「私が望んだ家庭は最初からなかった」故郷喪失者として生きるということ
所謂毒親育ちの子供が成人後、認知面での整理、感情面での解放と統合を、様々な葛藤を経てやりぬいた後に、「私には最初から、自分の存在をそのまま愛し、認めてくれる家庭はなかった」という一種の感慨に至ることがあります。
親への期待が捨てきれない段階では、その期待が「変わってほしい」望みになりやすいです。そしてまた、そうしようとは決してしない親へ怒りが、どうしても湧くものでしょう。
ですが、幼少期からの自分の人生の振り返りと、それに伴う「怒りを外に出す」プロセスを経て、「私が望んでいたものは、最初からなかった」という、言語化しにくい喪失感を抱えざるを得なくなります。
「初めから親子でも家族でもなかったね」・・口にしがたいこの喪失感は、ただの怒りや失望ではなく、祖国や故郷を失うことに匹敵する、自己の基盤を揺るがすものです。
亡命者や難民は、時として精神を病みやすいと言われます。同じような精神的危機に耐えられる、自我の強さが準備できて、家庭という故郷喪失者としての新たな自己を生き始められます。つまり、この段階に至るにも、年単位の準備が必要とされます。
喪失の種類とアイデンティティへの影響
【国家・故郷を失う喪失(難民・亡命)】
文化、言語、共同体、慣れ親しんだ風景など、「自分が育った世界そのもの」を失う。
アイデンティティの基盤が大きく揺らぎ、強い無力感・疎外感・存在の希薄化が生じやすい。
難民や亡命者が精神的に病みやすいのは、この「世界全体の喪失」がもたらす絶望感が大きいからです。
【生まれた家庭を失う喪失】
「普通の家族」「愛されていたはず」という根本的な物語が崩れる。
「私はここにいてもいい存在だったのか」という、存在そのものの価値が揺らぐ。
国家喪失に匹敵するか、それ以上に根源的な喪失感を生むことがあります。なぜなら、家庭は「世界で最初に所属した共同体」であり、自己の基盤だからです。
ナルシシスト親育ちの成人子女の悲嘆のプロセス
ナルシシスト親育ちの成人子女:Adult Children of Narcissists (ACoN) の Grief(悲嘆・喪失)ステージを、詳しく探索していきましょう。
ACoN特有の悲嘆ステージ(統合モデル)は、多くの回復プログラムや専門家(キュブラー・ロスのモデルを基にAcoN向けに調整したもの)を参考に、以下のように整理されます。
ステージは直線的ではなく、波のように行き来します。
1.ショック・否認(Shock & Denial)
「自分の育てられ方は普通じゃなかった」と気づき始めた直後。
「親は忙しかっただけ」「私がいけなかった」「放任主義で良かった」と合理化する。
感情が麻痺したり、現実を避けたりする。
2.怒り(Anger)
「なぜ私をこんな目に遭わせたのか」「私の痛みを無視したのか」という激しい怒りが噴出。
親への怒り、社会やナルシシスト的な人々への怒り、自分自身への怒りも混在。
3.交渉・幻想の再訪(Bargaining)
「親も傷ついていたのかもしれない」「私がもっと頑張れば愛されたかも」「もう少し待てば変わるかも」と、親を擁護したり取引を試みたりする。
「理想の親」をまだ少し信じようとする段階。
多くのAcoNがここで長く停滞しやすい。捨てがたい期待と2の怒りの段階を行ったり来たりする。
4.深い悲嘆・抑うつ(Deep Grief / Depression)
「無条件の愛をもらえなかった」「子ども時代を奪われた」という現実を、心と身体で受け入れる。
強い寂しさ、無念、虚しさ、涙が溢れる。
広大な宇宙に一人放り出されたような孤独を感じる。
「他人に話しても理解されないだろう」という孤独、虚無感を抱える。
5.受容・統合(Acceptance & Integration)
「親は変わらない」という現実を、悲しみを伴いつつも静かに受け入れる。
「わかる人はわかる。それでいい」と分岐を受け入れ、自分の人生を主役として生き始める。
過去の傷を「私の物語の一部」として統合し、「頑張らなくても価値のある自分」を体感し始める。
親への怒りから、「耐え抜き、生き延びた自分」を慈しみ始めることへ移行する。
理屈抜きに「これで良かった」と受容・統合する。
6.意味づけ・再生(Meaning-Making & Rebuilding)
痛みを「私の強さや感受性の源」に変える。
境界設定が自然になり、真の関係性を選べるようになる。
喪失感や孤独はありながら、一種の解放でもあったと受け取れる。
「私は無償の愛を理解し、与え、受け取れる側にいる」という実感が生まれる。
ACoNの悲嘆と一般的な悲嘆の違い
キューブラー・ロスの古典的な悲嘆ステージ(否認→怒り→交渉→抑うつ→受容)は、主に「愛する人を失う」という、比較的明確な喪失に対するものです。
そこには「理不尽さ」はあっても、「私が愛される価値がない存在だったのかもしれない」という存在レベルの否定までは含まれにくいです。
一方、ACoNの悲嘆は根本的に違います。
- 「理想の親子関係が最初から存在しなかったこと」
- 「無条件に存在を認められる」という、人間として最も基本的な栄養を、子ども時代に十分にもらえなかったこと
- 「私の感情・欲求・夢・存在そのものが、親にとってノイズ・負担・抹消対象だった」という理不尽さ
これは「誰かを失った」悲嘆ではなく、「私が私として生きる権利そのものを、最初から否定され続けていた」という、存在レベルの喪失です。だからこそ、悲嘆が深く、長く、時に理不尽さや怒りと強く混ざり合うのです。
悲嘆の難しさ「これが私の人生に起きたこと」の受容
クライアント様の反応から、「怒りや頭での理解は進むのに、深い悲嘆(涙があふれるような感情)は意外と難しい」と感じることがしばしばあります。
これは多くのAcoNに共通する現象です。防衛機制がまだ強いと、怒りや分析(理解)で留まり、悲嘆(純粋な喪失感・寂しさ)に到達しにくいのです。
悲嘆するには、「親は変わらない」「無条件の愛をもらえなかった」という現実を、心の底で受け入れる必要があります。
ですが、これだけをいきなりやろうとするのは無理が生じます。まず日常での感情受容、「ヤダったね」の自己慈悲の習慣づけ、そして身体の神経系が理屈抜きに「安全だ」と感じられる「耐性の窓」を広げる、複合的なプロセスが必要です。
保育園児や小学生などの小さな子供たちを目にすると、「私もあんな小さな子供だったんだ。誰でもない親に、何てひどいことをされたんだろう」と改めて許し難さが湧き上がる。その許し難さは消えない。それでも「それが私の人生に起きたことなんだ」と受容する。
その時「被害者ポジションに留まり続ける」こととは両立しません。
懐かしいふるさと、温かく迎えてくれる生まれ育った家庭は「最初からなかった」。この故郷喪失者としての独特の視点、それは自分だけがわかることです。
ナルシシスト親は、この「自分にしかわからない悲嘆」から逃げ続けた一生だったとも言えるでしょう。裏返すと「自分にしかわからない悲嘆」を、抱えて生きる価値がそこに宿っているのです。
