「○○がそう言った」「皆がそうしている」の正解依存
決して少なくない人々は何故、自分の頭で判断せず、外部に「正解」を求めたがるのでしょうか・・?
人の話を読んだり聴いたりして、「○○さんの話に私も共感・納得したので、これを選びます」という言い方をする人は、寧ろ稀かもしれません。
「私がこれを選びました」であれば、結果の可否の責任は自分に帰します。「だって○○がそう言ったんだもん」にしておけば、結果が悪かったとしても、その○○(政府・メディア・会社・具体的な誰それ)のせいにできます。
しかし、コロナワクチン薬害の例に見る通り、失った命や健康は、「政府やメディアがそう言ったから」をどんなに言い募っても帰っては来ません。
「自分で調べて判断せよ。権力者やメディアは嘘をつくからだ」ロバート・ケネディJr.
また、日本人に多い「皆がそうしている」ですが、人間はそもそも野生の時代から、群れの中で生きてきました。群れから外れることは死を意味しました。その長い時代の名残の、「皆がそうしている」の安心感に潜り込みたい動機もあるでしょう。
特に日本は農耕社会で、好むと好まざるを関わらず、共同体の中で力を合わせなければ生活できませんでした。ですが本来、「皆と力を合わせる」協調と、「皆と同じようにする」同調は異なります。しかし両者が混同され、誰もが苦労する、より難しい協調が、より簡単な同調に、取り違えられやすいのかもしれません。
ですが、「○○がそう言った」「皆がそうしている」の外部からの「正解」は、いずれもその選択が正しいかどうかを、何ら保証しません。
「あなた自身はどう思うの?」の問いそのものへの恐れ
選択の結果が失敗だった時の責めを負いたくない以前に、「あなた自身はどう思うの?」の問い自体から逃げたい、ということもあるでしょう。
自問自答の習慣があるかどうか。
また、その自問自答が
「何で誰それは(もしくは『私は』)○○なの?」の誰かを責める問いに嵌り込むか、
「私はどうするのか?何を選択するのか?」の自身の選択責任の問いになっているか。
その積み重ねの差も大きいでしょう、
また、問う自己と答える自己のどちらか、あるいは両方が希薄であれば、「あなた自身はどう思うの?」という問いが脅威にもなるでしょう。「どう思うか」をそもそもしない。答える主体そのものの不在を露呈させます。
例を挙げると、「そのマスク、一体いつまで続けるの?死ぬまでし続けるの?」を自分に問わない。問わないからこそ、何年でもし続ける。問う自分も、答える自分も不在であれば、一生カオナシのまま生き続けてしまいます。その「一生カオナシ」をおぞましく思う自分すら存在しない状態です。
ですから、信念や価値観はあってないようなものになり、自身の価値判断基準を育てられず、益々外部の「正解」に依存するようになる。「だってお店の人達もまだマスクしてるし」の、蜃気楼のような「正解」に依存し続ける羽目になります。
True Selfの声を横取りしてFalse Selfが期待された答えを差し出す
また、False Self(偽りの自己)は、こうした問いを、True Self(真の自己)に届く前に横取りして、期待される答えを差し出してしまいます。自分の本音を無視して、周囲に迎合してしまいます。
そもそも健全なFalse Selfは、True Selfを無防備にしない。礼儀正しく接したり、その場では感情を抑えるなどの、相互尊重として機能します。
ですが、「True Selfの声を横取りし、迎合する」False Selfは、True Selfと益々解離し、True Selfを覆い隠して「何が本当の自分かわからなくなる」のです。
マスクの例で言えば、True Selfの本音は「マスクなんてもうやめたい。政府要人も、海外の人もマスクしてないし、こんなことやってるのは日本だけ。もううんざり」だったとしても、「お店の人達がまだマスクしてるし、マスクしておいた方が『ちゃんとした人』と見てもらえるかも」と、今はもう誰も望んではいない「期待」に沿おうとする、と言ったことです。
他人の期待に応えるのが、
相手も含めた全体の福祉に貢献しているのか、
自身の承認欲求(ちゃんとした人に見られたい)という、自分の都合になっているのか。
目先の自分の都合を優先してしまうと、結局は自分で自分を失ってしまう例でしょう。
「正解=安心」になるとその先に行かなくて済む⇒反証を跳ね返す
そして人は、一旦「これが正解」と思い込むと、そこで安心してしまいます。「正解=安心」になると、いくら反証が積み重なっても(そもそも何のためのマスクだったのか。感染予防効果はあったのか。蒸し暑い最中にマスクをすれば、熱中症の危険の方が健康リスクが高い、等々)自分への攻撃として受け取られやすいのです。
またその「正解」に投じた時間や、所属関係(私的な空間ではマスクを外せても、職場では外しづらくなる、など)、「マスクをしている私はちゃんとしている」積みあがった自画像を今更崩せない。こうした支払ったコストに自縄自縛になってしまう。
正に「人は安心の名のもとに自由を手放す」の壮大な社会実験、それがマスク着用を巡っても露呈しました。
「これ、おかしくない?」と考えられる人は何をしているのか
一方で「これ、おかしくない?」と考えられる人も、いつの社会でも少数派ですが必ず存在します。「これ、おかしくない?」とは、「正解=安心」に亀裂が入る、亀裂が入るとは痛みが生じるということです。
人は何かしらの前提「○○は△△だ」というレンズで世界を見ています。そしてそのレンズが自己と一体化している時、レンズそのものを疑わず、自覚されません。
レンズが自覚されるのは、それを通しては説明のつかない何かにぶつかったとき――つまり失望という形で、期待と現実のあいだに齟齬が生じたときだけです。
「コロナの過剰な感染対策や、コロナワクチン接種は、果たして正しかったのか。弊害の方が大きかったのではないか」
「政府もメディアも有耶無耶にしたまま、反省も検証も、謝罪もしない」
こうした失望を感じる
⇒「正解=安心」に亀裂が入る、という図式です。
そしてまた人は、その失望を受け入れ、レンズの方を疑い、「正解=安心」に亀裂を入れられるか、失望の耐え難さのために、現実の方を歪めて認識するかに大別されます。
勿論これも、状況依存的で、同じ人がAという命題ではレンズを疑えても、Bという命題では現実認識を歪める、それが自然な現象です。
太平洋戦争の敗戦を人々はどの段階で予感したか
「正解=安心」に亀裂が入った例として、見出しの「太平洋戦争の敗戦を人々はどの段階で予感したか」を元に考えてみましょう。
ある人は三国同盟締結(1940年9月)で「これは大変なことになる」と直観し、ある人はミッドウェー海戦の大敗(1942年6月)で「もう駄目だ」と観念しました。
そして戦争末期、お寺の鐘の供出で、ご住職が「寺の鐘を供出するようじゃ、日本は負けるな」と呟いた逸話があります。
三国同盟の段階で見抜いた人は、国際政治の力学構造そのものから帰結を演繹する、抽象的・分析的な予測能力に依っていた筈です。歴史的類推や勢力均衡の読みができる知性が要ります。
ミッドウェーの大敗で観念した人は、これとは別で、公式発表という「正解」の背後にある生の情報にアクセスし、それを大本営発表というノイズに対して割り引かずに受け取る、いわば情報への抵抗力の問題です。
これに対して寺の鐘供出のご住職の呟きは、分析でも情報でもなく、自分の生活世界の中に物理的に食い込んでくる欠乏の手触りから直観的に読み取った、身体的・経験的な回路です。
寺の鐘という、本来動かされるはずのないものが動かされる、という具体性が、抽象的な「戦況」より先に「これはもう底をついている」という認識を運んでくる。
分析的推論・情報への懐疑・身体的近接性という異なる回路によって、「正解(この戦争は聖戦であり、日本は必ず勝つ)=安心」に亀裂が入りました。以前の記事で書いた「知的誠実さ」、即ち現実検討能力をどの回路で保持したかです。
困難を乗り越える決め手の一つ・内面的誠実さ以前の記事「【親の支配からの回復】頭・心・体の三本柱による7ステップ」で、「親の支配に屈さず、自分を成長させられたクライアント様の回復の決め手は、様々な要因の中でも、『自分に嘘をつかない』[…]
コロナの嘘、出鱈目さに目をつぶらなかった人々も、
分析的推論
(「こんな過剰な感染対策は前代未聞。後々大変なことになる」)
情報への懐疑
(「情報統制されている」
⇒「それは誰かが意図的にやっている」
⇒「それは何のため?行きつく先はどこ?」)
身体的近接性
(「コロナ罹患した高齢者が、入院したと思ったらすぐ退院し、テニスクラブに通っている」
⇒「国を挙げて大騒ぎする恐るべき感染症とは思えない」
⇒「これは意図的に引き起こされているプランデミックなのでは?」)
が働いたのではと思います。
「信じておきたい神話」を自分で打ち砕く痛み
一方でまた、「ご主人様は誰だって良い。だが、ご主人様なしではいられない」も、歴史の中で繰り返された人間の様相です。太平洋戦争中の国民への標語は「鬼畜米英」、しかし敗戦後一か月も経たない内に「マッカーサー将軍ありがとう」に変節しました。
崇拝の対象が何であるかよりも、自分を明け渡し、縋れる相手が存在することそのものが、何より重要だったのです。
この「ご主人様は誰でも良いから、自分を明け渡したい」が、「正解=安心」に縋る正解依存と通じていると考えられます。「正解=安心」とは、「ご主人様は誰でも良いから、私を庇護し、導き、私の代わりに選択してください」の不確実性からの逃避の形と言って良いかもしれません。
そしてこの不確実性からの逃避が、
「信じておきたい神話
(政府やメディアが公然と嘘をつき、国民を欺く筈はない
マスクやワクチンが『救い出してくれる』
親は子である私を無条件に慈しみ愛する筈だ)」を生み、
それが個々人に内面化する、そうした道筋のように思います。
脳にとって疑うより信じる方が楽であり、甘美な快感を伴います。そして疑うことは負荷が高いです。
そして失望は、疑う負荷を上回る痛みが伴います。そして時に失望の痛みが、疑う負荷を凌駕し、「神話を自分の手で打ち砕く」原動力になり得るのでしょう。
「信じておきたい神話」は、他人からの説得ではなく、自分で打ち砕くしかありません。
不確実性の耐性が、この自分で神話を打ち砕く痛みに耐え、
また「私は自分の手で神話を打ち砕いた」実感が、不確実性の耐性を強める。
この循環が自分の中で回るのだと思います。
