「幸せは歩いてこない」小さな幸せ探しの習慣
起きた出来事には元々幸・不幸の意味づけがなされていない、幸・不幸を決めるのはそれを受け止める側だ、と言われます。
そうは言っても、誰もあらかじめ望みはしない、そしてそれを引き起こしたのは自分の責任ではない出来事はやはりあります。震災、事件、事故、虐待、嫌がらせ等々。
そしてその時、「不幸な出来事が起こった」と思うのはごく自然なことです。
ただ、自尊感情が高い人は「不幸な出来事が起こった」とは思っても、「だから私は不幸で可哀そうな人だ」とは考えません。それがその人の矜持です。
当Pradoの心理セラピーが目指していることは、まさにこのことです。
一方で、幸福は自分がそれを「幸せだ」と感じない限り、幸福にはなりません。
今の日本人の不幸は、原始的不幸を知らないことだ、とも言われます。
清潔な水が飲めること、
乾いた寝床で眠れること、
夫や子供を家から「いってらっしゃい」と送り出すたびに、「これが今生の別れになるかもしれない」と毎朝思う、そうした危険を考えなくて済むこと、
これらがいかに類いまれな幸福であるかを知らないことが、そもそもの不幸なのだと。
既にある幸福にすぐに慣れ、当たり前だと思いあがってしまう。放っておくと人間は、自分からどんどん「不幸になりっぱなし」になってしまいます。
何か特別に嫌なことがあったからではなく、常日頃から慢性的に不平不満が多い人は、「小さな幸せ探し」の習慣が身についていない様な気がします。
水前寺清子の「365歩のマーチ」にあるように、「幸せは歩いてこない」のです。
幸せは与えられるもの、お膳立てされるものと捉えているうちは、その人はreactor(反応機・転じて「反応する人」))です。「運がいい、悪い」「ツイている、ツイていない」に振り回されてしまいます。
自ら、幸せを探す、或いは既に幸せであることに気づく、これらは主体性のあるcreator(創造する人)の態度になります。
身の回りの、毎日使っている物やサービス、これらは確かに自分がお金を払って手に入れたものでしょう。しかし、何ひとつーボールペン一本、紙切れ一枚ー自分の手では作れません。
物やサービスだけでなく、いろいろ問題はあるとは言え、この平和で秩序正しい社会は、自分一人が創ったのではありません。
こうした一つ一つの、小さな「ありがたい幸せ」を折に触れて感じようとする習慣が大変重要です。
これはぼーっとしていては感じられません。自分が心の感度を上げ、「感じよう」と意志しない限りできません。前述したとおりすぐに「当たり前だ」と思いあがってしまいます。そしてまた、この意志的な努力は外側からわかることではありません。
小さな幸せ探しは、心のエネルギーをチャージする習慣
小さな幸せ探しは、ちょっとしたことを日々意識することから始まります。
例えば、ぞろ目はエンジェルナンバーと言って、天使からのメッセージと言われています。
これも四つ葉のクローバーと一緒で、迷信と言ってしまえばそれまでです。
しかし私は、どうせなら些細なことでも気持ちが上がる方がいいので、信号待ちの際、行きかう車のナンバープレートばかりを見て、ぞろ目を見つけるたびに「やった!」と左手の指でアンカーをかけています。
これは小さな遊びではあります。
しかしこうした小さな習慣が、心のエネルギーをこまめにチャージしてくれます。
どんな人にも、私にも、日々色々なことが起こります。望むことも望まないことも起こります。
ですので心のエネルギーは、これもまた放っておくとどんどん出ていく一方です。そして体の健康同様、大人は自分の他に心のエネルギーの面倒を見る人はいません。
そしてこの心のエネルギーをチャージする習慣が身についていればこそ、少々のことにはへこたれてしまわない自分を創ることができます。
無条件の幸せ「何が起こっても、世界は美しい」
自分に都合の良いもの、快いものに感謝しているだけでは、それは感謝という行為ではあっても、境地ではありません。
今現在抱えている困難を乗り越え、そこから学び気づきを得ることで、脳の中の世界地図を拡大し、人は見識を高めます。そしてそのたびごとに、「私は困難に負けない、ぶれない自分だ」という暗示を自分で強化していきます。
それでもやはりなお、心の傷が深ければ深いほど、常日頃は忘れていても何かの拍子に、傷口が開いてしまうこともあります。何年も、何十年もたっていても。そしてそれは、あらかじめわかりません。
感謝という境地とは、この傷を取り除こうとする態度ではなく、むしろ、その傷を抱えながら生き、なおかつ被害者意識に陥らず、周囲にまき散らしたりもしない、高い品性を備えた態度のことでしょう。
ところで、作家の宇野千代さんは、まさに波乱万丈の人生を生きた人でした。
四度目の夫の北原武夫と離婚したとき、彼女は66歳でした。1964年、今から54年も前のことです。当時の66歳は、今の70代後半に該当するかもしれません。そしてまた、半世紀以上前、明治生まれの女性が四度も離婚するのは、現在では想像もつかないほど世間からの風当たりが強いものでした。
宇野さんは、当時まだ誰も住んでいなかった那須高原にプレハブの家を建て、布団と机と原稿用紙とろうそくと米味噌と野菜を車に乗せて、たった一人で東京から引っ越してきました。
沢の水は、透き通るように、きれいであった。米をとぎ、飲み水にもした。枯れ木を拾って来て、煮炊きもした。
「まるで、原始人になったみたいだわ」と、私は口に出して言ってみた。仕事は幾らでも出来た。
「仕合せだなあ」とまた、口に出して言って見た。
つい、この間、離婚届に判こを押して来たばかりであっても、仕合せであった。
これ以上、何をのぞむことがあろう。北原武夫と別れたことも、考えようによっては、一種の解放であった。宇野千代「生きて行く私」より
条件付きの幸せではなく、無条件の幸せを宇野さんは生き、その姿に多くの読者が感銘を受けました。
何かが起こったから、起こらないから幸せなのではなく、何が起こっても、起こらなくても幸せであることが、感謝という境地の条件でしょう。
美しい世界がこの世のどこかにあるのではなく、
何が起こっても、世界は美しいと思えることが、感謝という境地に至ることだと私は信じています。