「この耐え難さに私が耐えずに済むように、あなたが変わって」
「過去と他人は変えられない。未来と自分は変えられる」多くの人が知っている言葉ですが、やはり弱い人間である私たちは、何かの拍子に他人を変えたくなるものでしょう。
明らかな迷惑行為を止めてもらうよう、直接間接に伝えたり、家族・友人・職場などの信頼関係ができている相手に、「それってどうかと思うよ」とやんわり伝えるだけに留まりません。
見出しの「この耐え難さに私が耐えずに済むように、あなたが変わって」これは、耐性の窓が狭いとどうしてもやりたくなってしまいます。耐性の窓については、以下の記事をご参照ください。
腹側迷走神経が活性化されると抑圧していた怒りが湧き上がることも腹側迷走神経が活性化され、身体の神経系が安全を感じ、怒りや辛さを「ヤダったね」の自己慈悲で包めるようになるーそれは癒しの基礎ではありますが、それだけで一件落着というわけ[…]
耐性の窓が狭いとき、人はある強度以上の情動を「自分の内側だけで処理する」ことができません。処理できない負荷は、どこかに預けられる必要がある。その預け先が他者になったとき、「あなたが変われば、私はこの耐え難さを引き受けずに済む」という形をとります。
人が何を耐えがたく思うかは、正に千差万別です。本来なら「私は何を耐えがたく感じているのか?この耐え難さは私の何を刺激しているのか?」を深く自問する必要があります。ですが、耐えがたさMAXになっている時には、そんな余裕は既に吹っ飛んでいても、また自然です。
遠藤周作「夫婦の一日」から
遠藤周作の短編小説「夫婦の一日」を例に、「自分の耐え難さのために、相手を変えようとしたくなる」を考えてみたいと思います。
この短編小説は、遠藤夫妻の実話を元にしていると推測されます。
ある年、三年間働いてくれた若いお手伝いさんが急死し、遠藤自身も蓄膿症の手術後、中々体調が回復しませんでした。そんな折、妻がインチキ占い師に「鳥取砂丘へ行って、水と砂を取り、砂丘に杭を打ちなさい。11月までにそうしなければご主人が大変なことになる」と脅され、すっかり洗脳されてしまいました。
カトリック信者の遠藤は「そんな迷信をお前が信じるとは!」と大激怒。カトリックは迷信を禁じています。妻も結婚当初から、共に信仰を分かち合ってくれていたと信じていた遠藤にとっては、非常に耐えがたいことでした。
遠藤は友人の小説家のMやAに相談し、共に「一旦迷信を許すと、泥沼にはまってしまうから、断固拒絶するんだ」と賛同してもらいます。それを告げても「どうか鳥取へ一緒に行ってください」と涙ぐむ妻。
カトリックの神父なら、妻を説得してくれるだろうと、長年の友人でもあるI神父に相談したところ、神父の答えは意外なものでした。
「そんなこと何でもないじゃないか。鳥取に行ってやりなさいよ。君がその迷信を信じていない以上、行こうが行くまいが、君には問題ないだろ。むしろ奥さんの氣持ちがそれですむなら、行くことで解決したまえよ」
遠藤はこの神父の言葉に、すぐに納得できたわけではありませんでしたが、今回限りという約束を妻に取りつけ、共に鳥取へ向かいます。道中も「こんな愚行に二日も費やさなければならぬとは!」と不機嫌さを隠しませんでした。
ですが、鳥取砂丘に雨がそぼ降る中、レインコートを着て、不器用な手つきで杭を打っている妻を見ると、何とも言えない憐憫の情が湧き上がり、遠藤は「貸せよ、その木槌を」と妻の代わりに杭を打ちます。
そして杭を打ちながら「これでいいのだ」という不思議な感慨が胸に広がり、妻に「これで・・氣がすんだろ」と声をかけると、妻は微笑んで頷きました。
「被害者意識のトライアングル」に嵌り込む⇒互いが互いを変えたくなる
ところでI神父は、妻の迷信を肯定したわけではありません。また、「奥さんだって、君のことが心配なんだよ」とも言いませんでした。この「妻の肩を持つ」と、「被害者意識のトライアングル」に自分も巻き込まれてしまいかねません。

被害者意識のトライアングルとは被害者意識という言葉を聞くだけで、多くの人はうんざりするものかもしれません。しかし「何てことしてくれる!」と一瞬怒り、「自分の尊厳を自分で守る」毅然として抗うための動機に昇華できれば、寧ろ自尊[…]
遠藤は
被害者(「こんな愚行に何故俺が付き合わねばならないんだ!」)
迫害者(「お前がこんな迷信を信じるとは!」)
救済者(「MやAも迷信なんか信じるなと言ってるぞ!目を覚ませ!」)の三者を、
そして妻は
被害者(「夫を失いたくない」)
救済者(「鳥取へ行けば夫を救える」)の二者をスイッチし続けていました。
このトライアングルに巻き込まれると、どんな人も「相手を変えたくなる」、その見本だと思います。
I神父の示唆・自己分化⇒課題の分離
I神父の言葉は、「奥さんが迷信を信じてしまったことは、君の信仰には関係がない」とさりげなく課題の分離を、それでいて「奥さんの氣持ちがそれで済むのなら」と妻の感情を無視はしない、但し、妻の信仰の脆弱さに向き合うのは、妻自身の課題であると示唆したように思います。
どうと言うことのない言葉のようですが、この言葉の背景には、I神父の課題の分離と自己分化があったのでしょう。この課題の分離と自己分化について、以下に押さえておきます。
アドラー心理学「課題の分離」
課題の分離は、ある問題について、その結末を最終的に引き受けるのは誰かという基準によって、自分の課題と他者の課題を切り分ける考え方です。
「夫婦の一日」においては、「迷信という信仰の揺らぎ」の結末を引き受けるのは、妻自身であり、遠藤ではないという課題の切り分けです。
この概念の力点は、境界線の設定にあります。誰の課題かを明確に切り分けることで、他者の課題への不要な介入(過干渉)や、他者の評価への過剰な依存(承認欲求)を手放し、自分の課題に集中する、という実践的な指針です。「君がその迷信を信じていない以上、行こうが行くまいが、君には問題ないだろ」というI神父の言葉に端的に現れています。
ボーエンの家族システム論「自己分化」
自己分化は、これとは異なる軸を持つ概念です。ボーエンにおいて分化とは、大きく二つの次元から成ります。
- 知性と感情の分化:強い感情的な圧力(不安、他者からの期待)にさらされた状況でも、その感情に完全に飲み込まれず、自分自身の考え・価値観に基づいて判断・行動できる度合い
- 自己と他者の分化:家族などの緊密な関係の中にありながら、他者の感情状態に自動的に同調・融合(fusion)することなく、独立した自己を保てる度合い
分化度が低いと、他者の不安や機嫌に自分の内的状態が引きずられる(情緒的な伝染・融合)、あるいは逆に、融合を避けるために極端な感情的断絶に走る、といった両極の不安定さが生じるとされます。
分化度が高いほど、親密な関係の中にありながらも、自分の内的な一貫性を保てる、という理解です。
課題の分離という実践的な技法の背後には、自己分化という、より深い構造的な能力が前提として必要とされています。この両者は重層関係として捉えられます。
I神父の言葉は、遠藤に課題の分離を示唆したものですが、その背景にはI神父自身の自己分化度の高さがありました。ですから、「君(もしくは奥さん)も大変だね」の肩を持つ融合でも、「長年の信者なのに、そんな迷信を信じるなんて!」の感情的断絶でもない、その隘路を示せたのだと思います。
感情に融合してしまうと自己分化できない⇒課題の分離ができない
ところで、融合(fusion)と言う言葉は、やや耳慣れないかもしれません。一般に、共感のつもりで融合になっていることが珍しくありません。
相手の苦しみに心を痛めるのは共感ですが、
その相手の苦しみに「一体何が起きているのか?」の好奇心を持てるか、
或いは相手の苦しみを見た時に、自分の反応(不安、動揺、苦しさ)で頭が一杯になっているか
⇒自分の苦しさを鎮めたいがゆえに、相手を救おうとするかが区別されます。
後者は「相手のため」という体裁を取りながら、実際には自分が相手の苦しみを目の当たりにし続けることに耐えられないために生じる行動です。まさに融合が行動化した形と言えるでしょう。
「見てられない」のはごく自然な人情です。それが「感染しっぱなし」になると融合になります。相手の苦しみを目の当たりにした時は動揺もし、涙を流すことはあっても、心を痛めつつも「自分の位置に戻って来られる」ことが自己分化のためには大変重要です。
自己分化⇒課題の分離を支える「耐性の窓」
この自己分化は、頭で自分に言い聞かせてできるものではありません。耐性の窓の広さと安定度にかかっています。頭の、認知的な判断とは別に、自分の身体の神経系は「安全だ」と感じている状態を保持できている、一見矛盾した状態です。即ち、両義性の耐性が発揮されています。
「心を痛めつつも『自分の位置に戻って来られる』ことが自己分化のためには大変重要」と上述しました。耐性の窓は、身体の腹側迷走神経が活性化が基礎となります。ですが、腹側迷走神経が活性化されているだけでは、子供の無邪氣さと余り変わりません。
「戻るべき自己」があるかどうか。即ち、脳の内側前頭前野が機能しているかが問われます。内側前頭前野の機能については、以下の記事をご参照ください。
知能は高くても「反省したら死ぬ」人人の心の成熟には反省が欠かせません。その一方で、反省は誰もがすることではありません。業務や技術的なことなら反省や改善をしたとしても、自分の心と向き合うのは、アイデンティティに関わる別の領域になるか[…]
遠藤周作は、一時的に境界線も自己分化も「吹っ飛んでいた」状態でした。ですが最後には「これでいいのだ」という、理屈を超えた受容に至ります。動揺はしたものの、「戻るべき自己」に戻り、そして妻への親密さを失いませんでした。
傍から見れば「初老の夫婦が、インチキ占い師の脅しに振り回されて、鳥取砂丘に杭を打ちに行く話」ですが、I神父の深い自己分化が伴った言葉が、やがて遠藤の心に内面化し、「分化しつつ、親密さを失わない」高度な統合に至った物語のように思います。

