坂本冬美「強い喉と強い精神力が欲しい」
歌手の坂本冬美が、デビュー15周年を迎えた後、約一年間休業しました。その間、引退するか復帰するか、非常に悩んでいたそうです。
和歌山の実家で暮らしていたのですが、偶然TVで二葉百合子のデビュー65周年コンサートの様子を目にし、深く心を動かされ「(二葉先生のような)強い喉と強い精神力が欲しい」と、長い手紙を二葉に書き送りました。
「名人は名人を知る」の言葉通り、二葉からは「すぐに来なさい」と返事がありました。坂本は二葉から浪曲の基礎を叩きこまれ、やがて自信を取り戻して歌手に復帰しました。その後の活躍は、よく知られるところです。
不足の告白でありながら無力の表明ではない
この「強い喉と強い精神力が欲しい」は、案外人は言えません。不遇の時、人は環境のせい、自分の才能のなさのせい、運のせいにし、そして結局は何もしないことに流されやすいです。
そしてこの「強い喉と強い精神力が欲しい」は、二重の意味で引き受けの言葉です。
第一に、「欲しい」という言い回しそのものが、未来志向・行為志向であり、過去に向けられた責任追及(環境が悪かった、運がなかった)とは時制的には反対です。何かのせいにする言葉は必ず「~だった」の過去形か「~だから○○だ」の状態記述の形をとりますが、「欲しい」は今の不足を認めながら前を向いています。
第二に、これは「不足の告白」でありながら「無力の表明」ではありません。不足を認めることと、それを他者に転嫁して立ち止まることは、しばしば混同されます。ですが、坂本冬美の言葉は不足を認めた上で、具体的な行動(手紙を書き、教えを乞う)に移しています。
ここが自己分化という概念の本来の妙味でもあります。ボーエンの自己分化の核心は「思考と感情の分化」です。自分の思考が感情に乗っ取られず、飲み込まれず、かと言って感情を無視、抑圧するのでもありません。
感情に飲み込まれると、人はその情動の耐え難さのために、環境や運のせいにしたくなるものでしょう。また逆に、感情を無視して耐え難さを回避するのも、「自分が本当に何を望んでいるのかがわからない」自己放棄になりやすいです。
二葉百合子に助けを求めることは、依存でも自律の放棄でもありません。「自分の喉と精神力を鍛えるのは自分の課題である」という課題の所有が明確に現れた態度です。そしてそのまま、その課題の遂行のために他者(二葉百合子)との強い結びつきを選び取っています。
これは対人関係における自己分化の見本とも言って良いでしょう。
「強い喉と強い精神力が、今の自分には不足だ」という耐え難い情動を感じる
⇒「だって仕方がない」「~のせいだ」と他責の物語に逃がして決着しない
⇒その強い情動を、二葉百合子に教えを乞うという、真の結びつきのための原動力にする
当時の坂本の感情・思考・行動を敢えて分解するとこのようになります。
「被害者意識のトライアングル」は三者がいずれも「自分の課題を引き受けようとしない」
上記の坂本冬美の例とは反対に、「自分の課題を引き受けようとしない」と何が起きるかを、カープマンの「被害者意識のトライアングル」に沿って見て行きましょう。
カープマンの「被害者意識のトライアングル」については、詳しくは以下の記事をご参照ください。
被害者意識のトライアングルとは被害者意識という言葉を聞くだけで、多くの人はうんざりするものかもしれません。しかし「何てことしてくれる!」と一瞬怒り、「自分の尊厳を自分で守る」毅然として抗うための動機に昇華できれば、寧ろ自尊[…]

三つの役割はどれも、形は違えど同じ回避をしています。
被害者は「自分にはどうにもできない、誰かが変えて」と外側に委ね、
迫害者は自分の中にある傷つきや不全感を、相手を責める・支配するという形で外側に処理し、
救済者は自分自身の不安(役に立てなければ自分に価値がない、相手の苦しみを見ていられない)を、相手の課題を代わりに引き受けることで鎮めようとします。
表面的な態度はまったく異なるのに、構造だけ見れば全員が「自分の内側で引き受けるべきものを、他者との間でやり取りすることで処理している」という一点で共通しています。
これはまさに「私がこの耐え難さに耐えずに済むように、あなたが変わって」という型が、被害者では哀願として、迫害者では攻撃として、二つの異なる表情で現れているだけだ、と見ることができます。
ここで、坂本冬美が環境や運のせいにせず、自分の課題を引き受けたという話――と、きれいに対になっています。あの場面では、自分の課題を他者や外部要因に明け渡さないことが問われていました。
そしてまた、「引き受ける」ことは結果を何ら保証しません。坂本冬美は「二葉先生しか、教えを乞える人はいない」確信はありましたが、自分の将来については未知数なままでした。二葉百合子に特訓を受けても、ものになるかどうかは「やってみなければわからない」だったのです。
「自分の課題を引き受ける」ことに、異を唱える人はそう多くないでしょう。しかし、人は中々それができず、「被害者意識のトライアングル」に嵌り込んでしまう。それは確証のなさに耐えがたいからなのかもしれません。
確証のなさに耐える力は、頭の理屈ではなく、身体の神経系の「耐性の窓」の広さと安定度に依ります。頭で「落ち着け、自分の課題を引き受けろ」と自分に言い聞かせても、身体が「安全でない」と感じていれば、それに引きずられてしまいやすいのです。
「耐性の窓」については、以下の記事をご参照ください。
腹側迷走神経が活性化されると抑圧していた怒りが湧き上がることも腹側迷走神経が活性化され、身体の神経系が安全を感じ、怒りや辛さを「ヤダったね」の自己慈悲で包めるようになるーそれは癒しの基礎ではありますが、それだけで一件落着というわけ[…]
「引き受ける」姿勢は尊重に繋がる
また三つの役割はいずれも、自分の課題を引き受けようとしないだけでなく、誰かの主体性を奪う形をとっています。
被害者は「私にはできない」と自分自身の主体性を明け渡し、
迫害者は相手を交渉可能な人格としてではなく、力によって従わせるべき対象として扱い、
救済者は相手を「放っておいても自分でやれる人」としてではなく、「手を貸してやらねば崩れる人」として扱う。
三者三様に、自分か相手かのどちらかを、意志を持つ主体ではなく、操作や庇護の対象に格下げしています。
これを裏返せば、自分が自分の課題を引き受けるにせよ、相手の課題は相手に引き受けさせるにせよ、確証のなさに耐えつつも、それぞれの主体性を尊重すればこそ、ということになります。
私たちは「尊重」を「大事にする」こととイメージしがちかもしれません。勿論それも正しいです。そして見逃しやすいもう一つの意味は、「その人にその人自身の課題を引き受けさせる」ことでもあると、この整理を踏まえて確認できるかと思います。
坂本冬美は後年、二葉百合子の代表曲「岸壁の母」を「是非、あなたに歌い継いでほしい」と託されました。「私は戦争を経験していないし、子供も産んでいないから、とても無理です」と固辞した坂本に、二葉は「この歌はうまく歌わなくていい。心で歌ってくれればいい」と強く励ましたそうです。
出会いの当初からの坂本の「引き受ける」態度に、二葉は大事な「岸壁の母」を託したのではと思います。
耐性の窓・課題の分離・自己分化は「境界線のあり方」を照らすもの
この一連の流れを振り返ると、課題の分離・自己分化・耐性の窓という三つの理論は、それぞれ違う角度から同じ一つの境界線を照らしていたのだと思います。
耐性の窓は、その境界線を保つための生理的な余地・余白・余裕がどれだけあるかを問い、
課題の分離は、その境界線がどこに引かれるべきかを問い、
自己分化は、その境界線を保ったまま他者と深く関わり続けられるかを問う。
カープマンの被害者意識のトライアングルは、その境界線が崩れたときに何が起きるかの見本市のようなものだったと言えそうです。

