不快な感情の中でも見栄えが良くない「妬み」
人間の感情は大別すると、快か不快に別れます。
不快な感情は感じてはならない、と思い込んでいる人も少なくありません。
自尊感情は無条件のもの自尊感情(self-esteem)とは、「どんな自分でもOKだ」という充足感の伴った自己肯定感です。お金や能力や美貌や、学歴や社会的地位など条件で自分を肯定していると、その条件が消えたとたんになくなっ[…]
しかし、不快な感情の中でも、例えば「しまった!申し訳ない事をした」という謝罪の念や、「こうしたことはあってはならない!」という怒りや悲しみは、その人の良心の表れでもあります。
また不安を感じるのも、それが大事だと思えばこそです。どう転んでも構わないことには、私たちは不安を感じません。
逆に快の感情でも「しめしめ、あいつを騙して上手く行った」だとか「ざまあみやがれ!」などは、見栄えの良い感情とは言えません。見栄えが良くないとは、他人から見て良い印象を持たれない、ということです。
人間の感情には様々な種類がありますが、中でも妬みは、不快かつ見栄えが良くないので、厄介者扱いされがちです。
ただし、「大して実力もないのに、コネで出世しやがって!」などは、妬みのようですが、実際は「コネで出世した」ことが許せない怒りでしょう。その人が真の実力で出世したら何とも思わないのなら、妬みではありません。
こうしたことと、「相手は何も悪くないのに、こちらが勝手に妬んだりやっかんだりする感情」をここでは分けています。
今回はこの後者の妬みについて取り上げます。
仕事や学業、スポーツの「中で」発散出来れば良性妬みに
妬みの感情は不快な感情の中でも、一時的なもので終わらず、「続いてしまう」ものです。
だからこそ、処理を誤るといじめになったり、逆に「どうせ私は・・・」と自己卑下に転じることもあります。これが「悪性妬み」です。
しかし、上手に使えばブレイクスルーのための原動力になります。これを「良性妬み」と言います。
NHK-BSの「奇跡のレッスン」で、小学生のサッカーチームに外国からのコーチが一週間やってきました。
そのサッカーチームは、一人の少年だけが飛びぬけて能力が高く、彼が何でもやってしまい、他の子供たちは出る幕がなく諦め気味でした。
そのコーチは、よくできるその少年を、皆の前でハグし
「君は素晴らしい!キスしていいかい?」
とほめたたえました。当然、他の子供たちは面白くありません。コーチはそれをわかって、あえて皆の前で彼をほめたのです。
そしてその直後、今度は他の少年たちに彼を徹底的にマークする指導をしました。悔しい気持ちを、この練習の中で発散させたのです。
良くできる少年は初めて苦戦し、その姿を見て他の少年たちは「彼に追いつけるかもしれない」と思い始めます。諦めかけていた自分たちにも、希望はあると。
そしてその良くできる少年は自分自身で、今度は仲間にパスを出して助けてもらうことを学びます。今まで何もかも自分一人で「やってしまって」いたのに。
一週間後の試合の朝、競技場に向かう車の中で、母親に「何が一番大事?」と尋ねられたその少年は
「チームワーク!チームワーク、チームワーク」
と繰り返していました。
コーチは妬みの感情を、サッカーの中で上手に発散させることにより、良くできる少年も、他の少年たちも、同時にブレイクスルーを起こさせました。これが「良性妬み」です。
また、漫画の神様・手塚治虫は、実は自分よりも若い、才能のある漫画家たちに大変嫉妬していたことが知られています。自分を追い上げてくる後輩たちが、新たな境地を開くと、自分も負けじと新たな分野に果敢に挑戦しました。
手塚作品の「どろろ」は、水木しげるの妖怪漫画に、「ノーマン」は石ノ森章太郎の「サイボーグ009」に触発されたものだと言われています。
もし、手塚治虫が水木しげるや石ノ森章太郎の才能に嫉妬しなかったら、「どろろ」や「ノーマン」は生まれていなかったでしょう。
ひがんだり、足を引っ張ろうとする「悪性妬み」
人間は快は感じたいし、不快は感じたくありません。
自分の物事の受け取り方の幅を拡げることにより、不快な反応が起きにくくする、これも対処の一例です。
知識ではなく氣づきによって、変わる生き方心理セラピー・セッションで主にやっていることは、クライアント様の経験から氣づきを得ていくことです。氣づきは知識とは異なります。弊社のクライアント様は、勉強熱心な方が多く、読書好きだっ[…]
一方で、起きてしまった不快な反応を抑えつけたり罰したりせずに、活用していく、変化を起こすエネルギーに変える、これも生きやすさのために必要かつ効果的なやり方です。簡単に言えば、自分の本分ー仕事や学業、スポーツなどーを向上させるための、発奮材料にすることです。「あの人がやれるなら、私だって」こういう氣持ちで、自分も努力しようとする人が、「あの人は妬んでいる」と思われることはないでしょう。
自分がコツコツと努力するのが面倒だから、嫌がらせをして足を引っ張ったり、嫌がらせはしなくても拗ねてひがんでみせたり。これが「悪性妬み」です。わが身可愛さのようで、一時的には溜飲が下がるのかもしれませんが、自分の品位、そして自尊感情は否が応でも下がります。結局は自分を大事にできません。怠惰と保身のために、自分を粗末に扱っています。
品位の高い人は、悪性妬みで誰かの足を引っ張ろうとはしないのと同時に、そのようなことはしないからこそ、また品位が高くなります。誰かの足を引っ張って引きずりおろそうとする、そんな自分に耐えられなくなる、この自制心も自分にしか養えません。
一流と言われる人が安易に愚痴らない理由
ところで、一流と言われる人は、安易に愚痴をこぼさないと言われています。
これには様々な理由が考えられます。
その中でもまず一つ目は、「見ている世界の次元が高い」ため、低次元のことにいちいち目くじらを立てないことが挙げられます。
何を目指して生きているのか、自分自身に対して常に明確にする作業を怠らず、またそれを実現するために限られた時間とエネルギーを費やしたいので、次元の低いことにいちいち取り合っている暇はありません。その見極めができるのは自分だけです。
ことわざにある「金持ち喧嘩せず」という態度です。
二つ目は、そうは言っても、責任の重さやプレッシャーを感じていないわけではありません。
不安も孤独も相当にあります。彼らも不安や孤独に「快」を感じているのではありません。やはり不快は不快です。その意味においては、他の人々と全く同じです。
彼らは、これらを愚痴と言う形で「発散してしまわない」ことで、エネルギーに変えています。
先の少年サッカーチームや、手塚治虫の例のように、「ブレイクスルーのための原動力」に変えています。
ブレイクスルーしてしまえば、少年サッカーチームや手塚治虫と同様、「新たな高い次元」に入ることが出来ます。そうすればもう「元の次元」に戻ることはありません。
元の次元で感じていた「不快」もなくなります。
だから安易に愚痴をこぼすことは、彼らにとってはエネルギーをダダ漏らしにしてしまう「勿体ない」行為なのです。
念のためですが、何が何でも愚痴をこぼしてはいけないわけでは決してありません。こうした人々こそ、自分を客観視する力に富んでいるので、自分の限界を見極められます。
自分の限界を超えたストレスがかかった時は、素直にSOSを出し、他人の力を借りられるのもこうした人々の特徴です。
そしてこのことは、特別に地位の高い人だけではなく、家庭の主婦であろうと、学生や新入社員であろうとー少年サッカーの子供たちのようにーそのつもりになれば誰にでもできます。
社会的に地位の高い人だけが、一流というわけではありません。またよく言われるように、一流と二流の差は紙一重、つまり意識の使い方の差です。
どんな環境に置かれていても、また社会的地や年収、あるいは学歴などとは関係なく一流になっていくことはできるのです。