思春期には「干渉されるよりまし」と思っていても
ご相談で圧倒的に多いのは、親子関係に関することです。
大抵の場合は過干渉や、支配的な親から受けたトラウマです。これは子供本人が自覚があります。
では逆に、親が無関心だった場合はどうでしょうか?子供の方がさみしがりでなく、構われるのを嫌う性格だと、「放っておかれてちょうどいい」とその時は思うかもしれません。
また思春期になると親を疎ましく感じるようになるので、親の無関心が子供自身にとって都合が良かったりします。しかし「都合が良い」ことは必ずしも「問題がない」ことではありません。
親の無関心により「存在を薄められる」子供
親が子供に無関心とは言っても、育児放棄をしてるわけでは必ずしもありません。
衣食住の世話をし、学校へ行かせ、塾通いや習い事をさせ、しつけをし、「親が子供に必要だと思うもの」は大抵与えています。それで親の役割責任を果たしていると自分で思い込んでいます。周囲も「ちゃんとした、普通の親御さん」と認識します。
しかし子供が本当に必要としていることには無関心。子供が必要とすること、それは何を感じ考えているのかに関心を持ち、裁かずに共感し、無条件に大事にしてもらうこと、と集約できるでしょう。即ち評価抜きに、存在そのものを大事にされることです。
特に感情面でのニーズに応えてもらえないと、子供は「私はここにいて良いのだろうか?」「私の存在は歓迎されていないのではないか?」と言った、「存在を薄められている」漠然とした不安を抱えてしまいかねません。そしてその存在抹消の恐怖が、「私は欠陥品であり、欠けた丸だ」の核心的羞恥(core shame)になり、「どんなに頑張っても不十分」の根源的な自信喪失につながりやすいのです。
プロセスではなく結果で承認されると「やってもやっても不十分」
子供に何故無関心なのかは、親自身が自我が未成熟なため、基本的に「他者が存在しない」自己中心性から抜け出しきれていないためと考えられます。「他者が存在しない」とは、生まれたばかりの赤ちゃんが「自分しか存在しない」状態のようなものです。
「自分しか存在しない」とは、他人は自分の延長⇒都合が良いか/悪いかで瞬時に振り分けてしまい、そこに良心の呵責が働かない状態です。ですから、子供を独立した一個の人格ではなく、自分の延長、自分を映す鏡のように捉えています。「自分を映す鏡」ですから、子供の学校の成績や、進学先には拘泥し、世間体を氣にしていることも大変多いです。子供の成績が良くないと、子供の可能性や将来を心配するのではなく(口ではそのようなことを言ったりしますが)、自分自身が評価されないように思うからです。
無関心な親は「どれだけ頑張ったか」「どんな教科が好きで、興味があるのか」「学ぶことの楽しみを感じているか。逆に行き詰まりを感じていないか」などのプロセスや背景には基本的に関心を払わない傾向にあります。テストの成績という結果にしか親が関心を持たないと、子供の心に悪影響が出てしまうことがあります。
子供の方は結果だけで「良かった、悪かった」と裁かれてしまう、ということです。「悪かったら私はダメ」「良くてもすぐ次のテストが待っている」になっても当然かもしれません。悲しいことに「やってもやっても不十分」という終わりのない焦燥感に苛まれてしまうのも、自然な成り行きだと思います。
上述した核心的羞恥とは、このような焦燥感や不全感、頑張っても頑張っても、貧しい自己像しか持てない、慢性的な不安や強迫の原因になるものです。だからこそ、人と比べて一喜一憂し、劣等感や優越感に自分から振り回されてしまい、毎日が消耗するばかりで、生きていても楽しくなくなってしまうかもしれません。人の目ばかり氣になったり、構ってほしい、構わせてほしいの人間関係のトラブルの遠因になりやすいです。
子供の心情に関心を向けない親・自分の都合や楽しみを優先
子供の心情に関心を向けていないのは、親の多忙のせいばかりとも言い切れません。或るドキュメンタリー番組で、シングルマザーのタクシーの運転手さんが、夕飯時の一時間半の休憩時間に、毎日必ず一人息子さんと食事をとるシーンがありました。食事の後、そのシングルマザーは再び夜遅くまで仕事に出ます。息子さんは小学校5年生。毎晩一人でお留守番をするのは、寂しくないことはないでしょう。しかし、お母さんのことを「尊敬しています」と言い、仕事に戻る母親を玄関口で見送っていました。
短い時間であっても、お母さんが息子さんを大事にし、関心を払っているのが、息子さんにも伝わっているのが充分見て取れました。このように育てられた息子さんは、決して曲がった大人にはならないと思います。
親が子供の心情に関心を向けないのは、多忙のせいばかりではなく、自分の都合だったり楽しみだったり、要はそれ以上に優先したいものがある、その可能性が考えられます。
無関心な親は意識のベクトルが内側に向いている
そのドキュメンタリー番組は、タクシー会社の若い専務が、変装をして新人研修の振りをし、覆面調査をする、という趣旨でした。彼女は新人ながら売り上げをメキメキ伸ばしていたので、白羽の矢が立ったのです。
大阪市中心部が彼女の担当区域でした。碁盤の目の状になっている通りを、手書きの地図に起こし、「何曜日の何時ごろ、どのような(性別、年齢、行先)お客様を、どの場所で乗せたか。また、競合のタクシーが乗せたか」を、その地図に印をつけて落とし込んでいました。ただこなし仕事になっていたり、「売り上げが上がらなかったらどうしよう」とか「疲れたなあ、早く帰りたい」など、自分の都合ばかり考えていては中々できないことでしょう。
つまり、お客様にも、息子さんにも、意識のベクトルが内側から外へ向いていたのです。人の心は「どこを切っても金太郎」なので、お客様には無関心で、子供の心情には関心を向けているということは、非常に考えづらいです。
無関心な親は、上でも触れた通り、世間体は氣にしていることが多いです。親が子供の自分よりも、世間体を優先しているのは本当に耐えがたいものです。しかしこれを訴えたところで、親にはまず通じない、多くの方が経験されているでしょう。
「自分としてどう感じ考え、何を選択するのか」の内的責任で生きていない⇔世間という本当は実体のない、「内面化された他者」に合わせるのが安心で安全とする生存戦略、この表裏一体が大変強力に作用し、また良心の呵責が伴わないので自覚できないため、と考えられます。「内面化された他者に合わせる」とは、外側から与えられた「正解」に、自分の頭で検討することなく、ただ乗っかり続けることでもあります。「あなた任せの指示待ち」が典型で、この状態では、セラピーにおいても結果は出ません。心理セラピーとは、この内的責任を自分の中心に据えることでもあるからです。
「子供である自分を親の世間体の道具にされた」癒されがたい傷自分の進学や就職、果ては結婚相手まで「親の世間体大事」で決められてしまった人は、「自分の人生を生きられなかった」悔しさが長い歳月を経ても残ることがあります。進学先の学校や、[…]
無関心とは「事実の否定」の一形態
何にせよ、知ってしまったら知らなかった過去には戻れません。そして都合の悪い事実から目を背けて逃げるための、もっとも単純で原始的な心理的防衛は「事実の否定(否認)」、即ち「見て見ぬふり」「なかったことにする」「臭い物に蓋」です。無関心とは「事実の否定」の一形態です。
自我という「心のダム」様々な心理的な問題は、自我という「心のダム」が未熟で脆く、弱いか、大きくて強く、しなやかで成熟しているかに帰結します。この「心のダム」を様々なストレスから守ろうとして、ほぼ無意識的に行うのが心理的防衛[…]
「事実の否定」即ち「認めたくない」「考えたくない」この誘惑が起きない人は、勿論私も含めていないでしょう。そしてまた、無意識的・反射的にやることであり、良心の呵責を伴わないので、うっかりするといつまででも続いてしまいます。ここまで読まれた皆さま方には、「私にも起きうることだ」とまず心に留めて頂ければと思います。
政治に無関心な人がいつの世も多いのは、「知ってしまったら知らなかった過去には戻れない。葛藤を乗り越えなくてはならなくなる」からもその一因でしょう。簡単に言えば、知らずにいる方が楽だからです。これを乗り越えるには、葛藤耐性の強さと、「今だけ・金だけ・自分だけ」ではない視野の広さと責任感、「これが続いたらどうなるか」の結果予測、「他人の痛みを自分の痛みのように感じる」真の共感性などが必要になります。しかし、これらを兼ね備えている人は、現実には希少な存在だと思います。
親が子供に無関心なのも、身も蓋もない言い方をすれば、知らないでいる方が自分が楽だから、葛藤せずに済むから、前もって責任から逃げられるからかもしれません。
「私の欲しいものはそんなことじゃない!」の心の叫び
本当は子供に無関心な親でも、「自分を良い親だと思っておきたい」自己イメージの維持のために、物を贈ったり、旅行に連れて行ったりすることもあります。しかしそういうことをした時点で満足してしまうので、「本当に子どもが喜んでいるか」には無関心なこともしばしばです。ひどい場合は、子供が喜ばなかったり、断ったりすると、自分を否定されたかのように怒り出します。
子供の方も、親の自己満足だと薄々わかっていても、「どこにも連れて行ってくれない親よりましだ」などと、自分に言い聞かせたり。本当はたいしてうれしくなくても、喜んでいるふりすらしたり。それらも自己欺瞞なのですが、親も子も氣づかないままです。
「そんなものいらない!」「私が欲しいのはそんなことじゃない!」「お金で手に入れられるものでごまかさないで!」と傷つき、反発できるのは実は良いことなのです。傷ついても事実を直視しようとする姿勢の表れであり、自分の心を大事にする道筋が、そこから開けているからです。
「実は大切にされてなかった」ことを認めるのは辛い作業
「実は大切にされていなかった」と氣づいてしまうと、今まで抱かなかった怒りや、恨みが出てきてもおかしくありません。怒りや恨みは、ごく普通の人間なら感じて当然の感情です。これらの感情を自分に許可できないと、現実を直視できず、自分からまた「美しい嘘」で塗りこめてしまいかねません。心優しい子供ほど、親に怒りや恨みを感じる、嫌ったり憎んだりすることそのものが、身を切られるように辛いのだと思います。
そして怒りや恨みの下には、ずっと悲しんでいた本音の自分が、貴方自身に氣づいて見つけ出してもらうのを待っています。
この記事を探し出して読まれた方は「何故、私の親は無関心だったのか」を知りたい動機があるのだと思います。それはごく自然な心の動きです。但し、それは認知的な整理であって、親の無関心さのために受けた傷・心の痛みに向き合い、本音の自分、即ちTrue Selfと再びつながるプロセスとは異なります。親の無関心とは、子供の自分のTrue Selfを無視されたことに他なりません。
心の内側から自然に湧き上がる喜び・True SelfとはTrue Self(真の自己)とは、英国の精神科医・小児科医のドナルド・ウィニコットが提唱した概念です。[blogcard url=https://ja.wikiped[…]
愛の反対は無関心・愛するとは裁かずに心情に関心を払うこと
「愛の反対は、憎しみではなく無関心」と言われます。本当にその通りだと思います。繰り返しますが、無関心は本人に自覚がないので、延々と続けてしまうので余計に厄介です。
自分の心に関心を持ってほしい、自分の苦しみを知って欲しい、無視しないで欲しい。子供にとっては当たり前の望みです。それをなかったことにされると、「私の存在は歓迎されていない」と悲しいことに子供は受け取ってしまいます。ですので「ああ、もう駄目だ。通じないし、わからないんだ」と限界に突き当たるまで、「もしかしたら、もしかしたら・・」と、親に対して儚い望みをかけてしまうものなのかもしれません。それは何年も、時には何十年もかかることすらあります。
そして自分に対しても、他人に対しても、「それを良いとは思わない」自分の価値判断は残っても、「今、その人はそう感じている」心情には裁かずに関心を払うこと。全ての人が潜在的に望みつつ、実践できる人は少ないでしょう。これには両義性の耐性、即ち葛藤耐性が求められます。
これは個々人の人間性の問題というよりも、まず自分の心、自分の感情をありのままに感じ、「ヤダったね」「辛かったね」と言ってあげる意義と習慣が広まっていないからではないかと思います。
抑圧でもなく外投げでもない・感情を「抱えられる」ために前回は「【腹側迷走神経の活性化】身体・神経系が安全を感じる重要性」について詳述しました。True Selfを生きるためには、まず身体の神経系が「安全だ」と感じることが基礎になり[…]
愛の実践が難しいのは、この「ヤダったね」の自己慈悲が非常に地味で、繰り返しを要し、そして無関心という良心の呵責を伴わない楽さに人は流れやすいからだと思います。愛の実践の難しさを実感できたときにようやく、子供の頃の自分が「相手に関心を向けることの大事さ」を辛い代償を払って教えてくれるのでしょう。その子供の頃の自分に報いるのが、誰にも氣づかれはしない「自分を大切にすること」なのだと思います。
