自己中の「自分大好き」と自尊感情は180度違う
時々「自己中な人の『自分大好き』と、自尊感情とはどう違うのですか?」という質問をお受けします。
自己中な人は自分が一番可愛く、「俺の言うことが聞けないのか!?」などと、何でも自分の思い通りにならないと気が済まず、一見「偉そうで自信のある人」に見えたりします。
しかし自己中な人の「自分大好き」は自己愛・ナルシシズム(Narcissism)です。
つまり「ほれぼれとする完璧な自分しか愛せない」です。
他人を支配してかしずかせたり、依存して構ってもらったり、ちやほやされたり、親切の押し売りやこびへつらいをして構わせてもらわないと、「ほれぼれとする自分像」を結ぶことが出来ません。自分は完璧であるはずだ!という自己欺瞞が根底にあります。
強そうで偉そうに見えても、心の奥底は不安でいっぱいで、孤独に耐える力が弱いです。
他人に自分の顔色をうかがわせないと、或いは自分が他人の顔色をうかがっていないと、自分の存在を保てません。
自尊感情(セルフ・エスティーム Self-esteem)とは、どんな自分でも大切にする、ということ。
決して全てにおいて完璧ではない自分をあるがままに見て、その自分をいじめたり、薔薇色のメガネをかけてごまかしたり、なかったことにしない、ということです。それが自分だ、と思えている境地です。
クライアント様が共通して達する境地”This is me. ”弊社のクライアント様のご相談内容や、置かれている状況は千差万別です。しかし、自分と向き合うことから逃げず、「今の自分にできる小さな一歩」を馬鹿にせずにコツコツと取り組ま[…]
ですから、他人の存在や評価に振り回されず、孤独に耐える力があります。
孤独に耐える力とは、「誰にも気づかれなくても、誰にも理解されなくても、自分がやるべきだと思ったこと、大事だと思うことをやり抜く力」のことです。孤独に耐える力があるから、信頼関係が築けます。
どんな自分も大切にするとは、「自分は自分、人は人」という境界線をしっかり保ちつつ、自分も他人も同じように尊重できる、ということです。尊重すればこそ、関係性を手放すこともできます。
※ちなみにここではプライド、という意味での自尊心とも区別しています。
日本語ではセルフ・エスティームを自尊心と訳している場合もあります。しかし、日常会話で「あの人は自尊心が高いから・・・」などと言う場合、セルフ・エスティームではなくプライド(Pride)を指している事がほとんどでしょう。
プライドには「誇り」という意味があります。
日本の文化に誇りを持つ、など、アイデンティティの基盤となる大切な感情ですが、他人と比較して誇りを感じていると、それは傲慢と紙一重です。何かの拍子でひっくり返ると、劣等感になってしまいます。それでは真の誇りとは言えません。
自尊感情、セルフ・エスティームは他人と比較して持つ感情ではありません。傲慢さとも、劣等感とも無縁です。
自尊感情は持って生まれた性格や性質とは関係ありません。
どんな人も、どうかすれば自己中に傾き、また意識的な努力次第で、自尊感情が豊かになります。
では、どのようにすれば、自己中を抜け出し、自尊感情が豊かになっていけるのでしょうか・・・?
アブラハム・マスローの欲求段階説(自己実現理論)
心理学者アブラハム・マスローが唱えた「欲求段階説」があります。
人間は生理的欲求・安心、安全の欲求・所属と愛の欲求、承認欲求、自己実現欲求を持ち、これは段階を経てより高次の欲求を満たしていく、というものです。
- 生理的欲求・・・食欲、睡眠欲、排泄欲など、身体の生理的な欲求
- 安全、安心の欲求・・・身体や生命の安全、安心を求める欲求
- 所属と愛の欲求・・・居場所がほしい、愛されたい、受け入れてもらいたい、一人ぼっちは嫌だという欲求
- 承認欲求・・・認められたい、馬鹿にされたくない、尊重されたい欲求
- 自己実現欲求・・自分の能力、可能性を最大限に生かしたい、自分がなり得るものになりたい欲求
またマスローは晩年、自己実現欲求の上に、自己超越欲求がある、と考えました。
- 自己超越欲求・・・自分を超えた存在への志向。自分の利益を超えた平和や、神的存在へ心が向かうこと
自己実現は、自己超越欲求の結果として得られるもの、とマスローは考えました。
そして、生理的欲求から承認欲求を欠乏欲求(欠けているから満たしてもらおうとする)、自己実現欲求と自己超越欲求を成長欲求(より良き存在へと成長したい)としました。
自己中・自己愛(ナルシシズム)は欠乏欲求を他人に満たしてもらおうとすること
マスローによると、様々な問題や症状は、この欠乏欲求が長期にわたって満たされないために起こる、とされてきました。
欠乏欲求は本能的なもので、犬猫でさえ所属と愛の欲求や、承認欲求(犬が「褒められる」ことで補助犬や救助犬などとして訓練されます)があります。ですから消すことはできません。ただし人間は、これを自分で満たす習慣がついていないと問題を引き起こします。
(念のためですが、まだ親の庇護の元にある幼い子供は別です。子供達は無条件に愛情や承認を与えてもらってこそ成長します。ここでは、自己決定ができる大人を想定しています。)
自己中な人、自己愛(ナルシシズム)が強い人、いわゆるかまってちゃん、またその裏返しのかまわせてちゃんは、「他人を使って」欠乏欲求を満たそうとします。
真に向き合うべき課題から言い訳をして逃げるのも(「だってあの人が、みんなが、世間がこう言うから」「どうせ私はバカだから、ダメだから」)、自分の責任を全うせず、他人に押し付けると意味では同じです。これをやっていて、人間関係が好転することはありません。
ワークショップなどでコミュニケーションのスキルだけを身につけても、全く無駄とは言いませんが、やはり表面上のことです。
寧ろコミュニケーションスキルを他人を操作し、支配するために使うことも起きています。
自尊感情が豊かな人とは、欠乏欲求を自分で満たす習慣が身についている人
自尊感情が豊かな人は、自分で自分を大切にする習慣が身についています。
つまり、欠乏欲求を自分で満たす習慣こそが、自尊感情を高めていきます。
だからこそ、自分の中のネガティブな反応、感情を無視したり否定したりせず、大事にすることが出来ます。
ネガティブな感情を怖れたり、恥じたり(「こんなことで怒ったり、嫌ったりする自分は情けない、恥ずかしい」)しません。
それは「欠乏欲求が満たされていない」大切なサインだからです。
自分の心と向き合い、心の声に耳を傾け、その上で「どうしたいか」を考えること、この習慣が欠乏欲求を満たします。
自分で自分をあやしたり、認めたり、励ましたりして、所属と愛の欲求や、承認欲求を満たそうとします。
時には家族や友人に話を聞いてもらったり、助言してもらうこともありますが、相手に過度に負担を掛けない配慮ができます。そしてまた、助言は得ても、最終的に決めるのは自分です。
すなわち「自分の面倒は自分で見る」「自分の尻は自分でぬぐう」という自己責任を全うする、自立した大人、ということです。
そして結果として、より高次の「成長欲求」に自然と移行します。より広い世界へ、自分から挑戦したくなります。
大切な自分だからこそ、より次元の高い世界に連れて行ってあげたくなるのです。
弊社の心理セラピーは大脳の前頭連合野を鍛えること
この欠乏欲求を自分で満たすのは、大脳新皮質という脳の一番外側の、前頭連合野という前の方がつかさどります。この前頭連合野は、20歳から25歳ごろに完成すると言われています。人間の人間らしさ、主体性や客観性、想像力、思いやり、粘り強さ、責任を持つことなどはこの前頭連合野が担います。
自己中な人は、この前頭連合野を自分が使わず、他人にその役目を負わせようとしています。
ある日、一匹のでんでん虫が、「私の背中の殻には、悲しみが詰まっている」と気づきます。「私はもう生きていけない」と友達のでんでん虫に話すと、そのでんでん虫も「私の殻にも、悲しみが詰まっている」と返します。
次のでんでん虫、その次のでんでん虫と順々に同じことを尋ねましたが、答えは皆同じでした。
最初のでんでん虫は、「悲しみは誰でも持っているのだ。私ばかりではない。私は私の悲しみをこらえていかなくてはいけない」と嘆くのをやめました。
新美南吉「でんでんむしのかなしみ」より要約
弊社の心理セラピーは、この前頭連合野を鍛えに鍛えます。
前頭連合野を使うのは、脳の中で最も負荷がかかります。ですから、使い続ける習慣がないと、すぐに思考停止して使わなくなってしまいます。「私はダメだ」も「どうしたらいいかわかりません」も「だってあの人が」も、思考停止のため、前頭連合野をサボらせるための言い訳なのです。自尊感情が高くなれなるほど、こうした言い訳をする自分が嫌になります。
「足立さんのセッションは楽じゃないけれど、後の日常が楽になる」と多くのクライアント様に言っていただける所以だと思います。
そしてまた、前頭連合野の役目を、私(足立)に担ってもらいたい人は、弊社のセッションは続きません。
能力以上に人生を左右する「人間観」
簡単に言うと、自己愛と自尊感情では人間を以下のような存在と捉えています。
自己愛:人間=利用する対象
自尊感情:人間=尊重される存在
ところで、日本語には「~観」という言い回しがあります。人生観、結婚観、恋愛観、など。
人間関係、仕事、お金、家庭、健康、どの分野を取ってもその人がどのような「~観」を持っているかでポテンシャルの発揮の仕方が変わります。
「あなたはどのような『~観』を持っていますか?」
と尋ねれば、大抵の人は体裁のいいことを言うでしょう。しかし人間の本音は行動に現れます。
ある人が職場で、関係のない第三者を巻き込む形で、別の人から仕事上の嫌がらせを受けました。
「仕事を何だと思ってるんだ!」
と嫌がらせを受けた人は大変激怒したそうです。
しかし後から、その嫌がらせをしてきた人を「仕事をその程度にしか考えていなかったんだな」と思うようになりました。
つまりその程度の「仕事観」だったのです。
嫌がらせをした人も、決して能力が低いわけではなく、努力もする人だったそうです。しかしその人の「仕事観」以上の結果を出すことはありませんでした。
人間関係であれ、仕事であれ、お金であれ、「~観」はつまるところ「人間観」です。
自分がどのような「人間観」を持っているか、すなわち自分という存在をどのように捉えているかが、能力以上に人生を左右します。
人間を、自分を、かけがえのない、尊重される存在として扱っているかどうか。
これが「自尊感情が豊かかどうか」です。自尊感情とは敢えて一言で言うなら、かけがえのなさです。
かけがえのない存在と捉えていれば、何を食べ、何を着て、どのような事にお金を使い、どんな人と付き合うか、どんな話をし、話し方をするのか、その一つ一つの選択を大切にします。選択を大事にするとは、結果はどうあれ、その選択に責任を持つということ、「私が選んだことだから」と言えることです。
またそれは、常に完璧な選択をすることではありません。例えば、服を着たまま、メイクも落とさずにベッドに倒れこんで寝てしまったとしても、それも誰のせいでもない自分の選択だと思えることです。それがその時の等身大の自分です。私たちの人生は、大小取り混ぜた無数の選択の積み重ねです。
それが信頼を築きます。
自分に対しては自信です。
真の自信とは、他人からの評価に左右されるものではなく、「一つ一つの選択を大切にしている」外側からは決してわからない積み重ねからくるものなのです。