「俺を/私を煩わせるな。厄介をかけるな」
時折親御さんが、我が子を「この壊れた機械を直してほしい」と言わんばかりにセッションを申し込んでくることがあります。「足立さん、何とか我が子を助けてやってください!」とは異なります。「この子が問題だ。足立さんがこの厄介な問題を取り除いてください」のスタンスです。まるで自分が躾けをしそこなった飼い犬を、ドッグトレーナーに預けさえすれば「直してくれる」と思っている飼い主のようです。
そのたびに、私は内心大変失望し、怒りを感じます。「あなたがそんな態度だから、お子さんが悲鳴を上げるんでしょ!」と言いたい氣持ちをぐっとこらえ、「ご本人にセッションを受ける意志がなければ、ご本人が辛いだけですよ」と申し上げます。
そのことはサイトにも縷々説明していますし、口頭でも改めて説明しますが、やはり納得はされないようです。形だけ、初回、もしくはほんの数回親御さんがセッションを受けても、本氣で自分の何かを変えるつもりはないので、当然ですが結果は出ません。
子供の悩みや、痛み、そこから派生する症状や問題行動を、「この子は一体、何でこんなことになってしまったのか。何が辛いのか。私に何ができるだろうか」と真摯に心を痛めて向き合おうとする親御さんばかりではありません、残念ながら。親も生身の人間なので、時にはへとへとになって爆発したくなる時もあるでしょう。「いい加減にしてくれ!」と悲鳴を上げたくなる時もあるでしょう。しかしそのことと、時には子供の病氣・怪我でさえ、最初から「俺を、私を煩わせるな」の厄介ごととしか捉えないのは異なります。
子供はそれをされると、非常に傷つき、親を敵だと認識します。はっきり自覚でき、それを「親の家から出る」エネルギーに変えられる人もいますが、少数派でしょう。心の奥底では親に心を閉ざしながら、表面上では認めまいとし、いつまでも親に自尊心を踏みにじられるケースの方が多いと思われます。或いは親に怒りを感じつつ「あなたが改心して変われ。私に謝れ」をどうしてもやりたくなるなどです。「そんなことは無理。でも変わって、謝って。でも無理」の堂々巡りに自分が首を締められることも少なくありません。
また更に、親に依存しながら復讐し続けるケースもあります。中高年の引きこもりの中には、この「親に経済的に依存しながら復讐し続ける」を無意識的にやっている人もいるかもしれません。
どんな子供も、成長には悩みや痛みがつきものです。それを厄介ごととしか捉えない親とは、どのような心理なのでしょうか・・・?
「利用価値があるか/脅威か」で推し量る⇒自分の都合・損得が大事
親に限ったことではありませんが、他人を「自分と同じく、尊重されるべきかけがえのない存在」とは捉えない人は、残念ながら少なくありません。見出しの通り、他人を「利用価値があるか/脅威か」でしか推し量れないのです。
以前の記事の「惚れさせることが目的」の人も同様です。相手に氣のあるそぶりをしてみせて、氣持ちを揺さぶり、釣りあげる。自分が「モテたような氣分」になれれば良いのであって、ちょっとした面倒が起きれば手のひらを返して疎遠になる、音信不通になるなどです。氣のある素振りはして見せても、自分からは連絡しない、デートに誘わないこともしばしばです。自分が責任を負いたくない、面倒なことは避けたいからです。つまりは、自分にとって都合の良い相手だから欲しがっているだけで、お相手を愛しているとは言えません。
「異性を自分に惚れさせる」だけが目的の人世の中には「ターゲットにした異性を自分に惚れさせる、氣を引く、好きにさせる」けれども責任のある関係づくりはしない人がまま存在します。男性が女性をのケースが多いですが、女性が男性を、もないわけ[…]
この「脅威か」は、恐怖の対象というよりも、「面倒くさい」「煩わしい」がより実情に近いでしょう。些細な面倒を他人に押し付けたり、雲隠れして逃げたり、体はそこにいても沈黙することで「いなくなってしまう」なども挙げられます。そしてそこに良心の呵責はありません。
ある女性は、肝炎で40日ほど入院した時、たまたま両親の北海道旅行と重なりました。両親の友人夫婦と4人での旅行でした。父親は「旅行に行ってもいいか」と娘に尋ね、娘は「私が入院中に旅行に行くの?」などとも言えず、「良いよ」と答えました。そうは答えたものの、長い入院生活はやはり精神的に堪え、退院した時は涙が溢れたそうです。両親は遠方に住んでいるので、北海道旅行へ行きがけに一度見舞いに来ましたが、それ以外は葉書の一枚もなかったそうです。
退院後帰省し、その日の夕食時に父親は開口一番「良い休暇になっただろう、ヒヒヒ」と笑いました。その時はショックで何も言えませんでしたが、夜中に感情が爆発して号泣したそうです。後から父親は「入院を前向きに捉えてもらおうと思って」と言い訳していましたが、「もしかすると、友人夫婦に『○○ちゃんが入院中なのに、旅行に行って良いの?』と言われたのかもしれない。そして『折角の前々からの楽しみだったのに、こんな時期に入院なんかしやがって』が本音だったのでしょう」とのことでした。
退院後も完治したわけではなく、定期的に病院通いが必要な病氣ですが、父親も母親も、彼女の体調を氣遣うことはありませんでした。
「常に自分の都合が優先する親」は、すべてを「自分が何を得ることができるか」によって見る傾向があります。子供のニーズと自分のニーズが衝突すると、子供は「厄介者」「問題を起こす者」、または「脅威」と映るのです。
ダン・ニューハース「不幸にする親 人生を奪われる子供」下線は足立による
上記の父親はまさにこのケースに当てはまります。我が子の病氣入院でさえ、自分のニーズ(北海道旅行)の邪魔をするものでしかなかったのです。
他人を思いやれないナルシシストの親
ダン・ニューハースによれば、「『コントロールばかりする親』は、ナルシシスト的であるという点ではみな共通していますが、『常に自分の都合が優先する親』には、それが特によく当てはまります」
ナルシシストとは自己愛性人格障害とも言い換えれらます。但し、ナルシシズムは万人が持つもので、芯の部分は残ります。社会通念上許容される、小さな見栄、例えば来客時には家を片付け、来客用の食器を戸棚の奥から引っ張り出すとか、それまで身なりにかまわなかった人が、好きな異性ができた途端にお洒落に精を出す、と言ったことです。これらは自分と相手の双方のためであり、互いを受け入れ合いたい氣持ちの現れです。
また寝坊して遅刻したのに、正直に言うのが恥ずかしくて「電車が遅れて」などと言い訳するなども、相手が再々繰り返さなければ、大抵の場合は騙されたふりをして見逃します。「そうもしないと誰も生きて行けない」からです。
ニューハースが言う「ナルシシストの親」は、これらの小さな見栄とは異なります。我が身可愛さばかりで、他人を思いやれません。ルールや常識を守るのも「そうしなければ自分が損をする、非難される」打算や、もしくは「ルールを守らない奴は悪い奴だ」という「自分の自己重要感を満たして他人を非難したい」コントロール欲が動機になっています。
勿論、共感性が低いからと言って、自己愛性人格障害と決めつけるのは大変危険です。ただ、人格障害はグレーの部分もかなりあり、特に自己愛性人格障害は「薄いグレーの予備軍」まで入れると、普通の社会経験のある人なら、氣づく氣づかないは別として、ほとんどの人が出会っているでしょう。自己愛性人格障害については、以下のリンクをご参考にして下さい。
共感性は対等の関係性と愛に基づく責任感の基礎
共感性は、主に幼少期に養育者(親)から愛情のこもった共感をしてもらい(「良かったねえ」「美味しいねえ」「よしよし、怖かったね」等)、また子供同士の遊びを通じて育まれます。一緒に笑い転げたり、友達が辛そうだと「大丈夫?」と声をかけたり。子供たちが公園で遊ぶ姿には、大人にはない溌溂として無邪氣な感情の表出があります。共感し合えばし合うほど、友情は強められ、「自分は一人ぼっちじゃない」心の支えになっていきます。友情とは「自分と相手は対等」の関係性です。
大人の私たちであっても、共感する時、立場の上下はあっても人として対等であることを無意識の内に感じ取ります。対等であればこそ、支配/依存でも、利用したりされたりでもない、真の尊重がそこにあります。尊重し合う時、人は対等です。
そしてまた、尊重するとは、相手に対して責任を持つということです。尊重しながら無責任と言うことはありません。エーリッヒ・フロムによれば愛とは責任、尊重、配慮、関心の4要素が実現される、かなり能動的な態度です。これらを実現しようとする時、相手を上下で推し量っていません。相手が「上だから平身低頭して仕える」のでもなく、「弱者だから庇護してやる」でもありません。自分と同じようにかけがえのない存在だから、大切に扱う、責任を果たそうとするということです。
共感性が低く、子供の悩みを厄介ごと扱いする親にとって、子供は自分の所有物です。お氣に入りのバッグが、氣に入っている間は大事に扱い、どこでも持ち歩いて他人に自慢しますが、飽きたり、流行遅れになったり、傷んできたら、即ち自分の都合に合わなくなったら見向きもしなくなるようなものです。
共感できないのは脳の器質的な問題・「もっと共感して」と言っても通じない
何故ナルシシストが共感性が低いのかは、はっきりとした理由はわかっていません。遺伝も含めた脳の器質的な問題と、幼少期の育てられ方が主な要因と考えられます。生まれつき「共感を感じにくい」脳の構造の子供が、不適切な養育により共感性を伸ばすことができなくなったと考えるとわかりやすいかもしれません。
親や夫に「もっと共感して欲しい」と子供や妻が訴えることがしばしばあります。また、時折クライアント様からのご質問で「自分の親は人格障害じゃないかと思う。セッションを受けさせても治らないのでしょうか?」というのがあります。結論から言えば、まず不可能だと思って頂いて構いません。
共感性が低いとは、人の痛みがわからない⇒何が問題なのかがわからない、ということです。本人が問題を問題視していないと、他人は介入できません。そしてまた、共感性が低く人の痛みを思いやれないとは、責任感がないということです。そして無責任な人ほど、言い訳や自己正当化の達人であり、「自分が悪かった」とは中々思わないのです。
念のためですが、どんな人も「もっと思いやりの心を育みたい」と自分が決意し、その努力をすることは当然可能です。スマホで頭を一杯にするのではなく、想像力を巡らせるための思考の余白を持つように心がける、五感を研ぎ澄ませて感性を磨くなどです。但しこれも、他人に「もっと思いやりの心を持て」と説教しても中々そうはなりません。人に言われたからではなく、自分がその大切さを心に留めればこその努力です。
自分の悲しみや怒りに向き合い、癒し、親とは分離する
「俺に/私に厄介をかけるな」と扱われてきた子供の痛みは、そう簡単には癒えません。まず辛くても、自分が「事実の否定」をしてごまかさないことが最初の難関です。
自分の傷ついた心に向き合うプロセスで、悲しみが怒りや恨み、時には呪いにすらなることもあります。「そんな自分は見たくない。自分にはそんな醜い感情はない」と思っておきたい、それは結局親と同じナルシシズムの罠に嵌っています。親への怒りを外に出す意義とやり方は、以前の記事に詳述しましたのでご参考にして下さい。
他人への怒りとは異なる親への怒りの根深さ親に対する怒りは、他人へのそれとは根本的に異なります。近所の人、友人、恋人、配偶者、職場の上司や部下、取引先には、その時はほとほと困っても、余程のことでない限り、縁が切れれば時間の経過ととも[…]
幼い子供にとって、親は自分の宇宙を支配する神であり、絶対的な庇護者であり、自分の味方です。それは万人にとってそうです。親への失望を感じるのは、他人への失望よりももっと深く辛く、情けないものです。しかしこの失望に耐える力を養って漸く、親を神の座から引きずり下ろし、生身の人間として見ることができます。それもまた対等に向き合う態度です。
そして情けなくはあっても、自分と同じ生身の人間として対等に親を見ることができて初めて、自分自身が親から分離することができます。そのプロセスそのものが、誰でもない自分の人生に責任を持つ態度であり、それは貴方の親が、残念ながら成し得なかったことなのです。