父親からの愛を得られず、悪い男達に「No」を言えなくなった女性
境界線への抵抗は、他人からの抵抗以外に、内側、即ち自分自身が抵抗することもかなり多いです。これは無意識の内にやってしまうので、他人からの抵抗よりも氣づきにくく、また何度でも繰り返してしまいます。
本書に自己中心的でろくでもない男とすぐに恋に落ちてしまう女性の話があります。その女性ジェーンは、付き合う男性に譲ってばかりいて、したくないことをし、与えたくないものを与え、自分は疲弊して惨めになり、それが自分でもわかっているのに関係を切れずに悩んでいました。
ジェーンの父親は彼女の感情に無頓着で、娘に愛を示そうとすることがなく、彼女が選ぶ恋人たちをよく似た男性でした。ジェーンは、決して彼女の必要を満たすことがない破壊的な人々によって、本来なら父親が埋めるべき場所を満たしてもらおうとしていたのです。
昨今問題になっている若い女性の「ホスト狂い」も同根かもしれません。ホストは「何を言えば女の子たちが食いついてくるか」を熟知しています。心の空洞を満たしてもらえたかのような甘美な陶酔を一旦得ると、それから抜け出すのは容易ではありません。
そしてまた悲しいことに、親自身が自分を愛してはいず、それに自分でも氣づかない、氣づこうとしないケースは大変多いです。毎日が楽しくなく、こなし仕事と憂さ晴らしで毎日が埋め尽くされているのなら、それは愛する喜びを生きていない証拠です。愛することそのものが喜びであり、報酬だと思えていなければ、見返りを求めない愛を注ぐことはできません。
自分を、そして人生を愛せない親が、我が子を命がけで愛するのは矛盾しています。我が子を愛する喜びを通して、自分自身をも愛していくのが健全な生き方でしょう。また子供がいない人は、仕事に魂を込めることも出来ます。人の心、特に動機は「どこを切っても金太郎」なので、仕事は社会や他人への奉仕ではなく自分の名誉心・虚栄心のためにやっていて、我が子には無償の愛を注ぐということは起こりません。
親から愛を得られなかったとしても、それは子供の自分が「悪い」せいではありません。しかしそのために生じたひずみ、境界線の内側の抵抗は、理解ある人たちの支援を受けつつ、大人になった自分自身がなくしていく他ありません。
「親より勝ってはいけない」の洗脳
また本書には、交渉先の支配的な社長の怒りを買いたくがないばかりに、それまで練ってきたプランを変更しようとしていたビジネスマンの例があります。彼の同僚が「何がそんなに問題なんだよ。社長が怒っている。それで?他には何について話し合うんだい」と言った途端に我に返り、彼らは笑いだしました。社長が彼らのプランを氣に入らなければ「残念ですが、御社とはご縁がなかったようですね(御社がお氣に召す会社と取引なさってください)」と引き下がれば済む話です。
最初のビジネスマンが「社長を怒らせてはいけない」とビクビクしていたのは、彼が生まれ育った家庭では怒りが支配の道具になっていたためでした。
生まれ育った家庭の中で「親の怒りを買わないことがサバイバル術」と学習してしまうと、大人になってからも「私を怒らせたらどうなると思っているのかね?」の脅迫にあっさり屈し迎合してしまいます。或いは先回りして「もし怒らせたらどうしよう。怒らせないためにはどうしたらいいか」を考えていないか、その癖にまず自分が氣づけてこそ、スタートラインに立つことができます。
ところで、我が子が小学校低学年頃までのまだ小さく可愛い内は、ペットを可愛がるかのように可愛がっても、子供が成長し自我が発達してくると、それを脅威と取る親は珍しくありません。先の例のように怒りというわかりやすい形で示されるばかりではなく、親の自分に従えと言う代わりに「年長者の言うことは黙って従うものだ」と刷り込むとか、子供が選んだことを後でくさして自尊心を打ち砕いたり、逆にベタベタと構い過ぎて「あなたはお母さんがいないと何もできない」状態に留めておこうとしたりします。
こうした親は自分に自信がありませんが、それを認めるのはもっと苦痛なので、「子供を負かして、自分は永遠に『勝者』でい続ける」をやろうとします。偽の自信で自分をごまかしています。未成年の子供は親よりも経験が浅く、世間を知らない無知であり、また「家から出て行ったら生きていけない」ことを最大限に利用します。
最初から「どうせ」で努力やチャレンジを放棄するのは、単なる怠惰ではなく、「親より勝ってはいけない」の洗脳のためかもしれません。或いは、才能もあり努力もしているのに、最後の土壇場で度胸を出せずに怯んでしまったり、無意識の内に安全パイばかり選んでチャレンジできず、思うような結果を出せない場合は、「(親よりも)負けている状態に自分が慣れていて安心だ」になっている可能性もあります。
また逆に、長年第一線で活躍している芸能人が良い例ですが、競争も浮き沈みも激しい芸能界で、若く美しい新人が次々現れる中、どうしても衰える容姿や体力をカバーし自分を打ち出していくには、最後は自分を信じ切れるかにかかっているように思えます。これはその芸能人が「親より勝ってはいけない」と洗脳されていない、更には「子供である自分が親を超える存在になることを、親自身が心から喜んでくれる」と受け取れているからだろうと推測しています。
見捨てられ不安としがみつき願望
人は生後一年の間に「基本的信頼」を獲得していないと、その後も非常に不安定な精神状態に置かれます。それが見捨てられ不安としがみつき願望として現れやすいのです。
愛しているのに傷つける、「No」を言えないがために適切に「No」を言うのは、自分のためだけではありません。一番愛している人たち、とりわけかけがえのない家族を、「No」を言えないがために、往々にして結果的に傷つけてしまいます。[…]
特に人格障害の人達が、時に常軌を逸した行動に出て周囲の人を振り回し疲弊させるのは、この見捨てられ不安としがみつき願望が動機になっています。ただこの動機は本人は自覚できていないことがほとんどです。
信頼とは長期的な視野に立てばこそのものですが、不安に取りつかれた人は長い目で考えることができません。「長いこと待っていたら、その約束は反故にされるかもしれない」という不安の中で生きているからです。「明日の雌鶏より今日の卵」「来週の一万円より今日の千円」「寿命が縮んでも構わないから、今日皆と同じようにマスクをしてとりあえず安心できればいい」「すぐばれるような見え透いた嘘をついてでも、今日、今この瞬間に、この人に私を構って欲しい。或いは相手を支配して安心できた氣分になりたい」これらの歯止めになるのは、最終的にはその人の良心と品位ですが、元々良心的な人であっても不安に取りつかれると「手っ取り早くこの不安を鎮めたい」誘惑に中々勝てないものです。
見捨てられ不安があると、相手にすぐ迎合し、「No」を言えない、境界線を引けなくなっても無理はありません。見捨てられ不安でなかったとしても、「自分は不安を感じやすい」と自覚できたなら、まずはグラウンディングすることから始めてみましょう。「浮足立つ」という言葉がありますが、浮足立って良い結果になることはありません。まず地に足をつける、そして丹田を意識して腹を据えます。丹田を意識すると自ずと呼吸が深くなります。不安な時は呼吸が浅くなっています。
①《姿勢》椅子に腰かけた状態で、足の裏を床にしっかりと着けます。お腹の下、丹田の位置から、2本の脚へ、そして足の裏から地下へと木の根が伸びていくとイメージしてみましょう。②《足の裏から根っこが下に伸びるイメー[…]
またスマホの見過ぎなどで脳の海馬という記憶メモリーが一杯になり、落ち着いて考えられない状態だと、どうしても反応的になったり、言われるがままになりやすいです。他にも睡眠不足の解消や、食事の内容を見直すなども、体だけでなく心の状態即ち健全な判断力のための基礎となります。健康オタクが自分の心も大事にしているとは限りませんが、心を大事にしている人は、必ず体のことも大事にしています。
それから何よりも孤立しないことです。私たちは孤独からは誰も免れませんが、孤立は避けることができます。孤立は不安を高めますし、健全な判断選択の妨げになります。自分を支えてくれる人や組織が、複数あると良いでしょう。支えてくれる人が一人だけだと、その人が自分の期待通りに振舞ってくれなかった時に、「やっぱり駄目だ」と全てを投げ出してしまいかねません。誰か一人に全面的に期待しすぎないこともまた、限界設定です。SNSが苦手でなければ、遠く離れていても共感と信頼ができる人に繋がっておいて、いざとなれば相談に乗ってもらうことも可能です。その時も、「相談はしても、判断選択するのは自分」の大原則を忘れないことも併せて重要です。相談のつもりで依存してしまえば、結局やっていることは同じだからです。
「一体なんてことを子供の自分にしてくれたんだ!」の怒りは境界線が育ってきた証
ここまで読んで思い当たる節が色々あった方の中には、親御さんに対し「一体なんてことをしてくれたんだ!」と改めて怒りが湧き上がった方もおられるかもしれません。それは境界線が育ちつつあればこそだと捉えて下さい。「言いなり良い子ちゃん」のままだと、そうした怒りすら感じられません。
子供の頃、親のエゴのために理不尽なことをされても、見て見ぬふりをして親と自分を庇い続けたのは、その当時の精一杯の生存戦略でした。そうやって何とか自分の心身を守り、生き抜こうとしてきた健氣な子供の頃のご自身を労い、いたわって頂ければと思います。
ただ大人の自分は、その頃と同じ生存戦略では境界線を築けない、その限界にきたことに氣づけたのも、自分自身を置いて他ありません。