「正解」を求めてしまう貴方へ・自分の本音を知る勇気

「その場の正解を求める」が癖になっていると

いわゆる「いい子」で育ってきた人や、親が何でも先回りして決めてしまったり、親に自分の感情や考えを伝えると否定されてきた人の中には、大人になっても「その場の正解を求めてしまう」が癖になっていることがあります。

これをすると、その場は波風が立たず、丸く収まるでしょう。しかし「自分がどうしたいか」の本音からどんどん離れてしまいます。周りがAだと言えばAに、Bだと言えばBに、これを繰り返せば繰り返すほど、波風は立たない代わりに振り回され、自分が何者かわからなくなり、自分を見失います。

そして、その場が丸く収まるだけで済まないのが、また厄介です。人の世はそう単純ではないからです。

「自分の意志をはっきり示さないこと」につけこむ人はどこにでもいます。
「嫌なものは嫌だ」を言えない人に、善意のつもりのお節介を焼く人はどこにでもいます。

また相手に悪意は全くなくても、「何も言わないから、それでいいんだと思っていた」になることもあります。

一方で、「自分の意志で」その場に合わせるのか、合わせないかを選択できる人もいます。周囲に配慮はしつつ、「自分はこうしたい、こう思う」とはっきり意思表明できる人もいます。こうした人たちは、何をしているのでしょうか?「その場の正解を求め、振り回される態度」とは、どのように違うのでしょうか・・・?

「規範を守ること」と「『正解』を求めること」の混同

人間は社会的動物ですから、他人と協力し合わなくては生きていけません。そのために、規範と呼ばれるものがあります。常識やルール、マナー、礼儀も規範の一種です。

「その場の『正解』を求めてしまう」人の中には、この「正解」と「規範」を混同している場合があります。

またマナーや常識は、時代や地域によってもどんどん変わります。相手も、本当に無礼な気持ちでマナー違反をしたのか、知らずにやってしまったのかは何となく伝わるものです。

「正解」と「規範」は違います。そして更に大事なことは、以下にも詳述しますが、「自分が怒られたくないから」「悪く思われたくないから」が動機になっていないかです。それでは自己保身であり、相手のためになっていません。

規範とは、本来は相手を思いやり、お互いに円滑に交わるためのもの。交通ルールが良い例です。規範、常識、ルールも、本当にお互いのためになっているかの検証は必要です。

ですから「ルールだから正しい」とは限りません。昨今の社会情勢をよく観察している人にはわかるでしょう。

また、「これが常識でしょ!」「これが村の掟だ!」と思考停止の上、相手を脅迫して思い通りにしようとする、そうしたことも頻発しています。「ルールを守らない奴は悪い奴だ」は全体主義管理社会の温床であり、大変危険です。

「言われた通りにしておけば怒られない」の「言いなり良い子ちゃん」

「間違ったら怒られる。怒られたくないから『正解』を求める」が動機になっていると、指示待ち人間、引いては言いなり良い子ちゃんになってしまいます。従順さは常に美徳とは限りません。

言いなり良い子ちゃんでいれば、それは楽です。間違ったら「だって○○さんがそう言ったから」といくらでも逃げられます。ただ、そうした人が、周囲から信頼されはしないでしょう。いいように扱われて最終的に自分が泣く思いをすることもあるでしょう。何にせよ、「何かを得れば何かを失う」美味しいとこどりはありません。

「規範」はあっても、最初からわかっている「正解」など、本当はどこにもありません。あるとすれば、伝票記入とか、薬の調剤とか、「誰がやっても同じ結果が求められる」正解と言うより正確が求められる事柄です。私たちの社会は、このような正確が求められること、正解も完璧もないけれど、ある一定の水準が求められること(「500円のカレーライス」と「2000円のカレーライス」では、求められる水準が異なります。)と、正解も完璧もないこと、この三つが入り混じっています。

「それは誰にとっての正解?」

「正解を求めてしまう」時、それは誰にとっての正解なのでしょう・・・?自分が非難されたくない、失敗したくない、「それ見たことか」と言われたくないという自分の都合になってないでしょうか?
結局それは、自分の虚栄心に首を締められている状態です。

虚栄と自尊は反比例です。虚栄は意識のベクトルが自分に向き、自尊はベクトルが外側に向いています。自分の良心、価値観や信念、品位、視野の広さに基づいて、「相手や外側の状況に『対して』これが最も良いと判断したことを行う」姿勢であり、だからこそ、「やってみてどうだったか」のフィードバックを得ようとし、違っていれば修正する、この繰り返しです。

同じ態度・行動・振る舞いであっても、相手や状況によって結果は変わります。結果からフィードバックを得るから「この状況下では、このやり方は上手くいった/いかなかった」の引き出しにできます。これが柔軟性を養うために実践を積む、ということです。「原理原則はあっても、最初から決まりきった正解はない」のが、このことからも良くわかります。

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反省は誰もがすることではない。自分を責めて終わりにする方が簡単

PDCAサイクルを回すとは、自分がやったこと、或いはやらなかったことの反省をすることです。こんなことは当たり前と思われるかもしれませんが、実は反省は誰もがすることではありません。

「自分は間違った選択をした」と認めるのは痛みが伴います。この痛みに耐えられないと、現実の方を歪めます。一番多いのは言い訳です。しかし言い訳はまだ、心のどこかで「しまったなあ・・」という氣持ちがあります。人前では恥ずかしさのあまりについ言い訳が出ても、後から「あんなことを言ったりしたりするんじゃなかった」と思えていれば、反省のきっかけにできるでしょう。

もっとその痛みに耐えられないと、その出来事自体を「なかったことにする」つまり「臭い物に蓋」をします。これでは何の成長も望めません。

「あの人は何も言わなかったけれど、あの時の私のあの振る舞いは、独りよがりにだったかもしれない」「もしかすると私も、○○さんにされたちょっと嫌なことを、知らず知らずのうちにやっているかもしれない」・・・歳を取れば取るほど、悲しいことですが自分を戒めてくれる人は減ります。だからこそ、時間が経った後であっても、反省できる自分になっておく必要があります。これがないと老害への道一直線です。そしてこれは、「最初から正解を求めない」態度と表裏一体です。「正解通りにやれた」と思ってしまうと、何の反省もしなくなるからです。

そして反省と自分を責めるのは、全く似て非なることです。自分を責めがちな人は、「完璧でない自分でないと許してやらない」をやっています。自分に厳しいようで、実は思い上がりです。生きている以上、会心の出来はあったとしても、完璧などあり得ません。

自分の本音を知る時に痛みが伴うことも

私たちは自分で自分の本音を、牢獄に閉じ込めてしまうことがあります。その時はそうしなければ、生き延びられなかった、それが生存戦略だったからです。特に「親の言うとおりにしておけば、波風が立たない」「自分の考えを否定される」家庭で育ってきた人は。上記の「言われた通りにしておけば怒られない」も、当時の生存戦略だったでしょう。反抗期らしい反抗期がなかった人は要注意です。

しかし成人後、周囲から「何を考えてるかわからない」「貴方はどうしたいの?」と問われても答えられないと、真の信頼関係が築けません。閉じ込められたままの「本音ちゃん」が「ここから出して!」と叫ぶ、それが人生の諸問題を引き起こし、「生きづらさ」のサインとして現れます。

そしてまた本音は、しばしば見栄えが悪く、きれいではありません。(「お母さんなんか、大嫌い!」「本当は家事や子育てはしたくない」「本当は全部放り出して寝ていたい」)だからこそ、心の奥底に閉じ込めようとしてしまいます。「ほれぼれとする素敵な自分でないと、愛してやらないぞ!」をやればやるほど、見栄えが悪くきれいではない本音ちゃんは居場所を失ってしまいます。

「自分が決めたことだから」を生きてこそ湧きあがる勇氣

自分の本音通りに生きるとは、「『正解』を求め、他者に決めてもらう」生き方とは正反対のことです。
「だってあの人が(世間が、上司が、夫が)こう言ったから」をしておきたい間は、自分の本音通りに生きることはできません。
自分の本音を見失う一方です。

本音通りに生きる、それは迷惑を顧みず、わがままを通すことでは決してありません。

「自分が決めたことだから」と言える人生を送ることです。結果を人のせいにしないことです。

上記の例で言えば「本当は家事や子育てをしたくない」本音を認めつつ、その上で「やはり家事や子育てをやっていく」ことを「自分で決めて」選んでいく、ということです。したくないのも本当だけれど、投げ出す自分はもっといやだから、投げ出さないのがその人の品位です。

「自分が決めたことだから」は自己決定であり、自己責任の態度です。

この覚悟を決められてこそ、初めて勇氣が湧きあがります。

「自分はこうしたい、こう思う」とはっきり意思表明できる人は、この勇氣に満ちています。そして意思表明をするから、また勇氣が湧き上がってきます。「自分は自分でいい」と思えるようになります。

自尊感情が豊かであるとは、勇氣がある状態です。勇氣があるから責任を取れます。その姿は潔く、結果的に「あの人はいい人ね」になっていきます。しかし本人は「見栄えの悪い本音」をごまかさないので、自分をいい人とは思っていません。

真に勇氣がある人は、「いい人」でいることを目的にはしません。時には誤解を恐れず、憎まれ役を買うことも出来ます。自分から「いい人」でいようとするのは偽善です。

ところで、古代ギリシャ語の「徳」は「アレーテー」と言い、この「アレーテー」には「奉仕貢献」「卓越」「勇氣」の意味もあります。勇氣を徳のある人の条件だと、古代ギリシャ人は考えました。

現代の日本は、波風が立たないことばかり優先し、結果的に息苦しい世の中になっているかもしれません。
本音通りに生きればこその勇氣の意味を、今一度考える時にさしかかっているように思います。

【音声版・自尊感情を高める習慣・6回コース】

1回約20分、6回コースの音声教材です。

第1回 自尊感情とは何か。何故大事か
第2回 全ての感情を受け止め、否定しないことの重要性
第3回 「何が嫌だったか」を自分に質問する。目的語を補う
第4回 期待通りに成らない現実を受け入れざるを得ない時
第5回 小さな一歩を踏み出す・最低限のラインを決める
第6回 人生が変わるのは知識ではなく氣づき

第1回目は無料で提供しています。まず一週間、毎日聴き、ワークに取り組んでみて下さい。その後更に日常の中で実践してみたくなったら、6回分の音声教材(税込5500円)をご購入下さい。

🔗第1回・要約・氣づきメモ

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    生きづらい貴方へ

    自尊感情(self-esteem)とは「かけがえのなさ」。そのままの自分で、かけがえがないと思えてこそ、自分も他人も大切にできます。自尊感情を高め、人と比べない、自分にダメ出ししない、依存も支配も執着も、しない、させない、されない自分に。