生きづらい貴方へ

「正解」を求めてしまう貴方へ・自分の本音を知る勇気

「その場の正解を求める」が癖になっていると

いわゆる「いい子」で育ってきた人や、親が何でも先回りして決めてしまったり、親に自分の感情や考えを伝えると否定されてきた人の中には、大人になっても「その場の正解を求めてしまう」が癖になっていることがあります。

これをすると、その場は波風が立たず、丸く収まるでしょう。しかし「自分がどうしたいか」の本音からどんどん離れてしまいます。周りがAだと言えばAに、Bだと言えばBに、これを繰り返せば繰り返すほど、波風は立たない代わりに振り回され、自分の内面が疲弊してしまいます。

そして、その場が丸く収まるだけで済まないのが、また厄介です。人の世はそう単純ではないからです。

「自分の意志をはっきり示さないこと」につけこむ人はどこにでもいます。
「嫌なものは嫌だ」を言えない人に、善意のつもりのお節介を焼きたがる人はどこにでもいます。

また相手に悪意は全くなかったとしても、「何も言わないから、それでいいんだと思っていた」になることもあります。

一方で、「自分の意志で」その場に合わせるのか、合わせないかを選択できる人もいます。周囲に配慮はしつつ、「自分はこうしたい、こう思う」とはっきり意思表明できる人もいます。こうした人たちは、何をしているのでしょうか?「その場の正解を求め、振り回される態度」とは、どのように違うのでしょうか・・・?

はた目には同じように見える「感情を抑え込む」と「感情を客観視する」

ところで、私たち大人は、不快な感情を「むき出しにする」ことは良くないこととされています。

嫌なことが起きた時、多くの人が反射的にやるのが「感情を抑え込む」「なかったことにする」ことです。「怒っちゃいけない!怒ってなんかない!!」

しかし、この「抑え込む」を繰り返すと、その「不快な感情」は行き場を失い、身体化(ぐったりする、やる気が起こらない、肩コリや頭痛など、体の症状に出ること)したり、知らず知らずのうちに不適切な行動化(より立場の弱い人に当たり散らす、ネットで中傷したり、バッシングをしたりするなど)になることがあります。

潜在意識は「これは感じて良い、これは感じてはいけない」の区別をつけません。ポジティブな感情だけを感じる、ということはできないのです。潜在意識は知恵の宝庫とも言われますが、一方で、大変融通が効きません。

ですので「何が好きで嫌いか」「何がしたくてしたくないか」も感じられなくなってしまいます。つまり本音がわからなくなってしまいます。

一方で、感情をむき出しにしない人全員が、こうしたことをやっているわけではありません。

ちゃんと感じながら、もう一人の自分が「良い・悪い」のジャッジをせずに「受け止めている」、つまり客観視をしています。そしてその習慣が身につけばこそ、自分の本音を知り、大切にできています。

客観視とは、「私は一体何に腹が立ったんだろう?何が嫌だったんだろう?」と、不快な感情を罰せずに、興味を持つ態度です。

はた目には「抑え込む」のも「客観視して受け止める」も、感情を撒き散らさないという意味では、同じ態度に見えます。
しかし、心の内側でやっていることは全く異なります。簡単に言えば「抑え込み、なかったことにする」のは自己虐待、「客観視して受け止める」のは自己尊重になります。

この客観視は誰かにできて、誰かにはできない類のものではありません。また、生まれながらにやれる人はいません。後天的に身につけるものです。

当Pradoの心理セラピーでやっていることも、この「自分を客観視し、どんな感情もジャッジせず受け止める」ようになっていくことです。

参考:自尊感情を高める7つの習慣 ①ネガティブな感情を受け止める

「規範を守ること」と「『正解』を求めること」の混同

人間は社会的動物ですから、他人と協力し合わなくては生きていけません。そのために、規範と呼ばれるものがあります。
常識やルール、マナー、礼儀も規範の一種です。

「その場の『正解』を求めてしまう」人の中には、この「正解」と「規範」を混同している場合があります。
じっくり振り返ればわかることですが、こうした人たちはもう充分に「規範」を身につけています。

「こういう時はこうするものだ」と知らずに、マナー違反をしてしまうことはあるかもしれません。しかし気がつけば素直に反省し、改めることが出来る人達です。

またマナーや常識は、時代や地域によってもどんどん変わります。相手も、本当に無礼な気持ちでマナー違反をしたのか、知らずにやってしまったのかは何となく伝わるものです。

「正解」と「規範」は違う、そしてもう自分は「規範」を大事にしている、少なくとも大事にしようとしている、その上で「どうしたいか」を大切にしていいと思えると、大きな一歩を踏み出せます。

自分の本音を知る時に痛みが伴うことも

生まれてこの方、常に本音通りに生きて来れた人は、そもそもセラピーを受ける必要はありません。

自分の本音に気づくとき、本音の内容そのものに加え、自分が如何に、心の奥底の「本音ちゃん」をがんじがらめにしてきたかに気がつきます。
そしてそれは、もうする必要がなかったことだったと。

その時痛みが伴うこともしばしばあります。泣き叫ぶ思いをすることもあります。
しかしそれは一種のカタルシスであり、解放です。

牢獄に閉じ込められていた人が解放された時、「やったー!万歳!」ではなく、感極まって涙があふれるようなものです。

私たちは自分で自分の本音を、牢獄に閉じ込めてしまうことがあります。その時はそうしなければ、生き延びて来られなかったからです。

しかし、もうその必要がなくなっても、閉じ込めっぱなしにしてしまう。そして「本音ちゃん」が「ここから出して!」と叫ぶ、それが人生の諸問題を引き起こし、「生きづらさ」というサインとして現れます。

本音通りに生きてこそ湧きあがる勇気

自分の本音通りに生きるとは、「『正解』を求め、他者に決めてもらう」生き方とは正反対のことです。
「だってあの人が(世間が、上司が、夫が)こう言ったから」をしておきたい人は、自分の本音通りに生きることはできません。

本音通りに生きる、それは迷惑を顧みず、わがままを通すことでは決してありません。

「自分で決めたことだから」と言える人生を送ることです。結果を人のせいにしないことです。

仮に会社や上司や夫の意向に沿ったとしても、「それも自分で選んだ」と思えることです。

この覚悟を決められてこそ、初めて勇気が湧きあがります。

自尊感情が豊かであるとは、勇気がある状態とも言えます。勇気があるから責任を取れ、結果人から信頼されます。
人からの信頼は「(都合の)いい人」にではなく、「責任を取れる人」が得られます。
そこにはどんな性格だとか、能力が高い低いだとかも関係ありません(能力がどんなに高くても、責任から逃れようとする人はどこにでもいます)。

結果的に人様から「あの人はいい人ね」と言われるのではなく、自分から「いい人」でいようとするのは、もしかすると、この勇気を持つことから逃げようとしているのかもしれません。
真に勇気がある人は、「いい人」でいることそのものを目的にはしません。時には誤解を恐れず、憎まれ役を買うことも出来ます。

古代ギリシャ語の「徳」は「アレーテー」と言い、この「アレーテー」には「奉仕貢献」「卓越」「勇気」の意味もあります。
勇気を徳のある人の条件だと、古代ギリシャ人は考えました。

現代日本に生きる私たちは、人あたりの良し悪しに焦点が当たり過ぎ、結果的に同調圧力の強すぎる、息苦しい世の中になっているかもしれません。
本音通りに生きればこその勇気の意味を、今一度考える時にさしかかっているように思います。

無料ステップメール「自分を大切にする7日間のレッスン」

自尊感情を高めるとは、自分を大切にすることと言い換えても良いでしょう。
「でも、具体的に何から始めたらいいの・・・?」の声にお応えして7日間のレッスンにまとめました。

《レッスンの一例》

● 体の声は心の声・体の状態に耳を傾ける
● 望まない人間関係に心の中で「No」を言う
● 「今・ここ」を生きるための自分への質問

Pradoの心理セラピー・セッションでお伝えしている内容を含んでいます。

どんな自分も否定せず、そのまま見て、耳を傾けることで「生きやすさ」は増していきます。
自分を大切にすることで、打たれ強く、柔軟で、ぶれない心を・・・!

 

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