承認欲求は欠乏欲求、本能なので消せない
ご自分の承認欲求を持て余し、悩んでおられるクライアント様は少なくありません。
昨今、承認欲求そのものが悪いことのようにされている風潮のためでもあるでしょう。SNSでいわゆるリア充自慢をする、それに多くの人が辟易していることにも関係していると思います。
SNSでのリア充自慢とはfacebookや、最近ではinstagramなどでのリア充自慢ーリアル、つまり実際の生活の充実ぶりを自慢することーに辟易したり、或いは自分の生活と比べて落ち込んだりする人が少なくないようです。リア[…]
承認欲求自体に、良いも悪いもありません。下図はアブラハム・マスローによる欲求段階説ですが、「欠乏欲求」は全て本能と言っていいでしょう。

生理的欲求、安全安心の欲求は、全ての動物が持っています。所属と愛の欲求や承認欲求は哺乳類以上の高等生物に見られます。訓練犬を「褒めて」訓練するのは、この承認欲求を使ってます。
本能が弱れば生物は弱り、死んでしまいます。ですから、承認欲求をなくそうとするのはそもそも無理で、どう扱っていくかを考えた方がずっと効果的です。
親から承認を得られなかった、その寂しさを抱えながら生きる力
「誰でもいいから好かれたい、ちやほやされたい、注目されたい」だと、その欲求自体に自分が振り回されてしまいます。頭では「そんなことは不可能」とわかっていれば尚更です。
人はつい「何故そんなことを思うのだろう?」と原因探しをし、「きっと親からの承認が足りなかったに違いない」と落としどころを見つけようとします。実際には、そうかもしれませんし、それだけではないかもしれません。
どんな子供も親からの無条件の承認を欲しがります。何の条件なしに「貴方はお父さんとお母さんの大事な、かけがえのない子供だよ」と浴びるように伝えてほしい。それは言葉だけではなく、態度においてもです。「親は自分のことはどうでもよかった」と感じてしまうのは、子供にとっては何より辛いことです。それは子供が中年を過ぎてもそうです。この心の傷は、他のものでは埋められません。
一方で、子供の生まれもった資質にも大きく左右されます。ある程度放っておいても大丈夫な子供、自分に親の関心を向けなければ気が済まない子供、きょうだいであっても違います。
親が注いだ承認の量と、自分が持っていた「承認タンク」の大きさが合致すれば問題は起きませんが、中々そううまくいかないのが世の常です。
親から承認されなかったことを、残念に寂しく思う。その気持ちを自分が大事にできないと、「なかったことにしたい」と、それを抱えながら生きる力が弱まります。抱えながら生きる力が弱いから「なかったことにしたくなる」、逆もまた真なりです。この力をつけるには、その感情を否定しないことから、直面化することから始めるより他ありません。
それをしないと、「解決できない親への恨み」に自分が首を絞められます。恨み意外に「物が捨てられない」「浮気を繰り返し、反省しない」などで無自覚に紛らわそうとすることもあります。寂しく思う自分もまた大切な自分の一部です。
どんな人にどのように承認されたいか
寂しく思う自分に向き合うことができたら、今更求められない親からの承認ではなく、どんな人に承認されたいかを絞り込むのがその次の作業になります。
自分が尊敬し、あこがれている人から目をかけてもらう、一目置かれれば、どんな人も嬉しく、誇りに思うものです。「よし!頑張ろう!」と励みになれば、その人の人生は更に充実します。
「あの人にできるのなら私だって」というモチベーションになれば、妬みも悪くないのと同じです。承認欲求にしろ、妬みにしろ、不安や怒りにしろ、そのこと自体に良い悪いはなく、結果何を引き起こしたのかが問われます。
不快な感情の中でも見栄えが良くない「妬み」人間の感情は大別すると、快か不快に別れます。不快な感情は感じてはならない、と思い込んでいる人も少なくありません。[sitecard subtitle=関連記事 url=https://pra[…]
貴方が尊敬する人、あこがれる人、特別立派でなくても好感を持ち、「こういうあり方っていいな」と思える人はどのような人でしょうか?直接の知り合いでなくても構いません。その人たちのどんなところを尊敬し、好感を持つのか、箇条書きにしてみましょう。
例:勇気がある、思いやりがある、自分に正直、謙虚、粘り強い、辛い状況でも明るい、等。
これらは貴方自身の価値観、貴方が大事にしたいことでもあります。
そんな人がいないと思うなら、そう感じるのは自分です。つまり、自分の感性のアンテナが鈍ってるサインです。これを磨くのは自分しかいません。ただ、右から左にできることではないので、「嫌だと思うことの反対(例:思いやりがないのが嫌なら、思いやりがあることを大事にしている、ということです)」で探してみましょう。
そしてそうした人に、どのように承認されたいでしょうか?きっと結果ではなく、プロセス、あり方で承認されたいのではないでしょうか?仕事で結果を出すのは他の人でもできます。仕事の結果には代替えがありますし、特に組織においてはそうでなければなりません。しかし、それに込めた情熱や努力はその人だけのもの。それが相手に伝わって、一目置かれたら、どんな気持ちになるでしょうか?
・・・こうシュミレーションすると、承認欲求も決して悪くないものだと思えるでしょう。
真の評価は死後、利害関係が消えた後に下される
そして最も大切なことは「棺蓋(おお)いて事定まる」、即ち人の評価はその人の棺桶の蓋が閉まった後に定まるものだ、ということです。
シュミレーションしたように、相手が何の下心もなく、きれいな心で承認してくれるとは限りません。自分にとって得な相手だからちやほやすることは、どこでもあります。裏返せば「この人に嫌われると自分が損をするから、顔色を窺う」です。そしてそういう人は、こちらは何も変わっていないのに、状況の変化で「自分の得にならない」と判断した瞬間に手のひらを返します。ナンパもおべっか使いも、承認欲求の悪用です。
自分の死後、自分の子供や孫(仮にいなかったとしても)が窮地に立たされた時、「あんたのお父さん/お母さん(お祖父さん/お祖母さん)に、私は足を向けて寝られない。どうにも返さなきゃならない恩があるんだ」という人が現れるような、そんな生き方ができてこそ、自尊感情高く生きたということです。
人間の心には返報性の原理があり、恨みが消えがたいのと表裏で、受けた恩は忘れがたいのです。利害関係が消えた後に「恩返しをしたい」と思うのは、その人が込めた心が見返りを求めないものであればこそです。人は損得勘定で生きている内は、こうしたあり方には決して到達できません。
生前は周囲の人に自分の顔を窺わせ、ちやほやされていたようでも、葬式にも来ない、喪中欠礼のハガキが届いても、誰も線香をあげに来ない、お悔やみの電話すらかかってこないのか、上記のように死後時間がたった後にでも「恩に報いよう」とする人が現れるか、それがその人が得た本当の承認なのです。