【ケーススタディ】親と兄弟姉妹に同調圧力で責められる子供

親だけでなく兄弟姉妹がこぞって「抜け駆けは許さん」

今回のケーススタディは、親だけでなく兄弟姉妹も共に自分を責める事例です。またスーザン・フォワード「毒になる親 一生苦しむ子供」から、若干長いですが引用します。

罪悪感を使って子供を責めるのは、時として親だけではない。本当は親の方に問題があるのに、他の兄弟姉妹もその親と一緒になって「お母(父)さんを傷つけて」「お前ひとりだけ違うことをするとは何事だ」という非難を浴びせる家庭は「毒になる家」と呼ぶしかない。これに親戚まで加わればもう地獄だ。

このような場合、しばしば親は自分では直接発言せず、他の子供たちに(しかも直接指示することなく)言わせていることが多い。そういう家では、特に休日は家庭内の緊張度が高まる。かくして、幸せな家庭なら楽しみにするはずの休日が、そういう家ではやりきれないうんざりしたものになるのである。

次の例は、雑貨店に勤める二十七歳の青年だ。

「ある年のクリスマス休暇のこと、家で家族と休みを過ごすのではなく、友人たちと一緒にスキーに行きたいと思った。家族の連中と一緒にいても楽しくないので、家から離れて友人たちと一緒に時間を過ごしたかったのだ。だがそのプランを親に話した途端、あらゆることが地獄になってしまった。

母も兄弟姉妹も、彼のおかげでクリスマスが台無しになったと責め立てたのだ。彼は背骨がへし折れるほどの罪悪感を背負わされた。結局スキー場には無理して行ったものの、ホテルの部屋にひとりで座り、憂鬱な思いで家に電話をしなければならなかった。

だがいくら自分の氣持ちを説明しても家族は理解しようとはせず、彼が皆に対してひどいことをしたと責め続けた」

彼の家族は、いつも彼が自分のために何かいいこと(しかし家族が認めないこと)をしようとするたびに全員が束になって反対し、彼はたちまち一家に対する共通の敵とされてしまい、家の平安を脅かす存在にされてしまうわけだ。そのたびに彼はやむなく自分のやりたいことを断念し、家族の望みに従う以外になかった。

自分のせいで皆を傷つけているという罪悪感を背負わされることに耐えられなかったからだ。

スーザン・フォワード「毒になる親 一生苦しむ子供」

何とも理不尽で氣の毒極まりありません。家族が彼を愛してはいないのが、ありありと見て取れます。「抜け駆けは許さん」とばかりに首に付けた紐を引っ張ろうとしています。

しかし似たような同調圧力で脅迫することは、あちこちの家庭で起きていて、本人が苦しみながらも氣づけないことが多いです。日本の場合は「世間体が悪い」「親戚連中にどう言われると思っているのか」「先祖代々そうしてる」などがあてはまるでしょう。

彼がこの無実の罪悪感から、自分を解放する手順を以下に解説します。

①「自分のせいで家族を傷つけている」は本当か⇒無実の罪悪感の解消

引用の最後の「自分のせいで家族を傷つけている」これこそが無実の罪悪感です。まず「このことは本当にそうか?」と自分が疑問に思い、検証することが必須です。この無実の罪悪感が解消されなければ、例えば友人が「もうスキー場に来ちゃったし、今更電話なんかやめとけよ。どうせ嫌な思いをするだけだろ」などと言っても解決にはなりません。

誰しも自分のことだとわからなくなるものです。一緒にスキーに来た友人が、やはり同じ目に遭って、ホテルの部屋から家に電話を掛けなければならない、と言ったとしたら、どう答えるかをシュミレーションします。「君、スキーなんかしてる場合じゃないだろ、家に電話しろよ。家族が悲しんでるじゃないか」と自分がその友人に言うのかどうかです。この頭の体操は、意識しないと中々やりません。

「もう僕たち10歳の子供じゃない、いい大人なんだぜ。家族と一緒にクリスマスを祝いたいなら祝えばいいし、『今年は友人と過ごしたい』ならそれでいいだろ。前もってプレゼントなりカードなりを贈って、『今年は僕は一緒にいられないけど、皆で楽しんで。メリークリスマス』で充分だよ」「成人した家族の一人が抜けたからって、クリスマスが台無しになるなんて、どんな楽しみ下手なんだよ。子離れきょうだい離れできてない、他責思考もいい加減にしろよだよ」などと答えるでしょう。それを自分も実行に移せるようになる、その決意をします。

②丁寧に断っても逆切れするのなら、それは相手の未熟さの問題⇒課題の分離

家族であれ他人であれ「あなたと一緒に過ごしたい」申し出を断る時、「がっかりさせてごめんなさいね。でも今回はこれこれの理由でご一緒できないんです」と率直に伝え、そして相手のがっかりした感情には配慮します。(「また今度一緒に遊びましょうね」「皆で良い時間を過ごしてね」)この配慮はご機嫌取りではありません。この場合の配慮とは、相手の「がっかりした氣持ち」を私は大切に思っています、どうでもいいと思っているのではありません、と伝えることです。「配慮とご機嫌取りの迎合は違う」と腑落ちし、どのように伝えるかのスキルが身に着くと、罪悪感に操作されにくくなります。

常識的に、丁寧にお断りしているにも関わらず、相手が自分の思い通りにならないからと、逆切れして嫌がらせをするのは、自分ではなく相手の未熟さの問題です。「保育園からやり直せ」と心の中で思っておくくらいで丁度です。これもまた、課題の分離です。

またこの青年は、日常の他の場面で「理由と場合によっては代替え案を添えた、丁寧なお断り」ができているかを振り返ります。もし不十分であれば、「過去にきちんと断れなかった場面」を思い出し、「今度は丁寧にお断りする」シュミレーションをして練習をします。そうすると、自分の「No」に少しずつ自信を養うことができます。「No」を言うとは境界線を育てることです。

③協調と同調は明らかに違う⇒自分が安易に同調しない

親が自分だけでなく、兄弟姉妹を使って「抜け駆けは許さん」とばかりに責める、これには同調圧力を用いています。引用文の「お前ひとりだけ違うことをするとは何事だ」が正にそうです。

またバリエーションとして「あんたは変わってる」もあります。「変わってる」ことを「個性があって良い。そのままで良いし、変に『皆に合わせよう』とする方が、自分を失ってしまう」と励ます親の方が少ないでしょう。「変わってるお前はおかしい」と暗に腐しているケースの方が多いでしょう。これも子供の自尊心を踏みにじり、孤独にさせる罪深いものです。

ここで、協調と同調は明らかに違うことを確認します。協調は同じ目的・目標のために皆の心と力を合わせることです。人は社会的動物である以上、この協調性がなければ社会を維持できません。そして協調は「皆が同じことをする」ではありません。それぞれに役割分担があります。皆が「補完し合う」力の出し方をしなければ、所謂「子供のサッカー」になってしまいます。そして誰しも経験しているように、協調は難しいものです。すぐに「総論賛成、各論反対」になり、それらを擦り合わせるスキルと胆力、忍耐力が必要です。

同調はその言葉の通り「皆と同じことをすること」です。ここには何の忍耐も努力も要りません。後述しますが「皆と同じにしていれば何となく安心。そして『皆がそうしてる』の言い訳ができる」ごまかしと責任放棄の結果です。自分が常日頃から「『だって同調圧力が』を潔しとしない」生き方をしていないと、家族からの同調圧力を跳ねのけることは尚更できません。上述した例だと「親戚連中には、お好きなように言わせとけばいいでしょ。どうせ暇人のワイドショーネタと同じようなものなんだから」などと一蹴できるかどうかです。

④同調を強いる人は自分が孤独と責任に耐えられない

人は何故同調するのか、一つには一体感を感じられ、孤独から逃れられるから、そして「私は違うことを選びます」には責任が伴うからです。「だってみんながそうしてる」の方が、責任逃れができて楽なのです。

盆踊りのような、皆が同じ振り付けで踊る同調は、一種の連帯感と高揚感をもたらします。お祭りのようにその時限りのものであり、またそれに加わること自体には、自由意志を用いているのなら問題ありません。しかしそれを他人に強要するのは、「私が孤独にならないように、責任逃れができるように、あなたも同じようにやって」と相手の自由を奪うこと以外の何物でもありません。

人はまた、「安心の名の下に自由を放棄する」をやります。自由と責任は表裏一体です。人は自由が怖いから、責任を放棄し、自ら奴隷になります。しかしそこには尊厳も、真の幸福もありません。

そして自ら奴隷になりたがる人は、誰か一人がそこから抜けようとすると、全力で引き留めようとします。「抜け駆けは許さん」です。自分が孤独と責任に耐えられないだけではありません。自由を生きようとする相手が、自分を映す鏡になっていて、その鏡に映った惨めで卑怯な自分を直視できないのです。

この青年が、家族からの罪悪感による操作を断ち切り、真に自由に生きようとするなら、孤独と責任に耐える力を養わなければなりません。「出る杭は打たれる」ものですが、「出過ぎた杭は打たれない」のです。

⑤喪失感に耐える力と「他で精神的な結びつきを得られる」自信

③で述べたことが、言葉で言うほどたやすくはないのは、フォワードの言葉を借りれば「みんなから放り出された状態のことを考えると怖くて中々できない」からです。

この「みんな」とは、彼の例では親兄弟です。肉親と精神的感情的に距離を置くのは、他人のそれよりも辛いものです。友人や恋人であれば、別れの喪失感は日にち薬でいつしか忘れるものでしょう。しかし、肉親との絆の喪失感は、人によっては一生消えなくても不思議ではありません。

似たような経験をしている人に思いを馳せ、「自分だけじゃない。口には出さないけれど、この喪失感に耐えている人は少なくない」と視野を広げられると悩みを相対化できます。そして彼は既に、スキーに誘ったり誘われたりの友人を作る力があるので、「肉親だけに求めなくても、他で精神的な結びつきを得られる」自信を再確認します。この「友人を作る力」は、意識はしていないでしょうが、大切なリソース(資源)です。

こうした努力は、罪悪感を刺激して責め立てる、地獄のような家庭から自由になるためだけではありません。

他人による自己の”からめ取られ”に慣らされてしまうと、恋人、上司、友人、時には見知らぬ人に対してすら同様な反応をしてしまうのだ。常に自分以外のものからの承認と賛同を得ていなければ自己が保てない人間になってしまうからだ。

前掲書

自分の外側に「正解を求める」生き方の温床に成ってしまいます。人の顔色ばかり窺う、迎合的な人間になり、他人から利用されたり、また信念のある人からは愛想尽かしされかねません。

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「無実の罪悪感」を負わせる家族と仲の良いふりをするのは、二重に自分を裏切ること

このように手順を追っていくと、この青年が無意識の内に様々な取り違え(配慮と迎合、協調と同調など)をしていたことがわかります。こうした取り違えは、彼だけでなく多くの人がやってしまっているでしょう。ですので、一つ一つ振り返って捉え方を改めると、「無実の罪悪感に苦しめられていたこと」こそを、もうやめないといけないと納得できるでしょう。

「無実の罪悪感」は、毒になる親から子供が背負わされているものです。「僕が、私が悪いのかな・・・?」よくよく冷静に、客観的に考えれば、狂っているのはこの罪悪感を負わせている方です。肉親であろうと、折り合いが悪くなってもそれは仕方がありません。自分を無実の罪悪感で苦しめ続けてまで「仲の良い家族」のふりをすることの方が、二重に自分を裏切ってしまうのです。

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