自尊感情は無条件のもの
自尊感情(self-esteem)とは、「どんな自分でもOKだ」という充足感の伴った自己肯定感のことです。
お金や能力や美貌や、学歴や社会的地位など目に見えやすい条件で自分を肯定していることも、世の中にはしばしば起きているでしょう。ですがこうした条件は、自分への励みや、一里塚的な区切りに留まらず、自分の存在証明になってしまうと、それは条件に依存しているとの見方もできます。自尊感情は目に見える条件には左右されにくいものです。
「どんな自分でもOKだ」は、私たちの毎日においては、まず「どんな感情もOKだ」の感情受容が基礎的な土台になります。ですがこれは、誰にとっても当たり前のようで、中々当たり前にはならないもののようです。
感情は快か不快かに大別されます。大多数の人にとっては、快は感じたいし、不快は感じたくはないのが原則と、ひとまずこの場では位置付けます(人間は非常に不合理な存在で、そうとばかりだとは言えないのですが、ここでは措いておきます)。ですので、不快な感情を「厄介者扱い」していることが、いつの間にか起きているかもしれません。
殊に、快=喜び、幸福、楽しさ=善、不快=怒り、悲しみ、妬み、寂しさ=悪、とレッテル貼りをしてしまうと、自分を追い詰めてしまいかねません。快=善、では必ずしもありません。「しめしめ、あいつをだまして上手くいった」とか、「嫌がらせをして鬱憤晴らしをする」なども快の感情です。
このように、快か不快かの感情は、これ自体が即、善悪になるわけではありません。ただ「この状況に自分が満足しているか、満足していないか」のサインとして、私たちは日々感じています。
感情を抑圧したり、否定すると何が起きるか
不快な感情を厄介者扱いしたい時、私たちは無意識的に様々な防衛をして、自分を守ろうとします。これを心理的防衛と言います。心理的防衛は多岐にわたりますが、主に4つのレベルに大別されます。詳しくは以下のリンク記事をご参照ください。
自我という「心のダム」様々な心理的な問題は、自我という「心のダム」が未熟で脆く、弱いか、大きくて強く、しなやかで成熟しているかに帰結します。この「心のダム」を様々なストレスから守ろうとして、ほぼ無意識的に行うのが心理的防衛[…]
殆どの人が経験する、感情を「抑えつける」抑圧、そして「なかったことにする。ごまかす」否認について、ここでは簡単に触れておきます。
抑圧は、不快な感情が受け入れがたいと心の奥底に抑えつけることです。「こんな感情は感じたくない。持ってはいけない」しかし、その抑えつけられた感情は、それでも消えてなくなるわけではありません。
例えば、無意識の内に立場の弱い人に八つ当たりしたり、いじめや嫌がらせをするなどの不適切な行動化がその一つです。行動化しない場合は、何だかわからないけれどやる氣が出ない、毎日が楽しくなく、氣持ちが塞ぐ、甘いものばかり食べたくなる、或いはアトピーなどの体の症状に出たりします。これを身体化と言います。また行動化は、他人に向かうだけではありません。他人に向けるのが怖いと「だって、どうせ、私がダメだから」と自分に向ける、これが自己否定感の温床になっていることも少なくありません。
この抑圧と、抑制はまた異なります。抑制は、「感情をそのまま感じつつ、受け止め、そしてどう表現するかを自分で選ぶ」態度です。引いては、「より高次の目的のためのエネルギーに変える」昇華に至ることもあります。自尊感情豊かなあり方は、この抑制や昇華ができることでもあります。
また否認は、不快な感情や出来事を瞬時に意識の外に追いやってしまうことです。もっと簡単に言えば「認めたくない」です。一番多いのは、見て見ぬふりの無関心、事なかれ主義で逃げてしまうことでしょう。特に家族肉親や、恋人など、思い入れのある大事な人から、それをされて心が傷つかない人はまずいないのではと思います。しかし、その辛さを訴えたとしても、また無関心を装って逃げてしまう、その悪循環に苦しむ人は悲しいことに大変多いのです。
無関心で逃げてしまう方は「そうすることで、自分の心を守ろうとしている」のですが、やはり少し視野を広げて考えれば、誰にとっても良い結果にはならないものです。「愛の反対は憎しみではなく無関心」とも言われます。不快な感情を受け止める、感情受容、引いては葛藤耐性を高めることが如何に大事かが、このようなところにも現れていると考えられます。
「そう感じたことを、どう感じていますか?」
ところで、家族療法の第一人者のバージニア・サティアが、クライアントにした質問があります。
「あなたはそのことをどう感じていますか?そしてそう感じたことを、どう感じていますか?」
心にとって重要なのは、二番目の質問だとされています。
自尊感情が低い間は、「こんなことで怒る自分が情けない」とか、「あの人のせいで、こんな不快な気持ちにさせられた」など「不快な感情を排除したい」になりがちです。言うなれば「そう感じたこと」に許可を出せず、自分が受け入れられない状態です。
もっと自尊感情が下がると、恐ろしいことに、屈辱的な扱いをされたり、利用されていても氣づけず、怒ることすらできなくなってしまいます。「私が悪かったのかな?」「あの人のことだから、きっと何か事情があるに違いない」と自分に言い聞かせ、自分の傷つきを「なかったこと」にしてしまう、所謂「いい人」ほどやってしまいがちかもしれません。
特にいじめが続いてしまうのは、いじめられた側が、自分をないがしろにされていても怒れない(「馬鹿にするな!」「何してくれる!」)のも、とても悲しい理由の一つです。
殊に親にとっての都合の良い子のまま、反抗期らしい反抗期がないまま中年期を迎えると、様々な弊害が起こることがあります。子供の頃に充分に感情受容ができなかったツケは、責任が重くなる中年以降に現れやすい傾向にあります。だからこそ、改めて怒りを感じることを自分に許可し、「No」と言える境界線を養なう、非常に地道で、時として面倒な努力が必要になるでしょう。
人間関係で疲れている時は自分の境界線を見直すサイン人間の悩みは突き詰めれば人間関係になります。そして私たちは往々にして、自分を傷つけた相手を恨んだり責めたり、そして相手に「反省して変わってほしい」と願います。しかし、反省は[…]
感情を受け入れる3つの練習
ここまでは、何故、不快な感情を受け止める、感情受容が大事かを、幾つかの観点から述べてきました。
さてそれでは、どうしたらいいのか、どこから始めれば良いのでしょうか・・・?
以下に、皆さまがまずやりやすいところから、実践していただける練習を3つ、提案致します。読んでみて、「やってみたい、やれそう」と思われたものに取り組んでいただけたら幸いです。
練習①「どう感じているのか?」を言葉にしてみる
自分の感情がよくわからない、という人は実はそう珍しくありません。
人は喜びでも怒りでも、「嬉しかった」「腹が立った」と感情を表す言葉で表現する方が、案外少ないかもしれません。「あの人がああして、こうして・・・」という「起きた出来事」のディティールを延々と語る、口に出しても出さなくても、「永遠に終わらない欠席裁判」をいつの間にかやっている、人はそうしたものかもしれません。欠席裁判の被告は他人だけでなく「上手くやれなかった自分」であったりもします。
ですが、この「終わらない欠席裁判」は、実はサティアの「そう感じたことを、どう感じていますか?」以前の問題です。「感じてはいるけれど、その感情を自分が受け止める前に、自分の外側へジャーッ、ダーッと流している」そうイメージしていただければと思います。
まずは「あの人/自分がああして、こうして・・・」の「起きた出来事」を、「どう感じたのか」、「悔しい」「腹が立つ」「情けない」「ショックだ」「嫌だ」「傷ついた」等の、感情を表す言葉で表現してみます。言語化は客観視と自己共感に効果的な方法です。
「これこれの出来事を、『情けない』と感じた/『すごく嫌』だった/『うんざり』していた/『ショック』だった」と言葉にした瞬間、「起きた出来事」のコップの中の嵐を外から眺めることができます。
「起きた出来事」と「それを自分がどう感じたか」は、本来二つの別々のものです。同じことが起きても、「それを自分がどう感じたか」は人により千差万別です。
しかし脳は大変素早く反応するので、この二つがいっしょくたになりがちです。そのいっしょくたになったことが、「動かしがたいこの世の真実」であるかのように捉えてしまうことがあります。「あいつは悪魔だ!(と思うくらい傷ついた)」・・・そう思うのは理由があってのことです。ただ、「あの人は悪魔だ」がこの世の真実かどうかは別の話です。
また「起きてしまった出来事」は私たちにはどうにもできませんが、「それを自分がどう感じるのか」は変えることができます。見方が変わる、受け止め方が変わるとはこうしたことです。感情受容が高まると、怒りや恨み、復讐心ですら、「それは存在している」と受け入れられるようになります。「存在している」と認めればこそ、自分がその感情に乗っ取られない、逆説的な態度と言っても良いでしょう。
サティアの質問の通り、「そう感じたことをどう感じたか」が問われるのですから、「『あいつは悪魔だ!』と思うくらい傷ついた」でかまいません。しかし「そう感じたことをどう感じたか」のためには、まず「そう感じたこと(この場合は「私は傷ついた」)」を自分がわかることが必要条件となります。
「わたしはこんなに傷ついた。傷ついていた」を大切に扱う、それがサティアの二番目の質問「そう感じたことをどう感じたか」であり、感情受容の基礎になります。
練習②言語化しづらい感情を体の感覚で感じてみる
言語化がどうしても苦手だったり、もしくは「言葉では言い表せない」感情や感覚を感じることも人にはあります。①の練習が苦手だな、と思われる方には、体の感覚で感じてみることを提案致します。
「終わらない欠席裁判」を内心であってもやっていたり、他にも「何かモヤモヤする」「何だかわからないけれどスッキリしない」などと氣づけたら、2、3回深呼吸をします。軽く目を閉じ、体の感覚に意識を向けます。肩や背中に力が入っていたり、いつの間にか歯を食いしばっていたり、胸の辺りが縮まり、呼吸が浅くなっていないでしょうか・・・?体のどこかが重く感じたり、冷たかったり、逆にほてりがあるかもしれません。
「体のこの辺りで、不快な感情のサインが出てるな」と氣づけたら、肩をゆすったり、首や肩を回して少し体の力を抜いてみます。
今度は、自分が好きなもの、窓から差し込む朝日、好きなコーヒーや紅茶の味や香り、お風呂に入ってリラックス、ペットちゃんを可愛がっている時、友達や恋人との楽しい時間、好きなスポーツチームの試合を応援している時等、何でもいいので「快」を感じている時のことを思い浮かべてみます。
「そんなものはない!」方は、お布団にくるまれて寝ている時でも構いません。
そしてその時の、自分の体の感覚を感じてみます。胸が温かくなる。肩や背中から力が抜ける、呼吸が深くなる、愛しい氣持ちやワクワクする氣持ちが体の中に広がる、そうした感覚に意識を向けてみます。
「自分の命が喜んでいる」か、「自分の命が苦しがっている」かは、微妙であっても体のサインとして現れる、それを掬い上げてみる練習です。対比されるとわかりやすくなるので、できれば両方やってみるのがコツです。
そうすると、言語化が難しい時でも、「あ、これは自分の命が嫌がっているな」のサインに敏感になれる、これも感情受容の一つです。
練習③不快な感情が自分を守ってくれたこととは
ここまで読まれると、不快な感情=悪、ではないのだなと、段々イメージできるようになったかもしれません。
ここで改めて、不快な感情の意義、必要性について振り返ってみましょう。どんなことでも、意義⇔実践の往復を経て、理解が深まり、自分のものになっていきます。
自分の身を守るレーダー、良心、倫理観、品位という歯止め
不快な感情を「ネガティブ」と表現するようになったのは、もしかすると私たちの本能を封じ込め、弱らせるための洗脳だったのかもしれません。嫌悪感、怒り、恐怖や不安は、自分の身に危険が差し迫っていることを教えてくれるレーダーにもなります。これらの感情を感じず、表現しなくなった野生動物は死んでしまいます。幼い子供たちが元氣一杯なのは、自分の感情を恥じたりせず、素直に表現するからでもあるでしょう。
不動明王や仁王の怒りの表情にもまた、深い感銘を受けたことがあるかもしれません。怒りは、愛や慈悲の土台に支えられると、私たちの心を揺さぶるものにもなります。
ところで、良心の呵責や倫理観(「こんなことをしたらどんなに相手が傷つくか、だからやらない)、品位(「こんなことをするのは自分が恥ずかしい、だからやらない」)は、快か不快かと言えば不快な反応です。これらの不快な反応が、私たちの選択と行動の歯止めになります。
また、誰にとっても永遠の課題である思いやりは、ふんわりと甘く優しいものではなく、「人の痛みを自分の痛みのように感じる」ある種の不快に耐えられることでもあります。思いやりは共感と想像力の掛け合わせであり、勇氣と知恵と実践力が要る、多くの人が経験されていることでしょう。
「不快な感情はOKだ」にしておくと、良心、倫理観、品位という歯止めを、私たちがより高いレベルで保ち続けることにも繋がります。
判断力のための違和感
ところで判断には、瞬時の快/不快でざっくりと大別し、そして後から「~だから」と根拠をくっつけていることもあります。
ですから、「みんなは『これがいい』『この人がいい』と言うけれど、私はどうしてもそう思えない」という違和感も、判断力のためには大変重要です。そして違和感は不快な反応です。
「あれ、何か変だな・・・」程度の違和感は、ごく小さいものでしょう。しかしできるだけ小さいうちにキャッチし、あらゆる角度から考えてみる、この思考の訓練が健全な判断力となり、私たちの身を守ります。
騙されるとは、前後の矛盾に氣づかない、違和感を自分から無視し続けることも一つの要因です。2025年夏、コロナ騒動開始から丸5年が経過しても、外気温40℃近い炎天下でもマスクを外さない人達は、本能が教えてくれる筈の違和感がすっかり摩耗してしまったのではないかと、私はほとほとうなだれる思いがしました。この緩慢な自殺をもう誰も止めようがありません。日本人の自尊感情の低さここに極まれりと、私は深く嘆息していました。
「不快な感情が自分を守ってくれたこととは」について、主に二つの分類で挙げてみました。皆さまが独自に発見されたことがあれば、それもまた大切にして頂ければと思います。
感情受容⇒葛藤耐性⇒「感じつつ巻き込まれにくい」客観性
上記の何か一つでも、ご自身で試されてみてこそ、「これをやってみたらいいかも」と新たな一歩が開けるかもしれません。また、「これでいいのかな?」と思うのは、新たな視界が開けている証拠でしょう。
感情受容の器を育てるのが何故大事なのかは、冒頭で触れた抑圧や否認という心理的防衛に頼らないためだけではありません。それを超えて、葛藤耐性を高め、「感情は否定せずに起きた出来事を客観視できる」力をつけるためでもあります。
不快な感情を受け止める感情受容
⇒葛藤耐性の強さ
⇒感情を否定せず、感じながら起きた出来事に巻き込まれにくい客観性
このような道筋だとイメージして頂ければと思います。
この客観性に至ると、「もう、あの人どうにかしてよ!」と叫びたくなることは起きても、それだけには留まらず、「何が起きているのか。そしてこの状況に、私は何をする、或いはしないのが最も良いのか」の問いを自分にすることができます。これが、その次の段階の「背景や構造を考える」とも言い換えられます。
「背景や構造を考える」に進めるかどうかが、「永遠に終わらない欠席裁判」から抜け出せるかの鍵とも言えます。但しその前に、或いはそれと同時に、感情受容が非常に重要で、弊社の心理セラピーはセッションを通じて「クライアント様ご自身が、ご自分の感情を受け止める器を育てる」そのお手伝いをしています。
