「私さえ我慢すれば」「私が犠牲になれば」
見返りを求めず、相手の幸福と成長のために何かをすることと、自己犠牲は異なります。少々の体調不良では仕事やその他の責任を果たさないわけには行かず、大人は我慢せざるを得ない場面も多々あります。仕事の場面では、自分が矢面に立ったり、泥をかぶる役を引き受けざるを得ないこともあります。
しかしそれが一時的なことに留まらずに常態化すると、誰にとっても良い結果にはなりません。
「私さえ我慢すれば」「私が犠牲になれば」に、付け入ってくる図々しい人は後を絶ちません。勤務シフトの休みの希望は2日まで、と何度言っても聴く耳を持たず、そのために自分が6連勤も7連勤もしても、そのことに「申し訳ない」と思う人ばかりではありません。夜中の長電話やLINEに、こちらが寝不足になっても付き合わせるなども同じでしょう。
これらは境界線問題の「迎合的な人」「回避的な人」に当たります。
境界線問題の4タイプ・迎合的、回避的、支配的、無反応境界線問題は「No」と言えない人だけのものではありません。最も「割を食う」のは、「迎合的な人」、即ち「自分が我慢すれば良い」と譲ってばかりいたり、また「怒ってはいけない」[…]
「パターンが見えてきたわ。誰かが私と四時間過ごしたい時には『ノー』と言えず、私が誰かと十分過ごしたい時にはお願いすることができないのよ。私の頭の中のトランジスターを入れ替えることができればいいのに!」
ヘンリー・クラウド ジョン・タウンゼント「バウンダリーズ 境界線」
愛が動機で行うことは、体は疲れても心は疲れないと言われます。ですから、「私さえ我慢すれば」「私が犠牲になれば」の自己犠牲は、本当は愛ではなく、恐れが動機になっています。その恐れは無意識のものだからこそ、「自己犠牲は美徳」の陰に隠れてわかりづらいのです。
「親の親」「小さなお母さん」をやっていなかったか
何故、自分が疲れ果ててでも自己犠牲を払ってしまうのでしょうか・・?そのパターンは子供の頃からの積み重ねにより、いつの間にか出来上がります。
以前の記事で「親子の役割逆転」について取り上げました。親が親としての務めを果たせず、子供が「親の親」をやってしまうと「やってもやっても不十分」の不全感に苛まれてしまいます。
「やってもやっても不十分」「早く大人にならなければ」の焦燥感ワーカホリック(仕事中毒)や、何事も根を詰めすぎ、肩や背中の凝りが慢性化している場合、もしかするとそれは焦燥感が原因かもしれません。心因的な症状は、心の奥底の原因を取り除[…]
子供にとって家庭は全宇宙です。「自分が何とか頑張って、この宇宙を支えなければならない」「私が何とかしなくっちゃ!」と、過剰で本来は不要な責任感に、真面目な子供ほど駆り立てられてしまいます。そして「自分は良いことをしてる」と思い込みすらします。
特に第一子は「お兄ちゃん(お姉ちゃん)なんだから我慢しなさい」と親から言われがちです。そのことに不満を爆発できればまだ良いのですが、真面目なお利口さんほど「我慢して、飲み込んでしまう」癖がついてしまっているかもしれません。
弟妹の面倒を見るのは当たり前のことですが、それが兄や姉としてではなく、「小さなお母さん(お父さん)」になっていなかったかを振り返って頂ければと思います。「早く大人にならなければならない」は必ず無理が生じるのです。
子供の頃、子供らしくいられたかどうか
上記の項目と関連しますが、親が不平不満ばかり言い募っていたり、余りにも厳格だったり、もしくは子供にそもそも関心や愛情を示さなかったりすると、子供は家庭の中で、子供らしくいられなくなります。犬や猫でも明るく温かい場所を好みます。人間の子供は尚更で、家の中が冷たく暗いと、それだけで子供は居場所を失ってしまいます。
特別に親からの暴力・暴言があったわけではないけれど、「べき・ねば」で過剰に自分を縛りつけてしまったり、努力はするものの心の奥底で「どうせきっとこんなことは私には無理」などと諦めてしまう場合は、子供の頃の家庭の雰囲氣について、以下の項目を振り返ってみましょう。
- 家族間で挨拶があったか。「おはよう」「お帰り」「いってらっしゃい」「おやすみ」など。特に親から「ありがとう」「ごめんね」があったかどうか。
- 親子間に笑顔やユーモア、笑いがあったか。
- 親は一緒に遊ぶことを楽しんでくれたか。
- 「今日会った出来事」を親に話せたか。親は興味を持って聞いてくれたか。
- テストの点数だけでなく、作文や絵画や工作など、自己表現に関心を示してくれたか。
- 「何が良い/悪い」ではなく、「変に思われるでしょ!」「そんなことをしたら怒られるよ!」などと、人目を氣にするようなことばかり言われていなかったか。
これらは無条件に、その子の存在を大事にされ、歓迎され、愛されているというメッセージを送られたかどうかの試金石です。
特に小学校の低学年までは、子供は責任らしい責任を持たずに済む時代です。無邪氣に笑ったり泣いたり怒ったり、日暮れまで公園で遊んでいることが仕事です。友達とは仲良く遊べても、家の中では何か冷たい雰囲氣があると、子供は「自分は親に歓迎されていないのではないか」と薄々感じ取ってしまいます。
この「自分は親に歓迎されていないのではないか」を、言語化・意識化できる子供はそうそういないでしょう。それを明確に感じてしまうと、自分の生存の場を失ってしまうからです。心の奥底に、この存在抹消の恐怖を深く抑圧します。そして抑圧された存在抹消の恐怖が、核心的羞恥(core shame)「このままの私は欠陥品だ。欠けた丸だ」になってしまいます。「私は欠けた丸だから、存在を消されてしまうのだ」というロジックです。
そして真面目な子供ほど、「私が我慢して譲ることで、何とか居場所を確保できる」の存在証明に駆り立てられてしまうのです。
「今度こそ上手くいくに違いない」の衝動強迫
自分から我慢をして譲ってくれる子供は、大人にとっての都合の良い子です。そして子供は愛情と共に、承認を欲しがります。「我慢して譲る⇒褒められる」のパターンが、パブロフの犬の条件付けになり、それが引いては衝動強迫になってしまっているかもしれません。
衝動強迫とは、例えば親がアルコール依存症で、そのために散々苦しんできたにも関わらず、配偶者にやはりアルコール依存症の人を選んでしまう、といったことです。
譬え苦痛に満ちた感触であろうが、滅んでいく感触であろうが、慣れ親しんだ感触のパターンを再び繰り返したいという衝動は無意識的であり、実は誰にでもあるのである。それが「慣れ親しんだ世界」の持つ魔力である。
更に、とかく「今度こそうまくやれるに違いない」と思って過去のトラブルをまた繰り返してしまうということもある。無意識のうちに苦しみに満ちた昔の体験をもう一度演じようとすることを「衝動強迫的な反復」という。
この衝動強迫が如何に強く人々の人生を支配しているかということは、いくら強調してもしきれない。
スーザン・フォワード「毒になる親 一生苦しむ子供」太字・下線は足立による
自己犠牲を払ってへとへとになり、心の奥底で恨みや自己嫌悪が溜まりながらも繰り返してしまうのも、衝動強迫かもしれません。人間の潜在意識は、「良いもの、幸せになること」ではなく、どんなに自分を苛もうと「慣れ親しんだもの」を無条件に選び続けます。どんなに苦痛に満ちていても「確実なもの」を、「未知の幸せ」よりも選ぼうとします。その特性は万人にあるものなので、自分を責める必要はありません。
人間の本能に組み込まれた「救済衝動」
そしてまた、「親子の役割逆転」の問題だけではなく、人間には救済衝動が本能に組み込まれています。人類が文明社会の中で生きるようになったのは、長い人類史の中ではつい最近の話です。99%以上の期間、他の動物より格段に弱い肉体を持った人類は、本能的に「仲間を救おうとする」救済衝動を身に着けました。この救済衝動がなければ、厳しい野生の生活では群れを存続できず、滅亡してしまったでしょう。
しかし、この救済衝動は非常に曲者です。相手を「救おうとすればするほど、自分は搾取され、相手は益々動かなくなる」多くの方に経験があるのではと思います。
「親子の役割逆転」が起きた子供が、更に救済衝動を増幅してしまうのでしょう。しかし、本能は生存戦略のためのものですから、本能を「折る」のは並大抵のことではありません。
限界経験によって救済衝動を「折る」
本能を「折る」には、根本的には限界経験⇒限界突破しかないと思います。即ち、脳に「救済衝動では、自分は生き延びられない」と新たな学習をさせ、新たな生存戦略に上書きする、ということです。
救済衝動は、他人が「そんなこと、もうやめときなよ」と言っても、本人がへとへとになるまで中々やめられません。「もう駄目だ!これ以上やっては自分が立ち行かなくなる!」とエネルギーが枯渇して漸く本能が「折れる」。しかしこれには、葛藤耐性が必要とされます。
自分の痛みや責任を「外に投げる」のは、一時的な防衛になるのですが、その分、エネルギーの温存になり、枯渇せず、限界経験に突き当たれなくなるのです。
だからこそ、感情を抑圧せず、かつ痛みを外に投げない感情受容が、基礎中の基礎になります。
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エゴではなく自己犠牲を払わない人はどう考えているのか?
ところで、我が身可愛さのためではなく、無闇に自己犠牲を払わない人、罪悪感なしにさりげなく「ごめんなさいね、今日は無理なの」と断れる人、それでいて周囲からの信頼を得ている人は、どのように考えているのでしょうか・・?
そうした人達は「自己犠牲を払わなくても、私は存在抹消されない」と心の奥底で感じ取っているのだと思います。
存在抹消の恐怖がない
⇒核心的羞恥がない
⇒「私が我慢して譲って、存在を認めてもらわねば!」の存在証明をする必要性を感じない、
こうした順序です。
そしてこの存在論的な、根源的な安心感がまずあり、脳と身体が反応的にならない。だからこそ、脳の前頭前野を使って「この状況での優先順位は何か?」を瞬時に考えられる。そのため断ることに罪悪感を感じていないのです。
「私さえ我慢すれば」が長年の癖になってしまっている人は、認知的な整理は比較的早くできても、身体に刻まれた存在抹消の恐怖を薄めていくには、長期的な習慣化が必要となるでしょう。ただこれは「やりやすいところから日々少しずつ」粘り強く取り組めば、誰かにできて、誰かにはできないものではありません。
詳しくは以下のカテゴリーの記事をご参考にして頂ければと思います。

