなるでしょう。また情に厚い人ほど「見切りをつける」ことに罪悪感を持ってしまっているかもしれません。

NetFrixのドラマ「舞妓さんちのまかないさん」で、主人公の舞妓見習中の女の子が、屋形のお母さんに「残念やけど、あんたは舞妓ちゃんには向いてへんわ」と諭されるシーンがあります。一緒に修行をし、「100年に一人の逸材」と期待されている彼女の親友は、彼女が舞妓を諦めるのを悔しがります。しかし、屋形のお母さんの娘がその親友に「あんたの隣でずっと怒られ続ける方が残酷だ」と、また違う視点で説得します。

その後主人公は屋形のまかないに才能を発揮し、屋形の人々に愛されます。

2023年1月12日(木)より全世界独占配信。是枝裕和監督(『そして父になる』、『万引き家族』)が総合演出を務めた全9話…

このように「見切りをつける」=「残酷、冷たい」とは限りません。

能力や才能ではなく、心のあり方については「そうは言っても」と思いたくなるものでしょう。残っている怒りはその都度感じ切り、燃やし尽くし、灰にして、熾火となって残さないようにしましょう。

一方で「見切りをつけるのは悪いことばかりではない」と思えると、分離が進み、結果自分の心が壊れなくなります。

また「完全に支配され切ったわけでもない」「やられっぱなしでもなかった」と自己承認するのも大切です。この自己承認が分離のための原動力になります。人間には体・心・そして魂があります。体や心には悪影響が出たかもしれません。しかし魂は穢していなければ「そう支配されっぱなしでもなかった」と自己承認できるでしょう。

能力や社会的地位で承認しようとすると、人と比較したり、「本当ならもっとできた筈なのに!」と恨みが出ても不思議ではありません。しかし魂のあり方は、人と比べるものではなく、自分だけがわかるものです。そして私たちの死後、あの世に持っていけるのは、一生を掛けて磨いた、或いは曇らせてしまった魂だけです。

⑦親の支配欲は変わらない・支配/依存の渦から出て、断ち切る

親に限ったことではありませんが、支配欲に取りつかれた人は変わりません。人の世は複雑で「支配されておきたい⇒依存しておきたい」人は後を絶たず、共依存関係が死ぬまで続く夫婦、親子関係は珍しくありません。ごく普通の常識的な社会人に「見えても」、一皮むけば家庭の中は根深く癒着している例を、ある程度の年齢以上の人なら直接間接問わず見聞きしているでしょう。

この共依存の渦から出るためには、本人の自立がまず必須です。しかし自立は責任を持つことと同義であり、人は「責任を負いたくがないために、自分から責任、その裏返しの自由を差し出し、奴隷になる」のです。

また人は私を含め、困った相手に「あんたそれいつまでやってるんだ。いい加減にしろ」と言ってやりたい氣持ちを、中々捨てられません。正義感が強く、自律心がある人ほどそうしたものでしょう。それが奏功するかどうかは別として、そうした人が世の中からいなくなってしまうのもまた歪なものです。

許せない氣持ちを無理やり消そう、否定しようとすると、それは傷ついた自分をネグレクトすることにもなりかねません。傷ついた自分と「共に」、親の支配/依存の渦から出て、後ろを振り返らずに断ち切る、とイメージできると過去の自分を否定はせずに前を向けるかもしれません。

「縁なき衆生は度し難し(救いがたい)」「天は自ら助くる者を助く」「馬鹿はほっときゃ自滅する」「馬鹿は死ぬまで治らない」・・誰しも何度も聞いたことがある言葉でしょう。「あんたそれいつまでやってるんだ。いい加減にしろ」は、神仏でさえ救えない愚か者を、「助けてやろう」とするこちらの思い上がりかもしれないのです。

旧約聖書の創世記に「ロトの妻」の逸話があります。堕落したソドムの町を滅ぼそうとした神は、ロトと妻、二人の娘に「後ろを振り返らずに命がけで逃れよ」と命じます。しかしロトの妻は後ろを振り返ってしまったので、塩の柱に成ってしまいました。

堕落し、改心しようとしない存在は、私たちが手を汚し品位を下げてまで復讐する必要はなく、自滅します。その行く末を「見届けないと氣が済まない」と、ロトの妻のように後ろを振り返りたくなる、しかしそれでは前を向けません。

前を向くのは、自分のためだけではありません。新たな責任に目覚め、残りの人生の時間とエネルギーを、より価値のあるもののために注ぐことを神は望まれている、私たちはその呼びかけに応える必要がある、ロトの妻の逸話はそうしたメッセージであるかのようです。

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「こんな人だと思わなかった!」原因2つと人間関係のリスク分散 https://prado-therapy.com/konnahitodato/ Tue, 06 Feb 2024 22:17:28 +0000 https://prado-therapy.com/?p=7453 失望の原因は無意識の内に持つ相手への期待

誰しも「まさかこの人、こんな人だと思わなかった!」と驚き、時に失望した経験があることでしょう。寝食を共にしている夫婦でさえ、結婚後10年20年経ってもそう思うことは起きます。

「こんな人だと思わなかった」の中身は自分の期待です。そして期待は無意識の内に持つものなので、期待とは違った事態に直面した時に、その中身が露わになります。

そして人は自分が動くのが面倒なため、「私が失望しなくて済むように、私の期待通りになるように、あなたが変わって」をやりたくなってしまいます。ですから立場を変えれば「あなたに勝手に期待されて、私がその通りにしなかったら勝手にがっかりされても困るわ」になります。

譬えその時限りの「ごめんなさい。氣をつけます」になったとしても、行動を改めてもらうためのお願い、注意、時には叱責が、やはりその人のためにも必要な場合と、その人の信念や人格的なことで「言ったところでどうにもならない」場合と、大きく二通りに別れるでしょう。これもすっぱりと分けられるものではなく、重なり合う部分も生じます。

今回は「いつの間にか持ってしまう相手への期待」の二つの原因と、それを踏まえた人間関係の距離感について取り上げます。

原因①「相手が自分にとって一番良かった時」を基準に考えてしまう

どんな人でも「相手が自分にとって一番良かった時」を基準に考えてしまうので、付き合いが長い人ほど「こんな筈じゃなかった」になりやすいです。他のご老人には「歳を取ったらまあこんなもの」と受け入れられても、自分の老親には中々そう思えず、ついイライラしてしまうのは「若くてしっかりしていて、自分よりも賢く元氣だった頃」の親を基準に考えてしまうからです。これは免れがたい人情なので、家庭の事情は様々とは言え「介護はできるだけプロに任せた方が良い」理由の一つにもなります。

また成人後、別々に暮らしているきょうだいに対して、何かの折に「こんな兄(姉・弟・妹)じゃなかったのに」と思うのも、幼かった頃に無邪氣に遊んだ懐かしい思い出があると、それを基準に「こんなはずじゃなかった」が湧き上がってきます。普段接する機会が少ないと、尚更「昔の良かった頃の記憶」を基準に考えがちです。

特に家族・肉親、恋人など「失ったら自分が非常に孤独になる」相手や、「かつて自分に良くしてくれた人」ほど、「相手を失いたくない⇒相手は自分にとって不可欠な存在⇒何故ならあんなに良い関係だったから」というロジックで脳に保管されます。恋人同士の別れ話が揉めるのも、このロジックが強固かつ意識出来ていないからだと思われます。

この人間の心理をよくよくわかっているのが詐欺師やナンパ師、また昨今問題視されているホストです。ごく普通の社会人であっても、「天使の仮面をかぶった偽善者」はどこにでもいます。一目見て横柄で嫌な人、というのは、その時は困りますが実はそう怖くありません。最初からこちらが用心するからです。

これは誰にでも起きることなので、知った上で「今現在のその人を見る」「人は『天使の仮面』に騙されるもの」という心がけが、正しい判断の助けとなります。

原因②過度な一般化「○○だから※※だろう」

付き合いが余りない人であっても、こちらの無数の思い込みで「こんなはずじゃなかった」はしばしば起こります。「この人は○○だから※※だろう」という過度な一般化です。

「看護師さんは白衣の天使」

「獣医さんは心が優しいに違いない」

「母親だったら我が身に代えても我が子を守ろうとする筈」

「日本人ならこんな子供だましの詐欺、説明すればわかる筈」

「心理関係者なら目先の我が身可愛さより、日本の未来を担う子供を優先する筈」

実際には看護師さんでも獣医さんでも、優しい人もいればそうでない人もいるでしょう。育児放棄する母親、我が子の健全な発育より、世間体大事の親は昔から少なくないですし、詐欺のからくりについて説明したところで「その場は頷きはしても、そもそも最初から聞く氣はない」人が大多数だったのが、残念ながら令和の日本人でした。勿論「自分が先生と呼ばれて人からちやほやされたい。反ワクと思われるなどもってのほか」の、目先の自己保身に走った心理関係者はごまんといます。

また人は、つい自分を基準に物事を推し量ります。知能などの能力の差は受け入れていたとしても、責任感、自発性、正義感、勇氣、思いやり、行動力などの人間性については「まさかここまでひどくはないだろう」の正常化バイアスは中々氣づきにくく、それを克服するのは右から左には行きません。だからこそ失望もまた深くなります。

これらも失望するごとに、自分の思い込みを正していかないとどうにもなりません。そしてここでも失望に耐える力を自分が養っておかないと、「あの人のことだから、きっと何か事情があるに違いない」などときれいごとで覆い隠し、自分から見て見ぬふりを続けてしまいます。

危機の時に現れるその人の本性

予め危機を望む人はいません。しかし危機は悪い事ばかりではなく、その人の本性が否が応でも剥き出しになります。天使の仮面が剥ぎ取られます。例えば職場で、普段は良い事ばかり言っていても、面倒なお客さんが来ると雲隠れする上司などが典型です。普段は「いい人」で通っていた人が、誰かが体調不良等で辛い思いをしていても全く無関心だったり、逆に意外な人が身を挺して助けようとしてくれたり、その人の地金が現れます。

「まさかこんな人だと思わなかった!」は、ショックな出来事ではありますが、自分が揺さぶられ、意識が攪拌される、あたかも台風が海底から海水を大きくかき混ぜるようなことです。葛藤とはこうしたことです。波風立たないのは傷つきませんが、長い間の見て見ぬふりは澱みを生み、いつの間にか水が腐ってしまいます。

その時は見たくない、触りたくない澱みが水面上に浮かび上がってきても、勇氣を出してその澱みを取り除けば、きれいな水に生まれ変わります。危機がその人の本性を剥ぎ取り、現し、「こんな人だと思わなかった!」とショックを受けるのは、私たちの人間関係を見直すためにやってくるとも言えるでしょう。

「ここは譲れない」を相手が犯していないか・判断保留と観察

但し水の澱みは取り除けますが、人間関係における澱みは網で濾して捨てることはできません。その中身をよく精査し、それを知った上でどう距離を取るのかを一回一回自分が決める必要があります。

人間関係においては「6~8割共感でき、受け入れられればOK。後の2~4割は片目をつぶる」などとよく言われます。単純に「8割共感できればOK」とするよりも、受け入れがたいポイントについて、時間を掛けて熟慮することをお勧めします。「まあ、人間だし、そんなこともあるよ」「経験がない人には中々わからないと思うよ」とある程度「お互い様だよね」と許容できることか、「これは許容するべきではない」のかの見極めです。「これは許容すべきでない。譲れない」が、その人の輪郭そのもの、その人が何者であるかの現れです。八方美人は自分で自分の顔を失います。

すぐにはわからず、自分でも迷うことも多いでしょう。ですので判断を保留しつつ観察します。これは意識しないと中々やりません。白か黒かで決めつける方が脳は楽だからですし、また観察は意識的になることそのものです。

例えば「コロナの嘘とワクチンの危険性を知っていて黙っていた心理関係者」を私は許しがたく思っているのですが、その中でも「最初から情報を取るだけ取って、自分は知らんぷりを決め込む」のと、「発言する勇氣が中々出せず、また何をどう伝えれば良いのかわからず葛藤していた」のは異なります。後者であれば今後も長い目で見ますが、前者はとても受け入れられないと一つ一つ腑分けしていきます。最初から最後まで卑怯な態度と、勇氣を出せずに葛藤していたのは違う、ということです。また相手がどちらのタイプかも、直接訊けることではないので、時間を掛けて観察します。

「これは譲れない、許容できない」ポイントがわかった後は、その人とどの程度付き合うかを決めて行きます。これは関係性、自分とその人以外に関係する人(独身者の恋人同士と、子供がいる夫婦では状況が違います)、それまでのいきさつ等で千差万別です。

しかし何であれ、「自分の心が壊れない」ことを最優先して頂ければと強く思います。自分の心が壊れてしまっては何もならないからです。

一人の人に負わさない・人間関係にもリスク分散を

ところで、今はSNSで多くの人が自分の活動や意見、信念を発信し、私も参考にし、学ばせてもらってます。ネット以前の社会では、何かを発信するにはマスコミに取り上げてもらうか、ビラ配りや街頭演説などいずれにしても中々ハードルが高いものでした。

当然の成り行きですが、SNS上の人氣がある人ほど、周囲の期待もまた増えます。そしてその人が期待通りに振舞わないと、ファンであればあるほど苦言を呈するのもよく見かけます。直に接していないからこそ、多面的にその人を捉えず、自分の都合の良い理想像をいつの間にか作り上げてしまっているのかもしれません。恰も「女優さんはトイレに行ったり、鼻をかんだりしない」と思い込んでいるようなものです。

どんなに優秀で、人目を引く人であっても、私たちと同じ生身の人間です。一人の人に期待を負わせすぎないことも、その人を大事にする一環だと思います。投資ではリスクを分散することが大鉄則です。一つの銘柄に全財産を突っ込むのは自殺行為です。人間関係も、同じ考えを応用し、一人の人に負わせすぎない心構えが、結果的に相手も自分も守るでしょう。

自分の変化と共に人間関係も自ずから変わります。「ああ、この人、私をわかってくれる!とうとう見つけた!」とその時は思っても、現実にはいつまでも同じ思いができるわけではありません。人間関係も新陳代謝があって当然との前提に立ち、「うーん、ここは違うかな・・」という面を相手が見せても、余程のことでない限り議論にしたり余計なおせっかいは焼いたりせず、「人間だし、そんなこともあるよ」と許容できる友人が3人以上いれば充分なのでは、と個人的には思います。

それくらいの余白を持った心のあり方が、良い意味のゆとりを生み、それは心の成熟と関係していると思います。

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