「私はこんなに我慢してるのに!」といつか爆発することも
自己主張が苦手だったり、「自分は我慢して相手に譲ることが常に美徳」と思い込んでいると、「自分さえ我慢すれば」が癖になってしまうことがあります。
見返りを求めずに相手のために一生懸命になり、「一生懸命になれたこと」そのものにすがすがしさを感じられるのなら問題はありません。
しかし、本当は嫌なのに、波風を立てたくないなどの理由での、つい「私さえ我慢すれば」は、いつか「こんなに我慢しているのに、どうしてわかってくれないの!」になることがあります。
ただ寧ろ、そうやって爆発することは、関係を築き直すきっかけにもなりえるので、一概に悪いわけではありません。感情の爆発は、癒しの一形態でもあります。
ただ、怒りが内向し、身体化してしまうと、慢性的な頭痛、肩コリ、やる気が起きない、氣持ちが沈むといった症状に現れることもあります。身体化の方が、自分でも原因がわからないことが多く、より厄介です。
「自己犠牲を美徳」とする人をカモにする自己愛性人格障害、境界性人格障害、サイコパスなど
周囲の人が善意の人ばかりなら、まだましでしょう。
しかし、人の世はそう単純ではありません。「自己犠牲を美徳」とする人につけこむ人はどこにでもいます。
「人が弱っていくのを見るのが元氣の素」の人もまた、世の中にいます。
自己愛性人格障害、境界性人格障害、サイコパスと呼ばれる人たちがそうです。そして彼らは一目でそうとはわかりません。
誰に対しても横柄で、一目で「嫌だな、近寄りたくない」と思える人は、その時は面倒でも実はそう怖くありません。
「人が弱っていくのを見るのが元気の素」の人は、まずカモをみつけ、相手に逃げられないように親切の仮面を被って近寄ってきます。
そして格好のカモにされやすいのが「自己犠牲を美徳とする人」「自分を責めやすい人」「自己主張をしたがらない人」です。
理不尽なことをされても、それに耐えることが美徳と思い込んでいたり、「私が悪いのかな・・・?」と自分を責めたりすると「弱っていく」、それを見て自分のゆがんだ支配欲を満たそうとする人は残念ながら存在します。
「人が弱っていくのを見るのが元氣の素」の人は、反省して自分を改めることはまずありません。相手が怒ったり、自分から逃げようとした時に、しおらしい態度を取ってみせることはあっても。
ですから、「人が弱っていくのを見るのが元気の素」の人の餌食になりたくないのなら、自分の「自己犠牲は美徳」「自分さえ我慢すれば」を見直さない限り、また同じことが繰り返されてしまいます。
人格障害などでなくても、周囲に我慢させることを何とも思わない人、「黙ってる方が悪い」と開き直る人、巧妙に相手をエゴのはけ口にする人もまた、どこにでもいます。
何故自己犠牲をしてしまうのか、4つの理由
何故「自己犠牲は美徳」「自分さえ我慢すれば」と思い込んでしまったのか、主な理由を以下に挙げます。
理由1 相手の反応が怖い
高圧的な親の元に育った人に多いケースです。
親とは違う考えや感情を表現すると否定される、何でも親の言うとおりにしておけば波風が立たない、そのパターンが染みついてしまうと、「自分がどうしたいかを考える前に、周囲の意向を叶えること」に意識が向きがちです。
反抗期らしい反抗期がなかった人、成人した後でも親の機嫌を損ねまいとする人、「自分がどうしたいか」ではなく、「人から非難されない」が動機になっている人は要注意です。
自分の意志を表明する、伝える=わがまま、とか、自分を否定される、などの思い込みがあると、真の自分の意志を押し殺してしまいます。「Yesと言わないと見捨てられる」「Noを言うのが怖い」になっていないか、よく自分に訊いてみましょう。それは子供の頃、主に親から刷り込まれた洗脳であって、本当に自分がそうしたくてしているわけではありません。
以下のリンクの「迎合的な人」もしくは「回避的な人」になっている可能性があります。自分の境界線が健全に育っていない、もしくは傷を受けているとそうなりがちです。
境界線問題の4タイプ・迎合的、回避的、支配的、無反応境界線問題は「No」と言えない人だけのものではありません。最も「割を食う」のは、「迎合的な人」、即ち「自分が我慢すれば良い」と譲ってばかりいたり、また「怒ってはいけない」[…]
理由2 言葉を尽くすコミュニケーションが面倒
理由1と異なり、自分の意志を言うことに罪悪感を抱いてはいませんが、「相手の言い分をジャッジせず受け止め、また自分の言い分を伝える」プロセスを面倒だと思っていると、「まあ、自分が我慢しておけばいいか」になってしまうことがあります。
事なかれ主義で逃げてしまうのは、自分にも相手にも不誠実な態度です。
どんな人であっても、丁寧に話し合う時間がなく、また小さな事柄だとついそうしてしまいがちです。しかし、これが常態化すると本来は不要のストレスが溜まってしまいます。
この場合、「相手の言い分をジャッジせず受け止め、また自分の言い分を伝える」コミュニケーションスキルを身に付け、実践することが必須です。とっさの場面でサッとできないと、また「我慢する方が面倒くさくない」になってしまいます。
相手に圧迫感を与えず、かつ毅然とした態度を保つ自己主張とは「思ったことが言えない」「つい相手に迎合してしまう」「イヤだと言えずにつけこまれてしまう」こうしたコミュニケーションの悩みを抱えている人は少なくないでしょう。その悩[…]
理由3 低い自己価値感・自己有用感の埋め合わせ
相手が自分に我慢を強いようとしているわけではないのに、自分から自己犠牲をしてしまうケースもあります。理由1でも触れましたが、親から植え付けられた自己否定感のために、自ら自己犠牲をしてしまっているかもしれません。
これは特にお金の使い方に出ます。
自分を楽しませるための出費に罪悪感を感じるケースです。
金額にすればほんの数百円とか、家計に大きな影響が出るわけではないのに、「自分を楽しませるためにお金を使ってはいけない」と思ってしまう場合は要注意です。
自己価値感、自己有用感(自分には価値がある、自分は役に立っているという感覚)が低いと、「こんな私のためにお金を使うなんて」になりがちです。
数万円もするボールペンや万年筆だと、お金をかけてメンテナンスをしようとしますが、安いボールペンにはわざわざそのようなことはしません。
こうしたことが、人間にも起こってしまいます。
自己犠牲をしている自分⇒人の役に立っている筈だ(という認知のゆがみ)⇒低い自己価値感・自己有用感の埋め合わせをしている、になっていないか、振り返る必要があります。
理由4 感謝されたい、必要とされたい
理由3とも関連がありますが、人から感謝されたい、必要とされたいから、ー実際には相手はそれを望んでいなくてもー自己犠牲を払おうとするケースがあります。
確かに人は、誰かに必要とされている実感を得ると、承認欲求が満たされ、モチベーションも上がります。誰からも必要とされていないと感じるのは、やはり辛いものです。
しかし、「感謝されること」「必要とされること」はあくまで行動の結果であって、目的ではありません。
誰が気がつかなくても、或いは、その時はわかってもらえなかったとしても、陰で悪口を叩かれようと、やるべきことをやるのが本来の姿です。これを受け入れる勇氣がないと、「感謝されたいがために自己犠牲を払う」はやめられません。
理由もないのに、差し入れやプレゼントをして歓心を買おうとするのも同じことです。これは鞭の代わりにアメで人を動かそうとする、実は操作です。しかし本人にはその自覚はほぼありません。
感謝されたい、必要とされたいから自己犠牲を払うのは、取引であり、実はエゴです。真の思いやりとは異なります。
「自分さえ我慢すれば」何を得て、何を避けられると思っているか?
上記の4つは典型的なパターンであり、現実にはいくつかのパターンが絡み合っていたり、またその人特有の他のパターンも作用しているでしょう。
「自分さえ我慢すれば」と自分に言い聞かせた時、それはそうすれば何かを得、或いは何かを避けられると思ったからです。それをまず、自分に訊いてみることが最も重要です。
そして自己犠牲以外のやり方で、得たいものを得、避けたいものを避けられるように、自分のスキルを向上させる、その地道なプロセスが次に必要になります。
主には健全な自己主張と、毅然と、そして丁寧に「No」を言うスキルになるでしょう。しかしこれはまた、コミュニケーションスキル「だけ」学んでいても、いざと言う時に使えません。その場面に出食わず以前から、「人がどう思うか」ではなく、「自分が何を良しと思い、何が正しいと思ったか」の判断基準に沿って、物事を取捨選択する習慣が身に着いていないと、「No」も「Yes」も言えません。結果「波風を立てないように、我慢しておけばいい。相手の機嫌を損ねなければ、面倒から逃れられる」に流されやすくなってしまいます。
「こんなにしてやったのに」という心の声に正直に、そして立ち止まる
何かを得るためには、それなりの代償を支払わなければなりません。ですから人は、目的のために不便や苦労を自ら買って出ることもあります。
しかしそのことと、自己犠牲はまた別です。
行動の動機は、それをやることそのものが喜びになっている、その割合が増えれば増えるほど人生は楽しくなり、自尊感情は高まります。
アスリートたちが、練習そのものはルンルンで楽しいわけではないけれど、打ち込むことには喜びと誇りを感じている、そのような状態です。
もしくは自分と相手双方のため、全体のために痛みを伴うこと、その時は相手に理解されなかったり、恨みを買うことでも敢えてやることもあります。叱責はその最たるものです。
「こんなにしてやったのに」「何か、嫌だ」「こんな状況は早くなくなってほしい」・・・こうした心の声が聞こえたら、立ち止まるサインです。この心の声を「なかったこと」にせず、正直に受け止めることが、自分に誠実であることです。
そして、そこには何か無理があります。自分が疲弊して「与えすぎ」になっている時は、一旦その状況から退く必要があります。それは無責任でも逃げでもありません。状況を一歩引いて眺めないことには、私たちは判断を誤りかねないからです。
愛から行った行為は、肉体は疲れても心は疲れない、と言われています。心が疲れている時は、知らず知らずのうちに、愛ではなく恐れが動機になっているでしょう。しかしそれもまた、誰しも避けられないことです。大事なことは「恐れが動機になっていてはいけません」ではなく、それにどこかの時点で氣づけることです。
心のことは目に見えないので、正義感の強い頑張り屋ほど、知らず知らずのうちに「相手や状況をよく見ずに」頑張り過ぎてしまっていることもよくあります。誰しも、独りよがりの罠に嵌ってしまうものだと肝に銘じることもまた、謙虚さのひとつでしょう。
消防士やレスキュー隊は「まずは自分の安全を確保すること」が第一義務、私たちも
消防士やレスキュー隊は、まず自分の安全を確保することが第一義務です。「わが身を犠牲にしての人助け」は自己満足でしかありません。
山岳救助隊が、二次被害を避けるために、捜索を打ち切るという苦渋の決断をすることもあります。
また災害ボランティアに行ったことのある方は、「やり過ぎは寧ろ相手の負担になる」「ある程度の所で打ち切ることも互いのために必要」といった経験をした方もいるでしょう。
心のことも、実は全く同じです。
まず自分を幸せにすること、それができてから、他人の環境を整えるという手助けをする、これが順序です。