真面目な頑張り屋ほど陥りやすい「楽しみ下手」
責任感の強い頑張り屋ほど、他人を喜ばすための努力はしても、自分自身を楽しませるのが下手なことがあります。
後で詳述しますが、楽しむこと=頑張っていないこと、とか、楽しむこと=遊ぶこと=後回しにするべきこと、などの意味づけをしていると、楽しむことに罪悪感を感じてしまいかねません。
しかし、コンスタントに結果を出している人は、決して楽しみ下手ではありません。
寧ろピンチの時ほど、ユーモアを見せて周りを安心させようとしたり、忙しい時でも心にゆとりがあって、「ああ、この人素敵だなあ」と思わせるものを持っています。
これは常日頃から、自分を楽しませる好奇心や、感性を養っているからでしょう。人は平時にできないことは、非常時にはなおさら出来ません。
真面目に頑張って成果を出し、承認を得る。このサイクルのみで生きると、やがて行き詰ります。と言うのは、それは結果だけで自分をジャッジし続けることだからです。「100点取ったら愛してやる!」を自分にやってしまっています。
それでは何のための人生なのか、しかし享楽的な娯楽で憂さ晴らしをするのは何か違うと、疑問に感じる人のための、考えるヒントです。
仕事や勉強を「頑張る」だけではバランスを崩す
人間の潜在意識は建設中の高層ビルのようなものです。
人は何か問題なり目標なりがあると、そのことだけをどうにかしようとしてしまいがちです。
しかし、例えばそれが仕事の分野であれば、仕事以外の分野、健康や家庭、友人、地域社会との関わり、趣味、お金の使い方や、教養やマナー等も上手くできて初めて、仕事も上手く行きます。
仕事が一流の人が、実は家族をないがしろにし、暴飲暴食をし、借りたお金は踏み倒し、身だしなみやマナーがなっていない、ということはあり得ません。
仮にそうした人がいれば、いつか必ず大きくバランスを崩します。仮に人目には触れなかったとしても。
仕事や勉強だけを「頑張る」のは、高層ビルの一本の柱だけを高く建設しようとするようなことです。高くなればなるほど、つまり努力を積み重ねればこそ、バランスを崩す危険性も大きくなります。
頑張って能力も伸びたし、或る程度の成果も出せたけれど、何か行き詰まりを感じている時は、この「高層ビルの一本の柱だけを高くしようとしていないか」を振り返るサインです。
「仕事だけが出来る人」はいない理由潜在意識の成長は、例えて言うならビルの建設のようなものです。一本の柱だけ高く建てても、ビルは完成しませんし、却ってバランスを崩してしまいます。というのは、例えば仕事が出来る人とは、「仕事だ[…]
脳の中の辞書に「楽しむ」はどう意味づけされているか
また人はそれぞれ脳の中に辞書を持っていて、その辞書の通りに世界を意味づけしています。
この辞書は、抽象度の高い言葉であればある程、人によってそれぞれ意味づけが異なります。
楽しむことが下手な人は、その人の辞書の「楽しむ」という項目に、何かネガティブな意味が書かれているでしょう。だからこそ、楽しむことに罪悪感を感じ、躊躇してしまいます。
例えば、
楽しむ=遊ぶ=頑張った後にすること、とか
楽しむ=真面目じゃない=人から認めてもらえない、とか
楽しむ=いい加減=人に迷惑をかける、等々。
脳の中の辞書は目に見えず、意識できていません。そのため一度意識化し、辞書の意味づけを変えない限り、楽しむことへの罪悪感は消えません。
脳内の辞書が、楽しむ=単なるレジャー、お楽しみとだけとらえていると、「今はそんなことをやっている場合じゃない!」になりやすいです。
理想を高く掲げて努力する人ほど、「自分はまだまだだから、そんなお楽しみは後で!」になり、結果燃え尽きてしまいかねません。
「美味しいものを食べる」と「美味しく食べる」、「楽しいことをする」と「楽しむ」の違い
ところで、「美味しいものを食べる」と「美味しく食べる」は違います。全く似て非なることと言ってよいでしょう。
「美味しいものを食べる」は、「美味しいもの」の存在が、自分の幸福を左右しています。極端に言えば、「美味しいもの」の存在の有無が自分を支配しています。
「美味しく食べる」は、その食べ物がどんなものであろうと、それに左右されていません。自分自身が食べものを支配しています。主体性を発揮できています。
「楽しいことをする」と「楽しむ」も実は同じです。
すぐできる小さな「楽しいこと」、ストレスマネジメントでは「コーピング」と呼ばれ、お金がかからず、一人で、すぐにできることをたくさん用意しておくことが推奨されています。例えば、お茶やコーヒーを味わって飲む、窓の外を眺めながら軽く伸びをする、仕事帰りにウィンドーショッピングをする、など。
しかしそればかりでは、例えば猫動画や通販サイトばかり見て、ただ現実逃避する、そんな事態になりかねません。
自尊感情における「楽しむ」とは、その状況自体は決して「楽しいこと」ではないけれど、「楽しもう」とする心の余裕を養うことです。これが真の「人生を楽しむ」態度になります。
そしてこれは常日頃のちょっと面倒くさいことを「どうせやるなら楽しんでやろう」とする、小さな訓練の積み重ねの結果です。
これには、自分を突き離して眺め、卑下ではなく、ちょっとおかしく思う客観性が必要です。
ユーモアとは、「自分を突き離して眺め、お真面目で深刻になってしまっている自分を笑う」という態度です。ユーモアがある人に心の余裕を感じるのは、この客観性のためです。
ジョークやウイットは、持って生まれたセンスの有無に左右されますが、ユーモアは違います。誰もが努力次第で身につけられる、逆から言えば努力がなければ、身につかないものです。
足を踏まれた時に痛がるのではなく、面白がれ、ということでは決してありません。
足を踏まれたら痛い、その痛みや悔しさ、情けなさ、怒りや悲しみをそのまま感じ、受け止めつつ、でも溺れない。それらも人生の味わい深さであると、もう一人の自分が客観的に捉えなおすことです。悲劇のヒロインになりたがっているときに、このユーモアの姿勢は養えません。
また、イギリスのことわざに「ユーモアは隣人愛に次ぐ美徳だ」があります。ユーモアは単に面白おかしいことではなく、人間の人間らしさの一つです。悲劇のヒロインでいることを潔しとしない態度の、その結果としてのユーモアでしょう。
生まれた以上は、生老病死の四苦を始めとした八苦、愛別離苦(あいべつりく)・怨憎会苦(おんぞうえく)・求不得苦(ぐふとっく)・五蘊盛苦(ごうんじょうく)があって当たり前です。
「自分の人生から嫌なことは取り除かれるべきだ」という被害者意識の態度では、「楽しいこと」に現実逃避はしても、「楽しむ」態度は養えません。
そしてまた、「楽しむ」態度はプロセスに心を込める、そうした態度です。打算的になった大人である私たちは、つい結果に一喜一憂してしまいます。子供たちが砂場で砂山を作る、その創意工夫のプロセスを子供たちは楽しんでいます。私たち大人は、子供たちから「楽しむ」態度を教えてもらえます。
面倒に感じる時、少し口角を上げるところから
このように考えていくと、自分に厳しい努力家の人も、「楽しむ=後回しにすべきこと」から、「楽しむ=客観性」「楽しむ=人生の達人の態度」と脳内の辞書を書き換えられるかもしれません。
では、具体的に何から始めるか、です。
「話はわかったけど・・・」だけでは、結局同じことが繰り返されてしまいます。
日々の小さな「面倒だな、後回しにしたいな」と感じることに、軽く口角を上げてみることをお勧めします。
顔の表情筋には、アンカーと言って私たちの反応が結びついています。
試しに口角を上げながら、不機嫌になろうとしてみて下さい。できませんね?
逆に口角を下げて、楽しいことを考えようとしてみて下さい。これもできないはずです。
口角が上がる時、それは私たちが笑顔でいる時です。仕事中は、にやにやしているのはおかしいので、不自然にならない程度に口角を上げてみましょう。口角を上げるだけで「楽しんでいる状態」に先になることが出来ます。
人は楽しいことが起きるから、楽しい状態になると考えがちですが、楽しんでいる状態になっていればこそ、既にある自分の身の回りの出来事が「楽しく」なります。
勿論、どうしても辛かったり、怒りを感じている時に、無理に口角を上げるのは不自然です。そうした時は、「辛いんだなあ」「怒りを感じているんだなあ」と自分の感情を否定せず、受け止めることが先です。周囲に誰もいないところで、思い切り溜息をついてしまってから、少し伸びをしたり首を回したりなどの軽いストレッチをして、それから口角を上げてみましょう。ため息をつきたくなる自分も、否定しないことが大事です。
楽しむ態度は、まずは自分に優しくすること、引いては周囲がホッとしたり、リラックスできる、その順序が大切です。
楽しむ心のゆとりがあればこそ、視野は拡がる
出来る人ほど心のゆとりがあり、楽しみ上手です。というよりむしろ、心のゆとりを持とうと意識的な努力をすればこそ、出来る人になり、また周囲からは「あの人、いつも楽しそう」に見えるのでしょう。凛と一本筋が通っていながら、心の柔らかさも併せ持っているようです。
また、歴史的に辛い状況に長く置かれた民族ほど、ユーモアのセンスに富んでいるそうです。
私たち人間はどんなに苦しいことがあっても、生きなくてはなりません。そうした時、視野が狭くてはよりよく生き延びることはできません。広い視野は、しなやかなタフさと表裏一体です。
楽しむ心のゆとりはよりよく生きるため。まず、自分がよりよく生きてこそ、人様の手助けができます。
楽しむことは、単なる遊びでも、いい加減なことでもなければ不真面目なことでもありません。
広い視野を持った人生の達人になるための、終わりのない態度の一環なのです。