【境界線の内側にあるもの】良いものは内へ、悪いものは外へ

二つの責任の負い方・「関して」と「対して」

そもそも境界線とは何でしょうか?家や建物の境を示す物理的な境界線は目に見えます。「ここまでは私の敷地で、ここから外はお隣、もしくは公的な場所」など。そして境界線の内側の領域を所有し、管理する責任を負う目印になります。

但し、心の境界線は目に見えません。だからこそ、自分の境界線を乗り越えられたり、自分の方が知らず知らずのうちに乗り越えたりして、越境行為に氣づけないこともあります。

物理的、心理的、いずれにせよ、境界線の中にあるものに「関して」、私たちは責任を負います。心理的な境界線の中にあるものとは、感情、選択と行為、限度、思い、欲望、愛などです。詳しくは後述します。

そしてまた、社会的動物である人間、特に私たち大人は、「自分の境界線の中さえ」管理し、整えていればそれで良いというわけではありません。

お互いに「対して」も、私たちは責任を負います。家族、恋人、友人、仕事関係の人、地域の人々、社会全体、世界全体の人々に「対して」、時間軸を広げれば、私たちの先祖や子孫に「対して」責任があります。

私は今の仕事をする前は、長く百貨店に勤務していました。江戸時代から続いた老舗でしたので、新人の頃は上司から「私たちが今このように毎日売り場に立てるのは、先輩方の遺産のお陰だ。それを今日の自分の機嫌で傷つけてはいけない」とよく指導されました。

ご来店されたお客様のみならず、取引先や、江戸時代から続いた先輩方に「対して」も、責任を持つ。このような心構えは心に碇を持ち、フラフラしない、ただ今日一日が無事に済めばよいというこなし仕事にならない、仕事に対する誇りと責任感を持たせ、却って心を自由にします。

私たちは自分だけではなく、他者に「対して」責任を持たなければなりませんが、その人に「成り代わって」責任を果たそうとするのではない、この区別が大変重要です。

良いものは内へ、悪いものは外へ

境界線は「良いものは内へ、悪いものは外へ」出し入れするためのものです。体を例に取ると、害になるものは吐き出したり、食べてしまっても解毒したり中和したりして排泄する機能が備わっています。一方で、良い食べ物は私たちの血肉になります。

しかしきちんと取捨選択しないと、知らず知らずのうちに毒が溜まったり、必要な栄養素を取り込めず、体を壊してしまいます。心の境界線の機能も、同じようなものと考えるとわかりやすいでしょう。

殊に心の境界線においては、快不快や、楽か面倒か、目先の損得だけで判断しないことが大変重要です。目先の自分が楽をしたい、傷つきたくない、悪く思われたくないがばかりに、「快で楽だけれど害になるもの」を内側に入れ、「不快だったり、面倒だけれど益になるもの」を外側に出したりを、私たちは本当によくやります。

自由と尊厳という、失えば人間ではなく家畜になり下がってしまう益を守るために、死に物狂いで戦わなければならないこともあります。時には一生癒えない傷を負ってでも、守るべきものを守らなければならないことも、長い人生の中ではやはり起きます。

そして一方で、「払ってはいけない犠牲」にも、敢然と「No」が言えてこその境界線です。

境界線の内側にあるものとは

ここで、境界線の内側にあるものを振り返ってみましょう。私たちが何に「関して」責任を負う必要があるのかです。

感情

感情豊かであることは、人間らしさの一側面です。私たちの感情は、ある物事や人に対して、自分がどのように反応しているのかを教えてくれます。それが今の自分だ、ということです。

「私のこの傷ついた氣持ちをどうしてくれる!」・・こう思うのは理由があってのことですし、真摯な謝罪と反省を求めたくなるのも当たり前です。しかし「そんな謝り方では謝った内に入らない!」ではヤクザの言いがかりです。

「相手が自分が期待していたような、誠実な態度を見せなかった。或いはその場はなだめるようなことを言われて丸め込まれてしまったが、結局すぐに元の木阿弥になった」現実にはこんなケースの方が多いでしょう。その際、何ともやり切れない悶々とした氣持ちを抱えるものです。

その悶々とした感情こそが、自分のものです。「○○がそう言ったから」「皆がそうしてるから」で、判断を他人に任せにして流されて生きている人は、不平不満は言っても、葛藤はしません。「だって」で言い訳するからです。葛藤するとは「だって」で逃げないことです。自分に嘘をつかず、ごまかさず、真剣に生きればこそ、葛藤することは寧ろ増えます。それが自分の生きた証、自分の境界線の中にあるものです。

選択と行為

私たちは好き好んでであれ、しぶしぶであれ、何かと何かを天秤にかけて、自分がそれを選んでいます。そしてこのことを、私たちは本当によく忘れます。私の会社員時代、散々会社の愚痴や悪口、批判を言いまくっていましたが、「自分がこの会社を選んで勤めている」ことはどこかへ吹っ飛んでいました。

真剣であればこそ、会社の方針に理不尽な思いを抱き、それが結果的に愚痴になることもあります。しかし「それでもこの会社を選んだのは自分」と意識出来ていれば、また心のありようは変わったでしょう。

子供や認知機能が著しく衰えた高齢者でなければ、「それを選んだのはあなたでしょう?」になります。選択し、行為に移す、移さないもまた、私たちの責任です。何を「した」かだけでなく、何を「やらなかった」かにも責任があります。

そして行為の結果は、誰でもなく自分自身が引き受けなくてはなりません。「蒔いた種を本人に刈り取らせない」と問題が起こるからです。親が子供の尻拭い(借金の肩代わり、不勉強のため落第しそうになるのを親が学校に頭を下げて下駄を履かせてもらう、など)をするだけでなく、責任世代である現役の大人たちが、社会や政治に余りに無関心であるがために、子孫にツケを残しているのも同様です。

限度

境界線を引く基本は、自分の限度・限界を設定することです。これは「他者に対して」限度を設ける(LINEのやりとりを切り上げる、隣人の騒音に苦情を言う、子供の成長に伴って「自分のことは自分でさせる」など)とイメージしやすいものでしょうが、著者によると、より正確には「良くない行ないをする人たちに自分自身をさらさないよう限度を設ける」です。これを取り違えると「飴と鞭で他人を操作する」になりかねません。

限度を設ける目的は、「破壊的な行動を取る人々からは離れる」ためです。離れた結果、まず自分の身を守り、そして破壊的な行動を続ける人には、その結果を負わせるという原理原則です。

また自分自身の内側に限度を設ける、即ち自分に「No」と言う、これは抑圧ではなく自制です。自制心を養い続けるのも私たちの一生の仕事です。自制とはブレーキです。ブレーキのない車ほど恐ろしいものはありません。そしてブレーキのない車は、決して自由ではありません。

健全な自制心、そして規律は私たちを真の意味で自由にし、そして他者に対しては信頼の土台になります。自制が伴わない愛はなく、この意味においても、限度は「内にある良いもの」なのです。

思い

境界線の基本の言葉は「No」です。そして私たちは「No」を言わなければ「Yes」と言っても信じてもらえません。そして「No」を言えるためにこそ、①自分自身の思いを明確にし、②学びによって視野を広げ、そして③現実からのフィードバックを得て思考の歪みを正し続ける必要があります。

①自分自身の思いを明確にし、所有する

他人の思考を鵜呑みにしてただ従うだけでは、自分の人生のハンドルをその他人任せにしています。「だってTVがそう言ってた」が典型中の典型です。TVのプロパガンダに頭を乗っ取らせ、現実との矛盾に自分から眼を塞ぎ、自分がそれに従ったという自覚すらなく「だって」と責任転嫁します。

TVだけでなく、「世間の目が」「同調圧力が」「夫が」「息子が」「会社が」「行政が」皆同じです。自分の人生を生きていません。自分の境界線の中にそれらの人々を自分から侵入させ、好き放題にさせています。そのことと、他人の意見は参考にしつつ(この記事でさえ!)、「やはり誰でもなく私がこれを選んだ」のは全く違います。自尊感情豊かに生きるのも、健全な境界線を育てるのも、「だって」を言っている間はできません。

②学びによって視野を広げ、知性を磨く

賢明な管理者になるためには、私たちに与えられたこの世界について学ばなければなりません。脳外科の手術であろうと、銀行口座の残高の計算であろうと、育児であろうと、より良い人生を歩み、神にご栄光を帰すためには頭を使わなければなりません。

その人の理解力に応じて、出来る範囲で勉強をし続けることはとても大事です。しかし、仕事の勉強はしても、読書やセミナー受講は散々しても、或いは「先生」と呼ばれる立場であっても、上記の「この世界について」学んでいない人は沢山います。知識・情報を頭の中に詰め込むだけでは、「頭を使った」ことにはなりません。自分の頭で考えなくては、知性は磨かれません。

視野を広げ、知性を磨くためには、それが自分のものになる、即ち生き方になってこそです。生き方に、自分の血肉になるには、主体性を持って真剣に生き、氣づきを得ることです。人生を切り開くのは知識よりも氣づきであり、そのためにこそ、①で書いた通り「だって」をやっている内は、どんなに知識があっても氣づけません。自分なりの価値判断基準が育っていなければ、どんなにお勉強好きであっても、知性のある人とは言えないのです。

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③現実からのフィードバックを得て思考の歪みを正し続ける

自分の思い、考え通りにまずは小さなことで実践してみます。実践しないと「言うだけ番長」になるからです。そしてまた、必ず結果、即ち現実からフィードバックを得て修正し続けないと、私たちの思いは独りよがりになります。「あの人、また同じことを繰り返している。全然学んでない」・・他人にはそう思えても、自分も同じことをやっていて、そして氣づけないことも往々にして起こります。

「人と自分を比較してしまう」「損得勘定で考えてしまう」これらもまた、その人が今の時点で持っている思いです。しかし、問わず語りにそのような言葉が出てくるのは、「このような思いを持っていては、私は自由にも幸福にもなれない」と心のどこかで氣づいているからです。

その思いだけをいきなり変えることはできません。その思いを持ち続けて、現実に何が起きたか、そして今後はどうなっていくのか、必ず身近な現実からフィードバックを得て修正していく作業が必要です。即ち「蒔いた種(思い)がどのような結果になったのか、なるのか」を知ることです。

孫子の兵法の「彼を知り、己を知れば、百戦して危うからず」最も有名な言葉ですが、百戦して危うからずにはやはりならないのは、これが至難の業だからです。事実をあるがままに知ることは古今東西至難の業であること、「そんなこと当たり前」と高を括らないことがまず肝要です。私たちは思考の歪みを正す不断の努力をし続けても、完全にはやり遂げられません。殊に相手に心を深く傷つけられると、「あの悪魔!」「あの老害!」とレッテル貼りをしたくなるものです。

人間はそれをしたくなるもの、やってしまうものという前提に立ちつつ、②とも関連しますが、様々な角度から考える「頭を使う」ことによって、思考の歪みを取り、整え、より視野を広げて自分の知性を磨くことができます。

欲望

私たちはみな、それぞれ異なる欲望や欲求、夢、願い、目的、計画、飢え、渇きを持っています。人はみな、「私」を満足させたいのです。しかし周りに満足している「私」たちがほとんどいないのは何故でしょう。

問題の一つは、私たちの人格のなかで境界線がはっきりしていないことです。私たちは、本当の「私」が誰であるか、自分が本当に望んでいるものが何なのか、自分で分かっていないのです。欲望の多くは本物のように見えます。しかしそれは自分の本当の願望を所有していないことからくる情欲です。

自分が本当に望んでいるものが何なのかわからないから、手っ取り早くスマホで氣を散らします。また他人を操作し、自分から振り回され、「死の床で『あんなことに時間と労力を費やすのではなかった』と後悔する」ような物事に、自分から巻きこまれます。

もっと言えば、自分の本当の望みを知るのが怖いから、自分を痛みに晒すことさえあります。不幸な人間関係や、劣悪な環境、様々な自傷行為に自分を晒します。そこから立ち去ろうとしません。誰のものでもない自分の本当の望みを知ってしまうと、それに責任を持たなければならないからです。自分の不幸を誰かや何かのせいにできなくなるからです。

裏から言えば、冒頭で述べた「関して」と「対して」の両方に責任を持つようになって初めて、私たちは本当の望みに氣づき、それを生き始めることができます。

愛と言うと何か面映ゆく、また抽象的でよくわからなかったり、「好き」と混同してしまったりするかもしれません。「好き」と「愛」は異なります。好きな人は愛しやすいですが、好きだから愛しているとは限りません。自分の都合の良いように、或いは自分の寂しさの埋め合わせに、相手を利用していることも、殊に恋愛においてはよく起こります。

信頼とか、大切にすると言い換えた方が、しっくりくるかもしれません。客商売をしている人ならよくわかると思いますが、そのお客様が個人的に特別好きではなくても、わざわざ店に足を運んでくださったことに感謝し、大切にし、信頼を築こうとします。お客様を大事に思えばこそ、無茶な約束事を安易に引き受けない、こうしたケースを思い出すと、「No」を言う境界線は、責任を伴う愛と信頼あってこそだと再確認できるでしょう。

また多くの人々が、自分がいかに愛に抵抗しているかということに気づいていません。回りに愛が溢れているのに孤独感を覚えるのは自分が愛に応答していないからだ、と悟らないのです。

私たちは知らず知らずのうちに、ない物ねだりをし、不平不満を言いつのり、「こうでなければ満足できない」と周囲のせいにしてしまいます。期待はいつの間にか、無意識の内に持つものですが、自分の高すぎる期待に自分で首を締められます。私たちは誰も皆、自分が思う以上に欲深いのです。

こうあってほしい、こうあるべきだの望みは、自分の価値観や信念から来るもので、これをなくすことはできません。それを持ちながら、また努力は必ずしも実るわけではなく、理想通りの世の中は決して実現しないという諦めと失望を抱える力もまた必要です。また、家族や友人と断絶し、人間不信に陥ることも長い人生の中では起き得ます。「周りに愛が溢れているなど、どうやったらそんな能天氣なお花畑の氣分になれるのか」そう思っても当然です。

それでもなお、私たちは互いを大切にする関係性の中でしか、人間らしく生きられません。繰り返しますが、人間は社会的動物だからです。まずそれを承認するところから、私たちの境界線の中にある愛を自分にも他人にも用いていく、そのスタートラインに立てるのです。

意識的に境界線を育てる努力

忙しい日常の中で、自分の境界線の中にあるものを改めて振り返る機会はそうそうないかもしれません。冒頭で述べた通り、これらに「関して」私たちは責任を負います。それには面倒で地道な努力、妥協して「Yes」と言ってしまった方が楽という誘惑をはねのける力が要ります。しかし「何かを得れば何かを失う」この選択そのものが、私たちの境界線を育てます。

まず自分が実践し始め、境界線を育てることで、私たちはより成熟した自由な大人になれると実感できるでしょう。そして他人にも、「自分の境界線の中にあるものを自分で管理させる」意義を、「No」を言うことによって伝えられるでしょう。

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