「上手くいかなかったらどうしよう」が「保険」「逃げ道」を探させる
自己実現の本やセミナーなどで、「覚悟を決めましょう、覚悟を決めないと何も始まりません!」などと言われています。
確かに、どんなことでも及び腰では物事は達成しないものです。
「できるかな?できないかな?」と及び腰になっている人よりも、「やる!」と決めてしまった人の方が達成できると、他人のことならよくわかります。
「もし上手くいかなかったらどうしよう」は、自尊感情が低い間は、言葉を換えると「ほれぼれする完璧な自分でなければ愛せない」間は、つい考えてしまう質問です。
ほれぼれとする自分=すべてにおいて上手くいくはずの自分、だからです。上手くいかない自分は、ほれぼれとする自分にはなりません。
ですから、上手くいかない自分を許せない、受け入れられないと、失敗を過剰に恐れてしまいます。「転んでなんぼ!」「恥かいてなんぼ!」とは思えない状態です。「失敗が怖い」のは「自分は失敗するものだ」と思えていないためです。
そしてまた、人間の脳は、質問をすると答えを探し続けます。
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そして、この「もし上手くいかなかったらどうしよう」の質問が、「保険」や「逃げ道」を探させます。
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例えば、「もし試合に負けたらどうしよう」ばかり考え、「負けるかもしれない自分」を受け入れられないと、試合直前にけがや病気をしてしまう、そうしたことが起こってしまいます。
潜在意識が「負けを避けたいんだな、よし、その逃げ道を用意してやろう」とけがや病気をさせてしまうのです。
資格試験で「もし不合格になったらどうしよう、その自分はみっともない、受け入れたくない」を考え続けると、「この資格は何が何でも必要なわけじゃないし」などと「保険」をかけてしまう。自分から言い訳してしまう。
この状態では試験に合格できません。
慢性的な症状も、口では治りたい、治したいと言いながら、「人生が上手くいかないことを症状のせいにしている」「これこれの症状があるから仕方がない」つまり症状そのものが「保険」「逃げ場」になっていては、改善の見込みはありません。
「症状さえなくなれば幸せになれる」「不幸なのは症状のせい」「症状が取り除かれない限り幸せになれない」堂々巡りから抜け出せません。
症状に悩まされても、その中で幸福になるために「今日、今できることから」始められる人が、結果的に改善できます。それがたとえ「今日はひたすら眠る」「栄養のあるものを少しずつ食べる」などであっても。
「上手くいかない自分」を受け入れて初めて、覚悟は決まる
また「やる」と決めることは、すべてを百発百中で上手くいかせることでは決してありません。
スポーツの試合にしろ、営業にしろ、すべて勝つ、すべての商談がまとまるということはありえません。結果的に勝った試合の中でも、劣勢に立たされたり、ミスをしたりということも起こります。
その上手くいかない自分もひっくるめて、投げ出さない、やり続けるのが覚悟です。上手くいかない自分を排除しない、いじめない、受け入れた時に、覚悟は自然と「決まる」のです。
上手くいかない=自分はダメ、ではなく、上手くいかない=まだ改善の余地がある、と思えているかどうかです。
反省や検証をする時、「あれもできなかった。これもやれなかった」では、誰だって気が滅入ります。過去の自分の不完全さに焦点が当たっているからです。「次はどうやったら上手くいくだろう」を考えるのが、改善です。「どうやったら上手くいくだろう」は、未来の自分の可能性に焦点を当てています。
そしてまた、「自分はダメ」ですましてしまう方が、本当は楽です。「どうやったら上手くいくだろう」を考え、行動に移す方が、面倒くさいです。しかしこの楽さと引き換えに、未来の自分の可能性も、そして覚悟も、自分から投げ捨ててしまいます。
そして「どうやったら上手くいくだろう」を考えるためには、その事柄を愛していないとできません。嫌々、しぶしぶ、或いは「誰かに言われたから」「みんながそうしてるから」「そうしないとみっともない、人から変に思われるから」は、いずれも愛がないのです。
どちらを選ぶかは、その人次第です。
覚悟は決めようとして決まるものではなく、自分を投げ出さない粘り強さの結果、自然と決まるものです。
感謝や自信が、「自然と湧き上がるもの」であるのと一緒です。
「選手と共に優勝する喜び、そして負けるくやしさを味わいたい」(王貞治)
物事が上手くいけば、幸せになれる、自分は変われる、自信がつく、と思っている間は、「上手くいくかいかないか」の結果に自分が振り回されています。
もっと言えば「上手くいくかいかないか」の奴隷になってしまっています。この状態では、事が大きければ大きいほど、それを為すことはできません。
上手くいってもいかなくても、自分は変わらない、振り回されない境地に至ってこそ、逆説的ですが事は成就します。
名前を知らない人はいないような、功成り名を遂げた人ほど、淡々としていて「普通の人」に見えます。
尊大な、威張っている人ほど大したことはない、とある程度の年齢になれば経験から人は学びます。
本物ほど、一流の人ほど、自分を大きく見せようとはしません。いかにも「いい人」の演出もしません。自然体で「町ですれ違ってもわからない」ものです。
真の王者は「勝ってもおごらず、負けても腐らず」です。勝っておごり高ぶり、天狗になっている人を、勝者とはいっても王者とは言いません。
かつて王貞治さんが、胃がんの手術から復帰した直後の記者会見で
「選手と共に優勝する喜び、そして負けるくやしさを味わいたい」
とおっしゃっていました。
真の王者とは、こうした姿勢を取れることです。
「上手くいかなかったらどうしよう、どうしよう」にとらわれない、今日、今、やるべきことに集中しても、「何が何でも上手くいかなきゃ困る!!」と結果をコントロールしようとしないことです。
誰にも結果はコントロールできません。結果をコントロールしたくて仕方がないうちは、自分の分際を超えたおごりがあります。そしてどんな人もーどんなに心優しい人であってもーこのおごりから脱するのは、そうたやすくはありません。
失敗や挫折、「嫌なこと」から学ぶ姿勢の重要性
ただ、「勝ってもおごらず、負けても腐らず」は、誰かにできて誰かにはできない類のものではありません。
社会的地位の如何にかかわらずー学生であろうと専業主婦であろうとー、こうした意味での王者になることは、心掛け次第で誰にでもできます。
心の王者とは誰かと比べて、という意味では決してありません。誰でも全員、心の王者になれるのです。
しかし、目には見えない心の中のことです。誰にもわからない孤独に耐える、終わりのない努力が要ります。
そしてそれには、「上手くいかないこと」つまり、失敗、挫折、心が傷ついたこと、要は「嫌なこと」から気づきを得続ける、その姿勢が不可欠です。
失敗や挫折は、知らず知らずのうちに思い上っていた自分を見つめなおす、大変ありがたい機会です。
嫌なこと、理不尽なことを言ったりしたりした相手を、好きになったり許したりする必要はありません。
理不尽なことに傷つき、「下手を打った自分」を許せているかどうかです。それもまた自分だ、と思えるかどうかです。
「自分が下手を打ちさえしなければ、こんな嫌な思いをせずにすんだはずなのに・・・!」「こんなはずじゃなかった!下手を打つ自分はいらない!許せない!」
心にとって重要なことは、生きていれば「傷つくこと」は避けられない、その傷をできるだけ「回復可能」なものにとどめる知恵を身に着けるとともに、起きてしまった「嫌なこと」から洞察を深めていくことです。
どんな経験も無駄にしない、このことが、「上手くいくこと」よりもはるかに、自分の品位を高め、矜持を持たせます。つまり自尊感情の豊かさです。
このことも、誰かにできて、誰かにはできないものではありません。
誰に対しても、上手くいく、いかないに振り回されない、心の王者になる道が開かれているのです。