思い通りにいかないことを面白がれる、心のゆとり
感謝という境地③の「『私に不快を味わわさせないで!』を望んでいる間は」にも書きました通り、人生の主体性を失うこと、逆から言うと責任を放棄し、被害者意識に陥りがちな間は、感謝の境地には至れません。
昨今よくありがちな「権利意識は強いけれど、義務と責任からは逃げる」態度は、感謝という境地とは正反対のものでしょう。
しかし私たちは、思いもよらなかった不都合で不愉快なことがあると、「何でこんな目に遭わなきゃならないの!」と被害者意識に陥りがちです。
自己中心性とは、必ずしも単なるわがままとは限りません。「世界は自分が考えたとおりにあるべきだ」が自己中心性です。
期待や、理想なども、実は自己中心性の発露になってしまうこともあります。ですからどんな人でもー真面目に頑張る人であればあるほど、実はー、知らず知らずのうちに持ってしまっています。
そして、これがひいては「何でこんなことするの!信じられない!」「普通はこうでしょ!」を引き起こしてしまいます。
勿論相手が、ルールや義務を守らなかったり、言われのない無礼なことをした時に、怒りを感じ、時には抗議することも当然のことです。また、価値観や信念のぶつかり合いが、悪いわけではありません。言葉を尽くして話し合い、乗り越えてこそ真の信頼が築けることもあります。
ただ、それらのことが「全て過ぎ去った後」(渦中にいる時はさすがに動揺もし、不安にもなります。この感情そのものを否定せず受け止めることは自尊感情にとって必須のことです。)、「世の中間違ってる!」とか、「こんな目に遭わなければならない私は可哀そう」だとかに自分を留めてしまうと、それは自己中心性に囚われたあり方と言えるでしょう。
自分は世界の王様でもなければ、ルールブックでもない。世界は自分だけの「あるべき論」とは違う原理で動いています。
このことにどれくらい気づいているかが
「こんな奇想天外なことが起こるなんて、本当に人生ってわからないものね」
「世の中いろいろな人がいるのね」
「ほんと、退屈しないわ・・・!」
と面白がれる心のゆとりを生むでしょう。
感謝の境地とは、自己中心性とは正反対の、謙虚さのあらわれです。傲慢な人が、どんなことにも感謝の心を持つということはありません。
「人生を楽しむことが大切よ。大切なのは、それだけ」オードリー・ヘップバーン
オードリーの人生は、その映画のように必ずしもいつも、華やかで順風満帆ではありませんでした。母親との葛藤や、二度の離婚など、私生活では苦難を伴っていました。
この「人生を楽しむこと」は、「楽しいことをする」ことではありません。
真面目な頑張り屋ほど陥りやすい「楽しみ下手」責任感の強い頑張り屋ほど、他人を喜ばすための努力はしても、自分自身を楽しませるのが下手なことがあります。後で詳述しますが、楽しむこと=頑張っていないこと、とか、楽しむこと=遊ぶこと=後[…]
自分の期待を裏切られることが起きた時にも、楽しめる、心のゆとりのことを指すのです。
この世は算数通りにはいかない
例えば、お客さんのことなど何も考えていない、上に取り入ることだけが上手な人が出世して、お客さんや部下のことを真剣に考える人が出世しない、ということは、多分どんなところでも起こっていることでしょう。
「上に取り入ることだけが上手な人」の部下になった人は、さんざんな思いをするでしょう。愚痴のひとつもこぼしたくなっても当然です。
この世は算数通りにはいきません。
そうした状況になった時に、ただ愚痴を言い続けるだけに終わるのか、できるだけ巻き込まれないための、自分の引き出しを増やす機会にするかは、自分次第です。
そして算数通りにいかない、つまり努力は報われないこともあります。その時に「報われないのならやめる」のか、「報われなくても、これが大事だから、やる」のかが人間の品位を左右します。
この品位の高さが、自尊感情の高さにつながっています。
「報われないのならやめる」は、「許してくれなければ謝りたくない」と同じです。それは打算であり、取引です。
ぶれない自分とは、頑固一徹で「こうあるべき!」を振りかざすことではなく、むしろ引き出しを多く持ち、柔軟性を持って事に当たれる態度です。
そうした柔軟性があってこそ、被害者意識に陥ることが減っていきます。その結果、自然と「感謝のある人」の境地に至るのでしょう。