自己否定と自己虐待の悪循環
以下の二つの記事は、弊社のサイトの中でも継続的にアクセスがあります。即ちどれだけ多くの人が「自分にダメ出し」をし、「優しくされると辛くなる」かの証でしょう。わざわざ検索するのは「こんなことが自分の人生にずっと続いて良いのか」と人知れず悩めばこそなのだと思います。
「自分にダメ出し」とは「こういう自分でなければ認めない、許さない」「自分にダメ出し」を「自分に厳しい」態度だと思っていませんか?人から「あなたは自分に厳しいから」と言われたこともあったかもしれません。何かが上手くいかなかっ[…]
優しくされたり、好意を示されると逃げ出したくなるのは他人から優しくされたり、好意を示されたりすると、いこごちの悪さを感じて逃げ出したくなる、自尊感情が低いと起きがちです。殊に親から充分に愛され、承認されたと思えないと、異性[…]
これらはいずれも、自己否定感が原因となった自己虐待です。ですので、環境を変えたとしても、自分の無意識レベルが変わらなければ、やはり続いてしまいます。そしてまた、生まれながらにして自己否定や自己虐待をする子供はいません。生育過程において、主に親からの洗脳と自己防衛の結果として、無意識に埋め込まれてしまうのです。
「自分は○○しなければ価値がない、認めてもらえない」
「自分の自由意志を否定される。常に自分の外側に『正解』を求め、その通りにし、非難されないように『しなければならない』」
「親の意見と違うことを言うと、頭ごなしに『口答えするな』と言われる位なら、思考停止して言いなりになっておいた方が傷つかずにすむ」等、
子供は自己防衛を学習していきます。その結果として、悲しいことに自己否定感が強くなってしまうのです。
特に子供が繊細で敏感だったり、「自分の意志よりも周囲の意向を叶えること」に重きを置きがちだったり、しかもそれを「○○ちゃんは優しいのね」と承認されると「自分の意志を押し殺すことが正しい」と学習してしまいます。大人は「それも場合によりけり」とわかりますが、子供はそのような複雑な思考はできません。「自分の意志を押し殺す。見て見ぬふりをする」=「正しい」と単純化して脳の中に刷り込まれてしまいます。自由意志を押し殺すことそのものが、自己否定ですが、本人はそうと氣づきません。
「いやうちの子は宿題をやりたがらないし、ゲームばかりして自分のやりたい放題している」と思われる親御さんもいらっしゃるでしょう。それはもしかすると、「どうせ頑張ったところで」の自己否定感が現実逃避に走らせているのかもしれないのです。或いは「満足の遅延」が躾けられていないため、自律心が育たず、「欲望に屈服してしまう自分」になっているためかもしれません。これもまた、「自分を応援しない」「良くないものに自分を晒し続ける」自己虐待になります。
そして自己虐待を続ければ、当然のことながら自己否定感は強まります。そしてまた「自分はこの程度の扱いをされて当然だ」と自分が否定した自分に自己虐待をするという悪循環になります。これは世間的な評価評判では止められません。社会的地位が高い人の中にも、自己否定と自己虐待を止められない人はたくさんいます。
親に植え付けられた自己否定感とは
その子供の元々の特性として、不安を感じやすかったり、氣が弱かったりはあるにせよ、それが即自己否定感になるわけではありません。不安を感じやすくても、自尊感情豊かに生きることは充分可能です。不安を感じやすいからこそ、それを慎重さに昇華し、念入りに調べたり、また誰もがわかっていて中々やらない準備・予防に生かせば、長所になります。氣の弱さも、後天的に育む勇氣によって、かなり補うことができます。
不安を感じるのは本能・日本人の「不安遺伝子」の高さ私たち人間の脳は、誕生時は脳幹という生命維持装置と、扁桃体という別名「パニックボタン」だけが完成された状態で生まれてきます。感情には喜怒哀楽様々な種類がありますが、中でも不安は本能[…]
またどんな子供も、恐れと同時に「外の世界へ出て行きたい。自分の力を試したい」欲求を必ず持っています。子供は木があったら登りたくなるものですし、最近は見かけなくなりましたが、私が子供の頃はブロック塀の上を渡り歩くなども「やってみたくなる」ものでした。そしてこうしたことは、大人になればもう楽しいとは感じられません。二度と戻らない子供時代の特権です。そしてこれらのチャレンジは、「自分がやりたいからやる」ものです。「自分がやりたいからやる」これが評価評判に振り回されない自発性の基礎になります。
こうしたチャンレンジを、周りの大人から特別に承認されないまでも、少なくとも打ち砕かれてしまわないことが大変重要です。ある女性は幼稚園の頃、冬休みに木と縄紐で高さ15㎝くらいのブランコを工作するという宿題を出されました。ただそのブランコを、頼んだわけでもないのに父親が代わりに作ってしまい「これを持って行きなさい」と言われたことが、今でも悲しい記憶として残っていると話して下さいました。まだ幼く、そして父親を信じ愛していればこそ、「それ、私のブランコよ!」と主張することなど考えもつかなかったそうです。
自分が作った物ではないのに、先生に嘘をついた罪悪感(多分先生は「ありがちなこと」と察しただろうと思いますが)。自分のチャレンジを誰でもない親に横取りされた悔しさ、悲しさ。大人なら「お節介をやらかした」程度に受け止められても、小さな子供には「どうせお前は下手だ。お前のブランコには価値がない」とメッセージされてしまいます。父親にはその意図はなかったとしても。
それは子供の「どんなに下手でも、これが私のブランコだ」引いては「自分は自分で良い」を打ち砕いてしまったのです。親にとっては記憶にすら残らない「小さなこと」かもしれません。しかしこうしたことの積み重ねが、自己否定感の温床に充分なり得るのです。
ここでスーザン・フォワードの「毒になる親 一生苦しむ子供」より引用します。
子供の時に体罰を加えられていたにせよ、いつも氣持ちを踏みにじられ、干渉され、コントロールされてばかりいたにせよ、粗末に扱われていつもひとりぼっちにされていたにせよ、性的な行為をされていたにせよ、残酷な言葉で傷つけられていたにせよ、過保護にされていたにせよ、後ろめたい氣持ちにさせられてばかりいたにせよ、いずれもほとんどの場合、その子供は成長してから驚くほど似たような症状を示す。どういう症状かといえば、「一人の人間として存在していることへの自信が傷つけられており、自己破壊的な傾向を示す」ということである。そして、彼らはほとんど全員といっていいくらい、いずれも自分に価値を見いだすことが困難で、人から本当に愛されている自信がなく、そして何をしても自分は不十分であると感じているのである。
「毒になる親」の子供がこのように感じるのは、意識的であれ無意識的であれ、親から迫害を受けた時に、「自分がいけなかったからなのだろう」と感じるためであることが多い。
スーザン・フォワード「毒になる親 一生苦しむ子供」 (太字、下線は足立による)
人の脳は理由を欲しがります。何か理不尽な、理由のわからないことを他人からされた時、一瞬「え!?私が悪かったのかな!?」と自分を責めてしまうことも起きます。実際に何が起きたか検証するという「遅い思考」をする前に、「私が悪かったのかな!?」の反応的な「速い思考」をしてしまいがちです。それはその相手を自分が信頼していればいるほど、その人との関係性を失うまいとする、本能的な働きです。人間のこの心理をよくよくわかっているのが詐欺師であり、「天使の仮面をかぶった悪魔」の偽善者です。それが「毒になる親」であることも、往々にして起こります。
大人であれば、他の信頼できる人に「これってどう思う?」と相談したり、後から振り返って「やっぱりあれはおかしい」と自分で氣づけます。しかし、まだ未成熟な、そして親を全面的に信頼し、依存しないと生きていけない子供に、そのようなコミュ二ケーションや客観視ができる筈もありません。
「私の家庭はおかしかった」と認められない・「事実の否定」の強大な力
子供にとって家庭は全宇宙です。そして人間の子供は他の動物と比べかなり長い間、親の庇護を必要とします。そしてどの子供も、「自分は親に全面的に愛され、承認されている」と信じたいのです。「自分の家庭はおかしかった」と子供自ら認めざるを得ないことほど、惨めなことはないでしょう。その子供が成人した後もです。これが、他人との軋轢とは全く違う、親との葛藤の根深さの原因になります。
「毒になる親」の冒頭に、父親を聖人のように尊敬している男性のクライアントの例があります。著者が面談を進める中で、次第に父親が、そのクライアントが子供の頃にしてきた様々な虐待が明らかになります。学校で悪い成績を取ったり、ちょっとした口答えをしたり、忘れ物をしただけで、父親は大声で喚き怒鳴り、息子を週に2、3回は革ベルトで叩いていました。叩かれる場所は背中、脚、腕、手、おしりなど、その時によってまちまちでした。しかしそのクライアントは「そんなことはどこの家でもあることだ。父親が自分を叩いたのは自分のためを思ってのことだった」と言い張りました。
この手の「事実の否定」について、「毒になる親」では以下のように説明しています。
心理学でいう「事実の否定」とは、自分にとって不都合なことや苦痛となる事実を、それほどのことでもないかのように、あるいはそもそも存在していないかのように振舞ったり、または自分をもそのように信じ込ませてしまうことをいう。これは、人間が自己を防衛するためのもっとも原始的で、しかしもっとも強力な方法である。
引用の通り、誰にでも「事実の否定」は起こります。「TVや新聞や行政が嘘をつく筈がない」もその一つです。ですから「私はそんなことはしません!」と思わないことが最初の一歩になります。裏を返せば人間の「信じておきたい」力が如何に強大で抗いがたいかです。
そしてまた、人は自分の親や、自分が育った家庭と、自分自身を重ね合わせ、同一視する傾向があります。客観的に見て「ひどい親だな」と他人が思っても、「あなたの親ってひどいね、毒親じゃないの?」と言ってしまうと相手を傷つけてしまいます。それは子供が親に自分を重ね合わせ、自分を否定されたかのように取ってしまうからです。これが「あなたの上司、結構ひどいよ。それってモラハラじゃん」であれば、「やっぱりそうかな・・」になり得ることとの違いです。
「傷ついている自分」いないことにする「事実の否定」
上述した父親に虐待されていた男性の話を更に引用します。
父親が恐ろしくなかったかとたずねると、怖かったことは認めたものの、なおも父親は息子を矯正しようとしていたのだと言い張った。だが彼はその時、私と目を合わせなかった。そして私がさらに質問を続けていると言葉につまりはじめ、とうとう目に涙が浮かんだのが見えた。
私は胃の中に何かが突き上げてくるのを感じた。
彼の抵抗はそれまでだった。(略)
もう彼のすべきことはひとつしかない。この事実を正直に認め、心の中にいまでも住んでいる「傷ついた少年」を癒すことである。
即ち「事実の否定」は一時しのぎにはなっても、「傷ついた自分」をいないことにしてしまうのです。これはセルフネグレクトであり、自己虐待の根本原因になってしまいます。そして自己虐待は言うまでもなく、周囲の身近な人にも必ずと言って良いほど、害を及ぼしてしまいます。この男性クライアントは、自分の怒りを父親ではなく、より弱い立場の妻に向けていました。これが子供に向けられると、虐待の連鎖を生むことになります。
暴力・暴言というわかりやすい形だけではなく、「かまい過ぎて子供を窒息させる」「子供に無関心になり、子供のニーズに応えない」「子供を親の世間体の道具にする」なども同じです。
実は子供の頃の方が本能でわかっている
このように「事実の否定」を子供は、そして自我が未成熟で弱いと大人もやってしまいます。「事実の否定」そのものを中々氣づけないものですが、一方で、子供は大人よりも思考が発達していない分、本能でわかっていることが多いです。子供の方が、コロナのインチキに、「TVに出てる人は何でマスクをしなくていいの?」と大人の欺瞞に氣づけるのと同じです。「王様は裸だ!」と叫べるのは子供、そして子供のようにあるがままに物事を見る目を失わなかった大人です。
そしてまた、以下のようなことを子供の頃やっていたとすれば、「自分は親に全面的に愛されていない。存在を歓迎されていない」と感じ取り、「逃げる」という防衛をしていた証かもしれません。人間の防衛本能の基本は「戦うか/逃げるか」です。幼かった頃に親と戦うのは無理だったとしても、逃げることは知らず知らずの内にやっていたかもしれないのです。
- 自分からスキンシップ(抱きついたり、手を繋ごうとしたりなど)を求めなかった。
- 親と同じ空間にいたがらなかった。親が帰宅するとすぐに自室に引き上げたり、家の中にいても良い状況であっても、外に出て遊んでいた。
- 親に相談しなかった。決めたこと(進学先や就職先など)を事後報告するだけになった。
- 家の外で経験したことを話さなかった。
- 親の前で喜怒哀楽の感情を素直に表現しなくなった。悲しみや怒りだけでなく、「嬉しかった」「〇〇が好きで楽しい」なども言わなかった。
- 「○○を買って」「☆☆ちゃんちはどこそこへ行ったんだって。羨ましいな」などと子供らしく親にねだらなかった。「そんなことを言える雰囲氣ではない」と薄々感じていた。
これらはほんの一例です。皆さま独自の経験の中で、思い当たるものもあるでしょう。その氣づきも是非大事にして頂ければと思います。それは子供の頃だけでなく、成人後の出来事であっても構いません。
人間の本音は行動に現れます。それは自分も同じことです。「もし、親を心から信頼していたら、あのようなことをするだろうか?」とご自身の体験について質問してみると、自ずと自分の本音がわかるかもしれません。
「本能ではずっと前からわかっていたのに、頭では認めまいとしていた。認めるのが怖かった」・・自分の過去が崩れ落ちるような衝撃を感じても当然です。事程左様に、親との葛藤を乗り越えるには、外からは決してわからない、血を流す思いを何度も繰り返してこそなのだと思います。
「事実の否定」の強大な力に屈しないために
上述の引用通り、「事実の否定」は原始的かつ簡単な自己防衛であり、その力は強大です。ですので、これを乗り越えるためには、常日頃から「事実をあるがままに見る」習慣を身に着けることが必須になります。「事実の否定」とは要はごまかしだからです。誰も皆、「体重計に乗るのが怖い」程度に、見たくない事実と向き合うのは苦痛が伴います。都合の良い解釈や言い訳をいくらでもしてしまいます。まず、その言い訳したくなる自分を見る、否定も肯定もせず観察することが第一歩になります。
もしコロナ騒ぎがインチキと知っていて、そして家の中ではマスクをしないのに、花粉症等の理由以外で、未だに体裁のためにマスクをして出歩いているのなら、まずそれをやめることから始められます。マスクでは自分をごまかしていて、より強大な親との関係の「事実の否定」を乗り越えることなど不可能と言っても過言ではありません。それは駅の階段を昇るのに息切れする人が、いきなりマラソン大会に出場しようとするようなものです。
生き方はartです。この場合のartとは、芸術ではなく、技芸です。テクニックやスキルを超えた、日々の絶え間ない習慣の積み重ねと、振り返りによって育まれる技のことです。
ごく普通の良心とそれに基づく良識がある人であれば、自尊感情豊かに生きる道は誰にでも開かれています。それは恰も「ごく普通の健康体の人なら、息を切らさずに駅の階段を昇れたり、5㎞や10㎞のマラソンを完走することができる」ようなものです。但し、それにはその人に合った日々の練習が要ります。人によってはまずストレッチを始めることだったり、一駅歩くことだったりします。
「私は『ちゃんとしてマスク』はやってません」であれば、それ以外の事柄、仕事や、家族との関係性、或いは自分自身のことで、PDCAサイクル(Plan-Do-Check-Action)を回すことをこれまで以上に意識して取り組んで頂ければと思います。PDCAサイクルほど、大昔からその大切さが言われているにもかかわらず、中々やれていないものはありません。PDCAサイクルを回すとは「これが良いと自分で思ったことをやってみて、結果どうだったかを検証し、次につなげる」ことの繰り返しです。
例えば家族とのコミュニケーションが課題であれば、一つで良いのでテーマを決めます。まず家族同士での挨拶を丁寧にするなどです。コミュニケーションのセミナーに大金を払って受講しても、家族に挨拶をしていなかったら何もなりません。もし、家族同士での挨拶の習慣がなかったなら、最初は意外と難しく、照れ臭く感じる、何だかぎこちない、それもまた今の自分と受け止める。それが「事実と向き合う」練習です。
そしてPDCAサイクルを回さなくて良い日は来ないのと同じように、ごまかさない自分になるのにも終わりはありません。「事実の否定」の強大な力は私たちの心の隙を突いて、すぐに屈服させようとするからです。
最後にまた「毒になる親」から引用します。
神様のような顔をしている「毒になる親」を天上から地上に引きずりおろし、彼らを自分と同じただの人間として現実的に見る勇氣を持つことができた時、子供はひとりの人間として、はじめて親と対等な関係を持つための力を持つことができるのである。
上述の例のように、どんなひどい親でも「神様のように崇め奉っている」方が楽です。或いはどんなに不平不満を言い募っていたとしても、結局は親を一方的な「強者」とし、「対等な関係を持つ力」を養う努力をしない方が。しかしそれがどのような結果をもたらすかはもう繰り返しません。そしてそれは誰よりも、自分をごまかし、嘘の人生を生きること、それで良いのかを決めるのは、その人本人しかいません。

