かまってちゃん×かまわせてちゃんの共依存に巻き込まれないために

辛そうな人を「救ってあげたい」のは自然な反応でも

2005年のJR福知山線脱線事故では、事故現場の近隣の方々が、家にあるタオルや救急用品を、魚屋さんが、魚を並べる時に使う氷などを持ち寄って、救急車を待たずに負傷者を救護しました。頭が下がることをやって下さったのですが、私はその人達が特別に慈悲深い人格者だったわけではないと思います。多分、ごく普通の人達だったでしょう。

人は本能的に「助け合わずにはいられない」そうしたものを遺伝子の中に持っていると考えています。人間の肉体は、他の動物より格段に弱く、そして人間は社会的動物と言われるように「ともに助け合わなければ」生き延びてこれなかったからです。

共感性が高い人ほど「可哀そうに。何とかしてあげたい。救ってあげたい」と思うのは自然な反応でしょう。但し、それだけで万事うまくいくわけではないのが、人の世の複雑な側面です。

「可哀そうな私にかまってかまって」のかまってちゃんに辟易した経験は、ほとんどの人があるでしょう。心優しい共感性が高い人、それでいて境界線をしっかり引くことに罪悪感を感じている人は、かまってちゃんの格好のカモになります。

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ですので、こうしたかまってちゃんに困らされるのは、「共感性は保ちながら限界設定をし、境界線を引く」きっかけにできます。人は自分に困ったことが起きないと、自分の何かを変えようとは中々しません。

今回は更に一歩進んで、「かまってちゃん×かまわせてちゃんの共依存」について取り上げていきます。

共依存度のチェックリスト

ところで、共依存とはただの「氣の毒だから何とかしてあげたい」ではありません。アルコール依存症の夫に散々苦しめられながら、アルコールを提供し続ける妻の存在が共依存の発見になりました。共依存はかまってちゃんとかまわせてちゃんとも言い換えられます。かまってちゃんがアルコール依存者、アルコール依存を助長するのがかまわせてちゃんです。

以下はスーザン・フォワードの「毒になる親 一生苦しむ子供」からの「共依存度のチェックリスト」の引用です。

  1. たとえそれがどんなにつらくても、彼(彼女)の問題を解決して苦しみを取り除いてあげることが私の人生でもっとも重要なことだ。
  2. 私が氣分よくいられるかどうかは、彼(彼女)が私のすることを認めてくれるかどうかによる。
  3. たとえそれが、彼(彼女)が自分でしたことの結果自分の身に起きたことであっても、私はそのことから彼(彼女)を守ってあげたい。そのためには、嘘をつくことも、もみ消しをすることもいとわない。人が彼(彼女)の悪口を言うことは許さない。
  4. 私は彼(彼女)が、私に望むように行動するよう一生懸命努力する。
  5. 私は自分がどう感じるとか、何をしたいかということにはあまり注意を払っていない。大事なのは、彼(彼女)がどう感じ、どうしたいかということだ。
  6. 私は彼(彼女)から拒否されるのを避けるためには、どんなことでもする。
  7. 私は彼(彼女)を怒らせないようにするためには、どんなことでもする。
  8. 私は劇的で嵐のような恋愛の方が情熱を感じる。
  9. 私は完全主義者なので、うまくいかないことがあると自分を責める。
  10. 私はだいたいいつも腹を立てていることが多く、自分は人から理解されたり感謝されておらず利用されているように感じる。
  11. 私はうまくいってない時でもうまくいってるようなフリをしている。
  12. なんとしてでも彼(彼女)から愛されるようにすることが、私の人生でもっとも重要なことだ。

恋人や配偶者と共依存関係になる人は、親との間の共依存を、その恋人や配偶者との間で繰り返していると言われています。ですので、恋人や配偶者、時には友人や、我が子に対してこのチェックリストが当てはまったら、自分の親に対しても当てはまらないかを振り返る必要があるでしょう。

援助と共依存の違い・境界線と責任と尊重

このチェックリストを注意深く読むと、対人援助と共依存は明らかに違うことに氣づくでしょう。例えば③は、普通の良識のある人なら全く考えられないことでしょう。相手がずる休みをしたいからと言って、自分が嘘の電話を相手の職場に掛けるようなことは、愛情でも何でもありません。

両者の間に境界線がなく、人格を乗っ取られている印象があります。どこまでが自分で、どこから先が相手かがわからない状態です。分離・自立ができてなく、互いに絡みつき合っています。

本来ならその人がやるべきこと、果たす責任を奪い取ってしまうのは、結果的に相手の自立を妨げ、相手を「無力な赤ん坊のままにしておく」ことです。尊重と責任は不可分であることが、このチェックリストからでもよくわかります。

相手を利用し、支配し続けるために「不幸をやめない」

共依存とは、互いを頼り合っているようで、実態はサドマゾ的な関係です。サディズムは「相手を痛めつけて支配欲を満たそうとする」ことです。これは多くの人がイメージできるでしょう。マゾヒズムはサディズムよりもやや複雑です。「どうしてあなたを痛めつける人から逃げようとしないの?」が自然な疑問です。

マゾヒズムとは「相手に自分を痛めつけさせることで、相手を支配する」のです。AがBを痛めつける⇒Aの支配欲が満たされる⇒Aの支配欲をBが満たさせることで、AがBに依存する、即ちBがAを支配する。こうした非常に不健全で歪んだ関係性です。このAとBは、役割を交代することもあります。人は愛情や信頼ではなく、憎み合うことによっても関係を続けようとします。愛情はないが子育てや経済的理由等でやむなく一緒に暮らし続けるのではなく、「一人ぼっちが怖いから、憎み合う相手でも傍にいて欲しい」夫婦もそう珍しくありません。

この支配欲の奥には、「孤独と無力感からの逃避」があると、エーリッヒ・フロムは指摘しています。

マゾヒズム的およびサディズム的努力のいずれもが、たえがたい孤独感と無力感とから個人を逃れさせようとするものである。(略)

すなわちかれはひとりぼっちであり、よそよそしい敵意にみちた世界に対立している。この状況のなかでは、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』のなかのすぐれた叙述をひくならば、「人間という哀れな動物は、もってうまれた自由の賜物を、できるだけ早く、ゆずり渡せる相手をみつけたいという、強い願いだけしかもっていない」。怯えた個人は、自分をだれかと、あるいはなにものかと結びつけようとする。もはやかれは自分自身をもちきれない。かれは狂気のように自分自身から逃れようとする。そしてこの重荷としての、自己をとりのぞくことによって、再び安定感をえようとする。

エーリッヒ・フロム「自由からの逃走」下線は足立による

上記の共依存度チェックリストは、フロムの言葉を具現化しているとわかります。更にフロムは続けてこう言っています。

マゾヒズムはこの目標への一つの方法である。マゾヒズム的努力のさまざまな形は、けっきょく一つのことをねらっている。個人的自己からのがれること、自分自身を失うこと、いいかえれば、自由の重荷からのがれることである。

前掲書 太字は足立による

自由と責任はセットです。そして人間の真の幸福は自由なくしてあり得ません。「奴隷状態の幸福」は非常に不健全なのですが、責任を負いたくない人々は、自ら自由/責任を放棄する⇒不幸でい続ける、をやります。ですから、共依存者の表面上に現れている「大変だ、大変だ」の不幸は、「責任から逃れるための隠れ蓑」であり、「互いを利用し、支配しあうための方便」なのです。ですから、例えばアルコール依存の夫が大病をして、飲酒はできなくなったとしても、夫と妻が「絡みつき合っていれば」他のこと、ギャンブルや浮氣でまた同じことを繰り返す羽目になります。

もう少しイメージしやすい例を挙げると、疾病利得というものがあります。子供の頃、風邪などで寝込むと、家族や周りの人が優しくしてくれた、普段は食べさせてくれない桃缶やプリンをねだっても怒られなかった、元氣な時ならやらねばならない掃除当番を免除された、宿題を出さずに済んだ、などの「病人の特権」があったでしょう。「病人氣分を満喫」というものです。しかし、普通の子供なら、病人の特権にもすぐに飽きて、やはり掃除当番や宿題はあっても、学校で皆と一緒に遊びたくなります。成長欲求の方が病人の特権よりも勝っているからです。

共依存者の不幸好きは、この「病人の特権」を自分たちで長引かせようとしていると考えるとわかりやすいかもしれません。周囲が優しくしてくれ、その上責任を免除できるフロムの引用通りです。ですので、外側から他人が「ああしたら?こうしたら?」と解決策を提案しても、「でも、だって・・」と言い訳にならない言い訳をします。「そうね、これこれから始めてみるわ」にはなりません。自分から一歩を踏み出すことが、責任を負うことそのものだからです。

共依存に巻き込まれないために

共依存者は、フロムの引用にもあった通り耐えがたい孤独感を紛らわそうとするので、更に周囲の人達を巻き込もうとします。「自分たちだけで完結する」ことは寧ろ少ないでしょう。その最たるターゲットは、遠慮が要らず、「自分を見捨てないだろう」と踏んでいる身内になります。他人であっても、「氣持ちが優しく、かつ『人に嫌われることを恐れる』」人は、同じ理由で格好のターゲットになります。

彼らが恐れるのは孤独と、そして責任を持つことです。裏から言えば、孤独に耐える力と責任を持ってこその成熟した大人ということになります。責任を持つとは、仕事を持っているかどうかではありません。「私がそれを(やむを得ずであっても)選んでいる」自覚を持つこと、後述しますが「あなたはそれをどう考えるの?どう思うの?」から、「だって」で逃げないことです。

「この人達、もしかして共依存?」「もしかして私、共依存に巻き込まれそうになってる?」と疑問に思ったら、①まず観察します。上記の「共依存度チェックリスト」を活用しても良いでしょう。「大変だ、大変だ」「辛い、悲しい」を様々なパターンで続けていて、少しも改善しようとしないのなら要注意です。観察自体が、相手との距離を開ける客観視になるので、巻き込まれにくい土壌作りになります。

その次は②自分の限界設定と優先順位付けです。今の自分の状況、状態を考慮し、「何を最も優先するべきか。守るべきか。避けるべきか。そして『これ以上のことはやらない』と決める」ことです。信頼できる人との相談は大いにして構わないのですが、最終的に決めるのは自分です。

そして最も大事なことは③相手に責任を持たせることです。以前書いた記事での、夫の飲酒に散々悩まされた妻が、境界線を明確にするために夫に伝えた言葉の例を引用します。

「あなたがそうしたいなら、その飲酒癖をそのままにしておいてもいいわ。でも、私と子供たちはこの混乱の中にもういられません。今度酔っ払ったら、私たちはウィルソンさんのところへ行ってそこへ泊めてもらいます。そして全部わけを話します。あなたの飲酒はあなたの選択ですが、私がどこまで我慢するかは私の選択ですから」

ヘンリー・クラウド ジョン・タウンゼント「境界線・バウンダリーズ」
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「『飲酒癖』をどうするか決めるのはあなたが選択することです。しかし、私はあなたの『飲酒癖』に付き合うことはしません」この「飲酒癖」を、「困った困ったと言い続けながら、何も改善しようとはしない相手の言動」と置き換えるとイメージがしやすいでしょう。「もう!酔っ払うのはやめてよ!」よりも、「あなたはそれをどう考えるの?」の方が、責任を突き付けられます。相手が責任を負うか、逃げ出そうとするかの試金石になります。

明らかにする諦めは分離自立のためにこそ

家族、恋人、友人など、思い入れのある相手であればあるほど、すっぱりと割り切れるものではなく、その過程で怒りや悔しさや情けなさ等、様々な葛藤が生じます。その葛藤は悪くありません。「自分がここまで猛烈な怒りを感じていた」その怒りは感じ切った方が良いのです。

その猛烈な怒りの中にこそ、自分が譲れないものが入っているでしょう。それは自分の生きざまであり、それが明らかになる過程において、「この譲れないものを共有できない、理解しようとはしない」相手に対し、「明らかにする諦め」がようやくできるのだと思います。

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    生きづらい貴方へ

    自尊感情(self-esteem)とは「かけがえのなさ」。そのままの自分で、かけがえがないと思えてこそ、自分も他人も大切にできます。自尊感情を高め、人と比べない、自分にダメ出ししない、依存も支配も執着も、しない、させない、されない自分に。