【親を許せない貴方へ】自分の心が壊れないための7ステップ

「親を許す」よりも大事な「自分の心が壊れない」こと

ごく普通の良識ある人なら、好き好んで人を許したくないわけではありません。まして自分の親なら尚更です。許さない方がストレスがかかるからです。しかしそれでもなお、「許せない」もしくは「安易に許すべきではない。『許したつもり』になっている方が危ない」こともやはりあります。

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長い長い間の見て見ぬふり、我慢、時には「私の方が悪いのかな?」と自分を責めてみたり、「もしかしたらわかってくれたかも。反省して思いやりの心を持とうとしてくれるかも」という儚い望みを何度も打ち砕かれて、今に至っていることでしょう。

許しがたい親を許す/許せないよりもずっと大事なことは、自分の心が壊れないことです。自分の心が壊れてしまって、何も良いことは起こりません。結果的に体の健康を害することさえ起きかねません。そしてまた、心も体も、自分しかそれを守り、傷ついた時に修復できる人はいません。他人は傷ついた人を孤独にせず、優しく見守る環境づくりができるだけなのです。

私たちの置かれている状況は千差万別であり、また流動的です。ですので予め決まった個別具体的な正解はありませんが、「自分の心が壊れない」ことを最優先すると、その時その時に何を判断選択するかの指針になるでしょう。

以下は「親を許せない」人が、如何に「自分の心が壊れない」ことを最優先して生活を立て直すための指針を、7つのステップとして整理したものです。

①「二度と心を抉られない」環境をまず確保

相手が肉親であっても無くてもですが、まず「二度と心を抉られない」環境を確保します。同居していたり、或いは同族会社などで否が応でも顔を合わせざるを得ないこともあるでしょう。その場合も「心を抉られることを自分に許さない。(仮に自分に反省するべき点があったとしても、それは心を抉ってよい理由にはなりません。そのことと「聴くべき耳の痛いことに耳を塞ぐ」とは区別をつけます)」決意が第一歩となります。

但し自尊感情が低いと、意外とこれが難しいのです。「自分は蔑ろにされても当たり前。自分はその程度にしか価値がない」と無意識の内に思ってしまい、そして無意識はそれを実現しようとするからです。特に親に抗うことに罪悪感を持ってしまう、いい子で育ってきた人ほど要注意です。

その場合は「これが今後も続いたらどうなるか」の結果予測をします。1年後、3年後、5年後、10年後、20年後と具体的に時間を延ばしてシュミレーションした時に、何を感じ思うかです。また家庭を持っている人は「自分の親の問題が、配偶者や子供にどんな影響を与えるか」を考えてみます。

「今だけのことじゃない」「自分のことだけで済まない」と視野を広げられると「問題視するべきことを問題視する」スタートラインに立てるでしょう。どんなことでも、自分がそれを問題だと心から思わなければ、人は自ら変化を起こそうとしません。

そしてできるだけ「心を抉られない」具体的な手段を取っていきます。親と別居していれば連絡をしない、電話に出ない、電話に出ざるを得ない時は事務的な用件だけ、嘘も方便で「電話を切り上げるための幾つかの口実(仕事を持ち帰っている。食事や入浴や家事がまだ済んでいない。明日は早出でもう寝ないといけない。等々)」を予め用意する、などです。

そのことで親は貴方の悪口を言うでしょう。「自分の思い通りにならないこと」に反応的にストレスを感じる、その幼児性のためです。「言いたい人には言わせておく」心づもりがないと、自分の心を守ることは難しくなります。

②怒りや憎しみは「自分を守るレーダー」

「許せない」思いは怒りや憎しみ、時に恨みや呪いとして感じられ、表現されます。この感情をまず否定しないことが大変重要です。何故なら、こうした不快な感情は、私たちを守るレーダーの役割を担うからです。周囲に迎合し、ひたすら「合わせ、従う」ことが習慣に成ってしまうと、悪いことをされても氣づくことすらできず、されるがままになりかねません。

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嫌悪や怒りを感じず、表現しない野生動物は死にます。嫌悪や怒りを表現しない動物は、調教された家畜です。私たちも教育や躾と称されて、本能を封じ込めるための調教を受けてきたのかもしれないのです。その調教に「No」を言うことこそが、「自分の心が壊れない」ための大原則になります。

理不尽なことを言われたりされたりしても、怒りを感じる前に、自分の本音を「黙って飲み込んでしまう」癖がついていないでしょうか。赤ちゃんの時からそんなことをする子供はいません。生育段階のどこかで、そうする癖がついてしまったからこそ、大人になった今、見て見ぬふりをして溜め込んできた怒りが爆発しようとしているのかもしれません。そしてそれは、生き延びるための本能が死んではいなかった証です。

大人である私たちは、自分の怒りや嫌悪が、自己中心性のためだったり、「自分はちゃんとやれてるつもり」のナルシシズムを打ち砕かれて拗ねていないかの客観視は必要です。「自分の思い通りにならないと、面白くないから怒り出す」親と同じことを自分もしていては意味がありません。

様々な感情は私たちに自分が何を良しとし、何を悪いとしているかを教えてくれます。全てにおいて「怒るのは悪い、ダメ」なのではなく、「私は何に対して嫌悪し、怒っているのか」とその都度自分に質問し、そしてそれが良心や品位からくるものだと確認できると、自分を守るレーダーがより研ぎ澄まされていきます。このレーダーを支える良識を磨いていくのは、誰でもない自分だけができることです。

自分ではよくわからない場合は、「(実際に子供がいてもいなくても)我が子に同じ相談を受けたら、どう答えるか」をシュミレーションするとわかりやすいでしょう。つまり、自分の心を守るとは、自分の脳の中に「良識と思いやりのある『お母さん』的な存在」を育てることでもあるのです。

③「改心と謝罪」が上限の望みとするなら下限の望みとは

自分を傷つけた相手に、改心と謝罪を求めたくなるのはごく普通の人情です。もし、そうしてもらえれば、自分のトラウマが癒され、心の重荷が軽くなるからです。しかし親が後悔や反省めいたことを口にしてもその時限りで、真剣に自分の心のあり方を変えようとはせず、寧ろ歳を取れば取るほど、脳の前頭連合野が担う自制心が効かなくなり、「より巧妙な心の抉り方」の方を学習してしまったケースの方が多いでしょう。

巧妙に心を抉り、支配欲が満たされると、脳に快感物質が分泌され依存症と同じになります。更にその快感が「欲しくなる」のです。その歯止めになるのは「人の痛みを自分の痛みのように感じる」共感性ですが、そもそも共感性が乏しい親ほど自ら「支配欲を満たして快感を得る」ループに嵌り込みます。

改心と謝罪を求めたくなる氣持ち自体を否定しようとすると無理が生じます。ですので、それが上限の望みとするなら、現実的な下限の望みを考えてみます。

私たちは誰も皆、欲張りなもので、おまけにそれに自覚がありません。電氣・ガス・水道・交通機関等のインフラが整っていて当たり前、健康な体が当たり前とすぐに思い上がってしまいます。それらを失って初めて「せめてインフラが復旧すれば」「元氣に働ける体があれば」と望みます。

もっと人生を楽しみたい、あそこに行きたい、あれを食べたいといった健全な欲も悪くありませんが、それと同時に「足るを知る」心があると、私たちはない物ねだりに首を締められず、かつ悪い意味での諦めにもならずに済むのでしょう。

親との関係性においても、この考え方を応用します。「自分の心が抉られず、心身の健康が維持できること」を下限のラインとします。そして抽象的な「悩まされたくない」だけではなく、それは今の自分の日常生活において、どのような事が実現されれば良いのか具体的に落とし込んでいきます。人間関係の悩みに嵌り込みやすい人は、この「下限のライン」を考えず、高望みして結果文句ばかり言う羽目に自分から陥っています。

④親が自分にしたことは他の人にもしている・観察という客観視

他人を許せないことがあったとしても、余程のことでない限り、その人と関わらなくなれば時間の経過とともに忘れることが大半でしょう。それはその人の人格と、自分自身との間に距離があるからです。平たく言えば「あの人、そういう人」「残念な人ね」と思えれば、それは分離が進んでいる状態です。その人の態度や振る舞いを良しとは思わず、その時は不愉快になったとしても、いつまでも影響を受けて振り回されてはいません。

親に対しても「あの人、そういう人」「我が親ながら情けないけれど、もう残念過ぎる。ただ私の問題ではない」と切り離して考えられるために、視野を広げて観察してみます。「自分だけが理不尽な目に遭った」と捉えてしまうと、否が応でも被害者意識が強くなってしまうので、それを和らげるためです。

よくよく考えれば当然ですが、我が子に理不尽な、思いやりのない態度を取る親は、大なり小なり他人にも同じことをしています。打算的な外面の良さはあるかもしれません。しかし、いざトラブルが発生したら逃げ出す、面白くないことは人のせいにして問題解決をしようとしない、「自分の支配下にある」相手にはやはり巧妙に心を抉ってくることを、他人や他の家族にも必ずやっています。支配欲に囚われた人が、別の誰かには慈悲深く一貫性があり高潔であることはないのです。

観察して情報を集めてみると「自分が悪いわけではなかった」と思えるでしょう。これは親から植え付けられた自己否定感を解消するためであって、親を貶めるのが目的ではありません。

⑤「本当はずっと前からわかっていた」本能が教えてくれていたこと

ある女性がこんな話をしてくれました。「私は本当は高校生の頃には、親を信頼しなくなっていた。特段暴言や暴力もなく、父がお金を使いこんだり仕事をすぐに辞めてしまったりもなく、塾に通わせ、大学にも行かせてくれた。しかし、私が不安や悲しみを訴えると、決まって『甘えてる』『被害者意識が強すぎる』『後ろ向きだ』と裁かれ、『一体どうしたの?』と話を聴こうとはしなかった。

高校生になって、幼い頃から積もり積もった悲しみが頂点に達し、私は親に一切相談をしなくなった。進学も就職も、決めたことを報告するだけだった。親は私が心配かけまいとして何も言わないと思い込んでいたようだったが、本当は信頼していなかったからだ。だが『本当は信頼していない』を長い間認めるのが怖かった。親と自分の関係が、そこで終わってしまうからだ

彼女は本能では、ずっと前からわかっていたのです。

古今東西、宗教に「母なるもの」を求めるのは、人間の普遍的な望みなのでしょう。神でも仏でも、慈愛に満ちた母、もしくは父像を投影し、私たち人間を無条件で愛してくれると信仰します。現実の親が、マリア様や観音様ではないにしろ、せめて思いやりの心を育み、子供である自分にその心を注いでくれたなら、と望まない人はいないでしょう。しかし残念ながら、元々共感性の乏しい人、そして思いやりの心を育む努力をしようとしない人は、今の世の中寧ろ増えているかもしれません。

実は本能は、ずっと前から氣づき、教えてくれていた。そのことに正直になるにも勇氣が要り、いつでも誰でもやれることではありません。

⑥親への怒りは「わかってほしい」期待があればこそ

他人に対してよりも、親に対して「わかってほしい」氣持ちが強いからこそ、葛藤懊悩が深くなります。「わかってほしい」は「わかってもらえるんじゃないか」という期待があればこそです。

誰に対しても「この人、言っても無駄」と見切りをつければ、人はそれ以上腹を立てません。

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幼い頃の子供は、親を理想化し、絶対化して考えがちです。素直で人を疑わない子供ほどそうなるでしょう。また情に厚い人ほど「見切りをつける」ことに罪悪感を持ってしまっているかもしれません。

NetFrixのドラマ「舞妓さんちのまかないさん」で、主人公の舞妓見習中の女の子が、屋形のお母さんに「残念やけど、あんたは舞妓ちゃんには向いてへんわ」と諭されるシーンがあります。一緒に修行をし、「100年に一人の逸材」と期待されている彼女の親友は、彼女が舞妓を諦めるのを悔しがります。しかし、屋形のお母さんの娘がその親友に「あんたの隣でずっと怒られ続ける方が残酷だ」と、また違う視点で説得します。

その後主人公は屋形のまかないに才能を発揮し、屋形の人々に愛されます。

2023年1月12日(木)より全世界独占配信。是枝裕和監督(『そして父になる』、『万引き家族』)が総合演出を務めた全9話…

このように「見切りをつける」=「残酷、冷たい」とは限りません。

能力や才能ではなく、心のあり方については「そうは言っても」と思いたくなるものでしょう。残っている怒りはその都度感じ切り、燃やし尽くし、灰にして、熾火となって残さないようにしましょう。

一方で「見切りをつけるのは悪いことばかりではない」と思えると、分離が進み、結果自分の心が壊れなくなります。

⑦親の支配欲は変わらない・支配/依存の渦から出て、断ち切る

親に限ったことではありませんが、支配欲に取りつかれた人は変わりません。人の世は複雑で「支配されておきたい⇒依存しておきたい」人は後を絶たず、共依存関係が死ぬまで続く夫婦、親子関係は珍しくありません。ごく普通の常識的な社会人に「見えても」、一皮むけば家庭の中は根深く癒着している例を、ある程度の年齢以上の人なら直接間接問わず見聞きしているでしょう。

この共依存の渦から出るためには、本人の自立がまず必須です。しかし自立は責任を持つことと同義であり、人は「責任を負いたくがないために、自分から責任、その裏返しの自由を差し出し、奴隷になる」のです。

また人は私を含め、困った相手に「あんたそれいつまでやってるんだ。いい加減にしろ」と言ってやりたい氣持ちを、中々捨てられません。正義感が強く、自律心がある人ほどそうしたものでしょう。それが奏功するかどうかは別として、そうした人が世の中からいなくなってしまうのもまた歪なものです。

許せない氣持ちを無理やり消そう、否定しようとすると、それは傷ついた自分をネグレクトすることにもなりかねません。傷ついた自分と「共に」、親の支配/依存の渦から出て、後ろを振り返らずに断ち切る、とイメージできると過去の自分を否定はせずに前を向けるかもしれません。

「縁なき衆生は度し難し(救いがたい)」「天は自ら助くる者を助く」「馬鹿はほっときゃ自滅する」「馬鹿は死ぬまで治らない」・・誰しも何度も聞いたことがある言葉でしょう。「あんたそれいつまでやってるんだ。いい加減にしろ」は、神仏でさえ救えない愚か者を、「助けてやろう」とするこちらの思い上がりかもしれないのです。

旧約聖書の創世記に「ロトの妻」の逸話があります。堕落したソドムの町を滅ぼそうとした神は、ロトと妻、二人の娘に「後ろを振り返らずに命がけで逃れよ」と命じます。しかしロトの妻は後ろを振り返ってしまったので、塩の柱に成ってしまいました。

堕落し、改心しようとしない存在は、私たちが手を汚し品位を下げてまで復讐する必要はなく、自滅します。その行く末を「見届けないと氣が済まない」と、ロトの妻のように後ろを振り返りたくなる、しかしそれでは前を向けません。

前を向くのは、自分のためだけではありません。新たな責任に目覚め、残りの人生の時間とエネルギーを、より価値のあるもののために注ぐことを神は望まれている、私たちはその呼びかけに応える必要がある、ロトの妻の逸話はそうしたメッセージであるかのようです。

【音声版・自尊感情を高める習慣・6回コース】

1回約20分、6回コースの音声教材です。

第1回 自尊感情とは何か。何故大事か
第2回 全ての感情を受け止め、否定しないことの重要性
第3回 「何が嫌だったか」を自分に質問する。目的語を補う
第4回 期待通りに成らない現実を受け入れざるを得ない時
第5回 小さな一歩を踏み出す・最低限のラインを決める
第6回 人生が変わるのは知識ではなく氣づき

第1回目は無料で提供しています。まず一週間、毎日聴き、ワークに取り組んでみて下さい。その後更に日常の中で実践してみたくなったら、6回分の音声教材(税込5500円)をご購入下さい。

🔗第1回・要約・氣づきメモ

6回分ご購入をご希望の方は、以下のフォームよりお申し込み下さい。

    弊社よりメールにて、振込先口座をご連絡します。振込み手数料はお客様負担になります。入金確認後、6回分の音声教材とPDFが表示される限定公開のURLとパスワードをメールにてお送りします。

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    生きづらい貴方へ

    自尊感情(self-esteem)とは「かけがえのなさ」。そのままの自分で、かけがえがないと思えてこそ、自分も他人も大切にできます。自尊感情を高め、人と比べない、自分にダメ出ししない、依存も支配も執着も、しない、させない、されない自分に。