人と比べるとTrue Selfの声が聞こえなくなる
以前の記事「他人を羨まない・妬まない・比べない人の特徴7つ」で、その特徴の一つに「自分の幸福の尺度を持っている」を挙げました。
人を羨む、妬むのは自分から無間地獄にはまり込むこと人を羨んだり、妬んだりすることほど非生産的で、厄介な感情はないのかもしれません。但し、スポーツや学業などでは、「負けてたまるか!」の発奮材料にできれば、それは良性妬みになります。[…]
今はinstaなどのSNSが花盛りで、「これは奇跡の一枚であって、この人の全生活の氷山の一角」とわかっていても、反射的に人と比べてしまい、落ち込んだり、羨んだりする人が絶えないようです。
人より下だと思って落ち込んだり、「あの人よりまし」と安心してみたり。もしくは「平均値の中にいるから安心」と自分に言い聞かせたり。
ですが「それの何が悪いんだ」と開き直る人はそうそういません。つまり、それは一時しのぎの氣休めに過ぎず、真の幸福や安寧をもたらすものではないと、わかっている証拠なのでしょう。
人と比べて仮初めの安心を得ようとする、それはFalse Self(偽の自己)そのものであり、余りに繰り返すとTrue Selfの声が聞こえなくなってしまいかねません。
集団の中の立ち位置を確認したい VS そもそも集団に依拠しない
かつては反射的に人と比べて一喜一憂していた人が、「羨ましいように見えることの裏側の大変さ」を経験を通じて学び、自ずと比べたり羨んだりしなくなる、ということはよくあることでしょう。
また、本当に仕事ができる人は、SNSで自慢をする暇も意識も最初からない、ということも次第にわかってきます。「ねえ、ねえ、見て見て!」は幼い子供だから微笑ましく許されることであって、責任ある多忙な大人がやっている場合ではありません。
ただ、まだ若い人でも、最初からそうしたことに関心を持たない、人と比べて安心したり、不安になったりしない人もいます。
それはそうした人が、「自分は自分で良い」の自己受容ができているからとは限りません。経験が浅いため、まだまだ自信が持てないのが自然です。若い頃に完全な自己受容ができている人の方が稀なのです。
見出しの「集団の中で自分の立ち位置を確認したい」これは群れを作らないと生きて行けなかった、野生の時代が長かった人類の名残なのかもしれません。集団から脱落する⇒死を意味する、その恐怖が本能に刻みこまれていても、全く不思議ではありません。
ですが一方で、主に幼少期に「親は私の味方ではない」と無意識レベルで学習した子供の中には、「そもそも家族=集団など当てにできない」と依拠しない生存戦略を学んだ子供も珍しくありません。
集団そのものが自分を託するに値しないのであれば、集団内の序列は「仮初めのお約束」に過ぎないと、子供の内から学んでいるのです。
立川談志の「世界を疑う」教科書の墨塗体験
落語家立川談志は、落語界の風雲児と呼ばれました。戦後まもなくの9歳の時に、教科書の墨塗体験をしたことが、彼の生涯にわたる「世界を疑う」原体験になったのではと、私は観察しています。
教科書という「正解」の最も権威ある容れ物そのものだったものが、大人の手によって物理的に塗りつぶされる。これは特定の「この教科書のこの記述は正しい」や、「教科書とはこう読むものだ」という概念が揺らぐ以上に、「正解を差し出す容れ物」そのものが、一夜にして別の内容に差し替えられる。
まさに「あらゆる正解は、それを差し出す側の都合で塗り替えられうる」という認識を、9歳という思春期の入り口で、一回の具体的な出来事を通じて刻みつけたのではないかと思います。
談志の落語「やかん」は、この「世界を疑う」命題に満ちています。
談志にとって落語という形式そのものが、彼が墨塗り体験で得た「もっともらしく語られる由来や理屈を、疑わず鵜呑みにするな」という姿勢を、説教臭くならず、高度な笑いに統合しながら、繰り返し高座にかけ続けるための器だったのかもしれません。
「それをして本当に自分は幸福か?」
また談志の言葉に「己の幸福の基準は何か、各自で決めること」があります。談志は自分の身の丈に合った幸福を決めるようにと、弟子たちに諭し続けました。
それは格別難しく考えることではなく、自分の心に素直に、「幸せだね」「良かったね」「氣持ちいいね」と言えることを、日常の中で感じ続けることだと思います。
私自身の例で言えば、毎朝近隣の海浜公園へ散歩をするのが、腹側迷走神経の活性化にもなり、日々の楽しみです。
そして何より、週末には海浜公園のグラウンドで、小学生の子供たちが野球やサッカーの試合や練習をしているのを見るのが、今の私の生活で最も幸福で安らぐ瞬間です。
もう子供たちがマスクをしなくて済む。そして元氣一杯にグラウンドを走り回っているのを見ると、いつまでもこの風景が続いてほしいと思います。
他人のSNSの、高級レストランの食事風景や、華やかに見える仕事の活躍。それはそれで素晴らしいことだけれど、今の自分が本当にそれを望んでいるのか、それをして自分は幸福なのかどうか。
もしYesなら、いつか実現するようにと自分の夢、目標にすれば良いし、そうでなければ、自分が望んではいないのだから、羨むことではない。こんな小さな「自分に問う」習慣、それがまたTrue Selfの声と繋がることにもなるでしょう。
「揺らいでも、持ち直せる」容量の器
談志の墨塗り体験は、一回の、鮮烈な、国家的規模の権威の裏切りという、いわば外側から一撃で刻まれた経験です。
そして子供が「親は私の味方ではない」を学習するのは、長期にわたる無数の、子供には言語化しづらい親からの裏切りが、じわじわと心の奥底に溜まった結果です。
子供が「信じるに足る」と思っておきたい世界から裏切られるのは、非常に耐えがたい、アイデンティティの揺らぎを伴います。しかし揺らいでも崩れなかった、その経験が「破壊と再生」として身体レベルに刻み込まれます。
私たちはアイデンティティが揺らぐ時、非常に葛藤し、出口が見えないような苦しみを味わいます。しかしその時、自我が崩壊せずに持ち直す、そして「揺らいでも崩れない」容量の器が大きくなる。
信頼を裏切られることは、道義的にはあってはならないことです。どんなに人にも「自分の存在そのものを否定されたかのような」耐え難い痛みをもたらします。しかし成熟した大人で、大なり小なり、裏切りの痛みを経験したことのない人はいないでしょう。
私たちは少なくとも意図的に人を裏切ってはならない、けれども同時に、裏切りの痛みから持ち直し、自分の「揺らいでも崩れない」容量の器を広げることもできる。
人は「揺らいでも、持ち直せる」この体験の積み重ねにより、「人と比べて仮初めの安心を得ようとする」虚しい試みを、自然と退けられるようになるのだと思います。
