優しくされたり、好意を示されると逃げ出したくなるのは
他人から優しくされたり、好意を示されたりすると、いこごちの悪さを感じて逃げ出したくなる、自尊感情が低いと起きがちです。
殊に親から充分に愛され、承認されたと思えないと、異性であれ同性であれ、「愛されるのに慣れていない。愛されると戸惑う」になってしまいます。また好意の仮面を被って近寄ってきた人に裏切られた経験があると、「もしかすると、今度もまた・・」と身構えてしまうかもしれません。
親から否定的なことを言われたり、態度や振る舞いで巧妙な嫌がらせを受けたり、罪悪感を抱かせるような操作をされたりすれば、子供の自尊心は傷つきます。すると、「自分を大事にされていない⇒自分には価値がない」と自己否定感が強くなっても当然です。子供の頃は、未だ自我の発達段階であり、自分と他人の区別が明瞭につかないためです。大人であっても傷つきはしますが、「相手の人間性の問題」と大人は切り分けやすいです。
そしてまた、親の言葉、態度や表情、声のトーンによるメッセージは子供の心に内面化します。それが真実であってもなくてもです。だからこそ、植え付けられた自己否定感は、親からの洗脳であって、自分の声のように聞こえるようでも、本当はそうではないのです。
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「逃げ出したくなる」のは自分の反応です。この反応そのものに、良い悪いはなく、見て見ぬふりの「なかったことにしない」が重要です。「なかったことにする」と同じことを繰り返すからです。
ただ、その反応通りに逃げ出してしまい、折角好意を示してくれた相手に感謝の気持ちを伝えられないと、相手を傷つけてしまいます。一度二度なら、相手が目をつぶってくれても、度重なるとうんざりして、距離を置かれるかもしれません。
そして「ほらね、やっぱり。私は愛されるに値しないんだ」と低い自己認識を強化し、その自分で安心しようとしてしまいます。
人は愛されたいと望みながら、愛されることを恐れる、そうした側面があります。
自分にふさわしいと思えるものしか人は受け取れない
ところで、人は自分にとってふさわしいと思えるものしか受け取れません。例えば、外食と言えばファミレスかチェーン店の居酒屋、という人が、高級ホテルのメインダイニングのディナーに招待されたとします。ディナーも無料で、ドレスもバッグもアクセサリーも靴も全部用意します、と言われても、「わかりました!ぜひ!」と中々素直に喜んでは受け取れないでしょう。
その場がとてもいこごちが悪く、折角のお料理も何を食べてるのかわからない。周りの人が堂々とふるまっているのに自分はソワソワする。早くこの場から去りたい。家に帰ってお茶漬けを食べてホッとする。そんなものでしょう。
これは食事だけでなく、人間関係も同じです。DVをする配偶者と無理やり引き離しても、結局似たような人とくっつくのは同じ現象が起きています。そのような虐待的な人に自分を晒す/晒さないは、大人は自分だけが選べます。「このようなことを自分の残りの人生に受け入れ続けるのか」を自分に問い、「問題視するべきことを問題視」してこそ、新たな選択のスタートラインに立てます。
「自分を低く見積もる」のは実は逃げのことも
あるがままの自分を認め、受け入れていくのは実は難しいのです。人は過大評価か過小評価かどちらかに傾きがちです。
そして過小評価しておく方が、責任や困難から逃げられる、謙虚なようで実は卑怯な逃げを打っていることもしばしば起きます。充分に精査した上ではない、反射的な「え~、私無理です~。○○さんが適任だと思います~」は、他人に責任を押し付けて逃げる口実です。
誰からも顧みられない方が氣楽でいいになっていないかどうかです。一瞬尻込みしそうになったとしても、やはり自分と周囲の責任をよく考えるのが思慮深い大人の態度です。反応的にコンフォートゾーンに逃げ込むのは、誠実な態度とは言えません。
ありがたいと感謝し、そして感謝するだけに留めず、恩に報いる原動力にするのは、万人が取れる態度ではないのです。
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「ありがとう」の代わりの「すみません」をやめてみる
好意を示されると逃げ出したくなってしまう人は、わざと他人を傷つけるつもりはないでしょう。子供の頃、自分の氣持ちを率直に伝えられず、家族同士のコミュニケーションが不十分だったかもしれません。その場合、成人後も咄嗟に言葉が出てこなくなる可能性があります。
その場合は、まずはさっと返せるための、言葉の引き出しづくりから始めてみましょう。頭の中に返事のサンプルを前もっていくつか作っておきましょう。やりやすいところから、小さな一歩を踏み出すことそのものがチャレンジであり、自分と相手を大事にすることです。
「ありがとうございます。一層精進します」
「ご厚意感謝します。ただこの件に関しては、一度検討させてください」
「いつもありがとうございます。ただ今はご心配には及びません。何かあれば相談させていただきます。その際はよろしくお願いします」
等、相手の気持ちに沿った感謝の言葉を添えて、今の自分の現状を伝えると互いを尊重できます。
もっと日常的な会話では、お礼のつもりの「すみません」の代わりに「ありがとう(ございます)」を意識して伝えてみます。「まあ、わざわざすみません」と長年の習慣が抜けずにうっかり言ってしまったら、「ありがとうございます、本当に」と重ねて付け加えます。「すみません」だけなのと、「ありがとうございます」が加わった時の違いを感じてみましょう。「自分も相手も大事にする」⇒「自分も相手も優しくする」その自分を実感できるでしょう。
言うまでもなく「すみません」は謝罪であり、「ありがとう」は感謝です。「すみません」を連発されると、何だか良い氣持ちにならなかった、そんな経験が誰しもあるでしょう。謝罪はくどくど言うと、言い訳がましくなります。
親からの洗脳を解きつつ、「大事なことを大事に」
このページを読んでいる方の中には「優しくされると死にたくなる。逃げたくなる」といった検索ワードで辿り着いた方もおられるでしょう。それは人には中々理解されない悩みだと思います。
その自己否定感は、上述した通り主には親からの洗脳であり、本来は「受け入れるべきではなかった。受け入れる必要がなかった」ことです。子供の頃にされたことは「自分のせいではなかった。自分が悪いわけではなかった」のです。
その一方で、人からどう言われたからとか、思われるからとかではない、つまり「だって誰それが」ではない生き方をすることも、合わせて肝要です。自尊感情を高めるとは、本来は不要だった洗脳を解きつつ、自分主体の選択をし続けるという両輪があってこそです。親から否定的なことを言ったりされたりしていなくても、「だって」で自分が生きていれば自尊感情は高まりません。
自分の選択に責任と自覚を持てばこそ、自分を大事にでき、他人からの評価評判に振り回されない真の自信を育めます。世間体大事で生きている人達は、どんなに社会的地位や収入があったとしても、それに縋って生きています。即ち「裸一貫で放り出された時、自分に何も残っていない」のです。人は裸で生まれ、裸で死んでいきます。あの世には一生を掛けて磨いた、或いは磨かずに曇らせた魂しか持っていけません。
特に変わった目新しいことをやる必要はありません。上記の「お礼のつもりの『すみません』の代わりに『ありがとう』を言う」からでかまいません。或いは仕事や家事を、何か一つでいいので、「大事にする」氣持ちで真剣に取り組んでみます。そうしたことから人生は変わります。
「正しい/正しくない」から「何が大事か」へ私たちの心が深く傷つくのは、大事なものやことを傷つけられた時です。「どうでもいい」とはある種の救いで、どうでもいいことには私たちは余り悩みません。価値観のない人はいません。しかし多[…]
そしてその結果、上手くいくことも、上手くいかないことも当然起きます。賛成し共感してくれる人もいれば、そうでない人もいます。強い信念を持てば持つほど、生きることを怠けたい人からのやっかみもまた増えます。
損得勘定、即ち利用できる出来ないで人を推し量る人には、いざという時、自分が損をしても、傷ついてもその人を助けようとする人は現れません。やはり打算的な人としか、縁が続かないのです。
自分を大事に、真剣に生きている人には、その人の能力や地位などではなく、在り方に共鳴する人が数は少なかったとしても現れます。それは今のような世の中では、有難い、滅多に起きないことなのです。
他人から優しくされると辛くなるのは、「本当に心の底から、自分を大事にして生きていますか?」のサインでもあるのです。