真摯な謝罪と反省を求めてしまう人情
境界線への自分自身の抵抗には相手への執着もあります。「そんな人、あなたを傷つけるだけだし、早く別れた方がいいよ」と他人から言われ、自分でもそう思うのに執着してしまうといったことです。
執着の中身には、自分の孤独や不安に耐えがたかったり、「この人を逃したらもう後がないんじゃないか」という打算があったりもするでしょう。そして不思議なことに、相手への「許しがたさ」が執着になっていることもあります。
よくよく考えれば「許しがたい相手に執着していることそのもの」が理屈に合わないのですが、人間の心は不合理なものです。「相手が真摯に謝罪して、反省してくれる、せめて行いを改める努力だけでもしようとする」思い入れのある相手であればある程、そうしたことを期待し、但し相手はそうしないので、自分の期待に首を締められてしまいます。
またその相手が「人としてどうなの?」とこちらが思うことをやめないと、正義感の強い人ほど放っておけず、でも相手は変わる氣はないのでフラストレーションが溜まりっぱなしになるでしょう。正義感の強さは美徳ですが、場合によっては要らぬストレスを自分が溜めてしまう原因にもなります。
誰もがすることではない深い反省
或る程度の年数を生きた人なら実感されていると思いますが、反省は誰もがすることではありません。業務上の改善なら、「自分と相手の双方のため」とメリットがわかりやすいのでやったとしても、自分の心のあり方を省みる人は少ないのです。
あるお医者さんが仰っていたそうですが「コロナワクチンを打ってしまったことに対する深い反省と、そういうことになってしまった自分を変えようとすれば(薬害は)治るけれども、自分を被害者だと思っている間は治らない」のだそうです。これは前回の記事で触れた、悪友に騙されてお金を大損した際に「わてに人を見る目がありまへんどした」と言えるかどうかと相似形です。
一見矛盾するかのような「べき・ねば」とコンフォートゾーン前回の記事のように、親からの洗脳や、満たされなかったニーズのために「No」を言えない人ばかりではなく、ある程度健全な子供時代を過ごした人であっても、境界線に自分自身が抵抗する[…]
道義的には自分は悪くはなかったとしても、大人としての責任はそれだけで果たせるものではありません。常に視野を広げて学び続け、そして同調圧力などといった、誰も自分に成り代わって責任を取りはしないことに決して屈しない心の強さを養う不断の努力も、大人としての責任です。悪い連中は、私たちの怠惰と弱さを実に巧妙に突いてきます。「同調圧力が」を言い訳にしても構わないと思っている間は、自分も自分の大切な人も守れない、それがはっきりしたのがコロナワクチン薬害でした。
「戦争責任者の問題」昭和21年 伊丹万作2022年の最後に当たって、長いですが以下の伊丹万作の文章を引用します。[blogcard url=https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E4[…]
「何を許しがたいのか」それが今の自分自身
執着を手放しましょうと言われて、はいそうですねとやれるほど、人の心は単純ではありません。誰かに対して、許しがたい思いがあるとするなら、まず「何を許しがたいのか」に正直になるところから始めます。
私自身の場合ですが、コロナの嘘とワクチンの危険性を知っていて、知らぬ存ぜぬの知らん顔をし続けた、しかも同業の心理関係者への許しがたさは消えません。2024年1月末現在「もう今更あれこれ言っても手遅れ。後の祭り」と思っているので、以前のように激しく怒ったりはしていないだけで、寛容に許したわけでは全くありません。
「『愛が大事、人が大事、心が大事』と事あるごとに唱え続けていたのは何だったんだ。集客のための釣り文句ちゃうやろな」と非常に苦々しく思っているわけです。また「人それぞれ自由でいいじゃん」の中立を装った事なかれ主義にも嫌悪しています。「毒だとわかっていてよくもそんなことが言えるな」です。これらは私の信念であり、信念を否定することは自分を否定することになります。
そしてこのこと自体を私自身がもうどうにもできない、即ち限界を認めることと、許しがたく思っている自分の双方を受け入れる、それにも時間とエネルギーが必要です。「不快な感情を手っ取り早く解消したい」だと、延々と「あんたそんなことでいいの!?」と内心であっても説教をし続け、相手を変えようとする無駄な努力に自分が疲弊するか、「こんなことを考えたって無駄」と自分の信念を否定しようとするかをやりたくなってしまいます。
「最低限これが保てればOK」のラインを決める
相手に期待があればこそ、許しがたさは強くなります。親への葛藤が他人のそれとは比べ物にならないのは、子供は親からの無償の愛、共感、励まし、勇氣づけ、承認を望み、期待し、また子供の方も親に対してならではの愛情を注ぐからです。せめて一言「そんなに辛い、寂しい思いをさせていたと、わかってあげられなくてごめんね。すまなかった」と心から言って欲しい、しかしそうした望みは実現しないとわかってもいるからこそ葛藤します。
こうした望みは子供であれば、極々正当なものですが、「実現しない望み」だけを抱えていると、「何でわかってくれないの?」と許しがたさがまた湧き上がってきても当然です。
その望みは望みとして否定はせず、そしてそれが上限の望みとするなら、「最低限これが保てればOK」の現実的な下限のラインを設定します。最も多いのは「今の自分の日常を干渉されず、引っ掻き回されなければよい」といったところではないでしょうか?
接客業なら、「嫌がらせ目的のお客さんがゼロになるに越したことはないけれど、現実的には不可能。月に一回あるかないかの頻度で、もし来てもその日の内に、他のお客様のご迷惑にならないようにお引き取り頂いて、長引かせず、粘着されなければ上出来」といったような「これをクリアできればOK」のラインを決めるということです。製造業であれば、製品が100%良品になることはやはりなく、「歩留まり」の目標を決めているでしょう。人間関係にもこの考え方を応用すると、自分を追い詰めなくて済みます。
改心と償いを求めない「赦し」
本書には度々「赦し」について言及されています。「許し」ではなく「赦し」の漢字を訳に当てています。これは相手がやったことや態度を許すことは出来なくても(理不尽に心を抉る言動を許す必要は全くありません)、相手の償いを免除することはできる、と解釈できるでしょう。
恩赦という言葉があります。これは犯罪そのものを許可するわけでは勿論なく、何らかの機会に、刑罰を減免するという意味です。
物理的経済的な損失は、相手に原状回復と、損害賠償を求めることができます。しかし心の中のことは、相手次第でこちらは求めようがありません。相手が泣いて詫びて、「わかってくれたもの」とこちらが思い、またそうは思えなくても相手に泣かれるとそれ以上追求できず、「反省し心を入れ替えること」を期待したけれど、結局相手は何も変わらなかった、という経験を多くの人がしているでしょう。
上述した通り、反省は誰もがすることではありません。何年かたった後でも「あの人にあんなことを言ったりしたりするんじゃなかった。あの時は申し訳ないことをした。今更もう連絡先もわからないあの人に詫びることも出来ない。せめてこれから接する人には、同じことを繰り返すまい」と思える反省は、その人の良心が生きている証です。自分が得した損した、勝った負けた、相手が利用価値があるかないかで生きている人は、残念ながらこのようなことは考えたりしないでしょう。
相手が良心に基づいた反省をするかどうかは、こちらにはわからず、またこちらの領域ではありません。著者が言う「赦し」とは、いつになるかわかりはしない改心を求めない、改心して償うことをこちらが待つのをやめる、手放して自由になるという意味だと思います。これも上述した「最低限これが保てればOK」の現実的な下限のラインをクリアでき、自分の心が壊れない生活を維持できればこそです。
またその場の取り繕いではなく、本心から親に謝ってもらった経験のない人は、心にトラウマを抱えると言われています。その場は親が謝ったとしても、「自分が子供に憎まれたくないから。支配できる獲物である子供を逃したくないから」では、結局同じことの繰り返しになり、子供の方は更に深い傷を心に負います。だからこそ、このトラウマを解消したくて親に謝罪を求めたくなるのがごく自然な心情ですが、上述した通りそれは叶わないと自分でもわかっているので、堂々巡りになりがちです。
もし現実の親が謝罪できる人なら、とっくの昔に子供であるその人は苦しんではいません。無理にお勧めするわけではありませんが、例えば高次元の存在、神でもハイヤーセルフでも、マリア様でも観音様でも良いのですが、代わりに「辛かったね。わかってあげられなくてごめんね」と謝ってくれているとイメージし、セルフヒーリングするのも良いかもしれません。古来から人が宗教に「母なるもの」を希求し続けたのは、こうした代償を求めてのことだったかもしれません。
またある人から聞いた言葉ですが「人は非常に歪んだものを抱えて死んでいくことさえ、決して珍しくない」。世間体大事はその最たるものでしょう。本人はそれが歪んでいるものだと氣づくことはありませんし、世間体大事のためにどれほどこちらが傷ついたかを、訴え議論しようとしても通じません。このようなことを一つ一つ明らかにする「諦め」、そして自分は世間体大事の生き方をしない、裏から言えば、評価評判に振り回されない自分軸と境界線のある自尊感情豊かな生き方をする、こうした息長く時に辛いプロセスが私たちの成熟を促します。
後ろを振り返らない大切さ「ロトの妻」
旧約聖書の創世記に「ロトの妻」の逸話があります。堕落したソドムの町を神が滅ぼそうとした際、ロトと妻、二人の娘に、神は「ソドムの町から命がけで逃れよ。そして後ろを振り返ってはならない」と命じます。しかしロトの妻は後ろを振り返ってしまったので、塩の柱になってしまいました。
聖書には、神が望ましくない人たちや生活を「置き去りにする」ように人々に求める例がたくさんあります。(略)
聖書的な回復の基本原則は、神を知る前の生活にはしがみつく価値はなく、私たちはそれを失い、悲しみ、手を放し、そして神が下さる良いものを受け取らなくてはならないということです。私たちは、「いつか愛してくれるだろう」という希望にしがみつき、私たちを愛することのできない誰かを変えようともがき続ける傾向があります。
神という言葉に抵抗があれば、「今だけ・金だけ・自分だけ」ではない、損得勘定を超えた、心の真実に従った生き方と言い換えても良いでしょう。
人を信じたい人、人に一生懸命尽くす人ほど「きれいな愛情を注ぎ続けば、いつか氣づいてくれるだろう。私が人からきれいな愛情を注がれれば、心が満たされ喜び感謝するのと同じように、きっと相手もそう思うだろう」と無意識の内に望みます。しかし悲しいかな、相手の尽力の背後にあるものを、汲み取れない人はそう珍しくありません。何かをプレゼントされても、まるで福引に当たったのと同じように、「自分が得をしたこと」を喜んでいるだけで、相手が自分を思う氣持ちを喜んではいない、ということです。「ラッキー!」「ついてる!」と喜ぶのと、「本当にありがとう」と感謝するのは異なります。
私たちを愛していない、大事にしようとせず踏みにじる、尊重しない人の手は、まず自分から放す必要があります。その人たちが私たちに取った態度、言動を良しとする必要は全くありませんが、いつになるかわからない改心や謝罪を求めて待つのは、堕落したソドムの町の行く末に執着してしまうことと同じなのでしょう。
また執着を手放す際、怒りや悔しさを「感じ切る」プロセスの後、相手との間の「信用残高」がどうなっているかを考えてみるのもお勧めです。信頼・信用は、実はそれほど感情に左右されません。「あの人、不愛想で実はちょっと苦手なんだけど、お願いしたことは必ずやってくれるから信用している」ということもあります。郵便ポストに手紙を投函するのは、「間違いなく手紙を届けてくれる」と信用しているからで、そこに感情の好悪は働きません。その人との間の「信用残高」が、莫大なマイナスになっていて、もう何をしようがされようが、プラマイゼロに戻らないと想像出来たら、手放す決断はしやすいかもしれません。自分が「信用残高が莫大なマイナス」の人と関わろうとするのに矛盾を感じるからです。
前向きとは、単なるポジティブ、ニコニコ明るくといった単純なことではありません。反省しない、学ばない人は自ら滅んでいき、それを他人がどんなに「いい加減にしろ!目を覚ませ!」と叫んでも、「歪んだものを抱えたまま死んでいく」のを止められません。繰り返しになりますが、自ら滅んでいく人は置き去りにするしかなく、それは正義感が強く情の厚い人ほど難しいかもしれません。真の前向きとは、後ろを振り返らずに命がけで駆け抜ける、その覚悟を持つことだと「ロトの妻」の逸話は示唆しているようです。
そしてその態度こそが、「許しがたさ」の執着を手放した証なのだと思います。