「人生を楽しむことが肝心よ。幸せになることー大事なのはそれだけ」オードリー・ヘップバーン
妖精と謳われ、没後30年以上経っても今なお、世界中の人々を魅了し続けるオードリー・ヘップバーン。彼女の人生は、スクリーンで見せた華やかで魅力的な姿ばかりではありませんでした。父親の失踪、二度の離婚、母親との確執、そして私たち普通の人間からは想像がつきませんが、彼女はコンプレックスの塊だったそうです。
最晩年はロバートというソウル・メイトと、スイスの自然豊かな片田舎で、庭仕事に打ち込む静かな生活を送りました。1993年1月20日、63歳という若さではありましたが、愛するロバートと二人の息子に看取られ、癌のため自宅で亡くなりました。幸せな晩年だったと言っても良いでしょう。
「そりゃ、世界中知らぬ人はいない有名人にもなれば、良いことばかりではないだろう。面倒で嫌なこともあっただろう。だけど、お金も名声もあって、紆余曲折はあったにせよ、最後は愛する人と静かに暮らせたのだから、『人生を楽しむ』ことはできただろう」・・ついそう思ってしまうかもしれません。
しかし、オードリーほどのVIPではなくても、傍から見ればお金や仕事や健康や交友関係に恵まれているにも関わらず、「文句たれたれ。不満たらたら」の人に、出会ったことがないでしょうか・・・?そしてそうした態度に、私たちは好感を持つことはできません。
また逆に、考えられないような苦境に立たされても、そのことを黙って何も言わない人もいます。自分の苦しみ以上に、他の人の辛さに心を配れたり、苦境の中でも自分がやれること、やるべきことを見つけて、黙々と、コツコツと打ち込む姿に、ごく普通の心ある人なら尊敬の念を抱くでしょう。
即ち「外側から与えられた『楽しいこと』に幸不幸が左右される」のは、未熟なあり方だと、皆心のどこかで知っているのです。「何か楽しいことない~?」と言っても、周囲が苦笑いで済ませてくれるのは、せいぜい20代前半までです。
「美味しいものを食べる」と「美味しく食べる」
オードリーの言う「人生を楽しむこと」とは、レジャーやゲームやスポーツなどの「楽しいことをする」ではありません。これは「美味しいものを食べる」と「美味しく食べる」の違いと置き換えられます。食事は毎日のことなので、普段は余り深く考えないかもしれませんが、これを機会に「美味しく食べる」とはどういうことか、振り返ってみましょう。
- ゆっくりとよく味わって食べる。
- 食材や、作ってくれた人に感謝しながら食べる。
- 共に食卓を囲む人と、歓談しながら食べる。
- 気候の良い時期に、景色の良いところでお弁当を食べる。
- 適度な空腹の後に食べる。
他にもまだあるかもしれません。
「美味しく食べる」とは、その人が食べるという行為においても、主体的に、能動的に関わろうとする態度に裏打ちされています。出された食事が豪華か質素かに、自分が左右されていない、即ち受け身ではないということです。「美味しく食べる」心がけができる人が、或いは多忙のために「食事もそこそこ」の毎日であっても、少なくともその意義が腑落ちしている人が、オードリーが言う「人生を楽しむ」ことができます。
「衆に優れた人物は、運に恵まれようと見放されようと、常に態度を変えないものである」マキャベリ
食事であれば、それが美味しくなかったからと言って、いちいち騒ぎ立てる方がみっともないと思うのが、ごく普通の分別のある人の態度です。しかし、これがもう少し大きなことで、かつ自分には道義的責任のないことだと、「降りかかった災難」にやはりなるものかもしれません。それでも見て見ぬふりをして、安易な事なかれ主義に逃げるよりはましです。
衆に優れた人物は、運に恵まれようと見放されようと、常に態度を変えないものである。
運命は変転しても、彼らは毅然とした精神を保ちつづけているので、他人の眼には、運命もこの人々にはなんの影響も与えないのではないのかとさえ、見えるほどだ。反対に、弱い人間にとっての運命の変転は、表にあらわれてしまう。好運に恵まれたときは有頂天になり、まるで自分個人の力量のためであるかのように得意がる。そして、周囲には耐えがたい存在になったあげくに憎まれる。
ところが、ほどなく運にかげりがさしはじめるや、とたんに沈み込んでしまい、卑屈な人間に変り果てる。
(略)
スキピオは、次のように言ったものだった。
「ローマ人は、負けた時にもくじけず、勝ったときもおごらない」「マキャヴェッリ語録」塩野七生
オードリーは、まさにこれを地で行った人でした。人氣絶頂の時もおごらず、礼儀正しく親切でした。
オードリーは1992年11月に、癌であることが判明しました。盲腸と結腸の癌を切除する手術を受けた後、わずか数日で胃に転移しました。オードリーは化学療法を受けないことにし、痛みの緩和ケアのみを行い、自宅で最期の日々を過ごす決意をします。
こうした決断も、その時になって急にできることではありません。それまでの人生で、「自らに由る」選択、決断を積み重ねればこそ、大きな出来事の際に迷うことなく決断を下せるのです。
死の2、3日前でさえ、ロバートを笑わせようとし、周囲の人を思いやっていました。
彼女は人生に対するときと同じように、死に対しても現実的だった。死ぬことを理不尽だと思わず、自然の一部だと思っていた。
「オードリー・スタイル エレガントにシックにシンプルに」パメラ・クラーク・キオ
オードリーが楽しいことがあるかないかで、一喜一憂するような人格ではないことがよくわかります。良寛和尚の「災難に遭う時節には災難に遭うがよく候。死ぬる時節には死ぬがよく候。是は是、災難を逃るる妙法にて候」と同じです。
騙した人・洗脳され騙された人・戦った人
上述の「美味しく食べる」とは、出された食事がどのようなものであれ、それをどう受け取るかは自分次第という態度です。即ち自由であるということです。
これは何でも楽観視して、怖いこと嫌なことには見て見ぬふりをして、理不尽なことに唯々諾々と従え、ということでは決してありません。その逆です。戦うべき時には戦う、或いは全力で逃げる、粘り強く交渉する、それをして初めて、私たちは自由でいられます。自由とは「自らに由る」ことです。
ところで、コロナワクチンが生物兵器であり、全世界規模の謀略、史上最悪の薬害事件であることは、日本のTV新聞に頼らずに、自力で情報を探し出している人には自明のことになっています。
ワクチンでは、体制側の騙した人、洗脳され騙された人、戦った人がいます。2024年7月現在では、騙された人は「騙されたと氣づいて、戦う側に廻った人」「薄々氣づいているけれど、見て見ぬふりをし続ける人」「最後まで騙されておきたい人」に別れるでしょう。
最も自由だったのは、言うまでもなく戦った人です。
しかし戦った人で、心に傷を負わなかった人はいません。肉親を含めたそれまでの人間関係、時には職や、収入の道すら失った人もたくさんいます。しかし彼らは癒えがたい傷を負うことになっても、また収入面の不安という新たな戦いに挑むことになっても、「自らに由る」ことをやめなかったのです。
薬害に遭い、最後の命の灯火を戦うことに費やすことに決めた人も同じです。一度目はされるがままに騙されてしまった、しかし、見て見ぬふりをしてやり過ごすのは、自分で自分を騙すこと、自ら罪を重ねることです。それを毅然として退けるのが、マキャベリが書いた「運命に屈しない」自由人の態度です。
どんな逆境でも誰にも奪われない魂の自由とは
一見平和で、便利で快適な生活ができているかのようですが、近年まれに見る苦境の中に、今日本はあります。コロナワクチン薬害だけでなく、貧富の格差が広がり、インボイス制度によって廃業を余儀なくされたフリーランスの方も多いです。見えづらい貧困、見えづらい逆境の中に、多くの日本人は置かれています。
「大丈夫だろうか。私はこの困難を乗り越えられるだろうか」と不安に苛まれて当然です。毎月決まった日に給料が振り込まれ、電車が動いて、ゴミの収集があって、スマホをポチれば欲しいものが翌日には届く・・そうした生活が5年後も10年後も続くと思い込み、会社の仕事と家事をこなせば、義務と責任を果たしたつもりになって、それ以上のことは考えまいとする態度よりもずっとましです。
不安に押しつぶされない考え方のコツとしては、「この困難を乗り越えた未来の自分」から現在を眺めてみる、というのがあります。「夜と霧」の著者ヴィクター・フランクルは精神科医でした。第二次大戦中、ユダヤ人収容所での生活は、まさに地獄そのものの日々でしたが、彼は「いつかこの収容所での体験を、戦争が終わり、平和になった故国のホールで講演している」イメージをしました。そして正にその通りになりました。
また誰しも、渦中にいる時は「何でこんな目に!」と恨みがましく思ったとしても、後から振り返ると「あの経験からしか学べないものがあった」という経験がある筈です。それは誰にも奪われない、誰とも比べる必要のない学びです。貧困の怖さも、肉親との相克も、病氣の苦しさも、自分が実際に経験しないと本当のところは中々わかりません。
「私はどのように乗り越えたのか」と乗り越えた前提で自分に質問すると、その道筋を潜在意識が運んでくれます。また「知らないより知った方がずっと良かった。それ以前よりかは、確実に賢く、強くなれた」と、学びに変えた前提でアファメーションすると、困難に負けなかった自分という前提を、自分に刷り込むことができます。
但し、これらの質問やアファメーションは、常日頃から言行一致してこそです。言行一致していないと「私の言葉は真実ではない」前提を、その度ごとに自分に刷り込んでしまうからです。
オードリーは大スターだったにも関わらず、「欲しかったのは子供、映画はおとぎ話」と言っていました。二度目の離婚後、ロバートとスイスでの田園生活を始めてからは、映画やTVの仕事は余り引き受けたがらなかった節があります。
しかし、晩年5年間のユニセフ親善大使の仕事は別でした。自分が(心から望んでいたわけでないのに)有名になったのは、この仕事に知名度を生かせるためだったと。前掲書には、ソマリアで骨と皮ばかりになった子供を抱いているオードリーの写真があります。かつて妖精と謳われた、若さの美しさはありません。皺を深く刻んだ顔、真っ直ぐに前方を見据えた瞳と、悲しみと理不尽さをこらえているかのような一文字に結んだ口元が印象的です。
また、ジャーナリストたちが「聖オードリー」と呼び始めたことに、彼女は心底腹を立てました。「結局のところ、他の誰もがやれることをやっているに過ぎません」この虚栄心に囚われない魂の自由があればこそ、「楽しいこと」では決してない、悲惨な現場に赴いても、それも含めて「人生を楽しむ」ことができたのだろうと思います。
オードリーのその時その時の態度こそ、若さや美貌などの外的要因には左右されない、言葉を換えれば外的な幸不幸とは無関係な、魂の自由の発露と言っていいでしょう。
自分を助けるための第一の手・他人を助けるための第二の手
現代日本の生活は「楽しいこと」が与えられるどころか、心の隙を狙って怒涛のようになだれ込んできます。かくいう私も、今すぐ買うわけでもないのにネットで商品を検索したり、YouTube動画で暇つぶしをしたりします。そうしたちょっとした息抜きが、全くない生活もまた、歪なものです。
しかしそれでもなお、私たちは憂さ晴らしの「楽しいこと」を死の床で回想するでしょうか?自分の人生は、嫌々ながらのこなし仕事と、憂さ晴らしのための「楽しいこと」だけに埋め尽くされていたとするなら、「我が人生に悔い無し」と言いきれるでしょうか・・・?
人の真価は逆境の時にこそ現れ、試されます。コロナ騒動以前には「愛が大事、人が大事、心が大事」と口にしていた心理関係者の大多数は、ワクチン接種開始後の超過死亡が50万人を超え、コロナワクチン接種による死者が、国が渋々認定しただけで700人を超えた今もなお、口を拭って知らぬ存ぜぬの有様です。私がSNSでそうした記事を毎日のようにUPしても、スルーされまくります。反応してくれるのは、コロナ騒動以後に繋がった、見ず知らずの方ばかりです。
グルメや旅行を楽しみ、本を出版し、セミナーを開催し、大学の講義に呼ばれ、「楽しいこと」に生活が埋め尽くされているかのような投稿をSNSで眼にします。勿論、その仕事のための努力も苦労もあるでしょう。しかし私には、オードリーが言っていた「人生を楽しむ」ことを、彼ら彼女らがやっているとはとても思えません。国家の危機を意識の外に追いやり、無関心になり、外面的な成功、華やかさ、「楽しいこと」だけに現実逃避し続けるのは、魂が自由な人間のすることではないでしょう。そこには自覚されていない恐れがあるのです。
オードリーの追悼式で、息子のショーンはこう言っていました。
「最後のクリスマスに、母は敬愛する作家の書いた手紙を読んでくれました。・・・”援助の手が必要なら、それはあなたの腕の先にある。年を重ねるにつれ、第二の手をもっていることに氣づかなくてはならない。第一の手は自分自身を助けるために、第二の手は他人を助けるためにあるのだ”」
前掲書
オードリーが言っていた「人生を楽しむこと」とはどういうことか。それには決まった答えはなく、言葉で言い尽くせるものでもなく、一人一人が自分の人生で、「自らに由る」決断の積み重ねを通して、証明していくことのように思います。