思春期には「干渉されるよりまし」と思っていても
セッションのご相談で圧倒的に多いのは、親子関係に関することです。
大抵の場合は過干渉や、支配的な親から受けたトラウマです。これは子供本人が自覚があります。
では逆に、親が無関心だった場合はどうでしょうか?子供の方がさみしがりでなく、構われるのを嫌う性格だと、「放っておかれてちょうどいい」とその時は思うかもしれません。
また思春期になると親を疎ましく感じるようになるので、親の無関心が子供自身にとって都合が良かったりします。しかし「都合が良い」ことは必ずしも「問題がない」ことではありません。
過干渉や支配は、たとえて言うならすぐに症状が現れる強い毒です。反応が現れやすいです。
無関心は、農薬や食品添加物のような「すぐに反応は現れないけれど、知らず知らずのうちに蝕む」毒と言っていいでしょう。毒を盛られた方は、中々自覚できず、そのまま一生を終えることもあります。
子供も見て見ぬふりをしてしまう親の無関心
親が子供に無関心とは言っても、育児放棄をしてるわけでは必ずしもありません。
衣食住の世話をし、学校へ行かせ、塾通いや習い事をさせ、しつけをし、「親が子供に必要だと思うもの」は大抵与えています。それで親の務めは果たしていると自分で思い込んでいます。周囲も「ちゃんとした、普通の親御さん」と認識します。
しかし子供が必要としていることには無関心。子供が必要とすること、それは何を感じ考えているのかに関心を持ち、裁かずに共感し、無条件に大事にしてもらうことです。
子供は心の奥底ではそれを望んでいますが、多くの場合、自覚していません。子供は基本的に親が好きで、健氣にも親をかばいます。「親が自分の心に関心がない。つまりどうでもいい」と子供自ら認めるのは、世界が壊れるような恐怖です。ですから無意識のうちに「事実の否定」という見て見ぬふりをしてしまいます。
自己否定と自己虐待の悪循環以下の二つの記事は、弊社のサイトの中でも継続的にアクセスがあります。即ちどれだけ多くの人が「自分にダメ出し」をし、「優しくされると辛くなる」かの証でしょう。わざわざ検索するのは「こんなことが自分の人生にず[…]
そしてこの親の無関心の弊害は、子供が成人した後に様々な場面で現れます。
プロセスではなく結果で承認されると「やってもやっても不十分」
無関心な親は、基本的に自己中心的であり、子供を独立した一個の人格ではなく、自分のアクセサリーのように捉えています。ですから、子供の学校の成績や、進学先には拘泥していることも多いです。子供の成績が良くないと、自分自身が評価されないように思うからです。
無関心な親は「どれだけ頑張ったか」「どんな教科が好きで、興味があるのか」「学ぶことの楽しみを感じているか。逆に行き詰まりを感じていないか」などのプロセスや背景には関心を払いません。テストの成績という結果にしか親が関心を持たないと、子供の心に悪影響が出ます。
子供の方は結果だけで「良かった、悪かった」と裁かれてしまいます。「悪かったら私はダメ」「良くてもすぐ次のテストが待っている」になって当然です。「やってもやっても不十分」という終わりのない焦燥感に苛まれます。
この焦燥感や不全感、頑張っても頑張っても、貧しい自己像しか持てない、どこか自分に自信が持てない、それが大人になっても続きます。だからこそ、人と比べて一喜一憂し、劣等感や優越感に自分から振り回されてしまいます。人の目ばかり氣になったり、構ってほしい、構わせてほしいの人間関係のトラブルの遠因になっています。
進学先や就職先も、「何故、その学校や就職先を選んだのか」「そこでどんなことにチャレンジしたいのか」という動機ではなく、偏差値やネームバリューにしか、親が関心がないこともあります。これも親の虚栄心や体裁の現れです。
また子供がトラブルを起こすと、子供の動機や心情ではなく、「周囲にどう思われるか」「親である自分に迷惑をかけてくれるな」が先に立つのも同じです。
「何をしたか」「どれだけ上手にできたか」の結果より、「どんな心でそれをやったのか」の動機の方が、心にとってはずっと大事です。勉強を頑張るのも、「自分の知的好奇心を満たしたいから」か、「競争相手を蹴落とすため」かでは、全く異なる人格になってしまいます。
親が結果にしか関心がないと「そのままのあなたでいいんだよ。そのままのあなたが大切だよ」というメッセージを子供は受け取れません。
子供にとっては「100点取ったら愛してやる」と言われ続けるのと同じなのです。
心情に寄り添ってもらってこそ「あなたはそのままでいい」
では、ジャッジ抜きに心情に寄り添ってもらうとは、どういうことでしょうか?
私自身の体験ですが、1995年の阪神大震災の折、当時20代半ばだった私は、その後3年ほど真っ暗なトンネルの中にいたような精神状態でした。日中は普通にしていても、夜になると震災の理不尽さ、亡くなった人たちの無念を思い泣き通しでした。よく瞼を腫らして出勤したものでした。
当時私は大阪の百貨店に勤務しており、周囲の人たちは皆親切にはしてくれました。しかし直接被災したわけでなかったので、私の心情はわかるべくもなかったのでしょう。大阪と西宮では温度差が全く違いました。ですから、「瞼が腫れてるよ」と指摘しても、何故そうなったのかまでは思いが及ばなかったようです。
そんな状態でしたから、私の仕事のパフォーマンスは決して良くありませんでした。
そうした中で、当時の課長だけが、私の状態が尋常ではないことを悟ったようでした。だからと言って、私に直接何かを言うことはありませんでした。多忙の合間を縫って、私の売り場から少し離れたところで、何も言わずに私の様子をしばしばじっと見ていました。
ずっとたったのちに、何かの折に不意に「もう落ち着いたのか?」と一言だけ声を掛けてくれました。
今思うと、こうした態度は中々取れるものではありません。安易な慰めも、励ましすらもなく、ただ黙って私の心の状態を見続けていた、関心を払ってくれていたのです。
30年近くたった今でも、忘れがたい人生の一コマです。私の心の紆余曲折に黙って関心を向けていてくれたことが、ジャッジ抜きに「それでいい」というメッセージになっていたと思います。
子供の心情に関心を向けない親・自分の都合や楽しみを優先
全ての大人が、このような態度が取れれば世の中はどんなにか変わるでしょう。勿論その課長も人の子、今の時代だとパワハラ扱いされるのでしょうが「アホ!ボケ!カス!」が当たり前でした。当時は言われる方も、悔し泣きに泣いても「言ってもらえなくなったらもう終わり」と、その程度の覚悟はありました。
子供の心情に関心を向けていないのは、親の多忙のせいばかりではありません。或るドキュメンタリー番組で、シングルマザーのタクシーの運転手さんが、夕飯時の一時間半の休憩時間に、毎日必ず一人息子さんと食事をとるシーンがありました。食事の後、そのシングルマザーは再び夜遅くまで仕事に出ます。息子さんは小学校5年生。毎晩一人でお留守番をするのは、寂しくないことはないでしょう。しかし、お母さんのことを「尊敬しています」と言い、仕事に戻る母親を玄関口で見送っていました。
短い時間であっても、お母さんが息子さんを大事にし、関心を払っているのが、息子さんにも伝わっているのが充分見て取れました。このように育てられた息子さんは、決して曲がった大人にはならないでしょう。
親が子供の心情に関心を向けないのは、多忙のせいではなく、自分の都合だったり楽しみだったり、要はそれ以上に優先したいものがある、ということです。
無関心な親は意識のベクトルが内側に向いている
このシングルマザーの例のように、相手に関心を払うとは、自分の外へ意識のベクトルを向けることです。そのドキュメンタリー番組は、タクシー会社の若い専務が、変装をして新人研修の振りをし、覆面調査をする、という趣旨でした。彼女は新人ながら売り上げをメキメキ伸ばしていたので、白羽の矢が立ったのです。
大阪市中心部が彼女の担当区域でした。碁盤の目の状になっている通りを、手書きの地図に起こし、「何曜日の何時ごろ、どのような(性別、年齢、行先)お客様を、どの場所で乗せたか。また、競合のタクシーが乗せたか」を、その地図に印をつけて落とし込んでいました。これは中々できそうでできないことです。ただこなし仕事になっていたり、「売り上げが上がらなかったらどうしよう」とか「疲れたなあ、早く帰りたい」など、自分の都合ばかり考えていてはできません。
つまり、お客様にも、息子さんにも、意識のベクトルが内側から外へ向いていたのです。お客様には無関心で、子供には関心を向けているということは、やはり起きません。
無関心な親は、相手にベクトルを向けていません。そして、上でも触れた通り、世間体は氣にしているでしょう。外から自分の内側にベクトルが向いています。即ち相手を見ていません。親が子供の自分よりも、世間体を優先しているのは本当に耐えがたいものです。しかしこれを訴えたところで、親には通じません。良心の呵責などなく、寧ろ自分は、本当は何の実態もない世間の犠牲になっているくらいに思っています。
「子供である自分を親の世間体の道具にされた」癒されがたい傷自分の進学や就職、果ては結婚相手まで「親の世間体大事」で決められてしまった人は、「自分の人生を生きられなかった」悔しさが長い歳月を経ても残ることがあります。進学先の学校や、[…]
無関心とは「事実の否定」の一形態
何にせよ、知ってしまったら知らなかった過去には戻れません。そして都合の悪い事実から目を背けて逃げるための、もっとも単純で原始的な心理的防衛は「事実の否定」、即ち「見て見ぬふり」「なかったことにする」「臭い物に蓋」です。無関心とは「事実の否定」の一形態です。
政治に無関心な人がいつの世も多いのは、「知ってしまったら知らなかった過去には戻れない。葛藤を乗り越えなくてはならなくなる」からです。簡単に言えば、知らずにいる方が楽だからです。これを乗り越えるには、葛藤耐性の強さと、「今だけ・金だけ・自分だけ」ではない視野の広さと責任感、「これが続いたらどうなるか」の結果予測、「他人の痛みを自分の痛みのように感じる」真の共感性などが必要になります。
親が子供に無関心なのも、身も蓋もない言い方をすれば、知らないでいる方が自分が楽だから、葛藤せずに済むから、前もって責任から逃げられるからです。
しかし大人は「知らなかった」では済まされません。「知らなかった」ではなく、「知ろうとしなかった」が真実です。そのことと「知ろうとしたけれど、その子の心の本当のところは中々わからなかった」は違います。
「言われたことだけ、皆と同じようにしていれば、義務と責任を果たした氣分になって一日が終わる」そうした大人が非常に増えているように私は思います。
「私の欲しいものはそんなことじゃない!」の心の叫び
無関心な親は、余り暴言を吐いたり、暴力をふるったりはしないので、「実は自分の親は、私のことには無関心だった」は、案外氣づきにくいかもしれません。寂しさのためにそれに氣づけるのは、「問題を問題視する」第一歩で、寧ろ良いことなのです。
本当は子供に無関心な親でも、「自分を良い親だと思っておきたい」自己満足のために、物を贈ったり、旅行に連れて行ったりすることもあります。しかしそういうことをした時点で満足してしまうので、「本当に子どもが喜んでいるか」には無関心です。ひどい場合は、子供が喜ばなかったり、断ったりすると、自分を否定されたかのように怒り出します。これも自分にベクトルが向いている証拠です。
子供の方も、親の自己満足だと薄々わかっていても、「どこにも連れて行ってくれない親よりましだ」などと、自分に言い聞かせたり。本当はたいしてうれしくなくても、喜んでいるふりすらしたり。それらも自分の本心に蓋をすることなので、自己虐待なのですが、親も子も氣づかないままです。
「そんなものいらない!」「私が欲しいのはそんなことじゃない!」「お金で手に入れられるものでごまかさないで!」と傷つき、反発できるのは実は良いことなのです。傷ついても事実を直視しようとする姿勢の表れであり、自分の心を大事にする最初の一歩だからです。
「実は大切にされてなかった」ことを認めるのは辛い作業
「実は大切にされていなかった」と氣づいてしまうと、今まで抱かなかった怒りや、恨みが出てくるでしょう。怒りや恨みは、ごく普通の人間なら感じて当然の感情です。これらの感情を自分に許可できないと、現実を直視できず、自分からまた「美しい嘘」で塗りこめます。
そして怒りや恨みの下には、ずっと悲しんでいた本音の自分が、貴方自身に氣づいて見つけ出してもらうのを待っています。
相手に関心を払いつつおせっかいにならないのは至難の業
「親が自分に無関心だったこと」をきちんと悲しんだ後、自分自身の本当の氣持ちに正直に、それが「等身大の自分」を生きる基礎となります。このことと、心情が何であれ、選択や行動が「その状況にふさわしかったか」の検証や反省は別物です。どのように氣持ちを表現する/しないの分別は、大人である私たちには常について廻ります。
そして特に親御さんには、「ご自分がしてもらいたかったように、お子さんに関心を払う」ベクトルを外側へ向ける意識づけを、習慣にしていただけたらと思います。
誰しも余計なおせっかいを焼いてしまうものです。そしてまた、相手が本当に必要としていることを、タイミングよく過不足なく差し出すのは至難の業です。完璧にやれる人などこの世にいません。相手に関心を払うのは、その至難の業の最初の心構えです。
相手に関心を払いつつ、おせっかいにならない自制心を持つという、一見相反する二つのことを同時にやるのは、意識を使いますから、目に見えないエネルギーを相当使います。
人は「ジャッジされずに心に関心を払ってもらうこと」に、いかに人生を大きく左右されてしまうか。本当の自己肯定感は能力や評価評判で得られるものではありません。そこを履き違えている親御さん、そして大人がどれほど多いことでしょう。
愛の反対は無関心・愛するとは裁かずに心情に関心を払うこと
「愛の反対は、憎しみではなく無関心」と言われます。本当にその通りだと思います。無関心は本人に自覚がないので、延々と続けてしまうので余計に厄介です。
そして自分に対しても、他人に対しても、裁かずに心情に関心を払うことが、いかに難しいかを、実践しようとすればするほど、実感するでしょう。
ただ一方で、これは「誰かにできて、誰かにはできない」類のものではありません。愛や思いやりや勇氣、自尊感情を高めることと同じです。
この難しさを実感できたときにようやく、親が自分の心情に無関心だったことを、少しだけ「仕方がなかったかな」と思えるかもしれません。勿論そう思えなくても構いません。どちらにせよ、子供の頃の自分が「相手に関心を向けることの大事さ」を辛い代償を払って教えてくれています。その子供の頃の自分に報いるのが、誰にも氣づかれはしない「自分を大切にすること」なのです。