結果が出るクライアント様の条件「小さな行動を軽んじない」
結果が出るクライアント様、そうでないクライアント様は大体決まっています。これはご相談内容の深刻さとは関係ありません。
一番大きいのは「だって、どうせ」(「世間が、会社が、みんながそう言うから、そう見るから」「私が駄目だから、やっても無駄だから」)です。これをやっている間は堂々巡りになり、結果は決して出ません。
もう一つは、「小さな行動を決して軽んじない」です。セッションとセッションの合間に、小さな宿題をお出ししています。それを決して馬鹿にせずやることです。
次回のセッションの冒頭で「宿題をやってみて、どんな変化や気づきがありましたか?」と必ず質問します。色々言い訳してやらなかった人、もしくは口先だけで「やった風を装う人」は、当然のことですがこれもまた結果は出ません。
やった風を装って、私を騙すのは簡単です。私は千里眼ではありません。ごく普通の限界のある人間ですから、騙されることもあります。
しかし一体誰のためのセッションなのでしょう?宿題をやらなかったことは、私は騙せても、或いは表面上は自分をごまかせても、肝心の自分の潜在意識は騙せません。もっと言えば、魂は騙せないのです。
「宿題をやらずに、足立に嘘をつく」その人生のレールの上を歩むのはご自身です。
小事を大事にするための「誰が見てなくても」の陰徳
小さな行動を軽んじない、即ち「小事を大事に」するために、陰徳の宿題を出すことがあります。陰徳とは、ゴミ拾いや、洗面台の周りの水滴を拭くとか、トイレのスリッパを揃えるとか、小さな、しかし少し手が汚れる、身が痛む、人が進んでやりたがらないことを「黙って」やることです。
「私こんなことやったの!」と間違っても人にアピールはしません。それをやると陽徳になります。誰が見ていなくても、気づかなくても、毎日ひとつでいいからやり続けます。
それは損得勘定抜きで行動できる、即ち勇気を養うためです。
① 弊社Pradoの心理セラピーを受けようと決めたきっかけはどのようなことでしたか?私は以前からずっと人の目が気になり、「嫌われたくない、悪く思われたくない」気持ちが抜け切れませんでした。今の職場は良い人たちばかりで、誰も私を悪く思[…]
陽徳では損得勘定が付きまとう
陰徳は仏教の言葉ですが、キリスト教でも「右手がすることを左手に知らせてはならない」と同じことを言っています。真の宗教は、違いよりも寧ろ、共通するものの方が多いです。
陽徳になると、人から評価される、されないが付きまといます。「結果として」評価されれば嬉しいでしょうし、それを励みにするのも良いでしょう。しかしそれが目的になれば、誰の何のためなのかわからなくなってしまいます。
評価されなかったらがっかりするようでは、相手のためになっていません。陰徳は「評価されようとされまいと『これが大事だ』と思ったことを実践できる」自分を養うためです。
人様のためでもありますが、回り回って長い目で見れば自分のため。これが腑落ちするかどうかです。
損得が動機になると勇気が出ない・勇気のない愛はない
何故目先の損得が動機になるのが良くないのかですが、損得勘定で動く人はまず信頼も尊敬もされません。
特に誰かが窮地に立たされた時、損得で動く人は真っ先に雲隠れしたり、見て見ぬふりや、誰かのせいにして言い逃れしたり。そうした卑怯さを人はよく見ていて、そして忘れません。平時はごまかせても、いざというピンチの時は、メッキはすべて剥がれ落ちてしまいます。
一旦卑怯者の烙印が押されたら、名誉挽回は並大抵のことではありません。寧ろ「あの人、前もあんなだったのよ」と以前なら目をつぶってやり過ごしてもらえたことが、蒸し返されるものでしょう。
勇気がないと人は自己保身に走ります。その言い訳は何でもできてしまいます。
その在り方は愛がある態度とは言えません。勇気のない愛はないのです。
一大事の時にこそ怯まないために
小事を大事にするのは、色々な意味があります。危機管理は如何に小さなほころびのうちに発見できるかで、これも常日頃から小事を大事にする習慣があればこそです。
そしてまた、こちらがどんなに危機管理を怠らなかったとしても、やはり危機、つまり一大事は起きます。
そして一大事の時こそ、パッと動けなくてはなりません。足がすくむ暇さえないのです。
人生に一度か二度しか経験しない、そしてある程度の年数を生きれば免れることはできない一大事の時、勇気をもって処せるかどうか。そこにその人の真価が否が応でも現れます。
その一大事が終わってしまってからでは、取り返しはつきません。その時のためにこそ、平時の時から「小さな勇気を発揮する」小事を大事にする陰徳の習慣が不可欠なのです。