「自分にダメ出し」とは「こういう自分でなければ認めない、許さない」
「自分にダメ出し」を「自分に厳しい」態度だと思っていませんか?人から「あなたは自分に厳しいから」と言われたこともあったかもしれません。
何かが上手くいかなかった時、自分を不甲斐なく情けなく思う、悔しいと思う、その氣持ちは大切です。受験生の親御さんとの会話で、「模試でD判定を貰って、職員室で泣いた」私の思い出話をしたら、「泣くぐらいじゃないとダメなのよ!うちの子はDでもEでも全然堪えてないんだから!」と仰っていました。
受験もそうですし、試合に負けた時にヘラヘラ笑いでごまかすようなアスリートはアスリート失格です。何かの失敗をして周囲に迷惑をかけた時も、半べそをかいてるより、「どこ吹く風の他人事」の方が周囲はずっと心配です。
但し、「上手くできない私がダメ」は、一見自分に厳しい態度のようですが、実は「こういう自分でなければ認めない、許さない」をやっています。「上手くできない」今の自分を、そのまま真っ直ぐ受け止めようとせずに、「なかったことにしたい」自己虐待です。だから、自分にダメ出しをした後、落ち込む一方なのが当たり前です。
後述しますが、ある事柄に関して、考え方や捉え方、判断選択、態度、技術・能力が「このままでは良くない」から改めようとするのと、「上手くできない私がダメ」は全く似て非なることです。
子供の頃に植え付けられた自己否定感⇒貧しい自己像に
私たちは誰も皆、神ならざる身です。そして私たちを取り巻く状況は刻々と変化します。「変化に対応」とは言うは易しの最たるもので、人は慣れた考え方やり方を変えずに続ける方が楽です。
ですから、本来なら責任が重い立場や年齢になればなるほど、「試行錯誤する力」が求められます。変化の激しい現代であれば尚のことです。それをやらなければ老害への道一直線です。歳を取れば取るほど、常にフレッシュな目で勉強することと、「これまでのやり方、考え方を見直す」頭の体操が求められます。
「上手くいかなかったこと」を試行錯誤のプロセスと捉えられるか、「上手くできない私はダメ」になるかの違いは、どこから来るのでしょうか?答えはひとつとは限りませんが、主には子供の頃に、親や、時には教師など他の大人から植え付けられた自己否定感が関係しています。そしてほとんどの場合、子供本人には自覚がありません。
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この「自己像がゆがむ」とは、貧しい自己像であり、自己否定感の温床となります。実際にその人自身が貧しい人格かどうかではありません。「そのままの自分ではダメだ。認められない。許せない」と自分が無意識の内に思ってしまっている、ということです。
これは自己卑下として現れるだけではなく、コンプレックスの裏返しで他人からの注目を集めずにいられない、ちやほやされなければ、裏を返せば放っておかれれば、誰からも顧みられなければ、自分が不安でたまらないという態度に現れることもあります。
子供の悲しみ、不安、寂しさ、失敗を裁かれずに受けとめてもらえる重要性
上の図の「スタート」の「必要な世話をされない 愛情を取り上げられる」は、必ずしも育児放棄やネグレクト、暴力暴言とは限りません。
子供は天真爛漫で元氣一杯に見えても、内面には不安を抱えています。そしてその不安を、大人のように言葉で表現できません。
可愛い盛りに泣いたりぐずったりした時は、「よしよし、いい子いい子」してもらえたとしても、段々生意氣ざかりになり、自分の主張をし始めると親が「面白くなくなる」。子供が自分になつかないと、尚更面白くないでしょう。
生意氣ざかりになるとは、自分というものを持ち始めることです。ですから小憎たらしい態度を取ったとしても、「僕は、私は、これでいいのかな?」の不安も同時にあります。この葛藤を繰り返して、自我が成熟していきます。
人は不安が強くなると怒り出します。子供は自分が持てあました不安から来る怒りを、「親なら受け止めてくれるかもしれない」と吐き出そうとしているのかもしれないのです。
親子喧嘩はできないよりできる方が良いのでしょう。しかしその中身の方がより大事です。子供の主張には、自分のわがまま、エゴや言い訳もありながら、同時に悲しみ、不安、寂しさも混ざっています。喧嘩しつつも、最終的にはその悲しみを裁かれずに受けとめてもらえたかどうかです。失敗も同じです。
親の方が常日頃から、「お前が何を言うか」「私を煩わせるな。迷惑をかけるな。面倒くさいことを言うな」という態度では、子供は親を信じなくなります。不安や悲しみを訴えた時に「そんなものは甘えだ、後ろ向きだ」と、その背景に耳を傾けてもらえず、裁かれると、親は敵だと認識します。
そして更には、お利口さんの良い子ほど、「親は敵だ」を心の奥底に押し込めます。その態度を表に出せば「自分は生きて行けない」からです。「うちの親、こんななのよ、ひどくない?」と友達に愚痴をこぼせればまだましです。自分の本音を自覚できているからです。表面的には問題なさそうに見えても、心の奥底の本音を無視すると、自己像はゆがむ一方です。成人後、中年になっても中々氣づけず、人生の危機を迎えて漸くわかることもあります。
社会的地位が高い人が、SMの女王に高いお金を払って自分をわざわざ痛めつけてもらうことがあります。「本当の自分はその程度にしか価値がなく、痛めつけてもらってその自分を確認すると安心する」。ゆがんだ自己像を正そうとするのではなく、現実の方をゆがんだ自己像に合わせようとしています。自分にダメ出しをしては落ち込むのなら、このSMの女王を自分がやっていないか振り返る必要があるでしょう。
この図における安心感は、精神的な成長においては、悲しみや不安、寂しさが「消えてなくなる」ことではありません。そうした氣持ちを抱えていても「それで良いんだよ。一人じゃないよ」と親から伝えてもらえることです。大人はそれを、自分で自分にやる必要があります。
人は真剣に生きれば生きるほど、傷つき、悲しみは増えます。その悲しみを整理し、手放せるものは手放し、最後に残った悲しみを背負って生きる力を養う、それが人間の成熟と言えるでしょう。悲しくても、不安でも、寂しくても、そして失敗しても「大丈夫」。そのメッセージを受け取れればこそ、自分にダメ出しではなく、試行錯誤する力を得られるのです。
「正しい自己像」とは、試行錯誤する自分を「それ以上でもそれ以下でもなく」認め、受け入れている状態です。謙虚でありながら自然体で、認められたいとガツガツすることも、「べき・ねば」で駆り立てられることも、「目立たないように」人の後ろに隠れることもありません。
能力や結果はあくまで「その事柄」に関わること
「自分にダメ出し」と、現実の結果に向き合って「やって良かったこと」「改善した方が良いこと」を振り分け、次につなげるのは全く違います。
「私はダメだ、ダメだ」が多いクライアント様に、「子供の頃、テストのやり直しをしましたか?」と質問すると、今のところ100%「やってない」と答えます。反省とはテストのやり直しをすること、「自分にダメ出し」とは「どうせ私は馬鹿だから、ダメだから」ということにして、テストのやり直しをせず放り出すことです。
テストのやり直しを放り出すのは、その時は楽ができるようですが、誰に対してでもなく、自分に不誠実です。他人から「どうせあなたは馬鹿だから、ダメだから、テストのやり直しなんかしたって意味ないから、そんな面倒なことはやらなくていいよ」と言われたいでしょうか?またそのようなことを言う人を、どう思うでしょうか?
何かが上手くいかなかった、それは自分の考え方、捉え方や、技術、能力を改善するべきだったかもしれません。また、「今はそのタイミングではなかった」「相手に受け入れる素地がなかった」ということもあります。その状況判断を完璧にできる人はこの世にはいません。
私は或るお友達から「あだっちゃんは世の中の人に期待しすぎやねん。みんなもっと何も考えてへんし、勉強もしてへんし、ポーっとしてんねん」とよく叱られます。全く以て彼女の言う通りなのですが、「はい、そうですね」と右から左に認識が改まるわけではありません。自分の高すぎる期待値に自分で首を締められて、イライラしています。これも葛藤しながら、私自身が少しずつ期待値を下げるしかありません。
これが私の課題の一つなのですが、あくまで「その事柄」が今は上手くいっていない、引き続き取り組む必要があるということです。
セールスを断られた時に、「その商品やサービスが断られた」「売り込み方の創意工夫をしよう」と捉えるか、「自分を否定された」と捉えるかの違いと相似形です。或いは人を指導する際、「その人」を否定するのではなく、考え方ややり方をどう改善するかに落とし込んで指導した方が、相手の成長になります。自分に対しても同じです。
また長所は諸刃の剣で弱点にもなります。頑張り屋ほど諦めが悪くなる、氣持ちが優しい人ほど利用されやすい、素直な人ほど人を疑わず、騙されやすい、などです。長所は長所として保ちながら、新たな考え方やスキルを「補い、足していく」発想がとても大事です。その努力が面倒だと、いきなり「私はダメだ」でおしまいにしていないかどうかです。
自分を大事にするとは、このような細かいプロセスに落とし込んで、粘り強く努力をすることでもあります。
こうした細かい努力をやり続ける人は、仕事には厳しいでしょう。またその自負はあるかもしれません。しかし「自分に厳しい」とは思っていません。それが「当たり前」と思っています。女優の藤山直美さんは、「訓練鍛錬はお箸の上げ下ろしと一緒」と仰っていました。真の努力家は「『当たり前』の基準が高い」のです。
本当の自信は「誰が何と言おうと」の信念を育てること
「自分にダメ出し」とは、上記のようにある事柄に対して、「何が上手くいって、何が上手くいかない要因なのか」を考え、何かを変える努力をする姿勢とは根本的に異なります。「あるべき自分像」に今の自分がなっていないから、その自分を罰しています。そして「いつか『あるべき自分像(それが体重が〇㎏減るといったことでも!)』になれば、自分に自信が持て、不安や悩みから解放される(筈だ)」と漠然と思っています。
しかし繰り返しになりますが、真剣に物事に取り組めば取り組むほど、不安や悩みはなくなりません。優先順位付けが自ずとできるようになるので、どうでもいいことには悩まなくはなりますが、悩みの質が深くなります。人は不安や悩みや責任から逃れたいから、自分から指示待ち人間になるのです。
何かができたり、評価されたりは、励みにはなります。「私もやればできる」自信も大切です。しかし、能力は失われたり、世の中の変化に伴い必要とされなくなることもあります。本当の自信とは、能力や評価評判に左右されるものではありません。また、(自分が勝手に想定した)「あるべき自分像」になったから得られるものではありません。
自分に忠実であるか、忠実に足る自分を育てているかです。それには「誰が何と言おうと」という、心の張りを伴った生き生きとした良心に基づく信念が必要です。それが自分を愛し、引いては他人を愛することができる条件になります。裏から言えば「自分を裏切ることは死ぬよりも辛い」その自分を育てているかということです。自分に誠実である人、裏切らない人、ごまかさない人だけが、他人に誠実になれます。
もしも君が、学校でこう教えられ、世間でもそれが立派なこととして通っているからといって、いわれたとおりに行動し、教えられたとおりに生きてゆこうとするならば、ーコペル君、いいか、ーそれじゃあ、君はいつまでたっても一人前の人間になれないんだ。子供のうちはそれでい。しかし、もう君の年になると、それだけじゃあダメなんだ。
肝心なことは世間の眼よりも何よりも、君自身がまず、人間の立派さがどこにあるか、それを本当に君の魂で知ることだ。そうして、心底から、立派な人間になりたいという氣持ちを起こすことだ。いいことをいいことだとし、悪いことを悪いことだとし、一つ一つ判断をしてゆくときにも、また、君がいいと判断したことをやってゆくときにも、いつでも、君の胸からわき出て来るいきいきとした感情に貫かれていなくてはいけない。北見君の口癖じゃあないが、「誰がなんといったってー」というくらいな、心の張りがなければならないんだ。
吉野源三郎「君たちはどう生きるか」
「ほれぼれとするような自分でなければ認めたくない」はナルシシズムです。ナルシシズムは、自分も他人も「ほれぼれとした自分を飾るためのアクセサリー」としか捉えません。即ち「利用できるか/脅威か」の損得勘定であり、打算です。そこには愛がないのです。自分に対しても、他人に対しても。
この引用の最初にある「学校でこう教わったから。世間でこう言ってるから」のまま、つまり大人にならずに死んでいく日本人が残念ながら大多数でしょう。
自分にダメ出しをやめるには、どんなに拙くても、その時は間違っていたとしても、「私はこう思う。これを選ぶ」と、緑の図にあるように、自分を表現することが必須です。私の心理セラピーでやっていることも、クライアント様が緑の図の連鎖の中に入っていく、その好循環を生み出すための環境づくりです。
「私はこう思う。これを選ぶ」は、責任を伴います。「みんながそうしてるから」「私だけ違うことをするのは怖いから」「だって同調圧力が」の方がずっと楽です。しかしそれをやっている間は、責任逃れに終始し、責任と表裏一体の自由を得られません。結果愛を育めないのです。「愛は自由の子」だからです。
「誰が何と言おうと、私はこう思う、こう考える」その裏返しの「おかしいものはおかしい」「そんなおかしいことに屈する自分に耐えられない」この信念を育んでこそ、一見無関係なようでも、「自分にダメ出し」をやめられるのです。