自己中心性とは幼児性・幼児性とは「自分しかいない」
今の日本人は家畜化しているとか、奴隷根性どっぷりだとか言われます。海外ではコロナワクチンの危険性にとっくに氣づき、もう誰も打っていないのに、日本人だけが「ただの内にもらっておけ」とばかりに6回目を打つ。この記事を書いているのは、2023年の6月中旬ですが、首相官邸の報告によると、6回目の接種者はとうとう1000万人を超えました。
原口一博衆院議員が、3回目接種後に癌を患い(コロナワクチン接種後に「ターボ癌」と言われる「いきなりステージ4、あっという間に亡くなってしまう事例が2021年から多発しています)、頭髪も眉も抜け落ちた姿を堂々と衆目にさらし、国会にて薬害の追及をしているにも関わらず、大多数の日本人はどこ吹く風の他人事です。
6回目を打つ人達も、自分が3千円なり5千円なり払わなければならないのなら、きっと打たないでしょう。つまりその程度なのです。まるで商店街の福引に行くのと同じ感覚で、自分の体を軽く扱う安易さ、莫大な税金が投入されていることの目的を考えない無思考、「お世話されて当然」の幼児性が抜けないまま、歳を取ってしまった結果と言われても仕方がありません。
また4年目の夏に突入しても、家ではマスクをしないのに、未だに誰も歩いてない道でさえマスクを外さないのは「迫害される少数者に自分が転落せず、安心安全な多数派に潜り込んでおきたい」自立できていない幼児の無責任です。その結果どんな害悪をもたらすか、この茶番を自分自身が長引かせていること、そしてその卑怯さに全く無自覚です。「皆がそうしている」は、一見尤もらしくても、自己決定から逃げる卑怯さなのです。
マスクだけして遊びまわることに自己矛盾を感じない日本人マスクの害や、マスクが感染対策にはならず却って逆効果であることは、他でも散々言われていますので、ここでは割愛します。参考までに、以下のリンクを貼っておきます。[blogc[…]
自己中心性とは幼児的であることです。赤ちゃんは「こんな夜中に泣いたらお母さんを起こしてしまうから可哀そうだ」などとは考えません。自分の快不快だけで反応しています。赤ちゃんはそれで良いのですが、大人になっても同じことをすれば「あの人は自己中だ」になります。
また女子高生の会話が「互いの話を聴いていない。自分が話したいことを話しっぱなし、ボールを投げっぱなしでキャッチボールになっていない」に往々にしてなるのも、「他人がいない」即ち「自分しかいない」ことの現れです。相手をきちんと見て、何を伝えようとしているのかを聴こうとするのは、「聞いて!聞いて!かまって!かまって!」の間はできません。「自分のことは脇に置いて相手に集中する」これも精神的な自立と意識的な努力が必要です。
ところで、最近は「自分一人で生きてるんじゃないんだぞ」とか、「お陰様で」という言葉が本当に聞かれなくなったように思います。日本人が自己中心的になり、幼児化している現れの一つでしょう。今の日本人に非常に多い「言われた通りにしておけば、或いは皆がしている通りにすれば、私は非難されない」も、自分が責任を負いたくない幼児性の現れであり、偽善の温床です。
仕事を人質に取られることはあってはならない
ところで、「自己中の『自分大好き』と自尊感情の「自分を大切にする」とはどう違うのですか?」という質問を時折お受けします。以前の記事に詳述したので、ご参考にして頂ければと思います。
自己中の「自分大好き」と自尊感情は180度違う時々「自己中な人の『自分大好き』と、自尊感情とはどう違うのですか?」という質問をお受けします。自己中な人は自分が一番可愛く、「俺の言うことが聞けないのか!?」などと、何でも自分の思い通りにな[…]
自尊感情は幼児的な自己中心性とは正反対で、人間の成熟度と比例します。何故なら、自分の選択に責任を持つ自立した態度があってこその自尊だからです。
真の自立は「自分は本当にどうしたいのか。誰がどう言う、どう思われるとかは関係なく、どう生きれば自分は納得した人生を生きられるのか。自分の良心や信念に恥じない生き方をできるのか」を深く自分に問うことです。見識の高い人に相談することはあっても、選択するのは自分、という態度に裏打ちされたものです。
そしてだからこそ、「自分を痛めつけて他人にいい顔をする。人に悪く思われたくないから○○する」といった安易な自己犠牲を払いません。それは偽善であり、相手をつけ上がらせ、結果誰のためにもならないからです。自分の心身の健康を損ねてまで「他人に移さないために」(無症状者から感染させることはないと、論文で証明されています)マスクやワクチン接種をする、まして他人に強要するなど、偽善極まりない過ちなのです。
「自分をぼろぼろにさせない、疲弊させない。そうしてくる相手に毅然としてNoを示す」心がけが自尊感情の「自分を大切にする」です。
「コロナワクチンを打たなければ○○させない」も全く同様です。いわゆる反ワクと呼ばれる人でさえ、「職場でワクチン接種を強制された」に「だったら仕方ないよね」と納得してしまいます。仕事を人質に取られることは、生存権を侵される「あってはならない」ことです。各種資料を揃えるくらいのことは自分でやって職場と交渉する、それでも応じないなら裁判を起こすか、或いは「そんな職場に将来性はない」と見切りをつけて逃げ出すかをしなければなりません。
「仕方ないよね」で納得してしまうのは、やはり甘いのです。命や健康、人間の尊厳を犠牲にして良い仕事など、この世に「あってはならない」。それに納得し、従ってしまうのはYESと言ったのと同じことです。そうした態度では、既に計画されているWHOのパンデミック条約や、緊急事態条項でのワクチンの強制接種に死に物狂いで抵抗することなどできなくなってしまいます。
他人の尊厳を傷つけてはなりませんが、また一方で、他人に守ってもらうのを当てにした尊厳など、そのこと自体が言語矛盾です。どんなに傷ついても抵抗するためには、「尊厳は死に物狂いで自分が守るもの」という姿勢があればこそです。
ナチス占領下、フランス国民を鼓舞したポール・エリュアール「自由」
ここでフランスの詩人、ポール・エリュアールの「自由」という詩の抜粋を引用します。
「自由」ポール・エリュアール
ぼくの学習ノートに
ぼくの机や木々に
砂に 雪に
ぼくはきみの名を書く読みおえた全てのページに
空白の全てのページに
石に 血に 紙に 灰に
ぼくはきみの名を書く(略)
破壊されたぼくの隠れ家に
崩れおちたぼくの燈台に
ぼくの倦怠の壁に
ぼくはきみの名を書く欲望のない不在に
はだかの孤独に
死の階段に
ぼくはきみの名を書く回復した健康に
消え失せた危険に
思い出のない希望に
ぼくはきみの名を書くそして ただひとつの言葉の力で
ぼくはまたぼくの人生を生き始める
ぼくは生まれた きみを知るために
君の名を呼ぶために
リベルテ(自由 と)。『自由」という詩と詩人について
この詩を書いた詩人ポール・エリュアールは1942年、ナチス・ドイツ占領下フランスで、ペンを武器とする対独地下抵抗組織(レジスタンス)に参加する。この詩が巻頭を飾った詩集『詩と真実』は1942年4月3日ナチス・ドイツの占領下で出版され、その中の詩は至るところで口ずさまれ、人々に勇気と希望を与えたと言う。特に、この『自由』(リベルテ、Liberte)という詩は、当時のフランス国民で知らぬ者はいないというほど愛された詩であった。
(略)
自由というものは、決して天から自然に与えられたものではなく、歴史の中で、時には自らの命を賭したこのような人々の行動によって勝ち取られたものであった。
「自由と教育」より
…
これまで多くの哲学者や思想家が「人間は安全や平等の名の下に自由を手放す。即ち自ら奴隷となる」ことを、様々な角度から伝えています。エーリッヒ・フロム「自由からの逃走」や、ホセ・オルテガ「大衆の反逆」、アレクシ・ド・トクヴィル「アメリカのデモクラシー」など皆同じことを言っています。
マゾヒズム的努力の様々な形は、結局一つのことを狙っている。個人的自己から逃れること、自分自身を失うこと、言い換えれば自由の重荷から逃れることである。
エーリッヒ・フロム「自由からの逃走」
大衆とは、みずからを、特別な理由によって──よいとも悪いとも──評価しようとせず、自分が《みんなと同じ》だと感ずることに、いっこうに苦痛を覚えず、他人と自分が同一であると感じてかえっていい気持になる、そのような人々全部である。
ホセ・オルテガ「大衆の反逆」
民主主義社会においては、国民は勤勉で臆病な家畜の集団となる。
アレクシ・ド・トクヴィル「アメリカのデモクラシー」
上記の引用は、2023年6月現在、コロナが5類下げになって一か月以上経っても、マスクを外そうとはしない日本人の姿に顕著に証明されています。
「3月13日以降のマスクの着用は個人の判断に任せます」と改めて政府からアナウンスがあったにも関わらず、終日取り換えない薄汚れたマスクの下に自分の顔を閉じ込め、スマホの小さな画面が自分の全世界であるかのように知性も精神性も閉じ込め、「自分は騙されていた」と知ることから死ぬまで逃げ回る。しかしそれは、エリュアールが表現したような自由人ではありません。
日本人は更なる人権蹂躙が起こっても
「そして ただひとつの言葉の力で
ぼくはまたぼくの人生を生き始める
ぼくは生まれた きみを知るために
君の名を呼ぶために
リベルテ(自由 と)。」
と口ずさんで、自らを鼓舞することなど考えもしないのではないでしょうか。
自ら自由を放棄し、奴隷に、家畜になるとは、尊厳を自ら捨てるのと同義です。「マスクをしている方が楽で面倒がないからいいや」「みんながマスクを外すまで待つ」をやっていて、誇り高い自由人にはなれません。大多数の人は人間関係に悩みながら、誇り高く成熟した人から真剣に相手にしてもらえる道を自分で閉ざしています。
勇氣の有無で見分けられるその人の自尊感情
幼児性を脱しているかどうかの見分け方は様々ですが、最も顕著に現れるは勇氣の有無です。どんなに客観性や、洞察力・分析力に富んでいたとしても、勇氣がなければ何にもなりません。「氣持ちが優しい」も同じです。
コロナ騒動において大変ありがちな「何もかも知っているのに口を拭って知らんぷり。頑張っている人の背中に隠れて自分は延々と騙されたふり」は、クレバーという意味での頭の良さはあるかもしれませんが、私に言わせれば大変卑怯で、自尊感情豊かなあり方とは到底言えません。そしてそんな態度は隠しようがなく見抜かれます。
子供であっても、尊厳を守るための勇氣を発揮できる子は、幼児性を脱していると言って良いでしょう。寧ろ自分の直観や正義感に沿ってまっすぐ行動できる子供の方が、打算と虚栄づくめの大人よりも高潔だと私は思います。
そしてまたこの勇氣は、まず「見たくない、知りたくない、怖い現実と向き合っていく」ことから始まります。現実逃避ばかりしている人は、やはり無責任と言わざるを得ません。「嫌なことを考えるとそれを引き寄せるから考えない」や、キャッキャウフフのルンルンが前向きだなどは、勘違いも甚だしいのです。
怖い現実と向き合った後に、「このままだとどうなるか?」の結果予測をし、自分がやれる小さな一歩を「自分で考えて」踏み出し続ける、ごくごく当たり前のようですが、今の日本の大人でこれを日々心掛けてやっている人が、どれだけいるでしょうか?
上述した「言われた通りにしておけば、皆と同じようにしていれば、私は非難されない」は、勇氣を養うことなど端から考えもしない、勇氣の大切さを忘れ去った令和の日本人のあり方の結果のように、私には思えてなりません。
そして勇氣は思いやりや客観性と同じく、後天的に育み続けるものであって、意識的な努力がなければすぐに失ってしまいます。自己中心的な人が、こうした地道で面倒な、報われるかどうかわからない、労多くして益なしに大いになる、自分の納得しか得られないかもしれない努力をすることは、やはりないのです。