クライアント様が共通して達する境地”This is me. ”
弊社のクライアント様のご相談内容や、置かれている状況は千差万別です。しかし、自分と向き合うことから逃げず、「今の自分にできる小さな一歩」を馬鹿にせずにコツコツと取り組まれたクライアント様は、”This is me. ”の境地に至ります。
「あるがままの自分」「等身大の自分」とは、この”This is me. ”のことなのです。今の自分、それ以上でもそれ以下でもない自分、でも世界に二人といない自分と仲良くし、大切にする。これはいわゆる開き直りではありません。勿論向上心を失うことでもありません。
”This is me. ”の境地に至ればこそ、おのずと「挑戦したくなる」「色々な人、世界に出会いたくなる」つぼみが自然と花開くように、誰が何を言ったりしたりしなくても、おのずからそうなっていきます。
その瞬間に立ち会わせていただけるのは、セラピストとして冥利に尽きるものです。私はその瞬間のためにこそ、この仕事をしているのだと思います。
自分の怒り、憎しみ、弱さを認めるのは勇気が要る
弊社のセッションで、どのクライアント様にも取り組んでいただいているのが、「どんな感情も否定せず、大切に受け止める。特にネガティブな感情ほど大切にすること」です。
自尊感情は無条件のもの自尊感情(self-esteem)とは、「どんな自分でもOKだ」という充足感の伴った自己肯定感です。お金や能力や美貌や、学歴や社会的地位など条件で自分を肯定していると、その条件が消えたとたんになくなっ[…]
「見たくない自分」を認めていくのは、勇気が要ります。そしてその勇気は、人からの評価を得られる類のものではありません。
遠藤周作の小説「死海のほとり」に、以下のようなシーンがあります。
戦前、カトリック大学に通っていた主人公は、ある週末御殿場のハンセン病患者を慰問することになりました。本音は嫌でたまらなかったのですが、積極的な同級生からさげすまれるのも嫌で、しぶしぶ参加することになります。
そして比較的軽症の患者たちと野球をすることになりました。
遠くから見ると、これらの軽症患者の選手たちはどこにも変わったところがないように見えた。だが、
「お願いします」
と帽子を抜いで彼等が丁寧に頭をさげた時、私はそのある者の頭に銭型大の毛の抜けた部分があり、他の者の唇は火傷のようにひきつり歪んでいるのに気がついた。(略)試合はいつの間にか進み、私が打者になる番がまわってきた。思いきってバットを振ると重い手ごたえを感じ、泥によごれた灰色の球が遠くに飛んだ。走れと誰かが叫び、一塁を夢中で通りぬけて二塁に駆けだした時、サードからボールを受けとった患者が追いかけてきた。二つのベースではさまれた私は、ボールを持った癩患者の手が自分の手にふれると思うと足がすくんだ。二塁手のぬけ上がった額と厚い歪んだ唇を間近に見た時、思わず足をとめて怯えた眼でその患者を見あげた。
「死海のほとり」遠藤周作
「おいきなさい・・・触れませんから・・・」
しずかにその患者は小声で言った。
これは遠藤周作自身の体験であり、この小説のみならず、エッセイでもたびたび書いています。
私はこの小説を最初に読んだのは20代後半でした。このシーンが心に残ったものの、こうしたことを公になる文章で書くことは、勇気の要ることであり、皆が皆やることではないのだと思い至ったのは、それから20年くらい経った後でした。
ほとんどの人はまず自分に言い訳をし(「だって・・」)、そして見て見ぬふりをして忘れ去ろうとします。或いはその自分を「駄目だ駄目だ」と責めて、自己憐憫に埋没します。言い訳して見て見ぬふりも、ただ自分を責めるのも、「弱く、臆病な自分」をなかったことにすること。つまりナルシシズムからくる自己虐待なのだということに気づかないまま、一生が終わることも少なくありません。
他人からは気づかれにくいことが、本当に価値あること
また、30代初めにあるカトリック教会での一日黙想会(指導神父を招き、ある一つのテーマに沿っての講話を聴き、祈りを捧げ、文字通り「黙って想う」こと。希望者は黙想中に神父に面談が申し込める)に参加した折、その日のテーマは「あるがままの自分」でした。
まだ若かった私は、神父様との面談で「あるがままの自分で良いとは思えないし、他人に対してもそう思えない」と率直に申し上げました。
神父様は私の言葉の内容の是非には触れず、つまり私をジャッジせず、私が今日のテーマについて真面目に考えようとした態度に、まず感謝してくださいました。そして短い話をされた後(その内容は忘れてしまいましたが)、聖堂で天使祝詞(アヴェ・マリア)を三回唱えて祈るようにとおっしゃいました。
大変申し訳ないのですが、その神父様の名前を失念してしまいましたが、何か心に残ったのでしょう。20年経った今でも、その時のことを忘れがたく思い出します。
今にして思うと、神父様が私に取った態度こそ「あるがままのあなたでいい」というメッセージだったのだと思います。たった一日の黙想会で「あるがままの自分でいい」と思えるようなものではないことは、誰よりも当の神父様がわかっていたことでしょう。譬えどんな優れた人であっても、いつ芽を吹くかわからない種まきができるだけなのです。
そしてまた、私が当時の神父様の年齢に近くなって、あの時の態度はさすが宗教家だと改めて感銘を受けるのです。
誰の目にも「わあ、凄いわね」とわかるものは、嵐のように過ぎ去る一過性のもの。自分の人生に否が応でも痕跡を残し、影響を与える非凡な態度は、気づかれにくい地味なものだと思います。
人の目、評価評判に二度と振り回されなくなる”This is me. ”
”This is me. ”は一種の境地です。読書や人の話を聴くのはきっかけにはなりますが、それだけでこの境地に到達できるものではありません。
よく質問されるのは「自尊感情が高まれば、悩むことがなくなるのですか?」ですが、そうではありません。不安や、苛立ちや、悔しさは、むしろ「感じることが多くなる」とさえ言えるでしょう。その自分も”This is me. ”なのだということです。
しかし何の実態もなく、決して自分の人生に責任を取ってはくれない人の目を気にして、何かをするとかしないとかいうことはなくなります。それをしている内は”This is me. ”ではありません。
”This is me. ”とは言葉を替えれば、自分をごまかさずに正直に生きるということ。そしてそれは、他人からは決してわからない勇気が要ります。その勇気を振り絞った自分を知っているから、「外側に何かを求めなくなる」。外側とは、世間とか、評価評判とか、誰か力のある人とか、「マスクはマナー」だとかです。
経済面や健康面での不安が、全く消えてなくなることはないでしょう。人間関係の悩みも、死ぬまで付きまといます。しかし、それらに人生を乗っ取られることはなくなります。そのままの自分で、今できること、やるべきことに意識を向けられるようになるからです。
この境地に至る条件は、「だって」「どうせ」を言わず、自分をごまかさず、小さな一歩を軽んじない、昔から言われている当たり前のことなのです。