知識ではなく知恵を得るためのPDCAサイクル
PDCAサイクル、昔から言われていますので、多くの方が一度は耳にしたことがあるでしょう。
PDCAサイクルは、「わかったつもりで、実践しきれていない」最たるものかもしれません。
PDCAサイクルは、知識ではなく知恵を得るためのものと、私は考えています。責任のある大人にとって、必要とされるのは知識よりも知恵です。
お勉強で知識は得られても、PDCAサイクルなしには、生きた知恵は得られないと言っても過言ではありません。
知識からよりも経験から学ぶには、勇気がいる
PDCAサイクルは、自分の経験から継続的に学ぶサイクルです。そしてまた、自分の経験から学ぶとは「完璧にはできない自分」と向き合っていくことです。
「思ったよりも」「以前よりかは」上手くいくことは勿論あるでしょう。「今の最善を尽くせた」こともあるでしょう。しかし「完璧」はあり得ません。「完璧にできた」と思ってしまえば、そこで成長は止まります。
知識から学ぶより、経験から学ぶ方が、勇氣が要ります。同じような自己啓発の本やセミナーが、手を変え品を変え売り出され、そしてそれらがそれなりに売れるのは、経験から学ぶ怖さから逃げて、知識でなんとかしたいという、人間の恐れからきているのかもしれません。
「できていることにしておきたい」「できないことにしておきたい」の誘惑
あるがままの自分に向き合い、受け入れていくのは勇氣が要ります。「ほれぼれとする完璧な自分でなければ認めたくない」ナルシシズムが強いと、「できていることにしておきたい」「できない自分から目をそらせたい」をやってしまいます。失敗を恐れる心の根本には、ナルシシズムがあるのです。
そしてまた、「できないことにしておきたい」誘惑も同時にあります。できることを認めてしまうと、「えー、アタシ無理ですー、できませーん」「○○さんの方が適任だと思いまーす」と逃げられなくなるからです。「ダメな私」「馬鹿な私」にしておいた方が、挑戦からも責任からも逃げられます。
「自分は本当はできない、わかっていない」も「自分は本当はできる、わかっている」も、認めていくのは実は怖いのです。責任から逃げたいと「できないことにしておきたい」誘惑に自分から屈してしまいます。
生きた知恵を得る最大の条件・自主性
PDCAサイクルの内、PとDは「会社や学校がやれと言ったからやる」もあり得ます。しかし、CとAは、自らやろうとしなければ決してやりません。嫌々させられても通り一遍の、形だけで終わってしまいます。裏から言えば、心から「これが大事だ」と思えばこそ、C・Aを厭わずにやります。
PDCAサイクルは生きた知恵を得るためのもの、このサイクルを回す最大の条件は自主性です。「だって、どうせ」をやっている間は、知識のお勉強をどんなに積んでも、今後に生かせる知恵は得られません。
また別の言い方をすれば、目に一丁字なかったとしても、「だって、どうせ」を言わずに、自主的にPDCAサイクルを回している人は、自ずと知恵者になっていきます。
C・Aのためにこそ「失敗はするもの」の前提
例えば、原稿を何度も推敲すること、これはCとAです。「一度で完璧な文章が書けるもの」と思っていたら、推敲しようとは決してしません。
テストで間違ったところをやり直すのも、CとAです。「私はダメだ、ダメだ」が多いクライアント様に、子供のころテストのやり直しをしたかお尋ねすると、今のところ100%「やっていない」とお答えになります。
どんな人も、どんなことも、最初からうまくいくことは決してない、細かな無数の修正の連続です。つまり「失敗はするもの」と思えていないと、CとAはやらないのです。
「あるがままの自分を知る」とは現在地を正確に知ること
ところで、自尊感情を高める習慣の一つに、「問題から目標へ意識を向け、その目標を具体化する」があります。
心にとって目標は「あった方が良い」心理セラピー・セッションでは初回セッションの前に「セッション完了後どのような自分になっていたいかを、1~3つ考えて持ってきてください」とお伝えしています。つまり目標です。私は目標を持つべき[…]
人が道に迷うのには二通りあり、一つは「目的地がわからない」、もう一つは「現在地がわからない」です。「目的地も現在地もわからない」こともあるでしょう。
道に迷った時、道路脇などにある周辺地図で、人が最初に確認しようとするのは、現在地です。それから目的地を探します。「今自分がどこにいるのか」がわからない方が、本能的に恐れを感じるのでしょう。
「あるがままの自分を知る」とは現在地を正確に知ることです。つまりPDCAサイクルのCを、面倒がらずに細かく積み重ねる度に、おのずと、あるがままの自分即ち現在地を知り、受け入れていきます。
そしてまた、現在地に良いも悪いもありません。目的地から、今はどの程度離れているのかが問われるだけです。現在地に良いも悪いもないとは、「もっと頭がよかったら、家が金持ちだったら、あんなおかしな親じゃなかったら」等のないものねだりをせず(過去の傷を癒す作業とは、このないものねだりをしなくなるためのものです)、自分が今立っている地点を「それ以上でも、それ以下でもない」と受け入れていくことです。
「それ以上でも、それ以下でもない」と受け入れればこそ、小さな一歩を踏み出すことを当たり前にやれます。
道義的責任と要因の区別
C・Aが大事とわかっていても、中々できないのは「あるがままの自分でOKだ」と思えない、裏から言えば「ほれぼれとする、すごい自分でないと認めたくない」ナルシシズムがある、と上述しました。
またこれ以外に、道義的責任と要因の区別がつかないと、「私のせいじゃない!」もしくは「やっぱり私がダメだから・・・」の犯人探しになり、建設的なC・Aが中々できません。
こちらは何も悪くないのに、言いがかりをつけられた、とばっちりを受けた、何かうまくいかなかった、生きていればこんなことも起こります。道義的責任は自分にはない、或いは双方にない、でも望む結果にならなかった。これには何らかの要因があります。
どんなことも因あっての果です。
面倒で理不尽に思っても、この要因を取り除く工夫はできる、これがC・Aです。例えば万引きは、お店の人には道義的責任はありません。しかし、万引きの要因を取り除く工夫と努力を、するかしないかという責任は、お店側に生じます。いじめや嫌がらせなども同じことです。
PDCAサイクルは「今、この瞬間」も「中長期的なこと」も
PDCAサイクルというと、一日、一週間、一か月、或いは一年など、或る程度の時間的なタームがあるもののように、イメージするかもしれません。
勿論それもありますが、「今、この瞬間」のことでもあります。誰かとのかかわりの中で、今、この瞬間、何が欲しいのか、どこに落としどころを持っていくのか。それを瞬時に考え、行動に移し、その結果を検証する、PDCAサイクルとは、行き当たりばったりや流されて生きることとは正反対の、かなり意識的な生き方なのです。
生きた知恵のためにこそ「犯人探し」で終わらせない
どんな人も、生きている限り日々何かを経験しています。その経験を生きた知恵にするか、或いは「ツイテる/ツイテない」「誰かや何かのせいだ」と外側に起きることに振り回される人生にするかは、このPDCAサイクルを生きているかどうかに集約されます。
自主性を失うと、自動的に「ツイテる/ツイテない」「誰かや何かのせいだ」の方へ、否が応でも陥ってしまいます。それは良くないことだと頭でわかっていたとしても。それは何故でしょうか・・・?
「物語」を探したがる脳
人間の脳は物語が大好きです。読書も抽象的な思考が要求されるものはエネルギーが要りますし、起承転結や善人/悪人がはっきりした物語の方が読みやすいです。勧善懲悪的な「こうだからこうなった」物語は、脳には負荷がかかりません。脳は「わかりやすい物語」が大好きなのです。しかし私たちが生きる現実は、そのようなわかりやすく、単純なものではありません。
「なぜこんなことが起きたのかわからない」ことには、人間の脳は不安を感じます。そして「生きた知恵」にする手間が面倒だと、「自分にとってわかりやすく、自分には責任が生じない物語」を探そうとします。
これが「犯人探し」をしたがる背景です。「だって、あの人が」も「どうせ私がダメだから」も、同じ「犯人探し」です。自分から「悲劇のヒロイン」になってしまうのも、悲劇と言う物語の主人公に、自分を位置付けているということです。
この一見もっともらしい物語に、脳は自分で自分を騙し、納得させてしまいます。そうなるとそれ以上何も変えようとはせず、そして同じことは繰り返されてしまいます。
「犯人探し」から「生きた知恵」へ
事によっては、謝罪と償いが必要なことも勿論あります。相手が道義的に許せないことをやったなら、「それは悪いことだ」と現実をきちんと見ることも大切です。いわゆるいい子ほど、先に「私が悪かったのかな?」にしてしまいがちですが、それは現実とまっすく向き合う態度ではありません。
しかし犯人探しをして吊し上げ、溜飲を下げて(居酒屋で「うっぷん晴らし大会」だけをやって)終わりでは、同じことを繰り返さない生きた知恵にはなりません。C・Aは犯人探しや、自分や他人にダメ出しをするためのものではありません。 人が中々C・Aをやりたがらないのは、自分へのダメ出しと混同しているせいもあるでしょう。
どんな経験も生きた知恵にする、し続ける、それは学び続けるということ、そのためのPDCAサイクルです。
死の間際まで生きた知恵を学び続けた鶴見和子
学びとは知識のお勉強とは限りません。人は死の間際まで、その意欲を失わなければ学び続けることができる、その例を以下に挙げます。
南方熊楠の研究で有名な、社会学者・鶴見和子(1918-2006)は、2006年5月に背骨の圧迫骨折のため寝たきりになり、その後大腸がんが発見されます。
同年6月20日に、妹の内山章子(あやこ)さんに「死にゆく人がどんな和歌を詠み、何を考え、何を思って死んでゆくかを、貴方は客観的に記録しなさい」と命じます。
死の6日前7月25日の章子さんの記録にこうあります。
午後四時、「大量下血があった。」と先生が言われた。「大腸癌が破れたのだとしたら、止血は難しい。今夜あたり・・・。」
(略)
看護師さんは、なんとか点滴を入れる所はないかと懸命に探してくださるが、どこも入らない。
「死ぬ方がいい。もう止めて。もう限界に来ました。馬鹿馬鹿しい。もう終わりです。」と叫ぶ。(略)
午後七時、兄(和子の弟の哲学者・鶴見俊輔)に、
「死ぬというのは、面白い体験ね。こんなの初めてだワ。こんな経験すると思わなかった。人生って面白いことが一杯あるのね。こんなに長く生きてもまだ知らないことがあるなんて面白い!!驚いた!!」というと、兄は、
「人生は驚きだ!!」と答え、姉は、
「驚いた!!面白い!!」といって、二人でゲラゲラ笑う。鶴見和子「遺言 斃(たお)れてのち元(はじ)まる」藤原書店より
後年、NHKのドキュメンタリー番組で、章子さんはインタビューに答えて「『面白い』とは難しいということ。つまり、死ぬことは難しいのだ」と言う意味のことをおっしゃっていました。
死ぬことの難しさは、自分が死に直面しなければ学べません。
人は最後の一息まで、学び続けることができる、それは「完璧ではない自分」と表裏一体です。
PDCAサイクルとは脳の単純化に逆らうこと
PDCAサイクルとは、自分がどうしたいかの自主性を保ちつつ、現実からのフィードバックを得て、修正し続ける不断の努力であり、習慣であり、生き方そのものです。
そしてこれは、単純化したがる脳の特性に逆らい、常に複雑で流動的な現実に向き合う姿勢であり、意識的な努力と習慣あってのものなのです。