抑圧でもなく外投げでもない・感情を「抱えられる」ために
前回は「【腹側迷走神経の活性化】身体・神経系が安全を感じる重要性」について詳述しました。True Selfを生きるためには、まず身体の神経系が「安全だ」と感じることが基礎になります。
True Self(真の自己)と腹側迷走神経の関連性前回の記事では、True Self(真の自己)を生きることについてまとめました。[sitecard subtitle=関連記事 url=https://prado-ther[…]
身体の基礎作りの次に、今回は感情をどう扱うかについて深掘りします。True Selfが生き生きと生きているためには、自分の感情をそのまま感じられることがとても大切です。
ですが、感情をそのまま感じるのは、実は難しく、勇氣が要ります。
感情を恐れていると、感じる前に抑圧(抑えつける)たり、否認(見て見ぬふり)をしがちです。所謂「いい子」の仮面をかぶり、しかし内心ではイライラや自己否定感がつのったり、またそれを抑えつけるという悪循環に陥りやすいです。
また逆に、怒りは感じられるようになっても、腹側迷走神経が活性化されず、身体が安全だと感じていないと、「私がこの耐え難い辛さに耐えなくて済むように、あなたが変わって」を人はどうしてもやりたくなってしまいます。でも、誰しも経験するように、相手は中々変わらないものです。そこでまたイライラし、怒りの外投げが延々と続くことも起こりがちです。
この怒りの外投げは「相手が悪い、私は悪くない」の自己正当化が伴うため、脳にドーパミンという強い快感が伴う脳内伝達物質が放出されます。正義中毒と呼ばれる現象は、ドーパミン中毒の一種なのです。
自分の怒りを抑圧せずに感じられ、それを「あの人どうにかして!」の外投げという形で表現できる、その段階まで達する人はそこそこいます。怒りや嫌悪は「そこには近づいてはならない」「自分の領域が侵されている」境界線のための大事なセンサーにもなり得ます。
しかし、自分は怒ることができても、他人の怒りや悲しみ、動揺を受け止めきれない場合、それは実はまだ「感情を恐れている」段階です。怒りという感情を恐れ、ないものにしたいからこそ外に投げて解消しようとしています。
「あいつ死んじまえ!地獄に落ちろ!」と思っても、また周囲に人のいない時に声に出しても良いのです。後述しますが、吐き出した後に「ヤダったね」「辛かったね」と傷ついた自分を迎え入れるプロセスを付け加えるかどうかで、感情を抱えられるようになっていくからです。
感情を認められないとFalse SelfがTrue Selfを飲み込んでしまう
子供の頃に、親から「一体どうしたの?」と訊かれる前に、「そんなことで怒る(泣く)んじゃない」「後ろ向きだ」「被害者意識が強い」などと、感情を受け止めてもらえなかった人は、「怒ってはいけない。辛そうな顔を見せてはいけない」「感情は危険だ」と無意識のうちに学習してしまったかもしれません。
それが引いては「自分が何を感じているのかよくわからない」の感情失認になってしまうことがあります。この感情失認は、アパシーという感情麻痺だけでなく、「何だかわからないけれどイライラする。モヤモヤする。妙に疲れやすい」といった不定愁訴として現れることも多いです。
また、「自分が『嫌だ、これはおかしい』と感じる前に、『これが正しい』と周囲が決めたこと、もしくは『周囲から期待されること』に従い、『自分は正しく振舞っている』と思い込もうとする」自己欺瞞になることもあります。これらはいずれもFalse Self(偽の自己)の一環です。
大人は「こんなのおかしいし、変だよね」と本音では思っても、その場では本音を抑えざるを得ないこともしばしばあります。本音、即ちTrue Selfがわかった上で、今はFalse Selfで対応していると意識出来ていれば、False SelfがTrue Selfを飲み込んでしまうことにはなりません。
しかしこれは、「本音と外側に現れる態度」に乖離があり、葛藤を伴います。葛藤耐性が低いと、「仕方がない」「それが正しいと言われたから」「皆そうしている」などと合理化し、葛藤を避け、結果False SelfがTrue Selfを飲み込んでしまうのです。
コロナ期の一億総マスクは、False SelfがTrue Selfを飲み込んでしまった現象とも言えるでしょう。「皆がそうしている」は、その行為の正当性の保証にはなりません。しかし、「自分だけじゃない」は理屈を超えた安心感を生み、葛藤を回避できてしまいます。一旦「皆がそうしているから」と自己正当化すると、それに「こんなのおかしくない?」「今までこんなことなかったでしょ?」「一体いつまでやるの?」と疑問を持ち、葛藤しながら検討することができなくなってしまうのです。
【自己受容】まず感情が「ある」と認める
自己価値感が非常に低い、言い換えると自己否定感が強い場合、後述する自己慈悲「ヤダったね」がすぐにはできないことも、そう珍しくありません。「自分には優しくされる価値がない」と心の奥底に刻印されてしまっていて、慈悲、愛、優しさが居心地が悪くなってしまうのです。
その場合、感情や感覚が「ある」と認める、自己受容からスタートします。
「何かモヤモヤする」「胸が重苦しい」「肩や背中がこわばっている」「呼吸が浅い」「頭が重い」等の、体の感覚が大事なサインでもあります。その体の感覚に、掌を当てられる場合は当ててみます。手を当てられない箇所だったり、仕事中など手を当てられない時は、その体の箇所に意識を向けてみます。
そしてただ、「そこにあるね」「見てるよ、知ってるよ」など、良い悪いの評価を入れずに「ただあるんだね」と意識を向けます。これが自己受容の基礎となります。
人は慰められるよりもむしろ「存在をただ認めて欲しい。無視しないで欲しい」と根源的に願っていることも、非常に多いです。それを自分の体の感覚に対して行います。
【自己慈悲】「ヤダったね」と優しく迎え入れる
自己受容ができるようになったら、「ヤダったね」と心の中で、或いは声に出して、優しく自分に心の中で言ってあげる、自己慈悲の練習に移ります。
この時、胸に掌を当てると、アンカーになるのでお勧めです。胸は神経細胞が集まっている箇所です。そこに掌の温かさと「ヤダったね」の声掛けがセットになり、繰り返されると胸に掌を当てただけで自己慈悲の状態に近づけます。
子供の頃、嫌なこと、辛いことがあった時に、母親に「そう、そんなに辛かったの。ヤダったね」と優しく迎え入れてもらえると、辛い出来事そのものは変えられなくても、出来事の意味合いが変わります。「辛いことがあっても、私は優しく支えられる。私は独りぼっちじゃない」物語の結末が変わって、脳の中に記憶されます。
愛が不在の家庭だと(無視・無関心や「そんなことでめそめそするんじゃない」と事情を聴かずに裁かれるなど)、辛かった経験がそのまま「私には何の支えもない。独りぼっちだ」の物語の結末として、記憶が積み重なってしまうのです。その物語の結末の書き換えを、大人になった自分がやっていく、とイメージしていただければと思います。
痛みの外投げをせざるを得ないことも、沢山起きるでしょう。一人でいる時に、思い切り声に出して吐き出した後、できれば直後、それが無理なら6時間以内に「ヤダったね」「辛かったね」「我慢してたね」「よく言えたね」「もっと言っていいんだよ」等、短い言葉で充分なので、投げっぱなしにはせずに、最後に自己慈悲でくるみます。
そうすると、脳の記憶の意味合いが変わります。事実そのものよりも、それをどう意味づけられたかの方が、回復にとっては大切です。「私はここにいて良いのか」の存在抹消の恐怖や、「そのままの自分では価値がない」核心的羞恥が少しずつ薄れていくでしょう。
「自己受容+自己慈悲」と腹側迷走神経の活性化
自己受容は土台、自己慈悲は栄養のような関係です。違いを表にすると以下のようになります。
| 項目 | 自己受容 | 自己慈悲 |
| 焦点 | 「受け入れる」受動的 | 「優しくする」能動的 |
| 温度 | 比較的ニュートラル | 温かく、慈しみがある |
| 必要なタイミング | まずは「これがある」と認める | 痛みや苦しみを感じているとき |
| False Selfとの関係 | 残り香を「ある」と認める | 残り香が出てきた自分にも優しくする |
| True Selfの回復 | 基盤(現実を直視する力) | 推進力(癒しと成長のエネルギー) |
いずれも腹側迷走神経の活性化に伴い、自然にできるようになり、この自己受容と自己慈悲がまた、腹側迷走神経を活性化させるという、相互作用になります。
弊社の心理セラピーでは、クライアント様にまず自己受容・自己慈悲ができるようになり、習慣化していただくことを取り組んでいただいています。
まず今現在の感情を受け入れ、自己慈悲で包むことから始め、そして抑圧してしまった未消化の怒りや悲しみ、理不尽さなどの辛い感情を解放する。辛い感情の解放が「耐性の窓」を少しずつ広げる。これについては次回の記事で詳述します。
