怒りの沸点が低いとトラブルの元、しかし怒らないのが良いわけでもない
喜怒哀楽、人間の様々な感情の中で、怒りほど扱いが難しく、奥が深いものはないかもしれません。
「怒らない人」は温厚で面倒を起こさない、いわゆるいい人と思われているかもしれません。しかし怒らないことが常に良いわけではありません。政治家や役人がしたい放題しても、無関心かつ従順で怒らない羊と揶揄されているのが今の日本人です。
一方で、今風に言えば「キレ散らかす」人もまた、困った存在です。怒りの沸点が低く、自分の思い通りにならないと、腹いせの嫌がらせをするようでは大人の態度とは言えません。
怒りは二次感情と言われます。元々は別の不快な感情が、怒りに変わるのです。悲しみや寂しさ、不安などが代表的です。
事なかれ主義で怒ることから逃げるのでもなく、些細なことでキレ散らかすのでもなく、自分の怒りを大切に扱い、向き合い、そして適切に表現する態度とはどのようなものでしょうか・・・?
そして「怒るべき」怒りとは、どのようなものでしょうか・・・?
自尊感情が低いと自分を蔑ろにされても怒れない
見出しにある通り、自尊感情が低いと自分を蔑ろにされても怒れません。言われるがまま、されるがままになってしまいます。例えば、いじめは道義的責任は完全にいじめる側にあります。しかし、いじめる方は、その自覚すらありません。「遊びのつもりだった」「からかっただけだった」は、言い訳ではなく本当にそう思っています。いわゆる毒親による支配はもっとそうです。「しつけのつもり」「愛情のつもり」
ですから、蔑ろにされ、心を踏みにじられた方が嫌悪と怒りを感じて、その関係性を拒まない限り、延々と続いてしまいます。そのつもりはなくても、自分が被害者でありながら、共犯者にもなってしまいます。相手に味を占めさせ、つけ上がらせてしまうのです。
後述のワークで取り上げますが、この記事を読まれている方の中には「あの時はただやり過ごしてしまったけれど、後から思うと自分を蔑ろにされていた。相手に対しても、うやむやにしてしまった自分に対しても、何だかモヤモヤしてすっきりしない」思い出があるかもしれません。これは未解消の感情が残っているというサインです。
私たち大人の世界は、あからさまな嫌がらせよりも、それとはわかりにくい軽んじられ方の方が多いかもしれません。だからこそ、時間が経った後からでも構わないので、「あれは私が怒りを感じて良い出来事だった」と自分に許可を出せることが大変重要です。今後似たようなことが起きた時も、とっさのことだったり、自分の立場や周囲の人のことを慮って「何も言わず、やり過ごす」選択がベストのことも多いでしょう。しかし、単なる事なかれ主義でやり過ごすのと、「怒りを感じて良いんだ」と自分に許可できるかは、大きな違いを生みます。
「怒りを感じるべきことか、ただの自分のエゴなのか」迷う場合は、同じことを友達や、我が子から相談されたらどう答えるか、シュミレーションするとわかりやすいでしょう。お子さんがいらっしゃらない方は、「いるものと想定して」やってみます。甥姪から相談されたと仮定しても良いでしょう。自分のことだとよくわからない場合は、他人に置き換える、これも客観視のための頭の体操です。
怒りは二次感情の例
怒りは二次感情の例を挙げます。友人と待ち合わせをしていた時、その友人が10分たっても20分たっても現れない。携帯に電話をしても出ないし、メールやLINEをしても返信がない。
「どうしたんだろう・・・。事故にでもあったんじゃないか」
と心配し始めます。30分位たった時、その友人がけろっとした顔をして、
「あー、ごめーん、待った~?」
などとこちらの心配をよそに現れると
「『待った?』じゃないわよ!遅れるんなら連絡ぐらいしてよ!!」
と怒る。この怒りの感情は元々は「心配」でした。
怒りの下には、元々は別の感情があります。元の感情の段階で処理できると、下の「怒りの火山」の絵のように激しい噴火にはなりません。
この待ち合わせの例は比較的、元の感情がわかりやすいものです。
しかし多くの場合、自分でも中々わかりにくいでしょう。というのは、脳は大変素早く反応するので、元の感情が氣がつかないうちに怒りに変わってしまうからです。ただ、怒りそのものを癒そうとするよりも、元々の感情を理解した方が、エネルギーが小さくなり癒しやすいです。
初級編:怒りの元となった感情を探すワーク
このワークはあくまで練習として取り組んでみてください。「一ヶ月後にはきっと忘れているだろうけれど、今は何だか腹が立つ」といった、「どんな人生にも起きがちなこと」を取り上げるのがコツです。心が深くえぐられるようなこと、数年以上のトラウマになっていることは、様々な感情や思い込みが絡み合っていますので、自分一人では難しく感じるのが自然です。
STEP 1 どうしてほしかったか?どうしたかったか?
もし貴方が癒し切れていない怒りがまだあれば、以下のワークで「元の感情」を探し出してみましょう。
怒りを感じたその出来事について、貴方は相手にどうしてほしかったでしょうか?或いは貴方はどうしたかったでしょうか?
《例》
「頭ごなしに怒鳴らず、言い分を聞いてほしかった」
「私からメールするばかりでなく、彼からもメールしてほしかった」
「仕事を安請け合いせず、断りたかった」
抽象的な「信頼してほしい」「理解してほしい」などではなく、できるだけ具体的に、目に見えるような行動レベルで、「してほしかったこと」「したかったこと」を書き出してみることがコツです。
STEP 2 「~してもらえなかった/~できなかったことが○○と感じた」
次に
「~してもらえなかった/~できなかったことが○○と感じた」
という文章にして、○○の部分に怒り以外の感情を当てはめるとするなら何かを考えてみましょう。
「言い分を聞いてもらえなかったことが悲しいと感じた」
「彼からメールがないことが寂しいと感じた」
「断れなかったことが不甲斐ないと感じた」
それぞれ怒りの元の感情は
悲しみ
寂しさ
不甲斐なさ
になります。そしてこれらの感情も、怒りと同じく良い悪いはなく、「感じて当然」のことばかりです。まずは自分自身で「悲しい/寂しい/不甲斐ないと感じたんだな」とその感情をしっかりと受け止めてみましょう。
「私は悲しい」と「私は悲しいと感じた」の違い
英語にすると”I’m sad.” (私=悲しい)と”I feel sad.”になります。I feel sad.は「私」と「悲しい」が一体化せず、少し距離ができます。距離が出来るとより客観的になれ、感情を癒しやすくなります。
中級編:「怒りを感じるべきだった」出来事に向き合うワーク
上記の初級編は、比較的軽い事柄を扱います。心のことも、体を使う技術と同じく軽めのことから練習するのがコツです。
それができたら、今度は「あの時は何となくやり過ごしてしまったけれど、今でもモヤモヤが残っている」出来事、他人から相談されれば「それ、あなたのこと大事にされてないよ、馬鹿にされてるよ」と言えるような出来事で練習します。
初級編で扱った事柄は、怒りを自分に許可できています。中級編では「怒りを感じるべきだったのに、やり過ごしてしまった」未解消の怒りを自分に許せるようになる、その練習をします。
STEP1 イメージの中でタイムマシンに乗ってその出来事まで遡る
イメージの中でタイムマシンに乗って、当時の出来事の上空まで飛んでいきます。その出来事の真っ最中の自分と、相手がいるのを数メートル上から眺めます。そしてやり過ごしてしまった直後で時間を止め、地上に降りて行って、自分の傍に立ちます。
当時の自分の肩を抱いても良いし、或いは背中に手を置いたり、手を握ったり、優しく接します。そして「あんなこと言われて、嫌だったよね。本当は怒っても良いことだったよね。でも、とっさのことだったから、なんて言っていいかわからなかったし、周りに人がいるから、その人達に嫌な思いをさせたくなかったんだよね」など、言ってもらいたい言葉をかけてあげます。今の自分なら、当時の自分にどんな優しい言葉をかけるでしょうか?
その言葉をかけてもらって、当時の自分の感情がどう変わったかを確認します。ホッとしたり、「そうだよね!怒っていいんだよね!」と改めて怒りを表現できればOKです。(※怒りを感じる自分に許可を出せる)
そしてはっきりと言い返せる状況なら、もしくは後からでも言える相手なら、「こう言ってみたらどう?」と提案してみます。そして当時の自分にはっきりと口に出す練習をさせます。(※境界線を明確にし「No」を伝えられる)
STEP2 「今ならどうするか」をシュミレーション
時間を少し巻き戻し、もう一度あの出来事を当時の自分に体験してもらいます。
- 自分の内側で怒りを許可している。ただ周囲の状況を考え、挑発に乗らないよう自制し、敢えて何も言わずにやり過ごした。
- その時、或いは後からでも、その相手に冷静に「私は傷ついたし、悲しかった」などと言っている。もしくはそう言える相手ではなかった場合でも、自分の氣持ちを言語化できている。
このように過去の体験をシュミレーションできればOKです。
ちなみに②は、初級編のワークを使います。「ムカついた!」ではなく、怒りの元の感情を探して「悲しかった」「ショックだった」「残念だった」などの言葉に置き換えます。現実の場面においては、「残念だった」が一番角が立たず、受け入れてもらいやすいかもしれません。
単なる事なかれ主義でうやむやにするのと、怒りを自分に許可しつつ、敢えてその場は何も言わないことの差を、感じ取って頂ければと思います。事なかれ主義は自分が傷つきたくない保身であり、相手への迎合ですらあるでしょう。敢えてその場は何も言わないのは、怒りに自分が乗っ取られない自制心と客観性によるものです。怒りを感じる自分を許し受け止めながら、なおかつ相手に煽られない、挑発されない態度です。
「私は何に対してどのように怒っているのか」「何が辛くて悲しかったのか」
冒頭に書いた通り、怒りは「キレ散らかす」と碌な結果になりません。脳は一般化をしたがるので、全ての怒りを「良くないもの」と思われている方も少なくないかもしれません。しかし、これまで見てきた通り、怒りにも様々な種類があり、感じるべき怒りもあります。それは悲しみや寂しさや不安も同じです。
中でも、自分に対しても、他人に対しても、尊厳を傷つけられた怒りは感じきり、場合によっては意思表示する必要があります。それをしないと自分から「従順でされたい放題の羊」になってしまいます。
エーリッヒ・フロム「愛するということ」によれば、愛とは尊重(尊敬)、配慮、責任、知(関心)であるとしています。尊重されていないとは、愛されていないということです。
人を悪く思いたくない人ほど、自分が蔑ろにされても、自分から相手をかばってしまいます。「あの人がこんなことをするのは、きっと○○だからに違いない」「私が悪いことをしたかな?」しかし、尊重されなさを受け入れてしまうと「私は尊重されなくて当然⇒愛されるに値しない」と、自分に対して思いかねません。これが自尊感情を下げてしまう、非常に氣づきにくい要因になります。
そして自分を蔑ろにされることを許しておいて、他人を真の意味で大切にすることは中々できません。いいように利用されていることを、必要とされている、愛されていると自分に言い聞かせさえします。いいように利用されることは、自分にも相手にも許してはいけないのです。国家単位で言えば、日本を外国のATM、在庫処分場、国民をワクチンのモルモットにすることを許してはいけないのと相似形です。個々人が自分の持ち場で尊厳を傷つけられることを拒めなければ、国家単位で独立自尊を守ることは尚更できません。個人の自尊感情と、国家の独立自尊は繋がっているのです。
話を個人に戻しますが、未解消の感情が、全くない人はそういないでしょう。見出しの通り「私は何に対してどのように怒っているのか」「何が辛くて悲しかったのか」と自問してみます。その答えが等身大の貴方自身であり、それには良い悪いはありません。そして同じくらい大事なことは、この問いを自分にしているかどうかです。この自問は、自制心や客観性と同じく、脳の前頭連合野が担います。この問いを自分にしないと、前頭連合野が働かず、引いては人として成熟できず、かまってちゃんになったり、怒りをダダ洩らしにしてしまうのです。
怒りを許可しつつ、受け入れつつ、無闇にまき散らさない人、自然体で周囲から「いい人ね」と言われる人は、自ずとこの問いを自分にしています。自分に向き合うとは、この自問を日々どれだけしているかなのです。