場当たり的な嘘はその内ばれるのに
その場しのぎの場当たり的な嘘をつく人に、出会ったことはないでしょうか?
嘘は相手を傷つけないためとか、余計な波風を立てないためとか(「考えておきます」は「お断りします」の婉曲表現、など)、恥ずかしさのあまりにとっさについてしまった嘘(本当は寝坊したのに、正直に言うのが恥ずかしくて「電車が遅れて」と言い訳するなど)など、ばれても相手を著しく傷つけないもの以外は、碌な結果になりません。
その時は確かめようもなく、まさか嘘とは思わずに信じたけれど、段々と話のつじつまが合わなくなったり、「この間大騒ぎしていたあれは、一体何だったんだろう?」と相手に不信感を持つようになります。
そして不誠実で身勝手な嘘をつかれたと氣づくと、その相手に怒りを感じ、二度と信頼することができなくなります。
「付き合っている人が嘘をつく。『嘘はやめて』と言っても聞き入れない」というご相談が時折あります。「相手に変わってほしい。どうしたらいいんでしょう?」・・そのお氣持ちは尤もです。しかし結論から先に言うと、相手は変わりません。その人との関係性がどのようなものかで次の選択は変わりますが、切れる関係性なら切った方が良い、というのが私の意見です。
今回は、彼ら彼女らが、何故場当たり的な嘘をつくのかと、その裏返しの一貫性、先々のことまで思いを馳せることの大切さについて取り上げていきます。
誠実さ、一貫性は「その人はここにはいないけれど、ずっと存在している」感覚に支えられる
嘘をつかない、即ち誠実であり、一貫性があるということは、「その人はここにはいないけれど、或いはいなくなっても、ずっと存在している」という感覚に支えられています。後述する対象恒常性と呼ばれるものです。
例えば、自分の親友が不倫をしていて、そのことに悩んでいると知っていたとします。別の誰かから「あなたのお友達の○○さん、不倫してるって聞いたけど、本当?あなた何か聞いてない?」などと探りを入れられても、「知りません」で押し通すのは、その親友が「今この場にはいないけれど、存在している」感覚があればこそです。
もしその場でペラペラと「そうそう、知ってる知ってる。実は△△さんと付き合っててね・・」などと喋ったら、その親友がどれだけ傷つくかを想像できるから言わないのです。
「その人はここにはいないけれど、ずっと存在している」感覚がない、もしくは非常に薄い場合、どのようなことが起きるでしょうか・・・?
連絡を入れずに約束を破ったり、ドタキャンしても平氣などが典型でしょう。「急に言ってごめんなさいね」のお断り無しのドタ参も同じです。相手がそのことで、どれほど迷惑が掛かるかを想像していないからです。
また、ある女性はある男性から、会うたびに「可愛い」「好きだ」と皆の前で言われていたそうです。しかし会うのは年に一度のセミナーの時だけで、会わない間、電話やメールは全くない音信不通状態でした。彼は関東、彼女は大阪在住なのですが、ある年京都でのセミナーに彼が参加していて、彼女はそのセミナーには参加しませんでした。
その際にも「京都まで来てるんだけど、ご飯でもどう?」などのお誘いも、何の連絡すらもなかったそうです。この時に彼女は彼のことを「口先だけ」と判断し、意識の外に出して考えないようにしました。
それも彼が「彼女はここにはいなくても、ずっと存在している」感覚が非常に薄いと想像できます。彼女が自分の目の前に現れた時だけ、彼の意識の中に存在し、いなくなると意識からほぼ消えてしまう。まるでTVドラマの放送時間だけ、そのドラマの登場人物に夢中になり、放送時間外は何の関心も持たなくなるかのようです。
他にも再々夜中の長電話に付き合わせるなども同じです。相手の翌日のコンディションを、そもそも考えないからできることです。
生後3年の間に獲得される対象恒常性とは
この「その人はここにはいないけれど、ずっと存在している」感覚を、対象恒常性と呼びます。その対象が恒常的に存在している感覚、という意味です。
対象恒常性は、生後9ヶ月ごろから、生後3年までの間に獲得されると言われています。
生後9ヶ月くらいの赤ちゃんに「いないいないばあ」をすると喜びます。これは対象恒常性が獲得されつつある時期だからです。
「ほら、お母さんはそこにいるでしょ、隠れててもいるでしょ、ほら、いた!!」と「いないいないばあ」をするお母さんに向かって思っています。「いないいないばあ」は、その前後の時期にやっても、赤ちゃんは喜びません。
対象恒常性が獲得が不十分な間は、分離不安が強くなります。お母さんの姿が見えなくなると火がついたように泣き出す赤ちゃんは、「本当にお母さんが消えてしまった」と思って泣いています。そしてそれは、母子一体の境地にまだあればこそで、自分の一部を失ったかのような恐怖を赤ちゃんは感じています。
幼い子供が、ぬいぐるみや毛布など、柔らかく肌触りが良い物をどこでも持ち歩くのは、母親との分離の不安を慰めてくれるからです。このぬいぐるみや毛布は移行対象と呼ばれます。子供の頃、ぬいぐるみと一緒に寝ていた思い出がある方もいらっしゃるでしょう。
分離不安を乗り越えて、母親との一体感よりも、成長欲求、達成欲求が勝るようになると、移行対象から卒業できます。対象恒常性の獲得は生後3年間と上述しましたが、満三歳になれば、はい卒業、というわけではなく、その後も獲得し続けます。
私見ですが、成人後も「今この場にいない人、もしくは『こういうことをしたら、後々までその相手は苦しむ』ことを考えられる」想像力の如何によって、高まったり、失ったりするのではと思います。想像力を鍛えるから対象恒常性が高まり、対象恒常性が高まるから想像力が豊かになるの循環になるのでしょう。言うまでもなく、思いやりは想像力に支えられます。
対象恒常性を獲得するとは、「お母さんは今この場にいないけれど、ずっと存在している」感覚を子供が心の中に持つことです。その心の中にいる母親像が、愛情に満ち、その子が正しいことをやれば喜び、間違ったことをすれば悲しみ、また失敗や困難の際には、慰めと励ましを与える存在であることがとても重要です。
実際の母親がそうであることがベストですが、そうでなかったとしても、心の中の母親像が「良い母親」であれば、その子は倫理的に曲がったことはできない子供になります。正義感と責任感の強い、誠実な人間になっていきます。場当たり的な嘘をつくことなど、最初から考えることもできなくなります。
対象恒常性が低いと目先の不安に反応的になる
対象恒常性の獲得がなされていない、或いは非常に低い状態とは、「目の前の相手がいなくなると、自分の意識の中にも存在しなくなる」といった感覚です。場当たり的な嘘をつく人は、その場で自分の都合が良いことや、でっち上げの嘘話を言って、相手の関心や同情を引ければそれでよいのです。
嘘をついたその相手には、自分と会っていない時にも生活があり、以前言われたことをずっと覚えているものだと認識できないのです。ですから「嘘をつくのはやめてよ」と言っても、相手には通じません。
そして対象恒常性の獲得とは、上述した通り「良い母親像」が心の中に常に存在している感覚です。それがないと、その人の内面は非常に不安定になります。不安が強い人ほど「明日の雌鶏より、今日の卵」「来週の一万円より、今日の千円」に飛びつきます。目先の不安の解消に反応的になり、自分から振り回されます。明日雌鶏が存在しているか、来週一万円もらえる約束が生きているか、信じられないからです。
信頼関係とは、約束を守り続けることによって築かれます。約束を破ってしまった時には、謝罪と、今後は繰り返さない努力をするという新たな約束が要ります。しかし、今目の前の相手は、その時にしか存在していないと捉えていたらどうでしょうか?約束などあってないようなものです。今、自分にとって都合が良かったり、不安を解消させてくれればそれで良い、になっても不思議ではありません。
嘘をついて平氣な人を、他人が改心させることは不可能というのは、こうした世界観によるからです。
目先の自分の不安だけでなく、子や孫の未来を考えられる大人に
何故、人によって対象恒常性の獲得に差があるのか、はっきりした理由はわかっていません。遺伝など脳の器質的な問題、養育者(主に母親)が対象恒常性を獲得していたか、養育時の環境が安全で平和だったか、過大なストレスがなかったかなどの複数の要因が絡み合っています。同じきょうだいであっても、成長過程において、その子がどんな人と出会ったか、読書経験を通して想像力を養えたかなどでも変わってきます。
「いないいないばあ」をして、赤ちゃんが喜んでいる時、脳の前頭連合野が活性化していることが認められています。ここでもやはり、鍵は前頭連合野になりそうです。前頭連合野は、思考、想像力、判断選択、責任感等、人間の人間らしさをつかさどる箇所です。幼い頃から少しずつ「自分のことは自分で決めさせる」習慣がとても重要で、指示待ち人間にさせると前頭連合野が使えなくなってしまいます。
嘘をついたり、約束を破ったりはしない、ごく普通の常識な人であっても、「その人はここにはいないけれど、ずっと存在している」感覚、対象恒常性をどこまで強く、深く持っているかは個人差が激しいです。前頭連合野がどれくらい使えているかに比例しているでしょう。
この図の矢印が長く、遠い所に意識が向いている人ほど、対象恒常性が高いと言えます。目先の自分の不安や都合ではなく、子や孫の世代のことを考えられているからです。目先の自分のことだけとは、対象恒常性が低い状態です。
殊に、世間体ばかりに囚われているのは、それは自分の今の体裁、虚栄心であって、他人や社会の将来のことは考えていません。「世間体が悪いでしょ」は尤もらしい免罪符かのようですが、親が自分よりも世間体を優先したと感じ取った子供の心の傷は、深く、そして長く残ります。嘘をつかれて蔑ろにされたことと、結局は同じだからです。
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世間体とは虚栄心であり、「自分は自分で良い」の自己受容を伴った自尊感情とは反比例の関係にあります。「人の目が氣になって、マスクが外せない」のなら、できそうなところから、少しずつでもマスクを外す努力をする。「だって人の目が」と言い訳するのは楽ですが、その時「大人の自分がマスクを外さなかったら、子供たちはマスクを外せない」「マスクを外せない子供たちが可哀そうだ」とは思っていません。対象恒常性を、自分から放棄してしまいます。
「その人はここにはいないけれど、或いはいなくなっても、ずっと存在し、生きている」この何の変哲もない、当たり前のことが、当たり前にはなっていません。この対象恒常性の上に、様々な勉強や、技術の習得がなければ、それらも非常に虚しいものです。
対象恒常性は、人間性の土台と言って良いのだと思います。