中々解消しづらい恨みの感情
「恨んだところで仕方がない」と何度自分に言い聞かせても、中々その恨みは解消しない・・・多くの人がそうした経験があるでしょう。
恨みの感情が早めに解消されれば、人生はそれだけ楽になります。
しかしこの恨みの感情は、大きいものであればあるほど、他のことで紛らわそうとしても消えません。
時には何年も、何十年も解消しないことがあります。
それは何故でしょうか・・・?
またどのようにすれば、この恨みの感情は癒されるのでしょうか・・・?
返報性の原理とは
ところで、人間の心理には「返報性の原理」があります。
「お返ししたい、お返ししないと気持ちが悪い」と反射的に感じる作用です。
試食販売などは、この返報性の原理を活用していると言われています。
試食した後、お店の人に愛想よく勧められると「何だか買わないと悪いような気分になってしまう」、そうした心理です。
こうした経験があると、試食においそれと手を出さなくなったという人もいるでしょう。
これまで大して意識していなかったのに、ある異性に好意を向けられると、余程相手を軽蔑しているとか、生理的に受け付けないとかでない限り、何となく相手のことを好きになってしまう。これも返報性の原理です。
ナンパ師はこの原理を悪用しています。詐欺師が見るからに感じが良く、親切丁寧なのも同じです。
よく自己啓発の本で「感謝しましょう。感謝が大事です」と書かれているのは、「受けた恩を『お返ししたくなる』、その行動を取りたくなるほどに、心から感謝しているか」ということです。
言葉だけで感謝していても、「受けた恩をお返ししよう」と実際に行動に移していなければ、その人は実際には大して感謝してはいません。
SNSでやたら「感謝」をアピールする人への違和感facebookなどでのSNSで、投稿やコメントにやたら「感謝」「ありがとう」などの記述をする人がいます。コメントの最後に、内容に全く関係なくはんこのように毎回「感謝」と書いているのを見て[…]
ポジティブな感情でもネガティブな感情でも、この原理は作用します。
「ポジティブだからお返しして、ネガティブなものはお返ししない」などと、心、つまり潜在意識はそのような区別をつけません。
「思い知らせてやりたい!」の恨みも返報性の原理のため
ですから、理不尽なことをされて傷ついた場合、「思い知らせてやりたい!」と恨みの感情を抱くのも、この返報性の原理のためです。
つまり、その人の心が正常に機能している証拠です。
ただし現実には、報復の連鎖は泥沼を招くだけで、誰をも幸せにはしません。
そのため心ある人ほど、恨みの感情を抑え込んだり、罰したりしがちです。「こんな感情は持ってはいけない!危険だ!」
しかしまたそれをすると、出口を塞がれた感情の持って行き場がなくなります。
自分に向かうと身体化(倦怠感、不眠、円形脱毛症、頭痛や肩こりなど)したり、より立場の弱い人に無意識にでも八つ当たりするなど、不適切な行動化になることがあります。
感情の強さに比例して働く、返報性の原理
人が激しい恨みの感情を抱くのは、特に信じていた人に裏切られた時でしょう。肉親など近い関係ほど、情が絡むので恨みになりやすいです。
「ほんの行きずりの人」「ごく浅い関係性の人」や「軽蔑している相手」に少々嫌がらせをされても、その時不愉快にはなりますが、その出来事が終わったり、関わりさえ持たなくなれば忘れてしまうものでしょう。余程でない限り、その後も長い間恨みを引きずるのは、余りないようです。
「かわいさ余って憎さ百倍」ということわざがあります。
相手に対する信頼・尊敬・愛情が大きければ大きいほど、裏切られた時のショックは大きくなります。
失恋のショックから立ち直るのに時間がかかるのも、その相手を信じ、愛していればこそです。
恨みの感情を抱いた時、抑え込んだり、なかったことにするのではなく、この返報性の原理に沿って処理する必要があります。
ひとつは恨みの対象そのものを、相対化して、小さくとらえ直すことです。
上に書いた通り「それほど思い入れのない相手」には、通常不愉快にはなっても「思い知らせてやりたい!」と激しく恨んだりはしません。
もうひとつは、報復そのものを昇華することです。
昇華とは、この場合は報復など、社会的に良しとされていない事柄を、次元の高いものに引き上げて実現することです。詳しくは後述します。
出来事の重さによっては、「小さくとらえ直す」ことはできないものもあります。
家族を事故などで奪われた場合など、その出来事を「小さくとらえ直す」ことはむしろ不自然でしょう。
これを以下に見て行きます。
恨みの感情の癒し方 ① 恨みの対象を相対化する
悩みの現実そのものは変わらなくても、見方を変え、自分の受け取り方が広がることによって、「相対化」されると気持ちが楽になります。
同じ悩みを持つ人同士で、その悩みを分かち合う会合があちこちにあります。
それは「悩んでいたのは自分だけではなかった」と現実そのものは何も変わっていなくても、気持ちが軽くなることを目的としています。
人が悩んでいる時、悩みの現実そのものよりも、「こんなことを悩んでいるのは私だけだろうか」という孤独感の方が辛く感じることがあります。
こうした孤独感は、悩みを「絶対化」しがちです。そして「絶対化」は自分の世界地図を圧倒してしまいます。
知識ではなく氣づきによって、変わる生き方心理セラピー・セッションで主にやっていることは、クライアント様の経験から氣づきを得ていくことです。氣づきは知識とは異なります。弊社のクライアント様は、勉強熱心な方が多く、読書好きだっ[…]
また恨みは、相手に対する期待の裏返しでもあります。
信じていた相手に裏切られ、ショックを受けるのは(「こんな人だとは思わなかった・・・!」)、それは相手にそれだけ期待があればこそです。
殊に親からもらいたかった愛情を、他の大人が代わって与えてくれたとしても、それで帳消しにはなりません。それは親に対する期待が消えないからでしょう。どんな子供も「自分は良い親に愛情深く育てられた」と思いたい、そうあるはずだと願うものです。現実はそうでなかった、子供の一途な愛情を、エゴのために利用されたと気づくと、深い恨みが生じます。
恨みの対象を相対化するとは、例えば
自分の親の愛のなさは、その親からの連鎖で、彼らは加害者であると同時に被害者でもあったとか、
世の中には「嘘をついても平気な人」「人を利用して何とも思わない人」もたくさんいるのだ、自分はこれまで、たまたま幸運にも巡り会わずにすんでいただけだったとか、
皆が皆、自分の心に向き合って、心の気高さを失うまいと生きているわけではないのだとか、
こうした見方を拡げることによる「相対化」ができると、相手は何も変わっていなくても、こちらの気持ちが楽になってきます。
「この恨みを返してやりたい!」気持ちが弱まってくる、返報性の原理の作用が小さくなるからです。
相手がやったことを道義的に許さなくても良いのですが、自分が日常生活の中で恨みの感情に支配されないための相対化です。
またこれは人に言われるのではなく、自分で「氣づく」ことが大事です。
多くの人が自然にやっているのはこの「相対化」です。当Pradoのセラピー・セッションでもこうした相対化を多く行います。
恨みの感情の癒し方② 報復そのものを昇華する
例えば家族を事故によって奪われたなど、出来事を中々相対化できないこともあります。これは「世の中そんなもの」ではすまされません。
この場合は「思い知らせてやりたい!」つまり報復したい、相手に返したい気持ちを、抑え込み消そうとするのではなく、別なものに変えていく必要があります。
ある芸能人の小学生の娘さんが、交通事故に遭って亡くなりました。
ついさっきまで元気にしていた娘が、突然いなくなる、その悲しみやショックはいかばかりかと思います。
どんな曲折を経たのかはわかりませんが、その芸能人の方は、やがて自分の知名度を生かして、「こんな思いをする人が少しでも減るように」と交通事故撲滅のための活動を始めました。
昇華、とはこうしたことです。
もっと日常的な例を挙げると、上司にこっぴどく叱られた、悔しい思いを嫌がらせで返すのではなく、その上司に一目置かせる存在になろう、と発奮材料にするのも昇華です。
先の親の例だと、「自分は自分の子供に連鎖させまい」とするのも昇華です。
スペインのことわざに「幸福に生きることが最高の復讐」があります。
同じ仕返しをすれば、自分もその相手と同じレベルの存在です。
そんな情けないことを自分に許さないのが品位、心の氣高さでもあります。
昇華できるようになるためには、心底自分を大切にする、自尊感情を高める習慣がベースにあればこそです。「次はこうする」の反省ではなく、「ああ、やっぱり自分はダメだ」のダメ出しをして具体的な行動に移そうとしなかったり、「だって、どうせ」の責任逃ればかりしている間は、この昇華という高度な心の向き合い方はできません。
「恨んでもしょうがないでしょ!」では追いつめられるだけ
この恨みの感情の向き合い方は、①と②のいずれか、もしくは両方が必要です。
実際のセラピー・セッションでは、「大きな恨みに小さな無数の恨みと、それによる無数の思い込みが絡みついている」ものなので、数多くのプロセスが必要です。そして「どれをどのタイミングで解消すればいいのか」の診立ては、クライアント様ご本人では中々わかりません。心のことは目に見えず、常に揺れ動き続けるものなので当然です。恨みの感情が中々解消しづらいのも、こうした事情があればこそでしょう。
そして、報復の連鎖はなにも良いことをもたらさない、それは誰しもがわかっています。
だからこそ、恨みの感情に対して、他人や自分に「恨んだってしょうがないでしょ!」とお説教をしがちです。
しかし、人間の心の「返報性の原理」はお説教で止まるものではありません。
かえって心は追いつめられるだけです。
返報性の原理は、良きにつけ悪しきにつけ働き続けるもの。この原理自体は死ぬまでなくなりません。
この原理に沿って感情に向き合い、処理することが真の癒しとなります。
それでも恨みを抱えざるを得ない、それが人間
そしてまた、上記のような①と②の向き合い方、処理の仕方をしても、やはり恨みが残ることもあります。高齢者が配偶者に対して、昔の恨みつらみを言いつのったり、言葉だけではなく、弱ってきた相手に暴力を振るうのも、この恨みが消えず、そして脳の前頭連合野の働きが衰え、自制心が効かなくなるために起きてしまうことです。繰り返しになりますが、配偶者や親など、情が絡む相手ほど、恨みは深くなります。
最も大切なことは、自分は聖人君子ではない、ごく普通の人間で、どんなに向き合っても残る恨みを抱えて生きざるを得ないこともある、それを承認することです。
「ほれぼれとする自分でないと許してやらない、受け入れたくない」のナルシシズムがあると、それは難しくなります。
誰に対してどのように恨んでいるのかをごまかさない、そして関係のない第三者を巻き込まない、それが良心であり品位です。本当は特定の個人への恨みの筈なのに、「世間一般への恨み」に転化すると「世間に自分を認めさせたい、跪かせたい」が生きる動機になり、「どうやったら世間を見下せるか。『わあ、すごいですね』と言われるか」に汲々とし、少しでも自分の評価評判が悪くなることは、わかっていても知らぬ存ぜぬで口を拭って逃げてしまいます。
そのような人が、譬え誤解を受けようと、非難されようと、「おかしいものはおかしい」と声を挙げ、信念を貫く生き方は最初からやろうとはしないのです。