【境界線の10の原則】「No」に自信を持つための心構え(上)

「No」を言う以前に、毎日をどう生きるかの原則

境界線の基本的な言葉は「No」であると、以前の記事でも述べました。これは目的というよりも、自分とは何者かであることを明確にし、人間らしさの中核である自由と尊厳を守るための手段です。

ですから、闇雲に「嫌だ、嫌だ」を言うことでは勿論ありません。そこには一定の原則があり、それに則ればこそ、自信をもって「これはYesなのか、Noなのか」の判断を下せます。判断にぶれがなくなるには、原則に則っている自負が必要、ということです。

境界線の原則とは、「No」を言う以前に、「No」を言う場面に出くわす以前に、自分が日々どのように生きているか、何を考えて物事を判断選択しているかです。

境界線を育てるための原則を、以下に挙げます。

①種蒔きと刈り取りの原則・「棚に牡丹餅」を置かない

この世はすべて原因があっての結果です。聖書に「良い木は良い実を結ぶ」とあります。勿論、自分は真っ当に生きていても、謂れのない妨害や嫌がらせも受けますし、努力が面倒な人から足を引っ張られたり、やっかまれたりも起こります。良いことをすれば良い結果「だけ」が巡ってくるわけではありません。

但し、良い結果が欲しければ、良い動機で試行錯誤しながら努力を積むしかありません。「棚から牡丹餅」はその時は良い思いをしているようでも、肝心のその人のスキルは身に着かず、他の場面で一人きりになれば成すすべもなくなります。

生き方はスキルです。境界線を育てるのも同様です。

自分の部屋を片付け掃除しなければ、整理されたきれいな部屋にはなりません。空腹を満たしたければ、家にあるもので何か作るか、何もなければ買い物に出ないと食事にありつけません。これも因果関係の一種であり、「良い結果が欲しければ、自分が働きかけるしかない」の一環です。

しかし余りに過保護な母親が、成人した我が子のために部屋を掃除したり、子供が家にいるのに、お弁当を作って置いて外出したりします。これでは「人生とは棚から牡丹餅」を日々学ばせているようなものです。それでいて親の方は「困った、困った。この子を『直して』欲しい」と言うのです。

今日では、他者を繰り返し助けてしまう人のことを「共依存者」と呼びます。共依存に陥っている境界線を持たない人は、無責任な人の事実上の連帯保証人になっています。そして彼らが物理的にも、感情的にも、霊的にも、支払いをすることになるのです。肝心の浪費家の方は、何の責任も負うことのないまま勝手なふるまいを続けます。愛され、甘やかされ、良い待遇を得ます。

(略)

無責任な人に正面切って注意してもその人にとっては痛くも痒くもありません。彼に痛みをもたらすのは彼の行ないの自然な結果だけです。

「蒔いた種は自分が刈り取る」の反対は「棚から牡丹餅」です。自分も相手も、健全な境界線を育てるのなら、相手に「棚から牡丹餅」を経験させない、裏から言えば「棚に牡丹餅」を置かないことです。牡丹餅が欲しければ自分が財布を持って買いに行く、そのお金がなければ自分で稼ぐ、これが「種蒔きと刈り取り」の原則です。人はどんな人でも、なければないで何とかするものであり、他人がその芽を摘み取ってはいけないのです。

②責任の原則・「無責任な愛」はない

①の原則は、まず自分自身に「関して」責任を持つ、ということです。そしてまた私たちは、他人に「対して」責任があります。以前の投稿で述べた「無反応な人」は、他人に「対して」責任を負っていません。他人の必要、痛みや悲しみに無反応、無関心になることで、責任を回避しています。このことに、どれだけ多くの人が傷つき、また社会に損失をもたらしているでしょう。愛の反対は憎しみではなく、無関心と言われるのは、相手に責任を負っていないという意味です。

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「可愛さ余って憎さ百倍」のことわざ通り、相手に注いだ愛情が踏みにじられると憎しみに変わります。物理的、心理的に、その相手から離れるしかないことも沢山ありますが、それは無関心で相手の存在をなかったことにするのとは異なります。これ以上憎しみを増幅させないため、互いの身を守るためです。「自分の手に余ることは潔く引き下がる」態度もまた、相手に「対して」責任を負うやり方の一つです。

家族に対して責任を負わない人を、家族を愛しているとは言えないように、自分に関して責任を負わない人を、自分を愛しているとは言えません。

③力の原則・「自分の力が及ぶ範囲」が境界線

本書にラインホールド・ニーバーの祈りが引用されています。

神よ、私にお与えください
変えることのできないものを受け入れる平静な心を
変えることのできるものは変える勇気を
そしてそれらを見分ける知恵を

言い換えれば、「神よ、私の境界線を明らかにしてください!」という祈りです。(略)あなたは他者を変えることはできないのです。

あなたにできることは、他者に影響を与えることです。しかしこれには秘訣があります。あなたは他者を変えることはできないので、彼らの破壊的な行動パターンが、あなたにこれ以上及ぶことがないように、あなた自身が変わらなくてはいけないのです。彼らとの付き合い方を変えましょう。もしそれまでのやり方が通用しなくなれば、彼らは変わろうと思うかもしれません。

私たちは知らず知らずのうちに互いに影響を受け、また影響を与えてもいます。できるだけ「良い」影響を与える努力はできますが、相手がどう影響されるかは、相手の境界線の中にあります。

ただ「どうせ何を言ったって変わらないでしょ」と最初から関わることを諦め、事なかれ主義で注意するべきことを注意しないのは、無責任な態度であり、愛がありません。これは「変えることのできないものを受け入れる平静な心」では決してありません。

銀座のあるクラブの名物ママは、「お客様がホステスに怒る前に」ホステスを叱って見せ、「馬鹿野郎だよ、ホントに!」と怒鳴る。そしてお客様の前では「あら、ごめんなさーい、怒鳴ってる声が聞こえちゃったー」とおどけて見せ、氣まずい空氣を一掃するシーンを動画で見ました。

賛否両論あるやり方でしょうが、私にはママが敢えて汚れ役を買って、お客様もホステスも守ろうとする態度のように見えました。お客様が店の中で怒るのは、普通の良識のあるお客様なら嫌なのです。「まあまあ、そのくらいで・・」と鷹揚なところを見せられる、その機会を作った方がお客様の株も上がるでしょう。

叱られたホステスは「ごめんなさい!」と一生懸命謝り、その表情や声に、ママの真意が伝わっているのが現れていました。銀座のホステスさんですから、ブスっとしたりは勿論しないでしょうが、「形だけ謝っておけ」ではなく、「ママの愛情に応えたい」氣持ちがあったように思いました。

その動画のコメント欄には「ホステスを叱らず、うやむやにする店も多い」との書き込みもありました。どちらがお客様やホステスを大事にしているか、よくわかります。

勿論、ママの真意がわからないホステスもいるでしょう。相手がどう影響されるかは、名物ママであっても力の及ぶ範囲ではありません。

④尊重の原則・「マジックハンド」にならない、しない

「自分の『No』を尊重してほしかったら、相手の『No』も尊重せよ」・・これだけだと、「お互い好き勝手していいじゃない。干渉するのはやめようよ」になりかねません。私たちが生きる世界は、人それぞれ自由に選んでよい事柄と、そうでない事柄が入り混じっています。

現実と向き合うこと、また意見の相違を話し合うのを事なかれ主義で避け、「臭い物に蓋」をしたくなると、尤もらしく「お互いを尊重する」振りをします。夫婦間の性の問題や、子育て、お金のことなど、「尊重しているつもり」で実際にはただの先延ばしをしていることもあるでしょう。

本書に挙げられた「尊重されていない」例で、次のようなものがあります。

「どうしてちょっと立ち寄って、私を一緒に乗せて行ってくれないのかしら。通り道なのに!”一人になる時間”なら他にいくらだってあるでしょうに」
「『駄目だ』って一体どういうことなんだ。ほんのしばらくお金が必要なだけなのに」
「私はあなたにあれだけいろんなことをしてあげたのだから、この一つくらい私のお願いを聞いてくれてもいいじゃないの」

この通りでなくても、似たようなことを言われたり、暗にほのめかされたりしたことが、ほとんどの人にあるでしょう。これは相手を自分の手足、マジックハンド、高枝切りばさみにしようとする態度で、本当にうんざりするものです。この時人は、「自分を尊重されていない」と感じます。

尊重されていないとは「相手のマジックハンドにされている状態」とも言えるかもしれません。境界線を破り、乗り越えられています。また或いは、真剣に答えて欲しいことをわざとはぐらかされたり、スルーされるのも同じです。いずれも「私にとって、都合の良いあなたしか欲しくありません」と言われているようなものです。「互いの『No』を尊重する」態度では決してありません。

境界線を引くとは、時には対決することでもあります。価値観や意見の相違を埋められず、歩み寄れず、例えば夫婦なら離婚に至ることもあるでしょう。しかしその時、互いの言い分を勇氣を出して話し、聴き、結果「別々の人生を選んだ方が良いね」の結論に至ったか、都合の悪いことは言わず聴かず、「もうこの人とは無理」とどちらかが投げ出さざるを得なかったかで、境界線が受ける傷は異なります。後者の「尊重されなかった」傷は、中々癒えがたいです。

互いを尊重するとはこの通り言うは易しの最たるもので、私たちは目先の自分の都合や保身、勇氣のなさのために、相手や、そして自分さえも、しばしば蔑ろにしているのです。

⑤動機の原則・「言われた通りにしてるだけ」も恐れが動機

何をするにせよ、どんな動機でそれをやったかが大変重要です。同僚の残業を手伝うのも「今手伝わなかったら、後でこの人から面倒なことを言われる」からか、「この人の残りの仕事を手伝った方が、全体の仕事がスムーズに回る。私の今日やるべき仕事は全部済んだし、1時間くらいなら残業しても構わない」という「相手も自分も全体も大事にする」動機かで、その人の自尊感情のありようは変わります。

本当は「No」なのに「Yes」を言ってしまう、もしくは「これはおかしい、間違っている」とはっきりと言葉や態度で表明できない、いずれも様々な恐れに自ら屈しています。そしてそれを通常意識できていません。

相手の怒りが怖い、仲間外れにされる、「変わった人」と思われたくない、「いい子」でいたい、知恵と言葉を尽くして交渉するのが面倒くさい、上手くいかなかった時に失敗するくらいなら、長い物に巻かれておきたい、等々。こうした恐れが動機で日々を生きていないかどうかです。

本当はどこにもない「正解を求めてしまう」のも、自分の外側にあるものに判断選択を委ねておきたい、言われたとおりにやっておけば失敗しない、もし上手くいかなければ「だって」で逃げられる、失敗して恥をかきたくないというある種の逃げです。「先生、これどうしたらいいんですか?」と何でも尋ねる小学生のようです。

「言われた通りに(或いは、皆がやってる通りに)してるだけだもん。私は悪くない」という動機で生きていては、いつまでたっても境界線は育ちません。誰かのコピーになることを、自分に許してしまっています。境界線を引けないと、自分から誰かのコピー、カオナシさんになってしまいます。それで生涯が終わってしまう人も、殊に日本人には少なくないでしょう。

冒頭に「人間らしさの中核である自由と尊厳を守るため」に境界線はあると述べました。自由とは、自らに由るということです。私たちは誰かのコピーにならないために、自らに由って「No」もしくは「Yes」を言う必要があります。

※この記事の後編は以下のリンクよりご参照ください。

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