人を疑わないお人好しほど搾取されっぱなしに
人間の悩みは究極的には人間関係に行きつきます。
いわゆるいい人、人を疑わないお人好しほど割を食う、馬鹿を見ることが往々にしてあります。傷つけられた方はその痛みは長く疼き、癒し解消するのに時間とエネルギーを費やしますが、傷つけた方は氣にも止めません。そして何度でも同じことを、やりやすい人に繰り返します。
何事も準備・予防が肝心なのと同じように、人間関係も「入るを制する」が大切です。これは出会った人に心を開かないという意味では決してありません。出会う以前から「よく考える」ということです。
ところで、支配/依存できるか、利用価値があるか、エネルギーを奪えるか、自分をチヤホヤしてくれるか、そのような尺度でしか人を推し量れない人は少なくありません。そうした人は、悲しいことですがターゲット探しで一生が終わると言っても過言ではありません。そして心ある人ほど想像もできないかもしれませんが、彼らにとっては我が子ほど恰好のターゲットはないのです。
最初からターゲットにされない、もしターゲットにされかかっても、相手が「あ、違うな」と向こうから去って行く、そうした自分になる心構えを養う必要があります。そしてそれをするのは大人の私たちは自分しかいません。
尊重されないことに怒りを感じる大切さ
ターゲットにされるということは、自分の尊厳を踏みにじられる、尊重されないということです。意見の違い、もしくは本当に自分が反省するべき点があるのに「面白くない」⇒「自分を否定された」と取らないこともその前提として重要です。これは当たり前のようで当たり前になっていません。このことと、尊厳を踏みにじられる痛みの違いを区別します。
尊重されないとは、具体的には以下のような相手の言動になるでしょう。勿論これはほんの一部に過ぎません。
- 挨拶をしない、約束や礼儀を守らない
- こちらが何かを言うと「それ、違うやん!」とまず否定し、揚げ足取りをする
- 自分が決めて良いことなのに、根負けするまでしつこく干渉する
- 相手のことを考えた意見具申をしても、無視したりして最初から取り合おうとしない
- 言っていることとやっていることがバラバラ、もしくは言うことがコロコロ変わる
- 相手を陥れるため、自分の損得のための嘘をつく
以前の記事で取り上げた「心理ゲーム」も同様です。
「あの人、どうにかして!」と悲鳴を上げたくなる心理ゲームとは「人を変えようとしてはいけない」・・・確かにその通りですが、世の中には「あの人、どうにかして!」と悲鳴を上げたくなる人がやはりいます。真に自立し、互いを尊重できる[…]
また以下のような反応が自分に起きたら、自分を尊重されていないというサインかもしれません。
- 一緒にいると疲れる
- その人のことを思うと嫌な氣持ちになる、悪口を言いたくなる
- その人に変わってほしいと願う
これらは、要は「その人とは一緒にいたくない」と自分の心が訴えています。但し後述するように「相手ではなく、状況が合わない」ケースもあるので、自分の反応に正直になりながら、理性を使って一つ一つ精査していきます。
自尊感情が低いと、自分を蔑ろにされても怒れなくなります。例えば、社会的地位が高い人が、SMの女王にわざわざ高いお金を払って自分を痛めつけてもらうことがあります。「本当の自分はその程度に価値のない人間で、それにふさわしい扱いをしてもらうと自分を確認し、安心できる」
私がコロナ騒動における子供たちのマスク着用に猛反対していたのも、この理由です。何の症状もない健康体なのに、「移すかも、移されるかも」と疑心暗鬼になって自分も他人も病原菌扱いしていては、自尊感情は下がる一方です。少々斜に構えた、ませた子供なら「はん、大人ってばっかみてえ。しょうがない、アホアホ大人のクソ茶番に付き合って顔立ててやるか」位に思えるかもしれません。しかしそのような子供ばかりではありません。聞き分けの良い素直なお利口さんほど、そのまま真に受けて「私は汚い。素顔の私は人に迷惑をかける」と刷り込まれてしまいます。3年以上にわたって、どれほど罪深いことに、ほぼ100%の日本の大人達が加担し続けたことでしょう。そして未だにその罪深さに氣づこうとすらしていません。
「どうせ自分はこの程度にしか価値がない」と思ってしまえば、上記のSMの女王の例のように、人はどんなに痛めつけられても、踏みにじられても、そのまま受け入れてしまいます。そして子供たちを「何をされても歯向かわない羊」にするための、コロナ騒動であることを大人こそが氣づかなければ、誰がそれを止めるのでしょう・・・?
「No」を言えなくなる自分の思い込みとは
ところでまた、付き合う人を選べなくなる、迎合したり、「No」を言えずに言いなりになってしまう場合、以下のような思い込みがあるかもしれません。
- 相手を悪く思ってはいけない
- 相手を怒らせたり、自分が怒ってはいけない
- 自分が犠牲を払ってでも相手を助けるべきだ
- とにかく波風を立てずにやり過ごすのが処世術であり、自分が非難されずにすむ最善の方法である
他にもまだあるでしょうが、代表的なものを挙げてみました。
もしこれらに思い当たる節があるなら、
- その結果、どのような事態が引き起こされたか
- その時自分が疲弊したり、相手を恨んだり、不平不満を抱かなかったか
- それをやって自分は健全で幸福になったか
などを自分に質問してみましょう。
「困った時はお互い様」の持ちつ持たれつは自尊感情を下げません。健全な関係性はwin-winです。片方だけが不満を抱えるwin-loseは、少し長い目で見れば必ずlose-loseになります。
ですから、自分を幸せにしない思い込みは解除しなければ、結果的に誰のことも幸せにしません。
刺激が少しで良いタイプかたくさん要るタイプか
ところで人付き合いに関して、社交的でたくさんの人と関わるのが好きな人もいれば、狭く深くが好みだったり、一人で過ごすのが好きな人と様々です。これには良い悪いはなく、ただ違うというだけです。
昔行われた心理実験で、窓も時計もない、なので今が昼か夜かもわからない、そしてTVも雑誌もラジオも、何かの暇つぶしをする物が一切ない部屋に人間を閉じ込めておくというものがありました。これをすると人はすぐにおかしくなってしまいます。空調は完備され、食事もきちんと出され、部屋の中では何をしていても構わないという条件であってもです。想像するだけで耐え難く感じるでしょう。
つまり人間には刺激が必要なのですが、その刺激が少しで良いタイプとたくさん要るタイプがいます。そしてこの両者の間にはグラデーションがあります。
刺激が少しで良いタイプは、体力とは無関係に精神的に疲れやすく、休日は一人でゆっくり過ごしたい方でしょう。SNSもどちらかと言えば苦手で、お義理でアカウントは持っていても休眠状態か、情報収集専用に使っていて、見ず知らずの人と積極的に関わろうとはしないかもしれません。発信はしても、いわゆる「バズる」ことには重きを置かず「わかる人にわかってもらえればよい」と、ここでも「狭く深く」の付き合いをします。また誰も見ていないTVがついていると、すぐ消したくなるのもこのタイプです。
刺激がたくさん要るタイプはこの反対です。SNSのインフルエンサーや、ライバー(ライブ配信をする人)はこのタイプです。余程疲労困憊しているのでなければ、「休みの日にじっとしている方が辛い」のです。お祭りやパーティが大好き、スポーツ観戦も一人でTVを見るのではなく、大勢で声援を送りたい、皆で盛り上がると疲れるどころか元氣になります。政治家や芸能人など、人から注目され、また非常に多くの人に関わる仕事は、このタイプでないと長続きしないでしょう。
無理のない人付き合いのために、まず自分がどちら寄りかを振り返ります。そしてこのことは、コミュニケーション能力や、対人関係能力とは無関係です。「ボッチが好き」だからいわゆるコミュ障というわけでは決してありません。パーティピーポーが人の話を真剣に聴いているかどうかは別問題なのと同じです。
また人間は順応性があるので、グラデーションの間を多少は行ったり来たりします。ですから食わず嫌いをせずに、たまにはいつもと違う世界を知って視野を広げるのも良いでしょう。しかし根本は変わりません。一人で過ごすのが好きな子供は、歳を取っても一人で過ごしたがります。なので無理をして「違うタイプになろう」とはせずに、自分のタイプを知った上で一つ一つ対処していきます。
「疲れやすい」刺激が少しで良いタイプの人は、「疲れを知らない」刺激がたくさん要るタイプの友達には、「大人数のパーティはどうしても苦手なんだけど、もしよかったら今度2、3人で食事会しない?」などと上手に代替え案を提案しながら自分のペースを守ることが必要になるかもしれません。「あなたと付き合いたくないのではなく、状況が自分に合わない」の思いを伝えるのがコツです。その上で、相手が理解し歩み寄ろうとするか、「パーティピーポーじゃないと付き合いたくない」かは、相手が決める範疇になります。ここでも「友達であるその人」を大事にしたいのか、自分の都合に付き合わせたいだけかが浮き彫りになります。
時代によって移り変わる家族のあり方
冒頭に書いた通り、人間の悩みは人間関係に行きつき、その中でも家族との関わりで人は苦悩します。「切っても切れない」関係性は支えになることも、桎梏になることもあります。
ところで現代のような夫婦二人が核となり、子供は少なくとも高校卒業までは親元にいるという家族の形態は、長い人類の歴史から見ればつい最近のことです。
万葉の時代には妻訪い婚と言って、一夫多妻制の社会では夫婦は別居が当たり前でした。夫がどの妻の元へ今夜行くかは夫が勝手に決め、妻はひたすら待つのみでした。子供が生まれても、必ずしも夫とは同居せず、親と言えば母親のことだったそうです。
夫婦が同居して子供を養い育てるようになったのは、子供が労働力とされたからでしょう。かつては家庭は家事育児の場だけではなく、経済的な生産の場でもあったからです。高度成長期以前は、農家の子供は中学生にもなれば立派な戦力で、田植え稲刈りの農繁期には学校を休ませて手伝わせていました。担任の先生が学業の遅れを心配して、何とか子供を学校に行かせてもらうよう懇願しに家庭訪問していました。お商売をしている家庭では、男の子は高校生になれば単車で配達に廻っていたのも、ほんの半世紀前までは当たり前の光景でした。
子供を労働力と見るか、庇護して養うべき消費者と見るかで、家族の関係性は変わって当然です。
自分の親が共感性が低く、思いやりがないことに悩んでいる人は大変多いのですが、これも「共感性が低い親の方が、子孫を多く残す戦略に有利だった」仮説が成り立ちます。七五三のお祝いは「その年齢まで子供が生き延びること自体が祝うべきこと」、即ち子供の死亡率が高かったためです。また江戸時代では10歳頃、戦前までは12~14歳にもなれば、長男以外の子供は口減らしのために奉公に出され、逃げ帰ると親に折檻されるので耐えるしかありませんでした。奉公に出された時に、親に奉公先から前払いとして給与が渡っていた、事実上の人身売買が行われていました。
子供が亡くなったり、奉公に出すたびに、親が心が引き裂かれるほど嘆き悲しんでいては、その親自身が生き延びて行けません。それよりも子孫を増やすことが社会にとっての優先課題であれば、共感性が低い遺伝子が生存戦略のために受け継がれてきたのかもしれません。
また離婚がタブーでなくなったのも、大きな変化です。男性であっても独身を通すことが珍しくなくなり、大っぴらに陰口を叩かれたり、出世に影響することもなくなりました。冠婚葬祭が簡略化され、家族葬が一般化し、挙式も披露宴も行わない「ナシ婚」が増えています。この30~40年ほどで家族のあり方は急激に変わりました。
親の介護・葬式を言葉は悪いですが業者に丸投げするのも、家族あり方の変化に伴い増えるのが当然ですし、私はそれで構わないと思っています。積年の恨みがどうしても消えない子供よりも、事情を知らない他人の方が、老親に優しくできます。誰も見ていないところで子供が親に暴力を振るったり暴言を吐いたりするよりも、信頼できる業者に任せた方が、お互いの幸福のためでしょう。「自分は親にそうした仕返しをしたくなるかもしれない」その自分をごまかさず、その上で双方の安全と幸福のための最善策を取るのが、「あるがままの自分を大切にして生きる」、別の言い方をすれば自分の限界を認め受け入れながら生きることです。
「親との縁を断ちたい」「お金を払うから親の後始末をしてほしい」そう言って、約100万円費用がかかるという終活代行サービ…
スーザン・フォワードの「毒になる親」が日本で翻訳出版されたのは1999年です。それから四半世紀たち、毒親という言葉が市民権を得ました。これも社会が成熟して、子供が奉公に出される必要がなくなったからでしょう。時代の要請というべきものです。
「自分の親は実は結構な毒親だったかもしれない」と正直に向き合い、きれいごとでごまかさないことも、「自分を粗末に扱われない」基礎になります。問題解決は常に、「現実と率直に向き合う」ことから始まるからです。
自由な社会ほど迷いも・人間関係選びこそ価値判断基準と限界設定を
社会が成熟するとは、自由な選択肢が増えることでもあります。ですからその分迷いも増えます。「こうするものだ」「こうしておけば安心」がなくなり、全て自己責任で選び取らなくてはなりません。
大人は付き合う人、また職場の人や家族親戚など選べない相手は、付き合い方を選ぶのも責任の内です。自分で決めたことに、他人は無責任な干渉をしてくるかもしれません(「あの人、付き合い悪いわね」)。「人から悪く思われたくない」と、自分で決めたことを蔑ろにして、相手に迎合してしまいます。相手はその心の隙を狙っているのかもしれないのです。
自分が粗末に扱われないためには、自分の決定に責任を持ち、堂々としておくのが基礎の基礎になります。そのことと、相手が残念に感じた、その感情に配慮をするのは別物です。「がっかりさせてごめんなさいね。また今度ね」
「エレガンスとは拒絶すること」ココ・シャネル
エレガンスの語源は「選び取る」というラテン語から来ています。お上品ぶることがエレガンスではありません。「選び取る」ためにはよく勉強し、等身大の自分から眼をそらさず正直に向き合い、刻々と変わる外側の状況をよく見据え擦り合わせる、その繰り返しであり、それは成熟した大人だけが取れる態度です。言い換えれば「何が大事か」の価値判断基準を磨き、限界設定をすることでもあります。限界設定は自分の限界と、相手の限界の両方を見極めることです。
価値判断基準とは軸のことです。武道の達人は軸がぶれません。敵がどこからかかってきても、相手が「勝手に倒れる」合氣道のようなものです。力でねじ伏せるのではありません。その境地を体得している人に対しては、向こうの方から「あ、これは違うな」になります。そして自分も相手も、被害者にも加害者にもならない、させない、それが双方を守ること、これが武道でも生き方においても、達人の境地だと思います。