自尊感情にまつわるコラム

「私の周りはみんないい人」の罠

「私はまあまあいい人に囲まれ、守られているから安全な筈だ」

人は知らず知らずの内に、自分の内面世界を「この世の標準だ」と思いがちです。「こういう時は、こうするものだ」「これが当然でしょ、普通でしょ」

そして無意識のうちにでも、自分自身を「天使ではないにせよ、まあまあいい人」だと思っていると、「私の周りにいる人も、まあまあいい人」だと思っていることがあります。「私は『まあまあいい人』に囲まれ、守られているから安全だ」そして、一旦このかりそめの安心感を得てしまうと、それを手放すのは容易ではありません。

犯罪の報道を見聞きしたり、或いはクレーマーや「困ったお客さん」に直に接しても、なんとなく「自分とは切り離された世界にいる人」であるかのように思ってしまいます。あたかも、TVの中にいる人が、自分とは切り離された別世界の人であるかのように。

勿論この「いい人像」は、あくまで自分の基準の「いい人」に過ぎません。

ですから、周囲の人が「自分にとってのいい人」ではない言動を取ると、別段自分に迷惑がかかったわけでもなくても、自分の世界の安全が脅かされるように感じ、「何であんたがそんなことをするのよ!」と内心であっても罰してしまいたくなります。

そしてまた、言ったところで相手は変わらないことが頭ではわかっているので、余計に葛藤が生じ、わかっているのに「何でそんなことをするの!」が止まらず、自分で自分を疲れさせてしまいます。

自分にとって遠い人なら、同じことをしても「世の中そんな人もいるよね」と大抵は受け流せます。自分の世界の安全が、脅かされたわけではないからです。

もっとも家族や友人など大切な人なら、一度や二度は「それってどうかと思うよ」と伝えるのも、ごく自然なことです。また子供や部下など、自分が責任を負う立場の相手なら、行動を改めてもらうための注意や叱責は当然のことです。

そしてまたどんな人にも、自分の信条を主張する権利はあります。それと、「相手に自分の信条通りの行動を取らせたくなる、そうさせないと気が済まない」のはまた別です。

自分の信条は信条として持ちながら、身近な人に強要せずに済むにはどのようにすればいいのでしょうか・・・?また強要しない人の心の持ち方とは、どのようなものなのでしょうか・・・?

「自分は善人で、正義の側にいる」と思いたいナルシシズムと恐れ

自分の良心・倫理観に照らして「良いこと」をなそうとするのは、人として大切なことです。良心や倫理観を曇らせず、磨き続けないと、私たちは簡単に歯止めを失ってしまいます。

良心や倫理観をいつのまにか曇らせ、失い、周囲の人を著しく傷つけ、そして自分は全く反省しない・・・こうしたことはかなり頻繁に起こっていると、日々のセッションでクライアント様の苦しみを聴きながら痛感しています。

ただ、結果的に他人から「あの人はいい人ね」と思われることと、自分が意図的に「いい人」であろうとする(もしくは「いい人」と思われたい)のは全く異なります。

自分が「いい人」であろうとする、「いい人」と思われたい、裏から言えば「悪く思われたくない」から「良いこと」をするのは、相手への愛ではなく、「ほれぼれとする自分でなければ愛せない」ナルシシズムがあり、また「『いい人』でいなければ、周囲からつまはじきにされるかもしれない」恐れから来ています。

そしてまたどんな人も程度の差はあれ、このナルシシズムと恐れを持っています。特に恐れは生き延びるための本能なので、なくすことはできませんし、なくしてもいけません。

どんな人にも「自分は善人で、正義の側にいる」と思っておきたい誘惑はあるものなのだ、という前提に立ち、そこから目をそらさないことが非常に大切です。

犯罪を犯す人でさえ、「自分は悪いことをしている」とは思っていません。人間の脳はどんな理屈をつけてでも、自分を正当化しようとするものなのだ、自分も決して例外ではない、と何度でも立ち返ることが真の誠実さでしょう。

エデンの園で、アダムとイブが蛇にそそのかされて禁断の知恵の木の実を食べた時、アダムは「あなた(神)が私に与えた女が誘惑したのです」と神に責任をなすりつけ、イブはイブで「だって蛇が」。そして私たち人間は皆、アダムとイブの子孫です。

そしてその上で、ナルシシズムを少しずつでも脱し、また本能としての恐れは保ちながら、別の選択肢、別の引き出しを増やすを努力をする、このことが人間としての成熟を促し、幅を広げることだと思います。

「真っ白か真っ黒か」「善か悪か」「0か100か」の「分裂」

ところで、自我という心の器が未熟でもろく、不快に耐える力が弱いと、人は物事を「真っ白か真っ黒か」「善か悪か」「0か100か」などの二つに分裂させて捉えてしまいます。

幼い子供たちが好むアニメや童話の世界には「いい人」と「悪い人」しか登場しません。世界には正義の味方と悪者しかいない、白雪姫は何から何までいい人、継母は何から何まで悪い人、そのように人間や物事を捉えています。
そして幼い子供たちは、白雪姫に感情移入し、自分も白雪姫の側にいる、と思っています。自分が継母だとは思いません。

「自分にも他人にも、良いところもあればそうでないところもあるよね」といった複雑な物の見方はまだできません。幼いうちはそれが当然ですし、それでいいのです。

ただ、通常人は成長するにつれ、多くの人との関係を通じ、また特に思春期の自我の目覚めと葛藤を乗り越えることを通して、「真っ白か真っ黒か」ではなく物事にはグレーの部分がかなり多いことを学びます。またこのグレーも、きれいなグラデーションではなくマーブル状になっています。

人間の成熟とは、私たちが生きている世界が非常に複雑であること、白黒すっぱりと別れるものではなく、マーブル状なのだということを、経験を通じて学んでいくことと言ってもいいでしょう。そしてこれには多面的に物事を見るという一種の鍛練と、複雑さに耐えるという忍耐力が要ります。

そしてこの鍛練と忍耐は、自我がしなやかで強くないとできません。白雪姫の世界のように、善と悪とがすっぱりと割り切れていると捉えた方が、ずっと楽なのです。また逆に、この鍛練と忍耐から逃げないからこそ、自我が強くなっていきます。自我を鍛えるのは筋トレと同じです。

善と悪をすっぱりと割り切り、多面的で複雑な物の見方をするというある種の忍耐を避けること、これを心理学用語での「分裂」と言います。

この「分裂」にとどまるのは楽ですが、思春期以前の物の見方のまま、私たちの自我は成熟できず、複雑な現実世界に対応することができません。結果的に様々な、主に人間関係の諸問題を引き起こしてしまいます。

「ろくでもなく」そして「そう捨てたものでもない」自分を両方持つ

上記のように、「自分は善人で、正義の側にいる」と思っておきたいナルシシズムの誘惑は、どんな人にも起こりえます。そして自我という心の器が未熟でもろいと、「分裂」によりこのナルシシズムを強化してしまいます。

過剰に自分を責めたり、自己否定から抜け出せないのも、実はこのナルシシズムの裏返しです。

自分にダメ出しは実はナルシシズム・ほめられると否定する心理

「分裂」により自分を善人に仕立て上げることもあれば、他人から反撃されるのが怖いため、自分を「悪い方」「ダメな方」に位置付けて、自分を攻撃し続けることもあります。これは出方が違うだけで、根は同じです。

この「真っ白か真っ黒か」「善か悪か」の「分裂」ではなく、多面的で複雑な物の見方ができるために、まずは自分の内面が「あれかこれか」ではなく「あれもこれも」両方あるのだ、と頭ではなく心で感じきっている必要があります。

「誰か私の代わりにあいつに毒を盛ってくれないだろうか。そして私は絶対に手を汚したくない・・・!」こんなことを考えてしまう「ろくでもない自分」が内側にある、そしてそれには良い悪いはなく、ただそうなんだ、ということです。

勿論、当然のことながら本当に毒を盛ってはいけません。私たち人間は社会的動物です。私たちが生きている社会に、もしくは自分が置かれている立場や責任に照らし、適切な態度・行動・振る舞いをしているかは必ず問われます。そしてこの態度・行動・振る舞いの結果が、自分の周囲の世界に反映されます。

「心の中で起きていることを、どんなことであってもそのまま受け止める」ことと、「どのような態度・行動・振る舞いに出すか出さないか」の二重構造を生きる、これが大人としての生きる態度だと思います。これができる人が自我という心の器がしなやかに強く大きい人、自尊感情が高い人と言えるでしょう。

また例えば、ちょっと面倒なことはすぐに先延ばしにしたがったり、その上なんだかんだと言い訳をしたがる自分がいる、その自分から目をそらさず、「あーあ、やっちゃうなあ」と思いはしても、「だから私はダメ人間!」といじめもせず、「私はダメ人間だから先延ばししても仕方がないんだ!」の言い訳もしない、ということです。

この「ろくでもない自分」が内面にいながら、それでもまあまあ、社会の中で何とかやっていっているのであれば「そう捨てたものでもない」、この二つの自分を両方同時に持つこと、これがナルシシズムを脱しつつ、自分を信頼する出発点になります。

自分に対してこれができればこそ、自分の外側の世界に過度な期待もせず、頭から「何もいいことない!どうせダメに決まってる!嫌なことばっかり!」と否定もしなくなります。

実際の世界は「嬉しいことも嫌なことも、そして嫌じゃないけれど嬉しくもないことも」全部あって成り立っています。こんな当たり前のことを、私たちはしばしば忘れてしまいます。「世界は(私にとっての)居心地の良い世界であるべきだ」が、ひいては自分では何も行動を起こそうとはしない被害者意識や、自分の不快には敏感でも他人の痛みは思いやれない自己中心性の温床になっているでしょう。

他人の態度・行動・振る舞いに抗議はしても(毅然とした態度で抗議することも時には必要です)、またその結果、相手が聞く耳持たずであることに、失望したり悲しんだりすることはあっても、その事実そのものは受け入れていくことができます。

その悲しみを受け入れながら、生きていくこと、これはある種の諦念かもしれませんが、妥協とは異なります。世界は何もかもが自分の思い通りになるわけではないという、自分の限界をわきまえること、自己中心性を脱していくことです。

この悲しみを受け入れきれないと、この悲しみに自分が耐えられないと、「相手に自分の信条通りの行動を取らせたくなる、そうさせないと気が済まなくなる」のでしょう。

割り切れなさが葛藤を生み、葛藤を乗り越えることで自我が成熟する

自我が成熟するとは、この世界も人間も「割り切れない」ものなのだということを受け入れること、自分は神ならざる身であり、何者でもないという、誇大感を打ち砕いていくことでもあります。

これを別の側面から言うと、葛藤という不快はあって当然であり、葛藤を乗り越え続けることで私たちの自我は成熟するということです。

「葛藤はあるべきではない」になると、人は「逃げるか/戦うか」反応に頼ります。「逃げるか/戦うか」反応は、恐れと同じく生き延びるための本能なので、なくせませんし、なくしてもいけません。ただ、これだけに頼ると、私たちは豊かな社会性は育めません。対人関係能力も問題解決能力も育ちません。

自分は「まあまあいい人」であり、自分の周りもみんないい人と思いたい、思っておきたい、現実がそうであれば葛藤という不快は避けられます。しかし現実は、大多数の人は「ろくでもなさ」を抱えつつ、「そう捨てたものでもない」のです。

あるがままの自分を大切にする自尊感情とは、ルンルンで楽しい人生を送れることではありません。葛藤はあって当然ということ、葛藤が自分を押し上げ成熟させることを知っている、そうした人生を生きるということなのです。

無料ステップメール「自分を大切にする7日間のレッスン」

自尊感情を高めるとは、自分を大切にすることと言い換えても良いでしょう。
「でも、具体的に何から始めたらいいの・・・?」の声にお応えして7日間のレッスンにまとめました。

《レッスンの一例》

● 体の声は心の声・体の状態に耳を傾ける
● 望まない人間関係に心の中で「No」を言う
● 「今・ここ」を生きるための自分への質問

Pradoの心理セラピー・セッションでお伝えしている内容を含んでいます。

どんな自分も否定せず、そのまま見て、耳を傾けることで「生きやすさ」は増していきます。
自分を大切にすることで、打たれ強く、柔軟で、ぶれない心を・・・!

 

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