愛しているのに傷つける、「No」を言えないがために
適切に「No」を言うのは、自分のためだけではありません。一番愛している人たち、とりわけかけがえのない家族を、「No」を言えないがために、往々にして結果的に傷つけてしまいます。
本書にジムとアリスの夫婦の物語があります。ジムの境界線のなさのために、「No」を言えないがために、家族も、そしてジム本人も、深く傷つきました。以下に要約しながら引用します。
ジムは誰にも「No」と言えた試しがなく、言われた仕事は何でも引き受けていたため、毎日夜遅くまで、そして週末も仕事をし、家で夕食を取ることは滅多にありませんでした。
勿論ジムは、それで良いとは本音では思っていませんでした。しかし、彼自身はこう自分に言い訳するのです。「こうすることで子供たちに楽な生活をさせているのだ」と。妻のアリスも、子供たちと自分自身に「お父さんなりの愛情表現なのよ」と説明していました。
しかし或る晩、ついにアリスの堪忍袋の緒が切れました。「まるで母子家庭のようだわ。最初の内はあなたがいなくて寂しかったけれど、もう何も感じなくなってしまったわ」ジムは「わかってるよ。もっと『No』が言えたらと自分でも思うのに、中々言えないんだ」と答えました。
するとアリスはこう叫びました。「あなたが『No』と言える人を知ってるわ。私と子供たちよ!」この一言で、ジムの心の深いところで何かが切れました。
「僕が好き好んで他の連中の言いなりになっていると思うのか。家族をがっかりさせるのを僕が楽しんでいると思うのか。アリス、僕は今までずっとこうだったんだよ。いつも人を失望させるのが怖かった。自分のこういうところが大嫌いだ。人生そのものが大嫌いだよ。どうしてこんな風になってしまったんだろう・・・?」
如何でしょうか?ジムの痛ましさは、貴方の身近な人や、もしかすると貴方自身にも当てはまるかもしれません。ジムは妻と子供たちを愛し、そして非常に「頑張って」います。しかし間違った頑張り方をし続けたために、自分も、そして人生も、愛せなくなってしまいました。
ジムの苦悩は自分でも告白した通り、結婚以前の子供の頃から、境界線が健全に育たず、傷ついてきたことによります。そしてそれは、大なり小なり私たちも同じです。
「No」と言うことの困難の度合いは、人によって当然異なります。子供であっても、比較的楽に「No」を言える子、そしてジムのように「No」を言うことに恐怖を感じる子がいます。そして境界線の発達の最重要期は、生後3年間の幼少期です。
生後1年間に培われる「基本的信頼」OR「基本的不信」
人間の赤ちゃんは、他の哺乳類と比べて大変未熟な状態で生まれてきます。赤ちゃんは自分では何もできません。ですから、自分の必要(お腹がすいた、おしめが濡れて気持ち悪い、暑い寒い、何かが怖い、等々)を養育者(主に母親)に満たしてもらわなければ生きていけません。
生後1年で、赤ちゃんは大変大きな仕事をします。心の面では「基本的信頼」を育むことです。基本的信頼とは「世界は信頼に値する」ということです。
赤ちゃんの必要が充分に満たされないと、「基本的不信」を学んでしまいます。「この恐ろしい世界が一体いつまで続くのだろう。何と恐ろしい世界に生まれ落ちてしまったのだろう」
この「基本的信頼」「基本的不信」が、その後の人格形成の土台になります。「No」を言っても大丈夫と感じられるためには、この「基本的信頼」の土台があればこそなのです。
対象恒常性の重要性
生まれたばかりの赤ちゃんは、母子一体の状態です。母親と自分の区別がつきません。本書では「母親と『寄り添って泳いでいる』ような感じです」と述べられています。
そして生後9か月前後から、赤ちゃんは「対象恒常性」を獲得していきます。この頃の赤ちゃんに「いないいないばあ」をすると大変喜びます。「ほら、そこにいるでしょ?ほんとはそこにいるでしょ?ほら、いた!」これがその頃の赤ちゃんにとって、大変新鮮な発見なのです。
対象恒常性とは「今目の前にお母さんはいなくても、ずっと存在している」という感覚です。これが他の人にも応用され、誠実さや信頼の土台になります。その子が長じて「見られていなければ何をやっても構わない」になるか、「実際には見られてなくても、心の中に住んでいるお母さんを悲しませることはできない」になるかの分かれ目です。
心の中に「良い」お母さんが住んで、悪いことをすれば悲しみ、困難の際には励まし、辛い時には慰めてくれる。この存在があるかないか、あっても希薄かで、打たれ強さが変わってきます。次の段階の「分離と個体化」を支える基盤となります。「対象恒常性」について詳しくは以下の記事をご参照ください。
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分離と個体化・母子一体から独立した人格へ
赤ちゃんは「基本的信頼」そして「対象恒常性」を獲得すると、世界への安心感を感じとります。世界が安心・安全だと感じられればこそ、次の「分離と個体化」即ち独立への道を歩み始めます。「No」と言うこと、「No」を表現する冒険の始まりです。
私たちは何が自分にとって「No」であり、そして裏を返せば「Yes」であるかを自分がわからなければ、自分自身を知ることはできません。境界線は柵のようなものであると同時に、私たちの輪郭でもあります。境界性人格障害の人達が「言うことがころころ変わる」のは、意識的に、わざとそうしているのではなく、自分の輪郭がないからなのです。
子供が最初の3年間を通じて自我を形成するのは、「自分とは何者か」という一生を通じる人格の基礎を獲得しているのです。
この「分離と個体化」は、分化期、練習期、再接近期の3つに分かれます。
分化期「ママと僕は同じじゃない」
上述した母子一体の時期は、生後5か月頃には終わりを告げます。その後の分化期になると、子供は母親に抱かれることを嫌がったり、はいはいをして手当たり次第に色々なものを触り、時には口に入れ、外の世界に興味を示して自分の境界線の領域を広げようとします。
この分化期は孵化期とも呼ばれます。文字通り卵の殻が割れて、雛鳥が外の世界に出て行く時期なのですが、母親自身が孵化しきれずに大人になってしまっていると、子供の孵化、分化を喜べません。赤ちゃんに依存されることだけを望み、まるで自分が赤ちゃんから見捨てられたかのように感じてしまいます。
その後もーしばしば成人後もー子供に罪悪感を植え付けて、自分に依存させて自立を阻もうとする主な原因の一つです。これをされると、子供は「No」が言いづらくなってしまいます。
練習期「僕は何でもできるぞ!」
練習期は生後10か月から18か月の頃で、この時期になると、子供はよちよち歩きを始めます。歩行能力を手に入れたため、更に急激に世界が広がります。いわゆるいたずら盛りになり、本書で述べられているように「フォークをコンセントに突っ込んだり、猫のしっぽを追いかけたりと、なんでもやってみたくなるのです」
新しい世界が何もかも新鮮で、ワクワクし、高揚感と躍動感に満ちたこの練習期の子供にとって必要なのは、親から安全のための限度を設けられながら、親が共に喜び、共に舞い上がってくれることです。
例えば、公園の遊具から飛び降りようとする時、必要なら手を取って「ほら、ぴょーん。良かったねえ。上手だねえ」と一緒に喜んであげることです。もし「この高さで一人で飛び降りるのは危ないな」と判断したら、別の遊具に誘導するなりして安全を確保します。
そして単に安全を確保するだけでなく、「共に喜ぶ」と、子供は自発的で積極的であることに勇氣づけられます。この時期に勇氣を挫いてしまうと、後々悪い意味での受け身で、消極的な子供になってしまい、失敗を過剰に恐れるようになりかねません。
野放図にさせるのでもなく、なんでも頭ごなしに押さえつけて禁止するのでもない、共感と勇氣づけのある養育をされると、子供は次の再接近期の「現実に引き戻される」時期を乗り越えて行きます。
再接近期「僕にはできないこともある」
練習期の躍動感や興奮はいつまでも続くわけでもなく、幼な心に「僕にはできないことがある」を知っていきます。生後18か月から三歳頃までの期間です。また母親の元へ「再接近」し、母親を必要としますが、以前とは異なりより分離した自己を持っています。そして最初の反抗期「いやいや三ちゃん」が始まります。自我の形成の証です。
この時期の幼児が境界線を引くのに使う道具として、著者は以下の事柄を挙げています。
怒り
「子供にとって怒りとは、自分の経験が他の人の経験とは違うことを知るための道具です」自分と他人の区別をまだ理屈では理解できず、怒りという感情を通して学んでいきます。著者は更にこう述べています。「怒りを適切に表現できる子供は、人生の後になって、誰かが自分を傷つけたり支配したりしようとしているときにそれを察知できる子供です」
所有権
子供の語彙に私のもの、私の、私といった言葉が入り、言葉だけでなく自分のお氣に入りのおもちゃをお友達に触らせまいなどとします。これは単なる自己中心性ではなく、「私のものか、そうでないか」を区別しようとする段階です。これが長じて、自分の時間、感情、資源、エネルギー等を「所有し、管理する」感覚、即ち境界線へ発展していく土台になります。
「No」「いや」
子供は「いや」の一語によって、自分が好きではないものから自分を守り、選択する力を得ようとします。時には昼寝や野菜だけでなく、アイスキャンデーやお氣に入りのおもちゃにさえ「いや」と言うことすらあります。それほど彼らにとって「いや」を言うことには価値があるのです。自分の無力さを感じなくて済むためです。
子供が「No」「いや」と言っても「はい」と言う時と同じくらい、親から愛されていると感じさせ、そして他人の「No」「いや」を受け入れるよう子供に学ばせる必要があると著者は指摘しています。他人の「No」を受け入れるとは、親の「No」を受け入れることでもあります。例えば「おもちゃ屋で癇癪を起こされても負けないことです。店の半分を買い取ってでも子供を黙らせる方が、恥をかかずに済むとしてもです」
即ち、限度を学ばせる躾と、「『No』と言ったら愛されない。『Yes』と言えば愛される」ではないのだということを、両立させる必要があります。親御さんにとっても試練と学びの多い時期でしょう。
躾が「何でも私に従え」の調教にならないために
親自身が「No」と言うことができなかったり、或いは我が子にさえ「No」「いや」と言われると、まるで自分を否定されたかのように傷ついてしまう人もいるでしょう。上述した通り、この頃の子供の「No」「いや」は、自分の独立を勝ち取るため、自我の形成のためであって、誰かに逆らうことそのものが目的ではありません。
著者は限度を設けて適切な躾をすることと、「子供が『No』『いや』と言ったときに身を引く(心理的に距離を置く。愛情を引っ込めてしまう)」こととの区別を強調しています。躾は子供自身が健全な自制心を養い、規律を学ぶためのものであって、親が「何でも私の言う通りにしなさい」と従わせるためのものではありません。それは教育ではなく、調教です。そこには自発性も自由もありません。調教になると「『No』を言うと愛されない」と子供は学んでしまいます。一方、真の自制心や規律は、愛と信頼の土台の上に成り立ち、子供に自己有能感をもたらし、また他者との信頼を深める好循環を生みます。
例えば「ご飯の前におもちゃを片付けなさい。片付けない内はご飯はまだよ。もう、毎日毎日同じことを言わせないで!」と眉を吊り上げて怒ることがあっても、一旦食卓に着いたら「あんたはほんとにわからず屋ね」と追い打ちを掛けたりはしない、ということです。これをしてしまうと、子供は自分の居場所を失います。
そうではなく、片付けができたら「はい、よくできました。さあ、ご飯にしましょう」と切り替え、そして食卓で「今日はどうだった?」と子供を受け入れ、心のつながりを断たないようにします。「食事の前におもちゃを片付けさせる」のは、自制心と規律を励ますためであって、単に「私の言うことに従いなさい」ではありません。子供の方が「うるさく言うから従っておけばいいや」になると、本心は「No」なのに表面的には「Yes」を言う従順のふりを覚え、そして「だってそうしろと言われたんだもん」の責任転嫁の狡さを学んでしまいます。子供の中から首尾一貫性、自己統一感がなくなってしまいます。
「No」を言わなければ境界線の中に悪いものが入る
ところで、子供の年齢に関わらず、子供の怒りや、子供が反対することを受け入れられない親は珍しくありません。「何がそんなに嫌だったの?」「どうしてそれに反対なの?」と訊けないのです。その背景を知ろうとする前に「あなたが怒ったり、反対するとお母さんは傷つく」とメッセージします。直接そうは言わなくても、無視したり、反対・反論を押さえつけたり、自分もむっつり顔をしたり。
自分の子供に「あなたが怒るとお母さんは傷つくのよ」と言う親は、自らの感情を管理する責任を子供に負わせていることになります。実際、その子供は、自分の親の親にさせられてしまっています。時には二歳か三歳にしてそうなることもあります。
成人後「私は親の親をさせられてきた」と自分で氣づける人はまだ良いのです。それにすら氣づかないまま、親の親を、親が死ぬまでやり続けてしまう人も少なくありません。
境界線とは「良いものは内に、悪いものは外に」のためにあります。悪いものを外に出すためには、「No」を言わずして、即ち拒絶以外の方法はありません。冒頭のジムは、「No」を言えないがために悪いものがどんどん侵食し、自分だけでなく妻子をも苦しめてしまいました。
これまで見てきたとおり、子供が健全に境界線を育てるには、ざっくり言えば、①安心できる環境を確保し、②自分でやってみる、③怒りや「No」「いや」を限度の中で受け入れてもらう、この順序を踏む必要があります。
大人が自分の境界線を育て直すにも、この順序は変わりません。但し、私たち大人が生きている世界は、子供のそれよりもはるかに複雑です。ですから、大人になってから境界線を育て直すのは、子供の頃にやっておくよりもずっと大変なのです。
大人の複雑な世界では、何を境界線の中に入れ、何は出すべきか、迷うこともあるでしょう。健全な境界線を育てるために必要な原理原則については、また記事を改めて述べて行きます。