自尊感情にまつわるコラム

本音通りに生きるために・感情を抑え込むことと客観視の違い

はた目には同じように見える「感情を抑え込む」と「感情を客観視する」

私たち大人は、特に不快な感情を「むき出しにする」ことは良くないこととされています。

仕事を持っていれば、嫌な上司、わがままなお客さん、いい加減な取引先、権利は主張するけれど義務は果たしたがらない部下に悩むことがあるのは当然です。
そのたびに嫌な思いはしますが、それを撒き散らしていてはチームワークが乱れますし、仕事になりませんから、その感情を出すまいとします。

その時、多くの人がやるのが「感情を抑え込む」「なかったことにする」ことです。「怒っちゃいけない!怒ってなんかない!!」

しかし、事が大きかったり、特に近い関係の人から同じ嫌なことを何回もされると、その「嫌な感情」は行き場を失い、身体化(ぐったりする、やる気が起こらない、肩コリや頭痛など、体の症状に出ること)したり、知らず知らずのうちに不適切な行動化(より立場の弱い人に当たり散らす、ネットで中傷したり、バッシングをしたりするなど)になることがあります。

そしてこうした身体化や不適切な行動化に出ると、心ある人ほど益々「嫌な感情は抑えなきゃ!」をやってしまいがちです。

潜在意識は「これは感じて良い、これは感じてはいけない」の区別をつけません。潜在意識は知恵の宝庫とも言われますが、一方で、大変融通が効きません。
ですので「何が好きで嫌いか」「何がしたくてしたくないか」も感じられなくなってしまいます。

一方で、感情をむき出しにしない人全員が、こうしたことをやっているわけではありません。

ちゃんと感じながら、もう一人の自分が「良い・悪い」のジャッジをせずに「受け止めている」、つまり客観視をしている人も少なくありません。

精神的にタフな人とは、感じていないのではなく、実は人一倍感じていながら、それ以上にしっかりとその感情を受け止める力がある、つまり客観性に富んでいる人のことです。
いわゆる「おとなしい」人の中にも、この意味での精神的にタフな人もたくさんいます。

客観視とは、感情そのものをジャッジせず、「私一体何に腹が立ったんだろう?何が嫌だったんだろう?」と興味を持つ態度です。

他人から下手に同情されるより(同情はともすると憐れみに転じ、「上から目線」になりかねません)、「何が嫌だったの?」と同じ目の高さで興味を持って聴いてもらえた方が、自分を尊重してくれたように感じられるでしょう。
客観視とは、これを自分自身に行う態度です。

はたから見ると「抑え込む」のも「客観視して受け止める」も、感情を撒き散らさないという意味では、同じ態度に見えます。
しかし、心の内側でやっていることは全く異なります。簡単に言えば「抑え込み、なかったことにする」のは自己虐待、「客観視して受け止める」のは自己尊重になります。

この客観視は誰かにできて、誰かにはできない類のものではありません。また、生まれながらにやれる人はいません。後天的に身につけるものです。

当Pradoの心理セラピーでやっていることも、この「自分を客観視し、どんな感情もジャッジせず受け止める」ようになっていくことです。

参考:自尊感情を高める7つの習慣 ①ネガティブな感情を受け止める

ネガティブな感情を抑え込むことが習慣になると、わからなくなる自分の本音

先に書いたように、潜在意識は融通が効きませんから「ネガティブな感情『だけ』感じない」はできません。
ネガティブな感情もOKだ、にしておかないと、自分が何が好きか、何を素晴らしいと感じているかがわからなくなります。

また「良い子」でいると承認されてきた人、もしくは親自身がそう育ってきた人ほど「怒ったり憎んだりするのは醜い感情だ。こんなことで怒る私は心が狭い、悪い子だ」と思い込んでしまっていることが多いです。

ネガティブな感情自体に「良い・悪い」はありません。単に「この状況に自分が満足していない」というサインに過ぎません。
何に対してどのように、怒ったり憎んだりしているのか、その表現の仕方が状況にふさわしいものなのかが問われるだけです。

単に自分のエゴが通らなかったから怒っているのか、自分の存在がないがしろにされたから怒りを感じているのか、自分ではよくわからない時もあります。
同じ状況がもし友達に起こったら、何と言ってあげるかを想像すると、よりわかりやすくなるでしょう。

参考:自尊感情を高めるワーク 自分を客観視・テレビドラマワーク

自分にしかわからない・決められない「どうしたいか」

「本人にその気がなかったら、周りがどんなに言っても無駄よ」と言ったり言われたりしたこともあるでしょう。

当たり前のことですが、人は自分がやりたいことしかやりたくないのです。
やむを得ずやっていることでも、「それをやらないともっとまずいことが起こるから」結果的にそれを選んでいます。

ということは、自分がどうしたいかがわからないと、「自分がどこへ向かいたいかわからない」「とりあえず、その場に求められそうなことをやる」「人から言われたり、やらざるを得ない用事を片づけている」日々になってしまいます。
それで何もストレスを感じていないのなら、それがその人の「望んでいること」なので、他人がそれ以上口出しすることはできません。

しかし一方で、実は人の世はそう単純でもありません。

「自分の意志をはっきり示さないこと」につけこむ人はどこにでもいます。
「嫌なものは嫌だ」を言えない人に、善意のつもりの余計なお節介を焼きたがる人はどこにでもいます。

また相手に悪意は全くなかったとしても、「何も言わないから、それでいいんだと思っていた」になることもあります。

「どうしたいか」がわからなくなると、その場の「正解」を周囲に求め、振り回されがちに

自分がどうしたいかがわからなかったとしても、人は他人から認められ、受け入れられたいとか、共感し合える仲間が欲しいなどの気持ちが抜きがたくあります。
これは人として当然のことです。

しかし、自分自身が何を大切にしたいか以上に、これらのことが上回ってしまうと、「常に人の顔色をうかがう」「『それ、違うやん!』と言われるのが怖い」という恐れが、意志決定の基準になってしまいかねません。
そうなると益々、自分が何をしたいかがわからなくなります。

規範を守ることと「『正解』を決めてもらうこと」の混同

人間は社会的動物ですから、他人と協力し合わなくては生きていけません。そのために、規範と呼ばれるものがあります。
常識やルール、マナー、礼儀も規範の一種です。

「その場の『正解』を求めてしまう」人の中には、この「正解」と「規範」を混同している場合があります。
じっくり振り返ればわかることですが、こうした人たちはもう充分に「規範」を身につけています。

「こういう時はこうするものだ」と知らずにマナー違反をしてしまうことはあるかもしれません。しかし気がつけば素直に反省し、改めることが出来る人達です。

またマナーや常識は、時代や地域によってもどんどん変わります。相手も、本当に無礼な気持ちでマナー違反をしたのか、知らずにやってしまったのかは何となく伝わるものです。

もう自分は「規範」を大事にしている、少なくとも大事にしようとしている、その上で「どうしたいか」を大切にしていいと思えると、大きな一歩を踏み出せます。

自分の本音を知る時に痛みが伴うことも

生まれてこの方、常に本音通りに生きて来れた人は、そもそもセラピーを受ける必要はありません。

自分の本音に気づくとき、本音の内容そのものに加え、自分が如何に「本音ちゃん」をがんじがらめにしてきたかに気がつきます。
そしてそれは、もうする必要がなかったことだったと。

その時痛みが伴うこともしばしばあります。泣き叫ぶ思いをすることもあります。

しかしそれは一種のカタルシスであり、解放です。

牢獄に閉じ込められていた人が解放された時、「やったー!万歳!」ではなく、感極まって涙があふれるようなものです。

私たちは自分で自分の本音を、牢獄に閉じ込めてしまうことがあります。その時はそうしなければ、生き延びて来られなかったからです。
しかし、もうその必要がなくなっても、閉じ込めっぱなしにしてしまう。そして「本音ちゃん」が「ここから出して!」と叫ぶ、それが人生の諸問題を引き起こし、「生きづらさ」というサインとして現れます。

本音通りに生きてこそ湧きあがる勇気

自分の本音通りに生きるとは、「『正解』を求め、他者に決めてもらう」生き方とは正反対のことです。
「だってあの人が(世間が、上司が、夫が)こう言ったから」をしておきたい人は、自分の本音通りに生きることはできません。

本音通りに生きる、それは迷惑を顧みず、わがままを通すことでは決してありません。

「自分で決めたことだから」と言える人生を送ることです。結果を人のせいにしないことです。

仮に会社や上司や夫の意向に沿ったとしても、「それも自分で選んだ」と思えることです。

この覚悟を決められてこそ、初めて勇気が湧きあがります。

自尊感情が豊かであるとは、勇気がある状態とも言えます。勇気があるから責任を取れ、結果人から信頼されます。
人からの信頼は「(都合の)いい人」にではなく、「責任を取れる人」が得られます。
そこにはどんな性格だとか、能力が高い低いだとかも関係ありません(能力がどんなに高くても、責任から逃れようとする人はどこにでもいます)。

結果的に人様から「あの人はいい人ね」と言われるのではなく、自分から「いい人」でいようとするのは、もしかすると、この勇気を持つことから逃げようとしているのかもしれません。
真に勇気がある人は、「いい人」でいることそのものを目的にはしません。時には誤解を恐れず、憎まれ役を買うことも出来ます。

古代ギリシャ語の「徳」は「アレーテー」と言い、この「アレーテー」には「奉仕貢献」「卓越」「勇気」の意味もあります。
勇気を徳のある人の条件だと、古代ギリシャ人は考えたのです。

現代日本に生きる私たちは、人あたりの良し悪しに焦点が当たり過ぎ、結果的に同調圧力の強すぎる、息苦しい世の中になっているかもしれません。
本音通りに生きればこその勇気の意味を、今一度考える時にさしかかっているように思います。

無料ステップメール「自分を大切にする7日間のレッスン」

自尊感情を高めるとは、自分を大切にすることと言い換えても良いでしょう。
「でも、具体的に何から始めたらいいの・・・?」の声にお応えして7日間のレッスンにまとめました。

《レッスンの一例》

● 体の声は心の声・体の状態に耳を傾ける
● 望まない人間関係に心の中で「No」を言う
● 「今・ここ」を生きるための自分への質問

Pradoの心理セラピー・セッションでお伝えしている内容を含んでいます。

どんな自分も否定せず、そのまま見て、耳を傾けることで「生きやすさ」は増していきます。
自分を大切にすることで、打たれ強く、柔軟で、ぶれない心を・・・!

 

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