「情けは人の為ならず」が「まず自分から親切にしましょう」を逸脱してしまうことも
「情けは人の為ならず」の諺は、最近では「情けは相手のためにならない」と誤用されることも増えたようですが、元々は「情けは他人の為だけではない、いずれ巡り巡って自分に恩恵が返ってくるのだから、誰にでも親切にせよ」という意味で、多くの人が内面化していると思います。
ですがこのことが、「与えられないと不平不満を言い募る前に、まず自分から親切にしましょう」を逸脱し、「働きかけたら、相応の報いを得られる筈だ。だから親切にせよ」になると、まるで「私はこれこれの親切をしたんだから、今度はあなたが私に親切にする番よね」の取引になってしまいかねません。
親切を、見返りという結果を得るための手段として行うなら、内容(暴力で制するか、愛情で制するか)が違うだけで、結局は統制、即ちコントロールとも言えます。
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上記の記事は友人同士でしたが、配偶者間、親子間でも「愛の仮面を被った統制」は無意識的に頻発しているでしょう。共依存的な癒着とはこうしたことです。
これは例えば、服装選びが相手に不快な思いをさせないため、またその場にふさわしい装いをするのなら、「見返りは求めず、そして自分もその場の一員として健全に機能する」になります。
自分も相手も恥ずかしい思いをしないための相互尊重を逸脱し、「私が悪く思われたくない」の自分都合だけに集中してしまうと、それは統制になります。この微妙な動機の差は、中々意識されず、外側からはわかりません。ですが、自分自身の生き方の構えがこうしたことからも強化され続けます。
「きれいな愛情を注げば、きっと応えてくれるに違いない」
人に過剰に尽くしてしまい、やがて搾取と依存をされ、へとへとになってしまう。そしてそれを繰り返している場合、「きれいな愛情を注げば、きっと応えてくれるに違いない」の衝動強迫の可能性があります。
それも結局は、自分では意図していなくても、愛の仮面を被った統制かもしれません。
但し「自分では意図していなかった」に、根深い要因が隠れています。それは子供の頃、親からの愛情と承認を得ようとして、「きれいな愛情を注げば、きっと応えてくれるに違いない」の生存戦略を学習してしまったのかもしれないのです。
幼稚園や保育園で、お友達に親切にすると、先生から「まあ、○○ちゃんは偉いね、優しいね」などと満面の笑みで承認され、愛される。「こうすれば親からも、愛情と承認を貰えるかもしれない」と自分から頑張って「親の親」を自分からやるようになった。記憶には残っていなくても、そんなことがあったのかもしれません。
子供は親を始めとした大人から、愛情と承認を存分に受けられるべき存在です。子供が親にそれらを求めるのは、生存のための本能です。
ですが子供が「きっと応えてくれるに違いない」と、親へ愛情を注ぐ、これは親子逆転現象であり、子供は決して責められるべきことではありません。
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もし親に対してだけでなく、成人後の今も他人に対しても「きれいな愛情を注げば、きっと応えてくれるに違いない」をやり続けているなら、上述した通り、他人からは依存と搾取をされ、利用され、やがて疲弊する。結果自尊感情が下がってしまいかねません。
また更に意識されづらいことには、「私は愛に渇いた存在だから、他人から愛を注ぎ返してもらわなければならない」という枠組みで、自分を前提づけています。
愛情や、奉仕貢献のつもりで、実は自分の不足や欠落の埋め合わせをしようとしている。それに自分では氣づけず、繰り返し自己強化する。だからこそ「頑張っている割には、虚しく、疲れる」になりやすいのです。
自己受容・自己慈悲・自己ホールディングの重要性
子供は周囲の大人から、愛情と承認を存分に得る権利があり、またそれらを糧に成長します。そして子供は、大人にはない愛らしさ、無邪氣さ、キラキラとした生命の輝きがあり、私たち大人は子供の存在に癒され、純粋なエネルギーを貰えます。大人の方も「愛を一方的に注ぐ」わけではなく、子供の存在からしか貰えないものを貰っています。
また一方で、大人になった私たちは、子供のように「私は存分に愛される権利がある!」と忙しい他人に対して権利意識を振りかざしていては、ただのかまってちゃん、面倒くさい人になります。
大人はまず自分を愛で満たす、それから他人に対しては「その時の相手にふさわしいことをする」それが愛の順序になります。
それは医者が感情の好悪を超えて、患者に最も適切だと思われる処置を施す、それが理性の愛と譬えられるようなものです。
既に手遅れのがん患者に、苦渋の決断で手術を敢えてしないのも、「ふさわしいことをする」理性の愛になるように、「これ以上言っても聴く耳を持たない」相手には、「あんたそんなことでいいのか、いい加減にしろ!」と喉元まで出かかっても、黙って立ち去るのも理性の愛になり得ます。そこには「愛し返されたい」打算は働きません。
ですから、以前の記事に書いた自己受容と自己慈悲の習慣が大変重要になります。
抑圧でもなく外投げでもない・感情を「抱えられる」ために前回は「【腹側迷走神経の活性化】身体・神経系が安全を感じる重要性」について詳述しました。True Selfを生きるためには、まず身体の神経系が「安全だ」と感じることが基礎になり[…]
耐え難かった痛み、悲しみ、時には怒りや憎しみ、呪いすらも、抑圧せずに正直に感じ、一人でいる時に吐き出してしまう。その時、ただ吐き出しっぱなしに終わるのではなく、「ヤダったね」「そんなに辛かったんだ」「我慢してたんだね」等、自分で自分を抱える、自己ホールディングができて、感情受容をすることができます。
「こんなことをされて、私は傷ついた、辛かった」の内、「こんなことをした」の選択責任・行為の責任は相手にあります。その道義的責任は相手にあり、抗議をしても当然です。
そして「私は傷ついた。辛かった」の感情は自分のものであり、自分が抱える(ホールディング)責任があります。動揺が激しく、一人で抱えきれない時には、信頼できる人に共感し、分かち合ってもらうことも、人間らしい営みです。孤立はその人の苦悩を否が応でも深めてしまいます。
ですが、その感情は最後まで自分のものであり、他人に共感や理解はしてもらったとしても、誰かに押し付けたり、消してもらうことはできない。それが感情所有の責任です。感情所有の責任と、自分の必要と相手の限界を見極めた上で、適切に助けを求め、孤立を避けることは両立します。
この感情所有の責任が、「私は人生の、親の被害者」の被害者ポジションに留まりっぱなしになることを、潔しとしない態度の土台になります。
自己ホールディングを何度も繰り返し「自分が自分に応えられる」を実感する
かつて親に向けていた、尽くすことで愛を得ようとする構えそのものを、自分自身に向け直す、このことそのものが、親への期待を手放す基盤になり得ます。子供にとって親は、最初に依存し、最後まで期待を捨てられない存在です。
「あの人達に求めても無駄」の認知の整理も、期待を手放すのに一部役立ちますが、「愛を求める」本能そのものは消えてなくなりません。
「きれいな愛情を注げば、きっと応えてくれるに違いない」子供の切ない望みが、何度も何度も、親に裏切られ、踏みにじられるのを、見て見ぬふりをし、譲り、歩み寄ろうとする原動力になっていた。無数の裏切りが積み重なり「もう駄目だ」と最後の一本の糸を自分から切る。それは人生の中の、最も大きな転換点になるでしょう。
長い間抑圧していた怒り、悲しみ、失望、恨みや憎しみを吐き出した後、何度も自己ホールディングを繰り返す。その積み重ねにより、上辺だけのきれいごとではなく、「私は自分で自分に応えられる」を実感する。
自分を愛で満たす主体は、最終的には自分自身であり、他人はそれを補うことはあっても、代わることはできない。これが深く腑落ちして漸く、私たちは本当の大人になるのかもしれません。
