マスクだけして遊びまわることに自己矛盾を感じない日本人
マスクの害や、マスクが感染対策にはならず却って逆効果であることは、他でも散々言われていますので、ここでは割愛します。参考までに、以下のリンクを貼っておきます。
2021年10月現在、政府・マスコミがこぞって国民にマスクの着用をさせているのは、私たちにコロナの存在を忘れさせないため。引いては、ワクチンを打たせ、感染対策を口実とした営業自粛要請などの人権侵害をするためです。皆がマスクをしなくなると「コロナが終わってしまう」からです。ちなみに政治家たちは、TVカメラが回っていないところでは、マスクを外しています。
【ジェイコブ・ロスチャイルド マスクについての見解】
これがわかって、抵抗しようとしている人がノーマスクを貫いているのです。わがままでマスクをしないのではありません。こういうことは、確固たる信念と精神の張りがなければできません。
日本人は本音では「コロナは大したことはない」とわかっていながら、誰もいない屋外でさえ、マスクを外しません。マスクをして遊びまわることに、何の自己矛盾も葛藤も感じていないかのようです。
2020年の3月頃は、ショッピングモールは閑古鳥が鳴いていました。当時はほとんどの人がコロナを恐れていた証拠です。つまり、人は本当に感染を恐れていれば、マスクをしようがしまいが、人ごみの中へ行こうとはしないのです。
「美味しいとこどりして何が悪い」の人を信用できますか?
マスクをして遊びまわるというのは「人から非難されたくない。でも遊びたい」の美味しいとこどりがしたいということでしょう。確かに一挙両得できそうです。
しかし本当に「人から非難されない、つまり悪く思われずに済む」でしょうか?確かに、一部の未だ頑迷なコロナ脳と呼ばれる人々からは、非難を受けずに済むでしょう。ですが「わかっているくせに、美味しいとこどりをしたくてマスクをして遊びまわる人」が、心ある人から尊敬されるでしょうか?
主に欧米では、ワクチン強制や、ワクチンパスポートの導入に反対するため、毎週大規模デモが行われています。コロナの謀略と、ワクチンの危険性に気づいている彼らは、当然マスクをしていません。自分たちの命、尊厳を守るため、老若男女こぞって命がけで抗議しています。そういう人たちが「マスクだけして遊びまわる日本人」を見て、どう思うでしょうか?
尊敬されたり、信頼されたり、仲良くしたいと思ってもらえるでしょうか・・・?
「ノーマスクだと絡まれるのが怖い」と、いい大人でいつまでも言い訳する人がいます。わが身可愛さで社会全体のことを考えない、いつまでもTV洗脳されているコロナ脳にさえ、毅然とした態度が取れずに、「この人」と思う人に信用してもらえるでしょうか・・・?
品位による自制心を失えば「やりたい放題」に
自分を見失わずに生きるためには、誰か(世間、会社、みんな)がどう言ったとか、どう思うとかではなく、「自分がどうしたいか」がわかっていることが重要です。一方で、ただ「どうしたいか」だけでは、ただの野放図になってしまいます。
「どうしたい」の意欲と、「これはしない、あるいは面倒でも怖くてもする」の自制心のバランスがあってこそです。自制心が、罪悪感や義務感によるものではなく、自分の良心、品位からくるものであること。罪悪感や義務感は「だって」の他人軸です。良心や品位は自分のもの。ですから、自分が磨かなければ簡単に失ってしまいます。
品位は平たく言えば、「誰が気づく気づかぬ関わらず、それをする、あるいはしない自分に耐えられない。自分がみっともなく情けない」ということです。
「美味しいとこどりして何が悪い」の人に、その人がどんなにきれいに着飾っていたとしても、品位を感じることができるでしょうか・・・?
インテグリティ「高潔・首尾一貫性・言行一致」
「美味しいとこどりをしない」とは、首尾一貫するということ、言動に表裏がないことです。家庭が大事と言いながら、外に愛人を作って恬として恥じないのは一貫性がありません。
「〇〇の割には△△」という不一致を人は敏感に察知します。「あの人、口だけ、かっこだけやん」はすぐに見抜かれてしまいます。
そして一方で、その場限りのかっこつけがいかようにもできるので、「マスクだけして正しいことをしている気分に浸る」ことは簡単にできてしまいます。首尾一貫すること、言行一致することは、不断の心がけがなくてはできません。試しに「言ったことはやる。やりもしないことは最初から口にしない」を実践しようとすると、その難しさにたちまち直面するでしょう。
この一貫性に裏打ちされた態度を、英語ではintegrityと言います。この言葉にズバリ当てはまる日本語はないそうです。敢えて訳すなら、「高潔」とか「誠実」になるそうですが、「言行一致した、表裏のない首尾一貫した態度」と言えるでしょう。その態度に周囲の人が高潔さや誠実さを感じ取る、その順序だと思います。
integirityについて、以下の記事が大変優れた解説をしているので引用します。
Integrityとは?
日本語でピッタリした訳語がない言葉。(略)英語の本来の意味はオックスフォード英英辞典によれば the quality of being honest and having strong moral principles(誠実であるとともに強固な倫理原則を維持できている状態)ということで正直とか誠実とかよりワンランク上の状態をを言う。英次郎ではa person of great integrityは清廉潔白の人と訳しており、並みの人間が簡単に到達出来るレベルではない高尚な精神の状態を示している。
田草川弘という東海大学の外国語教授によればインテグリティというのは特別な言葉だそうである。米国ではインテグリティがあると言えば最高の褒(ほ)め言葉になる。逆にインテグリティを喪失したといえば、それは人格の全否定になる。インテグリティとは、いかなる権力や圧力にも諂(へつら)わず屈しない道義心の堅固さ、この人ならばと人格的に全幅の信頼を集める内面的な強靱さ、したたかさ、行動力と実績を意味する。
(略)最近日本経済新聞から出版された高 巌(たか いわお)麗澤大学教授の『誠実さ(インテグリティ)を貫く経営』はちょうど私の問題意識に合致した本である。(略)高教授によればインテグリテイの本来の意味は『言うこと』と『行うこと』が一貫し、そこにぶれが無いということである。最近の企業不祥事が起こるたびに不祥事を起こした経営者が再発防止と綱紀粛正を世の中に向かって誓ってきたが、その誓いの多くは言葉だけで実行はされていない。つまりインテグリテイを欠いた状態の企業が多いということが言える。21世紀に入り、市民や社会は企業の誓いの言葉をリップサービスだけに終わらせることを許さなくなっている。企業の誓いは明確な公約と捉えられ、それを果たさなければインテグリティ(誠実さ)の無い会社とみなすように変化してきている。その厳しい要求の背景には『契約関係と信認関係』のギャップと捉えられている。
Integrity ことはじめ (太字は足立による)
「日本人は貧しい。しかし高貴である」(ポール・クローデル)今の日本人は?
日本語にintegrityそのものの言葉はありませんが、この態度はかつての日本人は体現していました。
戦前の駐日フランス大使であり、詩人・劇作家でもあったポール・クローデル(1921~1927年駐日)は「日本人は貧しい。しかし高貴である」と評しました。
1923年(大正12年)の関東大震災時、日本人が取った態度について、クローデルは以下の言葉を残しています。
「唐突な動きとか人を傷つける感情の爆発によって隣人たちを煩わせたり迷惑をかけたりしてはならないのである。同じ一隻の小舟に乗り合わせた人々はみなじっと静かにしていなければならない」
「廃墟の下に埋もれた犠牲者たちの声も『助けてくれ!こっちだ』というような差し迫った叫び声ではなかった。『どうぞ、どうぞ(お願いします)』という慎ましい懇願の声だったのである」
てつログ 会計士がつづる日々の考察
また、「私がどうしても滅びてほしくない一つの民族があります。それは日本人です」とクローデルは日本人を高く評価しました。
昭和初期に駐日フランス大使を務めたポール・クローデル氏の言葉と時代を見る なかなか聞きなじみのない人であり言葉……
しかし今、マスクだけして遊びまわり、「自分がマスクを外さなければ、もっと立場の弱い人は尚更外せない」とは考えず、「だってみんなが」「絡まれたら怖いし」と言い訳ばかりしている日本人を見て、クローデルは私たちのことを高貴であると評してくれるでしょうか?
「日本人は経済的には豊かになった。しかし浅ましくなった」と言われても、何の反論もできないと思います。
葛藤がなければ人は退化する・葛藤するためにこそ言い訳をしない
自分に対する言い訳が良くないのは、葛藤がなくなるからです。
人は「このままでいいや」と思っている時には、変化を起こそうとはしません。そして現状維持できそうに思いますが、脳は筋肉と一緒で、放っておいて現状維持はできないようになっています。つまり退化してしまいます。常に自分を押し広げる頭の体操をし続けて、ようやく脳の神経細胞がちょん切れて衰えることを防げるのです。
葛藤は不快ですが、これがあるから私たちは「これまでの自分」から脱皮できます。心理セラピーが、「葛藤を抱えていない人」「どうにかしなくちゃと思ってない人」には効果がないのと同じです。
仮にマスクをしていても「こんなのバカらしい。意味ない。外したい。でもどうしても勇気が出ない」と自分の勇気のなさを「なかったことにしない」人は、成長のチャンスがあります。(そうした人は、「最初の一歩」を大きく考えすぎている傾向にあります。まずはゴミ捨てから、人通りの少ない道から等、「これならやれそう」なところから実践し、少しずつ「勇気を出してみて良かった」の成功体験を積むのがコツです)
「だって」「でも」「どうせ」と言い訳すると、自分の勇気のなさをごまかせてしまいます。それが最も「自分を駄目にしてしまう」こと。そしてそのことを、誰か他人が指摘したり、叱ってくれたりはしません。
このコロナ騒動において、子供たちがワクチンで亡くなったり、心筋炎を起こしてペースメーカーを入れられ、障害者手帳を持たなくてはならなくなったことの次に、私が悲しいのは、「マスクだけして遊びまわる日本人」を日々目の当たりにすることです。