不安を消すのではなく、耐性を高める
不安を感じやすい人ほど、「不安を感じたくない、不安を消したい」と望みがちです。もっともな心情ではありますが、現実には不可能です。
何故なら、不安は恐れから生じ、恐れは私たち人間が生き延びるための本能だからです。恐れを全く感じなくなったら、私たちは生きていけません。津波が来たら走って逃げるのも、恐れを感じればこそです。不安を感じるのは、その人の本能が死んでいない証拠でもあります。
また誤った楽観主義(「今日倒産しなかったから明日も倒産しないだろう」「8月31日まで時間があるから、今日は宿題をしなくてもまだ大丈夫」「神風が吹くから日本は勝つに違いない」)は、実際には不安から逃げているだけで、現実と向き合い乗り越える、真の前向きな姿勢ではありません。
不安の耐性を高めるとは、現実と向き合う力をつけることです。体重が1、2㎏増えたといったことでさえ、目をそらせておきたい。現実と向き合うのはどんな人であっても勇気が要り、たやすくはありません。
また私たちを取り巻く現実は複雑で流動的ですが、脳は単純化一般化をして思考停止したがり(「結婚すれば安心」「大企業に勤めているから安心」「お金持ちは楽をしていい思いをしている」)、都合の悪いものは見て見ぬふりという歪曲や削除、言い訳をしたがります。
思考停止や言い訳を決してするな、ということではなく、うっかりするとやってしまうものだ、自分も決して例外ではない、この自覚を持つことが「あるがままの自分を受け入れ、認めていく」ということです。自覚があればこそ、「現実をあるがままに見ようとする努力」ができます。
そもそも難しい「あるがままに見る」当Pradoでの心理セラピーにおいて、重視していることの一つは「あるがままに物事を見る客観視」の力を高めることです。ある人間関係が壊れる時、それは大抵壊れるべくして壊れています。しかし人間の脳は、事実[…]
脳が認識することと現実の間には否が応でもギャップが生じる、この脳の特性を知りながら、できるだけ現実に即していく努力と習慣が、結果的に不安の耐性を高めます。
自尊感情とは、現実を生き抜く力そのものなのです。
脳の前頭連合野を活性化させ、扁桃体の不安を抑制
では、どのようにしたら現実と向き合う力をつけ、不安の耐性を高められるのでしょうか・・・?
不安はうっかりすると綿菓子のように膨らんで、地球よりも大きくなって自分から押しつぶされてしまったり、逆に見て見ぬふりをして「なかったこと」にしがちです。ネガティブな感情の中でも、手なずけるのが難しいものかもしれません。
弊社の心理セラピーでは、目標設定を必ず行い、過去の振り返りから気づきを得て、物事の見方を変える、こうしたことを多く行います。これは大脳新皮質の、前頭連合野という額のあたりにある箇所を活性化させることです。大脳新皮質とは、人間の脳の一番外側を覆い、人間が最も発達している脳の部分です。
そして前頭連合野の完成は脳の中で最も遅く、学者によっては25歳ごろとも言われています。そして衰える時は最も早いです。お年寄りが「子供に戻る」のは、前頭連合野が使えなくなっているからです。ただ体の筋肉と同じで、高齢の方でも使い続ければ活性化します。
前頭連合野は、大脳新皮質より内側にある大脳辺縁系の中の、別名「パニックボタン」と呼ばれる扁桃体の過剰な働きを抑制します。不安も扁桃体というパニックボタンが押されている状態です。不安の耐性を高めるとは、扁桃体の働きを抑制する前頭連合野を鍛えることです。
また扁桃体の活動そのものを止めることはできません。扁桃体は感情の「好き・嫌い」も担っていますので、扁桃体を切除してしまうと、自分が何が好きで嫌いかわからなくなってしまいます。私たちの日々の判断は、まずは「好きか嫌いか」でざっくり分け、その後に「~だから」と理屈をつけています。ですから、何が好きか嫌いかがわからなければ、判断ができません。自発的な選択ができなくなってしまいます。そうなると私たちは「自分自身」を失ってしまいます。
冒頭に書いた通り、不安は恐れという本能によるものです。本能は生まれつきのものです。そして前頭連合野は後天的に発達するもの。ですので、不安の耐性を高めるのは、後天的な訓練と習慣があればこそです。
更に詳しく言えば、前頭連合野は、以下の項目にあるような人間の人間らしさ、社会性や心の成熟を担う箇所です。
- 「誰それが~と言うから、するから」ではなく、「自分がどうしたいか」の主体性と自己責任
- どんな感情もジャッジせず受け止める客観性
- ただ我慢するのではなく、「どうやったらもっと上手くいくか」を考え、行動に移す粘り強さ・忍耐力
- 「これは相手や、全体にとって、或いは未来の自分にとってどうなのか」を考える思考力・想像力
- これまでの自分の歩みをジャッジせずに受け止め、気づきを得る自己承認
これらの要素を高めていくと、おのずと不安の耐性が高くなっていきます。
逆から言うと、主体性と客観性を養わず、責任から逃げ、他人からの承認を得よう得ようとしていると(平たく言えば「かまってちゃん」になっていると)、より不安に振り回される悪循環に陥ります。不安の耐性とは、自制心とも言い換えられます。これは嫌なことを嫌々我慢することではなく、客観的な判断力に裏打ちされたものです。成熟した大人には、「自分がどうしたいか」の主体性とともに、「面倒でも怖くても、不安でも、これはやる、あるいはやらない」の自制心の両方が必要です。
人間の脳は、使えば使うほど神経細胞が増えていきます。また使わない神経細胞は、脳が勝手に「刈込み」をしてしまいます。
よく書く漢字は考えなくても書けるけれど、滅多に書かない漢字は調べないと書けなくなるのは、脳が神経細胞の刈込みをしてしまっているからです。また簡単な足し算引き算の暗算も、習慣的にやっておかないと、刈込みが起こってできなくなってしまいます。
漢字や計算なら、そう大したことにはならないかもしれません。
しかし「責任を取ることから逃げる」と、その時は楽をしていい目をしたように思うかもしれませんが、前頭連合野の神経細胞の刈込みが起きてしまいます。責任逃れを繰り返せば繰り返すほど、脳は「あ、この神経細胞は使わないから、いらないんだな」と判断して、どんどん刈り込んでしまいます。
そうすると、扁桃体の過剰な働きを受け止める、前頭連合野の力は否が応でも下がっていきます。扁桃体の神経細胞は、新生児の時にすでに完成されているくらいですから、なくなると生きていけません。そのため刈り込まれてなくなることは、脳梗塞などの障害が起きない限り、基本的にありません。前頭連合野の神経細胞が減り、扁桃体はそのままだと、不安に振り回されやすくなり、一時しのぎをするために「かまってちゃん」をしてしまいます。
責任を取れる人が、自ら不安に振り回され、かまってちゃんになることはありません。
人間関係の悩みの多くは、この不安の耐性を高めることをせず、他人にその役目を負わせようとすることから生じます。依存、支配、執着はその現れです。
弊社の心理セラピーで行っていることは、ざっくり言うと、前頭連合野をいかに活性化させ、鍛えるかなのです。
過剰な不安は結果をコントロールしたい自己中心性から
また一方で、不安は何もかもが悪いわけでは決してありません。適度な不安は、将来への備え、予防という行動に結びつくのなら、非常に有用なものです。経済でも健康でも人間関係でも、最も効率が良いのは予防です。予防を怠ると「人生のアラーム」が鳴り、火消しに追われてへとへとになってしまいます。
スマホ・ゲーム・インターネットという「時間泥棒」ひと昔前ならテレビ、今はスマホ、ゲーム、インターネットがいつの間にか私たちの時間を奪い取っていきます。誰にとっても一日は24時間しかないのに、何となくだらだらとこうしたことに時間を潰してし[…]
また「何か嫌な感じ・・・」といったいわゆる「虫の知らせ」の不安も、直観的な判断のためには不可欠です。危険を察知し、安全を確保できるのも、不安の感情があればこそです。一説には不安を感じやすい人の方が、学習能力が高いとも言われています。少々心配性の人の方が、思考停止して無防備すぎる人よりも、けがや病気やトラブルに見舞われることが少ないでしょう。全く不安を感じないこともまた、真の「生きやすさ」にはなりません。
問題となるのは、自尊感情を著しく下げてしまう過剰な不安です。具体的な予防や対策の原動力ではなく、「考えても仕方のないこと」を延々と考えてしまうことです。これをしてしまうと、「問題や不安よりも、自分は小さい」という暗示を自分で潜在意識に入れてしまいます。これをやり続けて、自尊感情が高まることはありません。
過剰な不安「もし~だったらどうしよう」のWhat ifクエスチョンが出てくるのは、プロセスではなく結果をコントロールしようとする時です。「もし売り上げが上がらなかったらどうしよう」「もし彼に振られたらどうしよう」売り上げを上げる努力も、彼と良い関係を築く努力もできますが、売り上げが上がる/上がらない、彼が自分を振る/振らないそのものを、コントロールすることはできません。私たちはしばしば、こんな当たり前のことを忘れてしまいます。
結果をコントロールしたい、この誘惑がない人はいないでしょう。「もし遭難した家族が見つからなかったらどうしよう」「もしがんが再発したらどうしよう」これらは「自分がコントロールできること」ではありませんが、やはり感じてしまう、それは当たり前の心情です。「感じて当然」の不安は、しっかり自己共感することが肝要です。
それでもなお、プロセスではなく結果をコントロールしようとするのは、「世界は自分が考えたとおりにあるべきだ/あってほしい」という期待がその背景にあるためです。期待は一見ポジティブなようですが、実はその奥には自己中心性が潜んでいます。
自己中心性とは、単なるわがままではありません。
人間には、「神を神の座から追い払って、自分が神の座に着きたい。この世の専制君主でいたい」自己中心性がかなり根強くあります。小さいお子さんを育てた経験がある方なら実感されていると思いますが、どんな子供も「この世の専制君主でいたい」欲求があります。
大人になるということは「私は神ならざる身なのだ、この世の専制君主になろうとしてはならないのだ」と学んでいくことでもあるでしょう。専制君主が人類に何をもたらしてきたかは、歴史が証明しています。成熟した人ほど謙虚なのは、これを心底学び、自分の生き方にしたからでしょう。
快は感じたいし不快は感じたくない。望まないことは起きてほしくない。望むことだけが起きてほしい。人は知らず知らずの内に、そうした期待を抱きます。しかし私たちが生きる世界は、中々期待通りにはならないものです。望むことも望まないことも起きます。これを受け入れることの難しさが、厳密に言えば自己中心性なのです。この自己中心性も、死ぬまで付きまといます。
私たちは不安材料を減らす努力はできますが、不安そのものを消すことはできません。どんなに健康に留意しても病気になる時はなりますし、健全な経済観念を持っている人でも、お金に困ることも起きます。不安材料を減らす努力を常日頃から怠らず、困ったことが起きた際には「どうにかする。どうにかできる」と自分に対して思える問題解決能力を身に着ける。そして自分の力ではどうにもできないことは受け入れる。どんな人にもここまでしかできません。完全な安心はこの世にはありません。
こんな当たり前のことが、自分の生き方になるのは実は決してたやすくはありません。
「人事を尽くして天命を待つ」
「主よ、変えられないものを受け入れる心の静けさと、変えられるものを変える勇気と、その両者を見分ける英知を我に与え給え」(ラインホールド・ニーバーの祈り)
「災難に遭う時節には災難に遭うが良く候 死ぬる時節には死ぬが良く候 是は是 災難を逃るる妙法にて候」(良寛)
自尊感情を高める習慣の一つ、不安の耐性を高めることも、誰かにできて誰かにはできない類いのものではありません。しかしやろうとしなければ、決してできません。愛や思いやりや勇気が、誰でも身に着けられる、でも不断の努力なしには決して実現できず、そして終わりのない道であるのと同じです。