優しくされたり、好意を示されると逃げ出したくなるのは
他人から優しくされたり、好意を示されたりすると、いこごちの悪さを感じて逃げ出したくなる、自尊感情が低いと起きがちなことかもしれません。
殊に親から充分に愛され、承認されたと思えないと、異性であれ同性であれ、「愛されるのに慣れていない。愛されると戸惑う」に、悲しいことですが、なりがちなのでしょう。また好意の仮面を被って近寄ってきた人に裏切られた経験があると、「もしかすると、今度もまた・・」と身構えてしまっても、それはごく自然です。
親から否定的なことを言われたり、態度や振る舞いで巧妙な嫌がらせを受けたり、罪悪感を抱かせるような操作をされたりすれば、子供の自尊心は傷つきます。すると、「自分を大事にされていない⇒自分には価値がない」と自己否定感が強くなっても当然の成り行きかもしれません。子供の頃は、未だ自我の発達段階であり、自分と他人の区別が明瞭につかないためだからです。大人であっても傷つきはしますが、「相手の人間性の問題」と、大人はまだ比較的切り分けやすいです。
そしてまた、親の言葉、態度や表情、声のトーンによるメッセージは子供の心に内面化してしまいます。それが真実でなくてもです。だからこそ、植え付けられた自己否定感は、親からの洗脳であって、自分の声のように聞こえるようでも、本当はそうではないのです。
「あなたはここにいて良いんだよ。お父さんとお母さんに、あなたは望まれてここにいるんだよ」という大事なメッセージを受け取れないまま、成人している人は沢山いると思います。それが「私は優しさを受け取る価値がない」という、真実ではない刷り込みになってしまうのも、悲しいですが大なり小なり頻発しているようにも思います。
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ところで「逃げ出したくなる」のは自分の反応です。この反応そのものに、良い悪いはなく、見て見ぬふりの「なかったことにしない」がまず大事な一歩となるでしょう。「なかったことにする」と同じことを繰り返してしまうからです。
ただ、その反応通りに逃げ出してしまい、折角好意を示してくれた相手に感謝の気持ちを伝えられないと、自分はそのつもりはなくとも、やはり相手を傷つけてしまいます。一度二度なら、相手が目をつぶってくれても、度重なるとうんざりして、距離を置かれるかもしれません。
そして「ほらね、やっぱり。私は愛されるに値しないんだ」と低い自己認識を強化し、その自分で安心しようとしてしまいかねません。
人は愛されたいと望みながら、愛されることを恐れる、そうした複雑で矛盾した側面があります。
自分にふさわしいと思えるものしか、人は受け取れない
ところで、人は自分にとってふさわしいと思えるものしか中々受け取れないもののようです。例えば、外食と言えばファミレスかチェーン店の居酒屋、という人が、高級ホテルのメインダイニングのディナーに招待されたとします。ディナーも無料で、ドレスもバッグもアクセサリーも靴も全部用意します、と言われても、「わかりました!ぜひ!」と中々素直に喜んでは受け取れないのが自然かもしれません。
その場がとてもいこごちが悪く、折角のお料理も何を食べてるのかわからない。周りの人が堂々とふるまっているのに自分はソワソワする。早くこの場から去りたい。家に帰ってお茶漬けを食べてホッとする。私も含めたごく普通の庶民は、そんなものだと思います。
食事なら「可愛いもの」で済みますが、人間関係だとやはりそうは行きません。例えばDVをする配偶者と無理やり引き離しても、結局似たような人とくっつくのは、怖いことですが同じ現象が起きています。
そのような虐待的な人に自分を晒す/晒さないは、大人は自分だけが選べます。「このようなことを自分の残りの人生に受け入れ続けるのか」を、誰でもなく自分に勇氣を出して問い、「問題視するべきことを問題視」してこそ、新たな選択のスタートラインに立つことができます。
「自分を低く見積もる」のは実は逃げのことも
そしてまた、過小評価しておく方が、責任や困難から逃げられる、謙虚なようで実は卑怯な逃げを打っていることもしばしば起きます。反射的に「え~、私無理です~。○○さんが適任だと思います~」と押し付けられて、良い氣持ちがする人はいないでしょう。
ありがたいと感謝し、そして感謝するだけに留めず、恩に報いる原動力にするのは、万人が取れる態度ではやはりなく、あるがままの自分を受け入れるのは、言うは易しの一つで、誰にとっても一生の課題なのだと思います。
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「ありがとう」の代わりの「すみません」をやめてみる
好意を示されると逃げ出したくなってしまう人は、わざと他人を傷つけるつもりはないでしょう。子供の頃、自分の氣持ちを率直に伝えられず、家族同士のコミュニケーションが不十分だったかもしれません。その場合、成人後も咄嗟に言葉が出てこなくなってしまう可能性があります。
その場合は、まずはさっと返せるための、言葉の引き出しづくりから始めることもできます。頭の中に返事のサンプルを前もっていくつか作っておくとやりやすいです。
「ありがとうございます。一層精進します」
「ご厚意感謝します。ただこの件に関しては、一度検討させてください」
「いつもありがとうございます。ただ今はご心配には及びません。何かあれば相談させていただきます。その際はよろしくお願いします」
等、相手の気持ちに沿った感謝の言葉を添えて、今の自分の現状を伝えると互いを尊重できるでしょう。
もっと日常的な会話では、お礼のつもりの「すみません」の代わりに「ありがとう(ございます)」を意識して伝えてみます。「まあ、わざわざすみません」と長年の習慣が抜けずにうっかり言ってしまったら、「ありがとうございます、本当に」などと重ねて付け加えます。
「すみません」だけなのと、「ありがとうございます」が加わった時の違いを感じてみましょう。「自分も相手も大事にする」⇒「自分も相手も優しくする」その自分を実感できるでしょう。
言うまでもなく「すみません」は謝罪であり、「ありがとう」は感謝です。「すみません」を連発されると、何だか良い氣持ちにならなかった、そんな経験が誰しもあるのではと思います。謝罪はくどくど言うと、言い訳がましくなります。
親からの洗脳を解きつつ、「私はここにいても良い」
このページを読んでいる方の中には「優しくされると死にたくなる。逃げたくなる」といった検索ワードで辿り着いた方もおられるでしょう。それは人には中々理解されない悩みだと思います。
その自己否定感は、上述した通り、主には親からの洗脳であり、本来は「受け入れるべきではなかった。受け入れる必要がなかった」ことです。子供の頃にされたことは「自分のせいではなかった。自分が悪いわけではなかった」のです。
本やネットなどからの知識を得て、もしくは周囲を観察したり、様々な人と出会っていく中で、「親がああいう人。それは私の人格とは関係ない」などと切り分けることは、まだ比較的やりやすいかもしれません。それもまた、境界線をしっかり引き、不要で有害な影響を受けないための大切なきっかけにできます。
そして冒頭に書いた通り、「あなたはここにいて良いんだよ。お父さんとお母さんに、あなたは望まれてここにいるんだよ」の本来は親から貰えるはずだったメッセージを、今度は「私はここにいても良い」と置き換えて、心と体に染み渡らせる、それはもしかすると、生涯にわたって自分にやり続けることになるかもしれません。
「私はここにいても良い」が、ピンと来なかったり、まだ違和感を感じる場合は、上記の「お礼のつもりの『すみません』の代わりに『ありがとう』を言う」からでかまいません。
或いは仕事や家事を、何か一つでいいので、「大事にする」氣持ちで真剣に取り組んでみるのも良いかもしれません。例えば「今日はお客様へのご挨拶を、意識的に丁寧にやってみる」「家族や自分の洗濯物を畳む時、『皆が無事でいることに感謝する』氣持ちを込めてみる」などです。
自分の中に、小さな優しさはちゃんとある、その小さな優しさを育てて、まずは自分に、そして周囲の人に向ける、この実践を積み重ね「優しさを恐れない」心を養うことも、充分可能なのだと思います。

