「等身大の自分でありつつ自尊感情豊か」の3要素・向上心とのバランス

向上心が「そうではない自分はダメだ」にならないために

「こうありたい」であれ「べき・ねば」であれ、今の自分にはないものに憧れて、そうありたいと願う向上心は、なくしてしまったらおしまいでしょう。人間に現状維持は実はなく、前進か後退しかありません。向上心を失えば、坂道を転がり落ちるように心も腐ってしまいます。そしてまた、素晴らしい在り方に感動できることも、人生の醍醐味の一つです。

しかし、その向上心が「そうなってはいない、今の自分はダメだ」になってしまうと、元も子もありません。「今の自分がダメだから努力する」では、努力が罰ゲームになり、苦しい人生になってしまいます。

自尊感情とは、等身大の自分を受け入れ、大切にすることであり、一方で自分をもっと高く豊かな境地に連れて行ってあげたくなる、そうした向上心を失わないことでもあります。

等身大の自分とは、ただの開き直りや努力の放棄では決してありません。その反対です。等身大の自分を受け入れるから、地道な努力を大事にし、自分に正直でありながら謙虚にもなれるのです。

今回は、こうした在り方とはどのようなことか、具体的に深掘りしていきます。

等身大の自分でありつつ自尊感情豊かである3要素

心理セラピーにおいて、クライアント様の抱えている問題、置かれている状況、その方の資質は千差万別です。

しかし、結果的に「等身大の自分でありつつ自尊感情豊か」になっていかれるクライアント様には、共通点があります。以下に挙げる3要素を体現しているかです。

裏から言えば、この3要素のどれか一つでも欠けていると、セラピーは上手くいきません。そしてこれらは「誰かにできて、誰かにはできない」類のものでもありません。

①良心から選択しているか

これが最も重要です。自分の虚栄心やエゴ、世間体などの外側からの評価ではなく、自分の良心に従っているか、ということです。自尊感情が低いうちは、良心よりも罪悪感や、「嫌われたくない」などの恐れに動かされていることがとても多いです。

罪悪感と良心の呵責は見分けがつきにくいのですが、罪悪感から動かされたことは「やらされた感」が残ります。何かモヤモヤとして、すっきりしません。一方で、良心に従ってやったことは、誰が気づこうと気づくまいと「やってよかった」と自分を肯定できます。承認欲求は本能なので消えませんが、承認を得ることが目的になってしまうと、「誰が気づかなくても」と自分を貫くことはできません。

自分を良い人だと思われたい、悪く思われたくないという虚栄心や、嫌われて仲間外れにされたくないという所属感を脅かされる恐怖があると、罪悪感を刺激されて操作されやすい(「○○さんって、そんな人だと思わなかったわ」「△△さんが、あなたのことを※※だと言ってたわよ」)のです。

罪悪感から動いてしまう、それはまだ、自分の良心に出会いきっていない、良心としっかり結びついていない段階です。サイコパスでもない限り、良心がないわけではない、でも良心から出発していない、自分自身と良心が離れている状態です。その心の隙に、「罪悪感を刺激する」悪魔が忍び寄ってきます。

自分の良心に出会うと、もう誰でもない自分を裏切れなくなります。自分の精神の死以外の何物でもないからです。価値観や信念はその人独自のものですが、それらも良心がベースになっていなければ意味はありません。「人を蹴落としても、騙してもいいから自分が優位に立てればいい」「赤の他人が苦しんでいても他人事。私には関係ない」などは、エゴに基づいた信念です。またお金は大事ですが、「周囲の信頼を傷つけてもお金が大事」では、価値観の優先順位が狂っていると言わざるを得ません。

そしてこの良心や、良心に基づいた価値観・信念が「誰が何と言おうと」という心の張りになります。周囲の圧力や操作から、勇気をもって抗うためには、この心の張りを自分が養うほかありません。「世間体が」「同調圧力が」と言い訳が出るのは、この心の張りを養えていないからなのです。

そしてまた、人間関係に心が傷つくとき、「良心から行動してればあんなことをするだろうか?」と自分に問いかけることができます。もう少し平たく言えば「人としてどうなの?」です。自分が人の顔色を窺ったり、ごまを擦ったり、相手の善意や好意に胡坐をかいている内は、この質問を自分にしても明確な答えは返ってきません。自分が良心から行動していなければ、相手の狡さを見抜き、「それは違うでしょ」という態度もまた取れないのです。

「それは違うでしょ」に確信が持てれば、後は対処方法をどうするかだけです。対処方法だけアドバイスされても、自分の確信がぶれてしまうと、またそこに付け込まれます。

②視野を広げ続ける/視野が狭くなると「今だけ・自分だけ」に

人間の視野は放っておくと狭くなります。意識的な努力なしに広くなることはありません。視野が狭く、目先のことだけ考えていて、人間関係その他物事はうまくいきません。例えるなら車の運転が、遠くまで視線を届かせなければ安全に運転できないのと同じです。自転車でも、すぐ目先のところばかり視線が行っていると、バランスを崩し蛇行してしまいます。

ほとんどの日本人は、気持ちの優しい、いわゆるいい人が多いのでしょうが、いかんせん視野が狭すぎます。目先の波風を立てない、面倒を避けたいがばかりに、2022年7月現在、ほとんどの日本人が屋外でもマスクを外しません。ひと月以上前に政府から「屋外では外していいですよ」とのお墨付きが出たにも関わらず、厚労省が税金を使って「熱中症を避けるために屋外ではマスクを外しましょう」のTVCMを打っているにも関わらずです。

連日子供の熱中症のニュースがあり、地上波TVでさえマスクの害を報道しているのに、自分は熱中症にならないから、よそのお子さんのことなど知らない、そういう態度と取られても仕方がありません。

文科省から登下校時はマスクを外すよう通達が出ましたが、周囲の大人がことごとくマスクをしていたら、そして2年以上「マスクを外すことは悪」かのように日々洗脳されてきたら、余程根性がある子でもない限り、中々マスクを外せません。子供が安心してマスクを外せるために、大人が外さなければならないのです。これも「自分が子供の立場だったら」を想像していない、視野の狭さから来ています。

マスクの害と、感染予防の効果がないことは、ここでは詳細は割愛しますが、こうしたことも本気になって調べようとしないと、ただ皆がそうしてるからと流されてしまいます。それが心が盲目であるということです。

つまり視野が狭いと、自分は悪意がないつもりでも、「自分と自分の家族さえ、恙なく日常を過ごせればいい」になり、結果的に特に立場の弱い人を苦しめてしまいます。これは自分では自覚がないので、延々と続きます。

視野の広さとは、歴史や国内外の政治について、できる範囲で勉強することも含みますが、単に「知っている」だけでは視野の広さになりません。他人事ではなく自分事として捉えて初めて、視野の広さになります。わが子ではない、よそのお子さんであっても、今から生まれてくる子供たちも、この日本の未来を担う大切な存在です。こうしたことを感じ考えられるかが、視野を広げるということです。

政治に無関心でいいなんて言ってると、君の息子なんかが戦争に行っちゃうわけよ。いいかい。気をつけろよ。だまされんなよ。腐った奴らが増えているんだ。自分を見失わないで欲しいんだ。

忌野清志郎

こうした自分以外の、そして「今だけ」ではない先々のことも「他人事ではない」と思えるかどうかです。

この世に他人事は何一つありません。

③小さな一歩を踏み出す勇気

私の心理セラピーでは、クライアント様に次回セッションまでに取り組んでいただく、小さな宿題を必ず出しています。できるだけ小さな「こんなことでいいの?」と思われるものにしていますが、これを馬鹿にせず取り組むかどうかで、セッションの成否は決まります。

出された時は「こんなこと簡単」と思われたとしても、やってみたら意外と難しかった、それが当たり前です。今までやったことのないことに取り組んでいただくからです。

そして次回セッションの冒頭に「やってみてどんな気づきがありましたか?」と必ずお尋ねします。宿題の意義の説明や、クライアント様の頭の中でのシュミレーションは、宿題をお渡しする時に念入りにやりますが、実際の生活の中で、どんなことに気づくかは予めわかりません。

この日常の中での気づきが、寧ろ本番なのです。セッションは例えていうなら舞台裏であり、作戦タイムです。そしてこの気づきこそが、誰でもないクライアント様を自由にします。私が、私のセッションがクライアント様を自由にするのではありません。セッションを経た上での気づき、これはクライアント様のものであり、私のものではありません。

そして気づきとは他人と比べるものではありません。これも非常に重要です。この気づきを積み重ねていくと、自分は誰とも比べなくていいと実感していきます。これは言葉で説明してわかることではありません。

誰とも比べなくていい、比べる必要がない。ですが気づきがないと、いつの間にか自分で自分を制限してしまう。気づきが自分を解放する。だからこそ、自分にできる一歩を踏み出しながら、気づきを得たくなるのです。

これが、等身大の自分でありながら、向上心を失わない生き方なのです。

正直な等身大の自分から常にスタート

この3要素は、誰かにできて誰かにはできない類のものではありません。

常に良心から出発して、この世に他人事はないという視野を広げながら、小さな一歩を踏み出し続ける、ごく普通の人にできることです。良心を失わず、自分に正直に生きると言っても良いでしょう。

しかしやろうとしなければ、ただただ「誰それがそう言ったから」「皆がそうしてるから」「だって仕方がないでしょう」と言い訳をして流される人生になってしまいます。つまり、自分の人生を生きていません。「自分がない」とはそうした在り方です。

そしてまた、特別に優れた人格者に「ならなくてはならない」わけではありません。自尊感情豊かに生きるとは、結果的に周囲の人から「あの人はいい人ね」と評される一方で、「普通の人で良かった」とちょっとホッとされるような、そんな在り方です。

「ああいう在り方なら、私にもできるかも」と希望をもってもらえる、これも「だってあの人は特別だから」と逃げの言い訳を許さないことにも繋がります。

正直な等身大の自分から常にスタートする、今の自分は、それ以上でもそれ以下でもない。そしてその上で、人生は判断選択の連続ですから、その判断力を磨くために何をどうするかの、これもまた死ぬまで続く終わりのない連続です。

優れた境地がわかるには「本質に迫る生き方」を

優れた人の在り方に心を動かされる、こうした向上心を失えば、私たちは動物以下になってしまいます。ただ寝て起きて、飲み食いして、言われたことをこなして、自分に面倒なことができるだけ降りかからず、楽して得して、ちやほやされて、余暇は気を紛らわすお楽しみでやり過ごす。それでも「まあまあ悪くはない人」で一生を終えることもできてしまいます。そうした生き方に意味があるのかどうか、感じ考えられるのは自分しかいません。

「そんな人生は生きるに値しない」と誰に言われるでもなく思える人だけが、誰か他の人の生き方、在り方に深く感動することができるのです。

そして在り方とは境地なので、すぐにわかる、数か月で自分のものになるようなものではありません。数年、数十年かかることもあります。

これもまた、ただ時間さえ経てばわかるものでは決してなく、常に本質に迫ろうとする生き方の積み重ねの果実です。

ある女性が話してくれましたが、かつて俳人の中村汀女さんが、「先生、お閑(ひま)でしたら、是非講演を」と頼まれ、「ええ閑です。ですから講演はお断りします」と断り、そして「相手には全然伝わらなかったのよ」と笑って話した、という逸話があります。

その女性は30歳ごろその話を本で読み、当時はわかったような、わからないような、でも何か心にずっと残っていたそうです。そして20年以上経って、汀女さんのおっしゃってたことがわかった、とのことでした。

汀女さんの境地に至るとまでは行かなくても、言わんとすることがわかる、これに20年の月日が必要でした。そしてそれには、その人なりの「本質に迫ろうとする生き方」の紆余曲折があればこそです。20年だから悪い、10年だったら良い、ということではありません。

物事の本質はどこにあるのか、それを見極める目を日々養うのも、視野を広げることの一環です。

無料ステップメール「自分を大切にする7日間のレッスン」

自尊感情を高めるとは、自分を大切にすることと言い換えても良いでしょう。
「でも、具体的に何から始めたらいいの・・・?」の声にお応えして7日間のレッスンにまとめました。

《レッスンの一例》

● 体の声は心の声・体の状態に耳を傾ける
● 望まない人間関係に心の中で「No」を言う
● 「今・ここ」を生きるための自分への質問

Pradoの心理セラピー・セッションでお伝えしている内容を含んでいます。

どんな自分も否定せず、そのまま見て、耳を傾けることで「生きやすさ」は増していきます。
自分を大切にすることで、打たれ強く、柔軟で、ぶれない心を・・・!

 

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生きづらい貴方へ

自尊感情(self-esteem)とは「かけがえのなさ」。そのままの自分で、かけがえがないと思えてこそ、自分も他人も大切にできます。自尊感情を高め、人と比べない、自分にダメ出ししない、依存も支配も執着も、しない、させない、されない自分に。