他人への怒りとは異なる親への怒りの根深さ
親に対する怒りは、他人へのそれとは根本的に異なります。他人の場合は、余程のことでない限り、縁が切れれば時間の経過とともに忘れて行くでしょう。
産みの親は世界にただ一人の父であり、母です。自分が何故世界に一人きりの父や母から、子供であるという理由だけで、けなされたり、尊重されなかったり、無視されたりしなければならなかったのか。彼ら自身の生育歴に原因があったにせよ、それを知ったところで「心は納得できない」ものでしょう。
私たちは納得がいかない、苦しみの種になっていることを、その相手に説明や説得をして、変わってもらう、せめて理解してもらおうとします。私たちは、刺激⇒反応の順序になっているので、この刺激の方を変えたくなります。日常の言葉にすれば「お前ら、いい加減にしろ!」です。
しかし、所謂毒親との関係では中々うまくいきません。互いに歩み寄れるコミュニケーションを取れるなら、そもそもその親は毒親ではないからです。
(毒になる)親を持ったほとんどの人は、自分の親が子供を理解し受け入れることのできる、愛情のある親になってくれるようにと、それこそあらゆる犠牲を払ってもがいている。そうして”もがく”ことで本人はエネルギーを使い果たし、日々の生活は混乱と苦痛に満ちたものになっているのに、その”もがき”はまったくむくわれることはない。
スーザン・フォワード「毒になる親 一生苦しむ子供」
フォワードは「”『毒になる親』を変えようとする努力”というゲームはやめるべきだ」と強調しています。
根本解決は、親が変わることではなく、自分が親から受けてしまった影響を、時間がかかっても薄めて行き、自分自身の人生を生きることに外なりません。
親からの影響を薄める前に、或いは同時進行で、親への怒りを外在化する、外に出すことの意義とやり方について、今回は触れて行きます。
怒りの外在化・言語化や意識化することの意義
怒りの外在化は何故必要なのでしょうか?無意識下に抑圧された怒りは、そのまま消えてなくなることはありません。体の症状に出る身体化や、強迫的衝動(それは「私が何とかしなくっちゃ!」の周囲から承認され、当てにされる過剰責任感になることもあります)になり、私たちの人生を不自由なものにしてしまうからです。
そして怒りの外在化は、「自分の中に抑圧していた怒りを顕在化し、外に出す」ことであって、弱い立場の人に「投げつける」、もしくは心優しい相手を「ゴミ箱にする」ことでは決してありません。優しい友人に聴いてもらう時でも、あくまで、その怒りの感情は「自分のもの」という、所有責任を果たす態度に他なりません。
その所有責任を果たせばこそ、怒りと向き合う過程で「どんなに自分が傷ついていたかを知る」ことができます。これも目的の一つであり、癒しへの重要なプロセスです。
「親に頼るしかなかった子供の自分に、何てことをしてくれたんだ!」と、親に対して怒る。それはあたかも、寺の門に立つ仁王像が、悪を門の外に払い、門の内側の善男善女を守るための、境界線を守る怒りのようなものです。無力だった幼い自分を、大人の自分が守るために、敢然として立つ原動力です。
そして仁王は、悪を門の外へ「追いかけて行って、懲らしめる」ことはしません。ただ払うだけです。これがフォワードの言う「親を変えようとするゲームはしない」ことでもあります。
「子供の頃の自分は悪くなかった」「親が親としてやってはいけないことをした」その怒りの正当性を感じ、時には「まったく、いい加減にしろよ」とも思う。許し難さは一生残る。ですがそれは、「悪いのは親だから、親が変わるべきで、私はただ怒っているだけで良い」とは異なります。それでは、結局は自分を親の被害者に固定化してしまいます。この固定化は、形を変えた連鎖に外なりません。
「私は被害者だから、ただ怒ったり愚痴ったりし続けているだけで構わない。自分が受けた影響を薄めるなどと言う七面倒くさい努力はする必要がない」と本音では思い込んでいる人も、実は少なくありません。
親に向かって怒りを表現するシュミレーション
怒りは心の中で、ああ思ったり、こう思ったりするだけだと、所謂反芻になります。反芻になると、却ってまたモヤモヤが溜まることにもなりかねません。ですから怒りは、しっかり声帯を振るわせて大声で言語化する、つまり身体を使って外に出すプロセスが有効です。トラウマは身体に刻み込まれているので、身体の記憶を上書きする必要があるのです。
家族や友人に話を聴いてもらうのも悪くはありません。ですが下手をするとお説教されたり、理解されずに却って孤独になったり、同じ話の堂々巡りになりかねません。
そして、他人に話す時は、当たり前ですが親のことを三人称で話します。外在化のためには、二人称(お父さん、お母さん、あなた、あんた、お前、てめえ、貴様、等々)で自分の怒りを表現した方が、「どれほど自分が傷つき、怒っていたか」がよくわかります。
人が周囲にいない屋外や、或いは、家の中で一人でいる時に、もしくは車の中で、「あんたのことは嫌いだったんだよ!」などと叫ぶのも良い方法です。「死んでしまえ!地獄に落ちろ!」「二度とこの世に戻って来るな!」「絶対に許さない!」これくらい激しい言葉で構いません。
言語化が苦手だったり、もしくはそれだけで足りない場合は、体を使います。家に一人でいる時に、クッションや枕を思い切り床に叩きつけたり、枕を叩いたりなどです。ある女性は「親が突然訪ねてきた時のことを想定して」、ドアの前で傘で思い切り親を突く動作をし「帰って!帰らなければ警察を呼びますよ!」と心の中で(マンション住まいのため、声に出すのは憚られたそうです)叫び、シュミレーションしました。「そんなことまでしようとするなんて、どれほど自分が傷ついていたかよくわかった」と話してくださいました。
声に出す、体を使うのも、一度では済まないことも少なくありません。自分の氣が済むまで、何度でもやっても構いません。
そして吐き出した後は、必ず、「ヤダったね」「辛かったね」「よく言えたね」「もっと言っていいよ」などの自己慈悲で包みます。直後がベストですが、うっかり忘れた時は6時間以内であれば、海馬が自己慈悲で締めくくったと記憶します。
これをすると、怒りを外に出しつつ、悲しみや痛みは抱えられる、この二重性を養うことができます。この二重性、言い換えると両義性の耐性こそが、葛藤耐性になります。毒になる親がついに獲得できなかったことの一つです。
勇氣ある父親・慈悲深い母親・好奇心旺盛な子供のバランス
怒りの外在化とは、単なる鬱憤晴らしではありません。
傷ついている自分とは、傷ついている内なる子供、インナーチャイルドです。チャイルドなので、理屈だけでは納得しきれません。
そして心の中に「健全な親」が住んでいればいるほど、このインナーチャイルドが「怒っても大丈夫。怒りを受け止めてもらい、癒される」と感じられ、声を挙げやすくなります。インナーチャイルドが「あれもヤダった、これもヤダった」と恨み節を言い始めても、無視したり「そんなことを言わないの!」と抑えつけたりせず、或いは一緒になってどよーんと落ち込むのでもなく、「うんうん、ヤダったよね~」と優しく受け止められる「健全な親」像です。
ですから「毒になる親」に育てられた人にこそ、自分で「健全な親像」を心の中に作り、住まわせるプロセスが大切になります。
心の中の「健全な親像」そしてインナーチャイルドとは、更に詳しく言うと以下のようになります。
- 勇氣ある父親。困難に立ち向かい、乗り越える父親。社会の中で、様々な人と協力し合える知恵と実行力のある頼りになる父親。
- 慈悲深い母親。子供の存在を丸ごと抱きとめ、時に慰め、時に喜び、優しい笑顔を向けてくれる愛情深い母親。
- 好奇心旺盛な子供。フレッシュな瞳で世界をまっすぐに見つめ、世界の美しさ、輝きに驚嘆し、自分もその中へ入っていこうとする「成長する喜び」を生きる子供。
この三者が心の中にバランスよく住んでいるのが望ましいとされています。「毒になる親」はこのような父母像とはかけ離れているでしょう。しかし自分を癒し、氣づきを得て、或いは様々な人とかかわりの中で、こうした父母像を心の中に養うことは充分に可能です。
「王様は裸だ!」と言える大人に
親が高圧的な態度や、暴力・暴言、様々な脅しや罪悪感で支配しようとしたのなら、「親は脅威」⇒「自分は無力」と刷り込まれても当然です。怒りを外在化するのは、この刷り込みを解くためでもあります。
謝罪や関係回復の努力をしない、即ち子供を愛していない人は、自分を、そして人生を愛していません。「何のためにこの長い人生を生きなくてはいけないのか」と心の底で呪っていることすらあります。そしてその惨めな自分から目を背けようとして、子供を支配し続けたのです。
裸の王様そのものです。
またフォワードの言葉を引用します。
”もがく努力”をやめるにあたり、もっとも困難な点は、「毒になる親」をそのままにしておくということである。
「毒になる親」をそのままにしておくとは、王様を裸のままにしておくことです。王様が服を着るかどうかは、王様が自分で決めるのです。これを裏返すと、私たちが自己決定から逃げていないかが問われる、ということです。
「王様は裸だ!」と叫ぶ子供の口を塞いでしまっては、私たちは嘘の社会を生きることになってしまいます。「王様は裸だ!」と言えない子供を、私たち大人は増やしてはいけないのです。
そして私たち大人こそが「王様は裸だ!」と堂々と言えると、傷つき、そして耐えてくれた子供の自分に報いることができるでしょう。その時には既に、「もがくゲーム」はやらないことの意義が腑落ちしていると、私は確信しています。

