「まだ足りない、まだ足りない」「私が欲しいのはこれじゃない!」
感謝ができる、ということは、当たり前のようですが「ありがたいなあ」と心から思えていることです。
「ありがたい」を漢字で書くと「有難い」になります。つまりそれは、なかなか有り得ないこと、手に入れられないこと、得難いことだとその価値を感じている、ということです。
どんなに恵まれた環境にいても、「ありがたい」と感じていないと、人はそれが当たり前だと思いあがってしまいます。そしてともすると、「まだ足りない、まだ足りない」「私が欲しいのはこれじゃない!」に陥ってしまい、自分も周囲の人をも疲弊させます。
人が自分にお膳立てをしてくれて当然、そうしなかったら文句を言う、そしてそうした人ほど「自分では何もしない」のが世の常のようです。と言うよりも、「自分では何もしない」からこそ、そのありがたみが理解できない、実際に起こっているのはこうしたことでしょう。
自分にとって都合の良いものやことを、手に入れたから「ありがとう」と言うのは、実は本当の感謝ではありません。それは感謝ではなく僥倖を喜んでいるだけ、今風に言えば「チョーラッキー!」。「ついてる/ついてない」も同じで、結局は自分の損得勘定に振り回されています。
大事なことは、それが本当に「得難い」「有難い」と感じているか、ということです。
自分がそれを生きていないと「得難い」「有難い」と思えない
ではどうしたら、「得難い」「有難い」と思えるようになるのでしょうか・・・?
一つには、「それがない状態」を経験することです。例えば、大病をした人ほど健康のありがたみがわかると言います。
断水したり停電したりすると、水や電気のありがたさがわかるのも同じです。
しかしこれらは、「自ら進んで」経験することでは基本的にないでしょう。(中にはわざわざ、「無人島でサバイバル生活を送る」人もいますが、ごく少数です)
もう一つは、「自分がそれを生きている」からこそわかる、ということです。
どういうことかというと、例えば片思いをしていた異性に思い切って告白する、これは相手を好きであればあるほど、とても勇気がいります。
告白された時、その相手と付き合うかどうかは別として、心から「ありがとう」と言える人は、それがどんなに勇気の伴う「得難い」ことかがわかっている人です。
その人も「勇気を振り絞ることの大変さ」を、人生のどこかで経験していればこそ、相手の大変な思いがわかるのです。
自分が勇気を振り絞ることから逃げ、「誰か代わりにやってくれないかなあ」と虫のいいことを考えてばかりいる人は、「自分が大変な思いをせずにすんでラッキーだ」とそれこそ損得勘定で思えても、心から「ありがたいなあ」とは思わないでしょう。
以前の記事の「『惚れさせる』ことが目的の人には近づかない」にも書きましたが、こうした人は「相手が勇気を振り絞って告白したり、デートに誘ってくれること」を「チョーラッキー」とは思っても、「ありがたい」とは思っていません。
「異性を自分に惚れさせる」だけが目的の人世の中には「ターゲットにした異性を自分に惚れさせる、気を引く、好きにさせる」けれども責任のある関係づくりはしない人がまま存在します。男性が女性をのケースが多いですが、女性が男性を、もないわけではあ[…]
やや余談めきますが、告白する時は「相手が交際をOKしてくれるかどうか」が気になってしまうものですが、相手の人間性を見極めた上で付き合うのなら、「勇気を振り絞ったことを、大切に受け止めてくれるかどうか」を見るべきでしょう。
また例えば、「ご丁寧にありがとうございます」と言える人は、その人も必ず、丁寧な人です。ぞんざいな人がどんなに丁寧な扱いを受けても、このようなことは言いません。丁寧にすることを日々心掛けていればこそ、相手の丁寧さがわかります。
自分がそれをやっているからこそ、その大変さがわかる、そして「ありがたいなあ」と感じられます。
「どうしたら売れるだろう」と「どうしたらお役に立てるだろう」
ところで、並みのセールスマンは「この商品やサービスは、どうしたら売れるだろう」を考え、優秀なセールスマンは「どうしたらお客様のお役に立つだろう」を考えると言われています。
確かに、セールスマンの仕事は売り上げを上げることです。
しかし、買うかどうかを決めるのはお客様です。
そして人は無意識のうちに、「何を買うか」と同じくらいに「誰から買うか」「どのお店から買うか」を選んでいます。
例えば洋服の販売員で、何でもかんでも「お似合いですよ」としか言わない人と、「それはあなたに合っていないから、こちらにした方が良いですよ」とはっきり言ってくれる人と、どちらの人から買いたいと思うでしょうか・・・?
これが「どうしたら売れるだろう」と「どうしたらお役に立つだろう」の差です。
そして恋愛において、相手を大事に思うのではなく、自分が好かれたいだけ、ちやほやされたいだけの人が、仕事において「どうしたらお客様のお役に立つだろう」を寝ても覚めても考えることはありません。人間の心、潜在意識は「どこを切っても金太郎」になっているからです。
「どうしたらお役に立つだろう」を、一日一回口に出したり、スマホの待ち受けに入れて眺めているだけでは、優秀なセールスマンにはなれません。心から、寝ても覚めても考え、それを「ああしたらいいんじゃないか。こうしたらもっと良くなるんじゃないか」と細かな創意工夫に落とし込んでこそです。
「愛される」「儲かる」「評価される」を目的にしてしまうと
書店や或いはネットの記事でも「どうしたら愛されるか」「どうしたら儲かるか」が氾濫しているようです。しかしこの考え方では、どんなに愛され、またお客様が商品やサービスを買ってくださったとしても、「ありがたいなあ」とは思えません。自分の不全感の埋め合わせをしているだけです。
自分が愛し、お客様のお役に立とうとしない限り、誰かが自分を愛し、役に立とうとしてくれたことを「それがどんなに貴重で得難いことか」がわからないからです。
「評価されたい」も同じです。評価されればうれしいし、されなければ寂しく感じる、これは自然な人情ではあります。しかし、お礼を言ってもらいたくて、「○○さんって親切ね」と言ってもらいたくて、何かをするのは打算であり取引でしかありません。そこには見返りを求めない思いやりは入っていません。
人はこの打算を心の底で感じとります。或いはすぐにはわからなくても、真の思いやりか打算かは、その人の一貫性のなさにぼろが出ます。無意識のうちにやる行動に、その人の本音は現れてしまいます。
そして人は、その人が言ったことではなく、この無意識の行動を見て聴いて感じて、それで人を判断します。「あの人、口だけよね」なのか「心から、常に、それを生きようとしている人なのか」を。特に危機の時ほどその人の地金は否が応でも剥き出しになります。メッキはすべて剥がれ落ちてしまいます。そして危機の時に取った態度を、人は良く見ていて、忘れません。また不思議と、人はその人の真価を、わかっていてもペラペラしゃべりません。黙っています。あたかも、映画や音楽など、深く感動したものほど「わー良かったー!最高!」などとはしゃいでぺらぺらしゃべらず、黙っているのとよく似ています。
ですから、自分が人の評価を気にしようがしまいが、自分の無意識からの行動が否が応でも相手に伝わっています。人の評価は気にするだけエネルギーの無駄なのです。
「心を込める」ことそのものが報酬になる生き方
また一方で、冒頭に書いた通り「まだ足りない、まだ足りない」「私が欲しいのはこれじゃない!」をやる人に、無限の思いやりを注ぐことはできません。そしてまた、それは相手にとっても決して良いことではありません。
本当の思いやりのある人は「これ以上やっても相手を依存させるだけ」とどこかで判断し、一線を引けます。それが真に相手を思いやることだからです。「一線を引いたら相手に嫌われるかも」「悪口を言われるかも」を考えていては、見返りを求めない思いやりとは言えません。
何があっても無くても「ありがたいなあ」と感謝の境地に至れる人は、打算なく生きている人と言って良いでしょう。
人は自分の価値観に沿ったことなら、少々の困難でも乗り越えようとします。逆に「何でこんなことやらなきゃならないの?」と思うことは、どんなに簡単なことでもやる気が起きない、人はそうしたものでしょう。
自尊感情、即ち自分は自分でよいと感じるためには、困難を前もって過剰に恐れていないことが大切です。問題解決能力とは、前もってその手立てを知っていることではなく、「どうしていいかわからない」ことが起きたとしても(真の困難とはこうしたものです)、「私は問題解決ができる」「困難を乗り越えられる」と自分に対して思えていることです。
そして自尊感情の高さとは、困難を乗り越える力があるだけでなく、心からこれが大事だと思うことに、心を込めることそのものが報酬である生き方をすることです。
感謝がある人とは品性の高い人
心からこれが大事だと思うことに、心を込めることそのものが報酬である生き方をしていれば、部下や後輩、子供や生徒を叱る時、「相手の顔色をうかがう」ことは決してしません。
「どんなタイミングで、どんな伝え方が相手にとって良いのか」の配慮はするでしょう。しかしどんなに配慮したとしても、「わかってもらえない」「相手がわかろうとしない」ことは起きます。恨みを買うことも起きるものです。
ただ、もしかすると何年か後に、「あの時あの人は、心を鬼にして叱ってくれたんだな」とわかるかもしれません。
そしてまた、一生わからなくてもいいのです。
そうした場面に遭遇してこそ、私たちは、見返りを求めない勇気を養うことができます。
繰り返しますが、見返りを求めていては、それは打算であり取引です。打算や取引でしかなかったら、私たちの誰が、高い品性を身に着けることができるでしょう。
何がその人を決定づけるか、いろいろな考え方があるかと思いますが、私は品性、品位だと考えます。
五・一五事件の犬養毅首相「話せばわかる」の逸話昭和7年の五・一五事件で暗殺された犬養毅首相の言葉「話せばわかる」、学校の授業で習ったことでしょう。暗殺した青年将校らの「問答無用」と対比され、「憲政の神様」の所以であると学校では教わります[…]
感謝の境地に至るとは、品性の高さに左右され、品性とは誰に気づかれなくても、やるべきことをやり抜く勇気に支えられています。